La Traviata
―鉢植えの椿は愛と自由を夢見る―
第九章
「まったく……あんな連中に国を守れるんですかね」
「こら、那津。声がでかいぞ。正論は声を潜めて言うのが、この国での処世術だ」
「はいはい、では小さい声で。軍の上層部は賄賂と色事しか興味のない能無しの集まりだ」
「バッジ集めも趣味のようだぞ。胸にたくさんぶら下げている」
「椿さん、あれは勲章というもののようです。まあ、夜店で売っているバッジと価値は大して変わりませんが」
この男色楼で最も広く豪華な大広間。軍の関係者が参席する宴の一番端の座に、那津の席が設けられていた。その隣には椿が寄り添って、勲章をぶら下げた酔っ払いたちが織り成す戯画を肴に、二人で酒をちびちびやっている。
那津は今夜、父親の代理でこの酒宴に参席することとなった。
大勢で、しかも軍のお偉いさんたちと一緒に酒を飲むなんて冗談じゃないと即座に断ろうとしたのだが、はたと思い直した。もし自分がその場にいなかったら、誰か他の参席者が椿を傍にはべらせることになるのだ。
今は那津が独占しているものの、椿が依然として人気の高い娼姫であることに変わりはない。こういった華やかな宴の場で指名が掛からないはずがない。
結局、那津は渋々ながら参席することにしたのだが、宴が始まってしまえばそれほど嫌な思いをせずに済んだ。
最初こそ慇懃無礼な挨拶や嫌味混じりのお追従を浴びせられたが、酒が出てくればみな早々に酔ってしまい、那津のような若造のことなど気に留める者もいなかった。
お陰で椿と二人、小声で宴の狂騒ぶりを茶化しながら酒をすするという、楽しいひとときを過ごせていた。
やがて、宴もたけなわ、なる上品な表現では追い付かないほど、座敷が荒れてきた。酒を運ぶのが遅いと言って怒り出す元帥もいれば、指名した娼姫の着物を割って手を突っ込み、堂々と淫事に耽る准将もいる。
かと思えば、太鼓腹丸出しで高いびきをかく将軍もいる。この重く淀んだ頽廃的な空気には、日本国の現状が凝縮されていた。
那津は心から、参席して良かったと思った。父親に感謝すらした。もし自分がここにいなかったら、椿がああいった人間の傍について奉仕していたのだ。
想像しただけで背筋が寒くなる。那津は思わず手を伸ばし、椿の手に重ねてぎゅっと握った。そして、なるべく早くこの腐爛した空気から抜け出して、椿と二人きりになろうと考えた。その矢先だった。
「申し訳ありません、旦那様。今日は体調が思わしくなくて……」
「何だと？！ 儂が注いだ酒を残すとはお前、何様だ。儂を馬鹿にしてるのかッ」
「め、滅相もございません。頂戴したいのは山々なのですが―――」
「黙れ黙れ！ ほれ、さっさと飲まんか」
ちょうど座敷の中央辺りで、立派なひげをたくわえた恰幅のいい男が喚いている。胸に勲章が付いていないことから、軍人ではなく官僚だということが分かる。この宴に参席しているということは、爵位も相当高いに違いない。恐らく公爵だろう。
だからといって品がいいとは限らないということは、この男の赤黒く膨れた顔を見れば子供でも見当がつく。
いや、寧ろ軍人よりたちの悪い人間が多かった。政府の上級官僚にはもともと華族出身者が多かったが、新興財閥の台頭により政財界での発言力は著しく低下していたのだ。
しかも、嘗ては野武士などと言って見下していた連中が、軍人となって力を付けてきた。そういった国内の情勢変化に対応できず、もはや過去の遺物と見なされつつあるものの、矜持ゆえか現実を受け入れることができない。そんな鬱屈した思いが彼らをより陰湿に、攻撃的にした。
色里に身を置く者が、その標的になりやすいのは言うまでもないだろう。彼らにとって娼姫は、同じ人間ですらないのだから。
「そぅら、飲めるではないか。やはりさっきは儂を馬鹿にしていたのだな。罰を与えてやらねばならんな」
ひげの公爵が、銚子を直接娼姫の口に押し付けて、中身を無理やり流し込む。年の頃まだ十三、四で、水揚げされたばかりの少年は酒に慣れていないのだろう、顔を真っ青にして今にも倒れてしまいそうだった。
しかし他の宴客らは止めようともせず、それどころか二人が後ろから少年の躰を押さえ込んで逃げられないようにしていた。
「何てことを……相手はまだ子供じゃないか」
義憤に震える声で那津は誰にともなく呟き、腰を浮かせた。しかし隣から伸びたしなやかにして力強い手に膝を押さえられ、
「お前はここにいろ。いいな？」
「椿……さん？」
椿はすっと立ち上がり、悠然たる足さばきで膳をまたいだ。そしてひげの男に真直ぐ近づく。
満開の紅椿を想わせる威風堂々たる風姿に気圧され、男たちは一瞬酔いが醒めたような顔付きになった。しかしすぐに下卑た嗤いを浮かべ、椿を値踏みするように見上げる。すると椿はその場に膝をつき、
「旦那、そのくらいで勘弁してやってくれないか？ その子はまだ宴席に慣れていないんだ。もう少し経験を積んだら、旦那のようなお方の相手もちゃんと勤められるようになる。俺の顔に免じて、今回は許してやってほしい」
ひげの公爵は不興げに椿を睨み返したが、濁った眼球に椿の姿は鮮やか過ぎたのか、眩しそうに瞬きを繰り返した。そして、青ざめた顔のまだ幼い娼姫と眼前の椿をあからさまに見比べる。どちらがより“嬲り甲斐”があるか、考えるまでもなかった。
道端に咲く小さな菫を踏み潰すより、女王然と咲き誇る椿の紅く艶やかな花弁をむしる方が嗜虐欲が満たされるだろう。
「そうか。そこまで言うなら、お前が代わりに儂の酒を飲め。もちろん、嫌とは言うまいな？」
その声には、弱者をいたぶるだけで満足できたのとは別の欲望が波打っていた。それが何であるのか、指摘するまでもないだろう。公爵とその腰巾着二人は、さっさと離れろと言わんばかりに少年を解放した。椿は素早く耳打ちする。
「すぐに仕度部屋に戻って水を飲むんだ。分かったな？」
少年は涙目で頷いて、よろけながら広間を出ていった。それを見送った椿はほっと安堵の息を吐くと、その場にどっかりと胡座をかき、
「さ、飲もう。旦那の旨い酒を存分に頂こうじゃないか」
至極楽しげにそう言って、少年が残した酒をぐいと飲み干した。すぐになみなみと注がれたが、それもあっという間に空けて濡れた唇を舐め、
「おや？ 旦那の盃は空じゃないか。これは失礼いたしました」
今にも溢れそうなほど酒を注ぐと、手にした盃の縁をかちんとぶつけて一方的に乾杯をした。そして再び豪快にあおる。ここまでされては自分だけ飲まないわけにもいかず、公爵は苦々しい顔付きで飲み干した。
こんな調子で公爵とその腰巾着を相手にしていた椿だったが、一向に酔い乱れる気配がない。心地よい酩酊状態を疾うに過ぎて青ざめてきた公爵とは対照的に、椿は平然と時には笑顔すら浮かべて飲んでいる。
那津はその様子を見守りながら、心の中で快哉を上げていたが、同時に不安を感じてもいた。公爵の顔が怒りと屈辱で醜く歪むのを見たからだ。
そして、その不安は的中した。公爵は、双眸は攻撃的に輝いたまま口に作為の嗤笑を浮かべ、
「普通に飲んでるだけではつまらんな。おお、そうだ、椿姫とやら。お前は下の口から飲め。その方が酒精の回りも早くて、もっと気持ちよくなれるぞ」
言いながら目配せすると、腰巾着二人は酔っているにしては素早い動きで椿の躰を押さえ付けた。すると公爵は椿の着物をまくり上げ、露わになった膝小僧を掴んで力任せに左右に広げた。
絖（ぬめ）のように滑らかで、雪のように白い太股が見せるほのかな桜色の潤みに、公爵はもちろん周囲で成り行きを窺っていた他の酔客たちも鼻息を荒くした。公爵は口許をだらしなく緩め、酒の入った銚子を椿の秘部に近づけようとした。その時、
「ぐげっ」
蛙が潰れたような声とともに、公爵の躰が後ろに吹っ飛んだ。そのまま襖に突っ込んでがっくりと項垂れたが、攻撃者はまだ怒りが収まらないのかさらにその胸倉を掴み上げる。
「那津、やめろ！」
言葉で言っても無駄だと分かってはいた。椿は呆然とする腰巾着二人を素早く払って立ち上がり、今にも拳を打ち込まんと手を振り上げる那津に飛び付いた。
「離してくださいッ」
「莫迦野郎、目ぇ覚ませ！」
椿は険しい声で一喝して、力づくで那津の手を下ろさせた。そうするうちに、騒ぎを聞き付けた番台や用心棒たちが駆け付け、広間は騒然となった。
「な、なんだこの騒ぎは！ 椿っ、一体何があったのか説明を―――」
「そんなことより、旦那の介抱が先だろ。説明なら後でいくらでもしてやる」
椿はぴしゃりと言い置いて、まだぐったりと伸びている公爵を顎で指す。番台は慌てて、言われた通り公爵の介抱に専念した。その隙に椿は那津の腕を引っ張って広間の外に連れ出し、
「那津、お前はすぐに帰れ。お前は今夜、この場にはいなかった。いいな？」
「何を言うんです！ あの爺いを殴ったのは俺です。そんなことできるはずが―――」
「大丈夫だ。周りにいた客はみんな酔っていたから覚えてないだろうし、公爵本人も誰に殴られたか分かっていないはずだ。この場は俺が収める。こんな下らない騒ぎに、お前が巻き込まれることはない」
那津はひゅっと息を吸い込んで、悲愴な目で椿を見つめた。椿は、全ての責任を自分がかぶるつもりなのだ。
「絶対に嫌です！ あなたにそんなことさせるぐらいなら、一カ月でも二カ月でもブタ箱に入った方がずっとましだ」
「カッコ付けたこと言うな。ブタ箱がどんな酷い所か知りもしないくせに。いいからさっさと帰れ」
「嫌だ！ たとえあなたの命令でも俺はっ―――」
続く言葉は椿の口づけでせき止められた。口移しで温もりと想いを伝えてから、ゆっくりと離して眼差しを重ね、
「命令してるんじゃない。お願いしてるんだ。俺の言う通りにしてくれと頼んでいるんだ」
「でも、でもっ……」
「那津、さっきはありがとう。お前は何の損得勘定もなしに助けようとしてくれた。あれで十分だ。俺にもカッコ付けさせてくれ」
椿は明るい声でそう言って、那津の肩をぽん、と叩いた。そして今にも泣き出しそうな顔で見返す那津に晴れやかな笑顔を向けると、身を翻して広間に戻っていった。
那津は何度も戻ろうとしたが、感情に任せた行動がどれほど椿に迷惑を掛けることになるかは、先刻の騒動で実証済みだった。椿の想いを無下にしてまで我を通すのは間違っていると何度も自分に言い聞かせ、己の幼さや無鉄砲さを噛み締めつつその場を立ち去ったのだった。
その翌日。ほとんど一睡もできなかった那津は、じりじりしながら夜の訪れを待った。そして廓に明かりが灯り、客を受け入れる時間になると同時に駆け込んで、噛み付かんばかりの勢いで番台に椿の指名を告げた。
すると奥から番台を押しのけるようにして番頭が出てきた。顔に卑屈な笑顔を張り付けて何度も頭を下げ、
「昨夜は大変失礼を致しました。あのような騒ぎに明神様を巻き込む結果になってしまい―――」
「謝罪は結構です。悪いのはあなた達ではなく、傍若無人な宴客の方ですから。それより、椿さんの指名をお願いしたいのですが」
「それが……椿でございますが、暫くお暇を頂戴することになりました。一月ほどで戻って参りますので、その間は別の娼姫を御案内させていただきます。もちろん、どれも椿に負けず劣らずの美貌の持ち主で」
那津の耳は途中までしか聞いていなかった。声を荒げたいところをぐっとこらえて、
「番頭さん、正直に教えてください。椿さんは昨夜の騒動の責任を取らされたのではないですか？」
「いえ、そのようなことでは……」
「もちろん、体裁を気にされるのは分かります。政府の要人が集った宴席での不祥事。なかったことにしたいというお気持ちもあるでしょう。ですから決して他人には漏らしません。そして当然ながら、特別な配慮をいただければ感謝の気持ちを分かりやすい形でお伝えするつもりです」
最後の“分かりやすい形で”をそれとなく強調して、那津は思わせ振りな視線を番頭に送った。すると番頭はさらに洗練の度合いを強めた卑笑を浮かべ、「本当に明神様のお考えになっているような事情ではないんですよ」などと言いながら、ちらと目配せした。
那津は大仰に頷いて、「どうやら私の考え過ぎだったようですね」と折れてみせると、他の娼姫を選ぶため待合茶屋に入っていった。すると数分おいてさっきの番頭が姿を現わし、早口で説明した。
「椿でございますが、昨夜酔った勢いでとある政府要人に手を上げてしまいまして。当然、お咎めなしというわけにはいきません」
あの男を殴ったのは椿さんじゃないっ―――那津は叫び出したい欲求を必死に抑えて、
「それで、椿さんは今どこに……」
「懲罰房におります。一月ほどはそこに入っていることになるかと」
「そんなっ……」
青ざめた顔で絶句する那津に、番頭はすす…と寄り添って、
「顔を見ることはできませんが、言葉を交わす程度ならまあ、私の裁量で許可することもできるかと思いますが。明神様には、ずっと椿を贔屓にしていただいておりますし」
もちろんそれなりの見返りは要するが、ということだろう。那津は一も二もなく頷いて、重い後悔と自責を引きずりつつ番頭の後に付いていったのだった。
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