La Traviata
―鉢植えの椿は愛と自由を夢見る―
第八章
那津は目を輝かせて舞台に見入っていた。初めて聴く曲にもかからわず、ドラムが刻むリズムは耳にすんなり馴染み、自然と躰が動いてしまう。歌詞は全て日本語で、しかも反権力の色合いが濃かった。
椿が教えてくれた外国の歌手たちに勝るとも劣らぬ攻撃的な言葉で軍部に毒された政府を罵り、人殺しに正当性を求めようとする軍人を嗤い、平和を願う。言葉は乱暴だったが、そこにはこの国を憂い平和を愛する気持ちがこもっていた。
那津は夢中で聞き入り、気が付けば演奏終了後のがらんとした客席で、椿が持ってきてくれたグラスを片手に呆然と立っていた。
「どうだった？ 那津。すげえだろ」
感想を求める椿に、那津はふわふわと頷いて、
「はい、すごかったです。何ていうか……魂を平手打ちされたみたいな感じです」
「ははっ、言い得て妙だな。さっきのバンドは公安に目ぇ付けられてるから、こういう文字通り地下のライブハウスでしか演奏できないんだ。もちろん、大っぴらに宣伝もできない。それでもライブがあればこうして、たくさんの客が集まってくる」
那津はまだ衝撃冷めやらぬといった面持ちで、椿の説明に聞き入っている。そして辺りを見回し、
「ここは、椿さんもよく来るのですか？」
「ん、まあな。ここのオーナーや従業員はみんな友達なんだ。俺の……職業についても知っているけれど、何も詮索しない。ここはいわば、反戦、反軍人の思いを共有する若者のたまり場なんだ」
「反戦、反軍人……」
那津は呟いたきり俯いて、手の中のグラスをじっと眺める。やがてそろそろと顔を上げ、
「そんな場所に、俺みたいなのを連れてきていいんですか？ 軍需産業で潤っている御用企業の、後継者の位置にいる人間を……」
肩をすぼめて訊ねる那津を、椿は厳しい眼差しで突き刺す。
「いつだったかお前は夢を語ってくれたよな。この街に緑溢れる公園を造って、子供たちに命と触れ合うことの楽しさを教えたいという夢を。あれは本気じゃなかったのか？」
「本気です！」
「なら、さっき反戦を歌ったバンドとお前は、表現方法が違うだけで志を同じくしている。命の大切さを訴えたいという思いに変わりはない。そうだろう？ だったら自分を卑下するな、俯くな。堂々としてろ」
「椿さん、俺っ……」
勢い込んで想いを返そうとする那津の肩を椿は宥めるように撫で、
「だからといって、そんな焦る必要はない。自分のできることから少しずつやればいい。那津、分かったな？」
椿の言葉は、何故こんなにも真直ぐ心に届くのか。那津はひとつひとつの言葉が自分の血となり肉となるのを実感しつつ、「分かりました」と素直に頷いた。
そして秘かに誓う。必ず夢を実現させると。そして完成した公園に、椿を一番最初に招待するのだ。あなたの励ましがあったからこそ、自分はここまでやり遂げることができたのです、と。
「あら、椿ちゃん。お友達連れてくるなんて珍しいわね。というか、初めてじゃない？」
髪を真っ赤に染めた女性が、グラスを持って近づいてきた。椿は軽く手を挙げて挨拶してから、「彼女がこの店のオーナーだ」と那津に紹介した。そしてオーナーにも、那津を紹介する。
「彼は那津っていうんだ。俺の大事な友人」
名字を伏せてくれた心遣いと、“大事な友人”という表現に那津の胸は熱くなった。さすがに、“恋人”などという紹介を期待するほど図々しくも世間知らずでもない。
これが椿にとって最も親密な人間関係の表現であると、那津もそしてオーナーも分かっていた。「あらまあ」と声を上げて目を大きく見開き、
「椿ちゃんの大事な友人なら、あたしにとっても友人ね。よろしくね、那津ちゃん」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いいたしますっ」
グラスを置いて深々と頭を下げる那津を見て、オーナーはきゃっきゃと華やかに笑い、
「礼儀正しい青年ね。気に入ったわ。ゆっくりしてってね」
親しみ込めて告げると、カウンターの奥へ戻っていった。那津はほーっと息を吐き、
「なんだか……妙に迫力のある女性ですね」
「はは、やっぱり分かるか？ 物腰は柔らかいけど、肝が据わってる。前に、軍人がこの店で暴れたことがあったんだ。酔っ払って銃剣を振り回す男相手に一歩も引かず、軍事演習なら外でやれと啖呵を切った。腕っぷしもなかなかのもので、無理やり言い寄ってくる男を投げ飛ばしたこともあったとか」
那津はしみじみと頷いて、
「なるほど。椿さんとウマが合うわけだ」
「なにぃ？ 俺はあんな乱暴者じゃねえぞ。一緒にするなっ」
椿が思いっきり反論しつつカウンターを指差すと、当のオーナーが冷ややかに視線を尖らせて睨み返し、
「あらあ？ 言ってくれるじゃない、椿ちゃん。あなたの数々の武勇伝、ここでご披露しましょうか？」
椿はぐっと喉を詰まらせ、
「ぅ……それは……やめといてくれ」
弱々しく返す。すると周囲から温かな笑いがどっと沸き起こり、この空間をさらに親密なものにした。
那津も一緒に笑いながら、自分も“仲間”になれたような感覚に酔ったのだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、椿の門限が近づいてきた。椿は「ちょっと待っててくれ」と言って那津から離れ、知り合いに挨拶して回っている。するとオーナーがそっと近づき、那津の耳元で、
「椿ちゃんてば、なんだかますます綺麗になったわね。あなたのお陰かしら」
「え？ いや……だったら嬉しいのですが……」
煮え切らない答えを返す那津の背中をぽんと叩いて、
「まあまあ、もっと自分に自信をお持ちなさい。ほら、しゃんとして」
オーナーの小言に那津は慌てて背筋を伸ばし、そしてぷっと吹き出した。
「そういえば……最初椿さんにも同じことを言われました。しゃんとしろ、って。ほんとに俺、怒られてばかりで。いつも椿さんの強さ、器の大きさに圧倒されてます」
那津の言葉に熱烈な同意を返すかと思いきや、オーナーは額を曇らせて僅かに声を低め、
「そう、確かに椿ちゃんは強いけれど、それは脆さを内包した強さだと思うわ」
「脆さを内包した強さ……」
「ええ。心の脆い部分、弱い部分を隠すための強さのような気がするの。そう、例えば……本名を堂々と『忘れた』なんて言ってしまうところとか……」
那津ははっと息を呑み、
「俺にもそう言いました。本名に大した思い入れなどない、疾うに忘れてしまった、と。それが嘘だというのですか？」
オーナーは哀れむように目を細めて、那津を見上げた。そしてほんの少し咎めるような口調で、
「当たり前でしょう。親が付けてくれた大事な名前を忘れる莫迦がどこにいますか。本名には、『椿姫』という重い鎧を取り去った生の人間の精髄が詰まっている。椿ちゃんは、いえ、全ての娼姫はそれを晒すことの危うさを知っているから、本名を隠すのでしょうね」
確かにオーナーの言う通りだ。本名には、金と引き替えに快楽を与える商品としてではなく、生身の人間としての感情や思考、そして幼い頃の思い出などが結晶しているのだ。
悪気はなかったとはいえ、それを不用意に聞き出そうとしてしまった自分の浅はかさに今さらながら腹が立つ。
「忘れたと言うしかなかったんですね。心の柔らかく脆い部分を守るために。鉢植えの椿でいるために……」
「そうね。それがきっと、椿ちゃんの“強さ”なの。だから……巧く言えないけど分かってあげてね。よく耳を澄ませて、心の奥底で上げている微かな悲鳴に気付いてあげて。あなたならきっと、それができるはず。あたし、これでも人を見る目はあるのよ」
そう言ってばちんとウインクするオーナーに、那津は力強く頷きを返したのだった。
「そ、そういや、那津。オーナーとずいぶん話し込んでたみたいだな」
店からの帰り道。暫しの沈黙ののち、椿は突然口を開いた。さもたった今思い出したかのような口ぶりだったが、不自然さは拭えない。那津は嬉しそうに顔を緩めて、
「もしかして、俺とオーナーが親しげにしてるの気にしてくれてたんですか？」
「バッ…カやろっ、そんなんじゃねえよ！ ただ、けっこう深刻そうだったから―――」
「恋の相談をしてたんですよ。どうしたら愛しの椿姫を振り向かせることができるかと……」
「ふざけやがって、もういい！」
椿は珍しく感情を露わにすると、肩をいからせてずんずんと歩みを進める。那津は「怒らないでくださいよ〜」と宥めながら、先を行く背中を追い掛けた。
すると椿は追い付かれないよう、さらに歩みを速める。那津は負けじと追い掛ける。椿はついに走り出す。那津も置いていかれないよう走り出す―――そしていつの間にか駆けっことなり、二人は全速力で夜道を駆け抜けた。
「ははっ……やったぁ……勝った、初めて椿さんに勝ったぞ………」
椿を追い越して先に宿舎に着いた那津は、門柱に手を付いて乱れた呼吸を整えながら勝利を味わった。対して、遅れて着いた椿は同じく呼吸を乱しながら「うるせっ…」と不貞腐れ、
「ムキになりやがって。ガキじゃあるまいし」
「そんな負け惜しみ言っちゃって。本当は悔しいんでしょう？」
「誰がっ。だいたいなあ、お前がふざけてばっかだから―――」
椿の抗議は途中から那津の胸に吸い込まれた。突然の抱擁に椿の心臓はとくとくと激しく脈打って、感情の高揚を無防備に晒した。
ただ抱き締められただけでこんなにも鼓動が速くなる自分が恥ずかしくて、またそれを那津に知られるのが面映くて、慌てて手を突っぱねて押し戻そうとした。しかし、
「椿さん、今日は本当にありがとうございました。何だかまだ……夢みたいです」
頭上から降る那津の言葉に、躰の強張りがほぐれてゆく。押し返そうとした手をそのまま那津の腰に回し、
「こら、ちょっと大袈裟だぞ」
「そんなことないです。鉢植えの外の世界で、娼姫と客としてではなく人間対人間として付き合ってくれた。変に自惚れるつもりはありませんが、これがどれほど大変なことか俺にだって分かります」
椿はきゅっと唇を噛んだ。確かに那津の言う通り、休みの日に客と私的な約束を交わすのは、自分のような職業の者にとって危険な賭けだった。一度壊れた関係性を、巧く修復できない可能性もあるのだ。
「別に……大したことじゃねえよ」
だからこそ椿は、素っ気ない言葉で那津の想いをはね付けた。そうすることで、再び二人の間に見えない壁を立てようとしたのだ。
そんな椿の思惑を、那津はきちんと察していた。ふわりと微笑んで、
「もちろんこれからも逢いに行きますからね。また座敷で楽しくお酒を飲みましょう」
那津の言葉には、“これまでの関係性を壊すようなことはしませんからどうぞ安心してください”とのメッセージが、暗に込められていた。
椿ははっと顔を上げ、こちらに真直ぐ向けられた那津の黒瞳を見つめた。そこに映り込んだ小さな自分は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「な……つ……」
やがて那津の顔がゆっくり近づき、夜気に濡れた二つの唇がぴったり重なった。静かな夜の興趣を乱さぬよう、音も立てずちろちろと舌先を触れ合わせる。そして、躰の芯に不穏な疼きがともる寸前で唇を離した。
挨拶と愛撫の境界上で揺れる口づけは甘く切なく、二人とも意識せぬまま小さな溜め息をついた。
「那津、気を付けて帰れよ」
「はい、ありがとうございます。椿さんも今日は疲れたでしょう。ゆっくり休んでくださいね」
もっとずっと一緒にいたい気持ちを、在り来たりな別れの挨拶で隠す。そしていったん背中を向けた那津だったが、何を思ったかくるりと振り返り、
「あの、今後もし本名を思い出したら、俺に教えてくださいね」
「本名……を？」
「いえ、あの、万が一でいいんです。万が一、ふっと思い出すようなことがあったら、その時は俺に教えてください。お願いします」
そう言って屈託ない笑顔を残し、走り去っていった。
寛い背中が闇に溶けるのを見送った椿は、笑顔の残像を胸の奥に留めつつ再び鉢植えの世界に帰っていったのだった。
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