La Traviata
―鉢植えの椿は愛と自由を夢見る―
第三章
「どうした？ 那津。ほら、立てよ」
杯を持ったまま固まる那津に嫣然と笑いかけ、
「酒よりもっと深く酔わせてやるよ」
どんな紳士もごくりと喉を鳴らさずにはいられない極上の誘い文句を囁き、那津の返答を待たず着物の裾を翻してさっさと仕切り襖を開けた。那津は意志とは別の不穏な何かに操られるようにふらふらと立ち上がり、椿の後に続く。
几帳の向こうに一組の布団が敷かれ、燈台で揺らめく炎の影が頽廃の陰翳を刻んでいる。椿はこちらに背を向けて立ち、自ら帯をほどいた。
朱緞子の帯がこすれ合う秘めやかな音は含蓄に富み、この密な空間をさらに淫靡なものにした。
するりと落ちた帯は、畳の上に美しい曲線を描いた。那津がそれに目を奪われる間もなく、椿は着物に手を掛けて肩から滑らせるようにした脱いだ。
「ああ……」
那津はたまらず声を上げ、貪るように見つめた。緋色の長襦袢は躰にぴったりまとわり付き、肩から背中、腰に到るまでの嫋やかな輪郭を見せつける。
那津の熱い視線に気付いているのかいないのか、椿は足下で渦を巻く解衣（ときぎぬ）を無雑作に跨ぎ、布団の上にしどけなく足を崩して座った。
「那津、上着を脱いで、こっちに来い」
優雅な罠を張った燭影の中心で、椿が婉然と手招きする。この誘いに抗える男などいるはずがない。那津は言われた通り上着を脱いで、椿の傍に膝をついた。
すると椿は黙って手を伸ばし、シャツのボタンを一つ、二つと外してゆく。そして露わになった胸筋に唇を押し付け、
「なよなよしたお坊ちゃんかと思ったら、しっかり筋肉が付いてる。なのに肌はしなやかで心地よい。まるで大理石の彫刻のようだ……」
全ての言葉と吐息に、湿った官能の夜が息づいていた。それを素肌で受け止めた那津は、ぞくりとふるえた。それは明らかに、快楽の前兆だった。下腹部にあるもう一つの心臓が、痛いほど激しい鼓動を刻み始める。
そのタイミングを狙い澄ましたかのように、椿の手が下方に伸びて那津の雄々しい膨らみを撫でた。
その瞬間、那津は考えるより早く椿の肩を押し戻した。そして必死に平静を保とうとしているのが分かるかすれ声で、
「いやだっ……あなたをこんな形で抱くのは………」
椿は一瞬、苦しげに目を細めた。しかしすぐにとろりと笑い、
「何言ってんだ。これが俺の仕事なんだから―――」
「だから嫌なんです！」
那津は鋭く叫んでから、痛みをこらえるように顔をしかめた。椿はもはや作為の媚笑を浮かべてはおらず、険しく眉根を寄せて、
「将来を嘱望される大企業の御曹司は、賎しい男娼となんて寝れねえか」
椿の言葉は刃となって、那津の胸を容赦なく抉った。瞬間的な激情に囚われた那津は、椿の躰を乱暴に押し倒して上からのしかかり、
「違う、違うッ……そんなんじゃないっ………」
言動にも表情にも、正気と紙一重の不穏な熱情が蠢いていた。しかし椿は臆することなく見返し、淡々と応じた。
「じゃあ何だ。言ってみろ、聞いてやるから」
言えるはずがないと分かった上での誘導だった。これまでも、愛情めいたものを見せようとする客との駆け引きは経験してきた。しかし今回ほど、自分が汚く思えたことはなかった。もちろんそんな内心の懊悩を僅かでも表情に出すことはなかったが。
「俺はっ……あなたにお礼が言いたかった……助けてくれたことだけじゃなく……苗の心配までしてくれてっ………」
「那津……」
「俺の周りには……どうしたら効率的に多くの命を奪うことができるか、そればかり考えている人間しかいない……小さな命が助かって、喜んでくれる人なんかいなかった……だから嬉しくて……」
椿の上に覆いかぶさったまま、肩を震わせて訴える那津。誰もが明日の不安を抱えた混乱の時代に、何を甘っちょろいことを言っているのかと嗤う者もいるだろう。
しかし那津が抱えている苦悩は本物だった。草花を愛し慈しむことが己の本分だと思っている青年には、武器製造が家業だという現実は耐え難いに違いない。
椿は両手を伸ばして那津の頬をやんわり包み込んだ。すると那津は上から手を重ね、温もりにすがるようにぎゅっと押し付けた。
「分かったよ、那津。じゃあこのまま寝よう。ほら、隣に来いよ」
椿の優しい促しに、那津は濃厚な戸惑いを見せた。
「でも……」
「布団が一組しかないんだからしょうがないだろ。ああ……今夜俺、何度“しょうがない”って言った？」
「三度言いました」
真面目に返す那津に、椿は思わず吹き出した。乱れた衿元を直して、帯をきっちり締め直し、
「これでいいだろ？」
酒を酌み交わしていた時の屈託ない笑みに、那津もようやく笑顔を返す。そして遠慮がちに膝をつき、
「し、失礼します……」
「おう。じゃ、布団を掛けるぞ」
他の部屋では、目眩く快楽の営みが行われているに違いない。甘美な瘴気が充満する遊廓の夜には著しく不似合いな、健全な添い寝だった。
「えと……おやすみなさい、椿さん」
「ああ、おやすみ。那津」
こうして二人の初めての夜は更けていった。
夜中、椿は違和感を覚えてふと目を開けた。隣を見ると、案の定誰もいなかった。
飾り窓から降り注ぐ月明かりを頼りに室内を見渡すと、部屋の隅で那津が背中を丸めて寝ているのが見えた。上着を着てはいるが、冴えた夜気の浸透を防ぐのは難しかろう。
「ったく、しょうがねえな」
椿はこれで四度目だと独りごち、予備の掛け布団を引っ張り出して那津の上に掛けてやった。そして「おやすみ」と囁くと、再び布団に戻ったのだった。
翌朝。目を覚ました那津は自分が肩まで布団にすっぽりくるまっているのに気付き、慌てて飛び起きた。すると、すでにきっちり着物を着込んだ椿が朝日の中で淡く微笑むのが見えた。
「あ、あの……この布団は椿さんが……？」
「朝起きたらまずはおはよう、だぞ」
那津はあわあわと姿勢を正して、「おはようございます」と頭を下げた。椿も明るく「おはよう」と返して那津に近づき、
「上着がちょっと皺になってるな。アイロン当てておくか？」
「いえ、大丈夫です。それよりあの……この布団は椿さんが？」
椿はちょんと肩を竦め冷めた声で、
「他に誰がいる？ まったく、風邪でもひいたらどうするんだ」
「あっ、ありがとうございます！」
大袈裟なほどの感謝を伝え、嬉しそうににっこり笑う那津。その邪気のない笑顔に圧倒され、椿はふいと顔を背けた。
那津の笑顔は、これまで椿が捨ててきたもの、純粋さや清らかさ、真心などできらきら輝いていた。それはあまりに眩しく、爛れた夜に慣れた目には毒だった。
椿は顔を背けたまま、
「昨夜の揚代はもらわない。俺の方から番台に伝えておく」
「それは駄目です。ちゃんとお支払いします」
予想通りの那津の返答を、真っ向から拒否して、
「要らない。勤めを全うすることができなかったんだ。受け取るわけにはいかねえ」
「あれは俺の……我がままだったんです。椿さんに落ち度があったわけではありません」
「いや、俺の落ち度だ。お前をその気にさせることができなかったんだからな。娼姫失格だ。ま、もともと色気に欠けるからしょうがねえけど」
「そんなことありません！ あなたほど妖艶で美しく、且つ凛とした人を俺は知らない。男性的な潔さと女性的な思い遣り。そのどちらもあなたは持っている」
懸命に言葉を尽くして自分の想いを伝えようとする那津に、椿はゆっくりと視線を戻した。真直ぐな言葉には、こちらも誠意を見せるべきだと思ったから。
「ありがとな。ちょっとくすぐったいけど、ともかく褒め言葉として受け取っておくよ。でも、昨夜の揚代は受け取れない」
「どうして―――」
「どんな事情があれ、勤めを全うできなかったのは事実。こんな賎しい職業でも、それなりのプライドを持ってやっている。一夜限りのかりそめの快楽でも、それによって心が潤う場合もある。それにな……そういう自負心がねえと、こんな商売やってられないんだよ」
最後の言葉は、椿の心の最奥部にある本音中の本音だった。その重みが理解できぬほど、那津は未熟者ではない。
「分かりました……では今回だけは……」
椿は黙って頷いて、立ち上がった。昨夜の座敷では、凄絶なる美の化身として堂々と君臨していたかに見えたのだが、こうして朝日の中に立つ姿はどこか儚く、今にも光の中に暈然と融けてしまいそうだった。
那津は喪失への生々しい恐怖に駆られ、立ち上がってその躰を抱き締めようとした。しかしそれに先んじて椿が手を伸ばし、
「ほら、ちゃんと服と髪を整えろ。浮浪者に間違われるぞ」
繊細な指先が襟を正し、髪の乱れを直してくれる。那津は照れ隠しなのか、顔を背けてぼそっと礼を言った。椿は最後にふわふわと頭を撫で、薄く笑うと、
「もう二度と来るんじゃないぞ。分かったな？」
厳然たる口調で言い置いて、くるりと背中を向けたのだった。
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