La Traviata
―鉢植えの椿は愛と自由を夢見る―
第十五章
「なあ、那津。椿の花言葉って知ってるか？」
唐突な問いに面喰らったのか、那津はぱちくりと大きく瞬きして「花言葉、ですか？」と反問した。
幾度も交わり熱い精を捧げ合った後の、気怠くも密なひととき。廓での最後の夜だったが、二人の間に通う空気に変わりはなかった。少なくとも、表面上は。
那津は、腕の中にすっぽり収まった春留の躰をきゅ、と抱き締め、
「実は俺、花言葉って全然知らないんですよね。知らなくても育てるのに支障はないですから」
「はは、そりゃそうだ」
春留は軽い口調で返してもそもそと顔を上げ、那津と視線を重ねた。そして、
「椿の花言葉は『理想の愛』なんだよ」
そう言って儚げに笑った。その笑みに何故か昏い胸騒ぎを覚えた那津は、その翳を払うためわざと明るい声で、
「へえ、『理想の愛』ですか。まさに、俺にとっての春留さんそのものですね」
「……違う」
「え？」
聞き返す那津に、春留は芝居がかった仕草で肩を竦め、
「冗談じゃないよなあ、『理想の愛』だなんて。重すぎるっつうんだよ。椿の花も可哀想に。同じ名を持つ者として同情するよ」
冗談めかした言葉ではあったが、内包している感情には生々しさがあった。那津は何と答えてよいか分からず、困惑した挙げ句、
「でも、もうその花言葉は関係ないでしょう？ あなたはもうすぐ椿の名を完全に捨て、春留として新たな人生を歩むのですから。俺と一緒に」
「………ん、そうだな」
春留が答えるまでの僅かな沈黙が気に掛かった。が、那津はすぐさま振り払って「そうですよ」と明るく返した。そして、余り神経質になるなと自分に言い聞かせる。
新しい生活を間近に控えて、春留が少なからず不安になってしまうのは当然だ。だからこそ、受け入れる側が鷹揚に構えていなければならない。一緒になって不安がっていては駄目だ。
「新居には、大して広くないですが庭があります。そこを花で埋め尽くしましょう」
「ん、そうだな」
「春留さんと一緒に土いじりができるなんて、本当に幸せだ」
「ん、そうだな……」
「新しい生活で最初は戸惑うこともあるかと思いますが、すぐに慣れて楽しく―――」
那津は途中で言葉を呑み込んだ。腕の中の春留が、小刻みに震え始めたからだ。
「春留……さん？」
驚いて顔を覗き込もうとした那津の視界いっぱいに、春留の笑顔が咲いた。涙で濡れた笑顔が。
「ん、そうだな、那津……」
笑顔と涙、どちらが本当の感情を反映しているのか考える間もなく、那津は唇を求められた。激しい口づけで遮られた思考はそのまま溶けて流れ、挿し込まれた舌を味わうことに没頭する。
ざらりとした舌の表面をこすり合わせ、唾液を絡めると、上にのしかかってきた春留の躰が悶えるように揺れた。それを反転の機会と捉えた那津は、舌を交わらせたまま春留の腰を抱えて起き上がろうとした。
しかし春留は那津の躰を押さえ付けたままぬるりと舌をほどき、荒い呼吸の奥から切れ切れの言葉をこぼした。
「まだ……だめだ、なつ……もっと………」
「もっと？ もっと何ですか……？」
「もっと……お前の躰を刻み込みたい……」
答えると同時に、その言葉を実行に移す春留。指先で髪を梳きながら、額からまぶた、鼻筋、頬、顎を唇でなぞる。狂おしいほどの愛執を込めて。
さらに首から肩の線に沿って滑らせ、浮き出た鎖骨をついばみ、硬い胸筋にやんわりと歯を立て、腹筋の淡い隆起に舌を這わせる。
「は、春留さん、あの……」
これまで経験したことのない熱烈な愛撫を受けて、那津は嬉しさ以上に戸惑いを感じてしまう。これからずっと一緒にいられるというのに、なぜ春留はこんな痛ましいほどの執着を見せるのだろうか、と。
そんな那津の困惑を措いて、春留は濃厚な愛撫に没頭する。それにもはや性的な意味合はなかった。ただ、生涯で初めて、唯一愛した男の輪郭や肌の質感、匂いを感覚に刻み付けるという目的を実現するための、実際的な行為だったのだ。
「那津の……からだ……」
滑らかな素肌に唇を押し付けながら、春留は喉の奥で繰り返した。忘れない、何年何十年経っても、この躰の温かさ、激しさ、優しさを。抱き締められた時の心地よさ、高揚、幸せを。もう二度と、抱き合うことはないとしても―――
「春留さん、泣いて……いるのですか？」
温かな雫がぽつぽつと降りかかるのに気付いた那津は、驚きを隠さず慌てて訊ねた。そして春留を押し退けることのないよう、そおっと躰を起こす。
春留は先刻のように抵抗はせず、那津の胸に素直に躰を預けたまま大きく息を吐き出した。那津は、昏い胸騒ぎが凝結して小さな黒点となり、鳩尾の奥に灯るのを自覚しながら、おそるおそる同じ問いを重ねた。
「泣いているのですか？」
「ん、でももうやんだ。ごめんな」
「なぜ、泣いたのですか？」
「嬉しいからに決まってんだろ、バカ」
「でも……」
納得できないとばかりに口ごもる那津を、挑戦的な上目使いで誘惑する春留。視線を重ねたまま那津の上をまたいで腰を落とし、両手を後ろに回して尻たぶを無雑作に掴んだ。
そして上に持ち上げるようにして自ら割り開くと、谷間の奥から淫靡な濡紅に染まった菊花が顔を覗かせた。そこはつい先刻まで繰り返された陵辱の痕跡を生々しく留めて充血し、糊状になった白い残滓がねっとりと付着していた。
春留はそのままくいっと腰を突き出し、爛れた陰部を那津の屹立する竿にぺたっとくっつけた。そして尻を掴んでいた手を放すと、柔らかく熱を帯びた割れ目に那津の陽物がきっちり挟まれる形になった。
那津の眉間に悩ましげな縦皺が寄るのを確認した春留は、ちらと唇を舐めてから腰を小さく上下させる。すると那津の喉がグッと鳴って、皺がさらに深くなる。
「春留さんっ……」
快感に耐える表情や切なげに名を呼ぶかすれ声が愛しくて、春留は首を伸ばしてちゅっと口づけた。そして肩に掴まって再び挑むような眼差しで見上げ、
「今度はお前の形を俺の中に刻み込んでくれ」
涙の余韻で煌めく瞳を真直ぐ向けられてこんな願いを捧げられた男に、一体何ができるだろうか。その願いを叶えること以外に。那津は涙の訳を追及するのも忘れ、ほとんど盲目的な愛情の高まりに駆り立てられるまま春留の柔らかな尻に手を伸ばした。
しかし労りという名の理性が性急な行為に歯止めをかける。指先は繊細な動きで谷間の奥を探り、微かに腫れ上がった陰唇に優しい愛撫を仕掛けた。しかし、
「前戯はいいから、早く。早く那津が欲しい……」
「でも、もう一度ほぐさないと……」
「平気だ。閉じた状態の方が、お前の形をより鮮明に感じられるだろ？ だから……」
春留はそう言って腰を浮かせ、那津の大きく張り出した先端を自ら秘孔の中心に宛てがった。そして、
「このまま腰を落とすから、滑らないよう押さえておけよ」
「で、でもっ……」
まだ春留の躰を心配しておろおろする那津をよそに、春留はグッと尻を落とした。と同時に、腰の芯に溜まった熱が弾けて下肢全体を燃え上がらせた。
さらに進めると、躰がメリメリと音を立てて裂かれるような錯覚とともに入口が大きく広がるのを感じた。
「んぅっ……ぅ、ぅぁ………」
まだ硬さの残る果肉を掻き分けて、隆々たる男根が奥へ奥へと侵入してゆく。躰が内側から灼かれるような痛みに春留は呻きを漏らさずにはいられなかったが、痛みの彼方に控えている快楽の存在を感じてもいた。
やがて那津の全てが収まると、その形のままに広がった蜜壺が細部まで精査するようにくにゅくにゅと蠕動した。
「ああ、那津……感じるよ。お前の形、鼓動、そして熱さ……」
陶然と呟きながら腰を揺らし、こすれ合う粘膜から生まれる甘痒い疼きに酔う。できることならひと晩中こうして、那津を感じていたかった。
しかしそれは、男にとって拷問にも近い行為であることも知っている。だから那津が息を荒げて腰を突き上げても、春留は黙って全てを委ねた。
「ふぁっ、あっ、ああっ……」
僅かに残っていた痛みは消失し、底の見えない快感の渦に呑み込まれる。何度か意識が飛びそうになったが、まぶたの裏に灯る儚い光にしがみついて必死に自我を保った。最後の最後まで、那津の全てを感覚に灼き付けておくために。
「ああっ、いい、いいっ……那津、那津ぅ………」
春留は魂までとろけるような愉悦の中を彷徨いながらも、やがて訪れる別れのことを忘れることはできなかった。
翌朝、那津が目覚めた時にはすでに、春留は身仕度を終えていた。床の傍らに正座をし、明り障子から射し込む淡い陽光に包まれた春留は、その凛とした不動の姿勢にもかかわらずどこか脆弱で、今にも日の光に溶けて消えてしまいそうだった。
那津は悪夢めいた焦燥感に駆られて手を伸ばし、膝の上にきっちり重ねて揃えられた皙い指をぎゅっと掴んだ。そしてほっと安堵の息を吐く。
指は冷たかったが、確かな感触を得ることができたから。悪夢のようにさらさらと消えてなくなることはなかったから。
「春留さん、おはようございます。あの……早いんですね」
「ん、なんか熟睡できなくてな。やっぱり少し緊張しているんだと思う」
「そう、ですか……。そうですよね、大きな変化の前なんですから、緊張や不安があって当然です」
那津はそう言いながら躰を起こした。春留の手を掴んだまま。何故か放せなかった。放すのが怖かった。この不可思議な感情もきっと、大きな変化を直前にした不安からだろうと無理やり納得して、那津はそろそろと手を放した。
すると春留は黙って那津の服を手に取り、身仕度を手伝おうとする。那津は「自分でできます」と言って拒絶した。そうすることで、自分たちはもう対等な関係なのだということを暗に示そうとしたのだ。
しかし春留は淡々とした口調で「お前はまだ客なんだ」と返し、那津が示した対等な関係をやんわりはね付けた。那津は仕方なく奉仕を受け入れるしかなかった。
着替えを終えた那津は、徐々に支配領域を広げつつある不安と秘かに格闘しつつも、その乱れる内心を感じさせない柔らかな笑みを浮かべて、
「では、俺はこれで。明日、迎えに来ますので」
「ん、分かった……」
那津は小さな頷きを返して部屋を出ようとしたが、ふと立ち止まって春留の手を取り、
「不安があるのは仕方ないことです。でも大丈夫。俺たちが選んだ新しい道は、必ず光ある未来に繋がっています。お互いを信じて、前だけ見て歩きましょう。こうして手を取り合って。ね？」
その瞬間の那津の笑顔は眩しく、すでに裏切りの深淵に沈んでいる春留の目にも澄んだ光が見えるようだった。
が、もちろんそれは哀しい錯覚に過ぎない。実際は、那津の放つ光が強くなった分、自分の周囲を取り巻く闇色の影が濃くなっただけ。己の罪深さがより鮮明になっただけだ。
「そう……だな、那津。ありがとう」
春留は文字通り渾身の力を振り絞って手を握り返し、漸う言葉を返した。そして繋がった手がどちらからともなく離れた瞬間、春留の胸を鋭い痛みが走った。
これでもう、二度と、那津に触れることはないだろう。二度と。
「では、今度こそ本当に行きます。春留さん、また明日」
「ん、じゃな、那津………さよなら」
最後の『さよなら』に込められた想いに気付かぬまま、那津は春留の許を去った。
この短いやり取りの間に残っていた気力の全てを使い果たした春留は、その場にずるずると座り込み、ついさっきまで那津がいた陽溜まりを呆然と見つめ続けたのだった。
その二時間後、大神翁が用意した車に春留は乗り込んだ。小さなスーツケースと、鉢植えの椿と、諸刃の思い出を抱えて。
そして、自分にとっては檻でもあり、また本物の愛にひとときでも浸ることのできた悦びの園でもある色里に、永遠の別れを告げたのだった。
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