La Traviata
―鉢植えの椿は愛と自由を夢見る―
第十一章
それからの二人は、まさに一日千秋の思いで懲罰房から解放される日を待った。
いずれ必ずその時は訪れると頭では分かってはいるのだが、互いの温もりを求める心と躰の疼きが収まることはなかった。
那津は幾度となく、二人の間を隔てる格子扉を破壊したいという衝動に苛まれ、そのたびに、春留の柔らかな躰を抱き締める瞬間の悦びを思って自分を抑えたのだった。
そうして、ようやく、その日は訪れた。
「椿姫でございます。今宵はお召し頂き―――」
久しぶりの口上だったが、最後まで口にすることはできなかった。いきなり抱え上げられた春留は、「うわっ」と声を上げて足をばたつかせる。
「こらっ、下ろせ、那津！」
しかし那津はそのまま座敷に戻り、自分が座っていた場所に春留を抱いたままどすんと腰を下ろした。そして誰にも渡さないと言わんばかりに腕の中の躰を掻き抱き、静かに、切々と涙を流した。
「ぅっ……ぅ………」
「那津……泣くな……」
「ぅっ………すみま…せん……本当にすみませんでした……俺のせいで……ひと月もあんな場所にっ………」
切れ切れの謝罪の言葉が、春留の胸に重く響く。呼吸もままならないほど苦しいのは、力の加減を忘れた激しい抱擁のせいばかりではないだろう。
こうしてあらためて那津の涙と謝罪を受けると、あのひと月の間、懲罰房にいた自分より那津の方がずっと苦しんでいたのだと身に沁みて分かる。那津を庇ったことで、逆に那津を追い詰めることになってしまったのではないか。
「俺は大丈夫だって言っただろ……」
こんな慰めの言葉で、那津の傷が癒えるはずもないと分かっていた。春留は、いつだったかライブハウスのオーナーに言われたことを思い出した。
『椿ちゃんの強さや優しさは、人を傷付けることもあるのよ』―――その時は意味が分からず、秘かに反発も覚えたのだが、今なら理解できるような気がする。
巧く言葉にはできないが、きっとこういうことなのだろう。もしかしたらこれからも、自分の強さが那津を傷付けることがあるかもしれない。
「ほら、那津。久しぶりなんだ。早く顔を見せてくれ」
春留に促されて、那津はようやく抱擁の腕を緩めた。そして隙間なく密着していた躰をそっと離して春留の顔を見つめる。すると春留は手を伸ばし、那津の頬から顎にかけて輪郭をなぞるように撫で、
「少し……痩せたな。ちゃんと飯食ってたか？」
那津はすかさずその手を握り、指の一本一本に口づけて、
「俺の心配なんてしないでください。春留さん、あなたの方こそ抱き上げた時の腕にかかる重みが違いました。ひと月もあんな所に閉じ込められたのだから、やつれるなと言う方が無理でしょうが……」
「そんなことないぞ。三食昼寝付き。お陰で読みたかった本も読めたし、それに……名前を思い出すこともできたしな」
そう言って微笑む春留を見て、那津も少しずつだが心が晴れるのを感じた。それに、春留がここまで言葉を尽して宥めてくれるのだから、いつまでもうじうじと自分を責めていては逆に申し訳ない。那津は目尻に残った涙を払って、微笑みを返した。
「そうですね。大切な名前を思い出すことができたのですから、あのひと月は決して無駄ではなかった」
「ああ、その通りだ」
二人は先刻よりさらに濃厚に視線を絡め、やがてどちらからともなく顔を近づけた。互いを求めてやまぬ唇は吸い寄せられるようにぴったり重なり、ひと月前は三日と空けず味わっていた甘い感触を思い出すように暫し静止する。そして春留が誘うようにふわんと唇を開けると、待ち構えていたように那津の舌が侵入してきた。
「はっ………ふ……う………」
那津の激しい動きに夢中で応じている間に、唾液は混ざり合い、絡まる舌は蕩け、呼吸がひとつになる。喉の奥まで犯される悦びに浸りながら長い長い口づけを終えた時には、春留の総身を巡る血は媚薬と化していた。
「な……つ……」
濡れた唇からこぼれる呼びかけも、首筋から胸を指先でなぞる仕草も、いかにも誘っているといった大仰なものではないのに、匂い立つような色気がある。那津は思わず喉を鳴らし、
「春留さん……慎みがないと思われるのを承知で正直に言いますが、一秒でも早くあなたの中に入りたいです……」
切々たる声で露骨な欲望を訴える。『那津のバカやろ…』と照れ半分の抗議が返ってくるかと思いきや、春留はこくんと頷いて那津の膝から下りた。そして言葉以上に露骨な飢えを晒した股間に手を伸ばし、ベルトとズボンの前ボタンを外す。
露わになったのは、下着の布地を今にも突き破りそうなほどの隆起。先走りの染みが広がって、時折ビクッビクッと揺れるのが我慢の限界を教えていた。
「は、春留さん？ 一体何を……」
そんな不穏な熱をまき散らす下半身の所有者とは思えないほど、那津は間の抜けた声で質した。てっきり閨へ移動するものだと思っていたのに、いきなりこんなことをされて困惑を隠せない。
しかし春留は構わず下着の奥から那津の逸物を取り出し、根元に楚々と手を添えた。そして顔を近づけ、尖らせた唇をつるんとした先端に何度も押し付けた。
「ぅ………ぁっ、くっ………」
快感と呼ぶにはささやかな刺激だったが、それはあくまで生理的範疇でのこと。これが他ならぬ春留の唇による奉仕であるという眼前の事実がさらなる興奮を呼び起こし、二倍三倍の快楽となってあっという間に那津の心身を搦め捕った。
下腹部がカッと燃え上がり、まるでもう一つの心臓があるかの如くドクドクと脈打って陰茎に血液を送り出す。
「だめ…だ……春留さんっ………我慢が………」
欲しくて欲しくてたまらない躰がすぐ目の前にある。加えてこの刺激。今にも本能のままに襲いかかって、有無を言わせずこの肉棒を突き立ててしまいそうだった。
首の皮一枚で繋がった理性をよすがに、那津は必死に懇願する。しかし春留はやめるどころか、今度は竿に唇を滑らせ、浮き上がる青黒い血管をなぞるように舌を這わせた。
那津は「ぐ…ぅっ」とくぐもった呻きを漏らし、腹筋を波打たせる。と同時に、決壊寸前の鈴口から濁った先走りをどっと溢れさせた。
すると春留はようやく口を離し、躰を起こして那津の上に向かい合わせでまたがった。そして自ら着物の裾をまくり上げて尻から下を露わにする。雪を欺く珠肌が眩しく、室内の明度まで変わったようだった。
さらに春留は両手を背後に回し、芸術的な曲線を描く己の双丘に五指を沈ませて左右に割り開いた。淡い陰翳に覆われた谷間の奥で、まだ固い蕾が陵辱への期待と不安に震えている。
「那津、早く……指で柔らかくして……」
「で、でも……こんな、座敷で……」
「一秒でも早く俺ん中に入りたいんだろ？」
春留の目の前で、喉仏が大きく上下する。それが答えだった。那津は己の先端から際限なく溢れ続ける蜜蝋をすくって、春留の谷間に滑らせた。そして蕾の周辺に寄る襞に塗り込めつつ、つぷっと指を挿し込む。
本当は一気に根元まで挿入してぐちゅぐちゅと掻き回したかったが、久しぶりの情交で躰が萎縮しているかもしれぬと考え、第二関節で止めておいた。その代わり、春留の柔肉に包まれた指先を大胆に暴れさせて入口からほぐしてゆく。
「ぁ……ゃっ、ぁっ………」
浅いところで異物が蠢く感触は、快感とはまだ呼び得ぬもやもやした淡い炎の如き疼きを下腹部に灯した。それがじわじわと侵蝕するにつれて、決定的な快楽への欲求が高まってゆく。
春留は官能に潤んだ琥珀の瞳で見つめ、欲望を訴えた。もはや、言葉は要らなかった。
那津は応えて指を深く突き入れ、筒肉を奥まで捏ね回す。春留の躰が情交を受け入れられる状態になったかどうかは、指に絡み付く肉の柔らかさや熱さで分かった。
「春留さん、俺の肩に掴まって……」
那津の囁きに頷きを返し、言われた通り肩にきゅっとしがみつく。すると那津は、指先を春留の秘部に埋めたまま左右にくにゅっと広げ、出来上がった濡紅の裂け目に己の屹立を宛てがった。
めくれた花弁が膨張した先端にぴちゃりと付着すると、那津の腰は尋常でない浮遊感に襲われた。それを消化する間もなく、春留の尻がゆっくりと下りてゆく。
「ぅ……ぁっ……ぁぁ、ぃぃっ……きもち……いい………」
那津の形を蜜壺全体で感じるためか、春留は腰を悩ましげに回して悶える。それに連動して内壁も蠢き、抽挿と同等の性感を那津の男柱に与えた。
「駄目……だっ………出るっ………」
眩暈すら伴うほどの強烈な射精感に、最後の理性の糸が切れた。那津は春留の尻たぶを乱暴に掴み、がくがくと上下に揺さぶった。と同時に強靱な腹筋を使い、春留の腹を突き破らんほどの勢いで奥を穿った。
突然の暴威に、春留は背中を反らせて甘い苦悩に満ちた悲鳴を上げる。その残響が消えるより先に、那津は春留の中で弾けた。
溜まりに溜まった欲望の澱が次から次へと圧し出され、春留の決して広いとは言えない蜜壺に注がれてゆく。当然ながらそこはあっという間に白濁の飽和状態となり、内部で逆流してじゅわじゅわと溢れ出る。
「な……つ……もっと、もっ…と………」
春留の拙い催促に応えるように、那津は腰を小刻みに揺らしつつ注ぎ続けた。性と精の横溢を春留はうっとりと受け止めながら、尻の中で鼓動する愛しい雄を離すまいと締め付けた。
やがて那津はかくんと肩を落とし、深く息をついて体内に滞留する余熱を吐き出した。そして弱々しい謝罪を口にする。
「すみません……俺ばかり……しかもこんなに……」
春留がまだ達ってないのは明らかだった。着物の合わせ目からちらと覗く鴇色の蕊はぴちぴちに勃ち上がって、微かに濁った涙をはらはらと流している。おまけに、逆流した那津の精水が豪快に溢れ、
「座椅子までびしょびしょだな」
些か楽しげに指摘する春留に対し、那津は面目ないと言わんばかりに項垂れる。春留はくすっと軽やかに笑って、
「落ち込むなって。座敷でやろうって誘ったのは俺の方なんだから」
「それはそうですけど……。でも春留さんを気持ちよくしてあげられなかった。自分の快楽ばかりを追い掛けて……」
すると春留は妖艶な上目使いでねっとりと見つめ、
「まさか、これでおしまいじゃないだろ？ 那津」
そう言って蜜壺をきゅっとすぼめ、まだずっぷりと突き刺さったままの肉杭に挑戦的な愛撫を仕掛けた。
那津は「クッ」と喉の奥を鳴らし、「もちろんですっ…」と掠れた低音で答える。その欲望でざらつく声に雄の色気と獣性を感じた春留は、たまらず自ら腰を振って行為の再開をねだった。
那津も応えて再び春留の尻を掴み、腰をがくがくと突き上げて抽挿を始める。自らの快楽のみを追ってしまった先刻とは違い、今度は微妙な角度を付けて時には奥の膨らみを抉り、時にはわざと入口に引っ掛けて充血した粘膜をこする。
そのたびに春留は極まったような艶かしい悲鳴を上げ、那津の上で髪を乱して乱舞した。その姿はまるで、快楽に狂う美しい淫獣。この頽廃の園に凛と君臨する女神の如き普段の姿とは対照的な乱れように、那津は嗜虐欲の昂進を抑えることができなかった。
もっと鳴かせたい、もっと狂わせたい。その欲求に煽られるまま、春留の柔らかな躰を肉の責め具で嬲り、煮えたぎる精を注入し、また嬲る。
やがて場所を座敷から寝処に変えてもその激しさや執拗さは変わらず、終わりのない法悦という危険にして甘美な深淵に、二人ともに堕ちていったのだった―――
「春留、さん……」
「…………」
「春留さん」
「んん…………」
愛しい人はまだ夢の中だった。すーすーと規則正しい寝息が、眠りの深さを教えている。顔を那津の胸にぴったり押し付けているせいで、片方の頬がつぶれて唇がぷくっと膨れている。この無防備なあどけない寝顔を眺めていると、発作的な愛情の高まりに叫び出したくなってしまう。
今日の閨事の最中、一体何度『春留さん』と呼んだだろう。意識的に口にしたわけではなく、舌が自然とその名を紡いだのだ。もうずっと前から、出逢った時からその名で呼んでいたかの如く。
「もうすぐ……夜明けか……」
結局今夜は情交に没頭するあまり、あの提案を切り出すことができなかった。那津はふっと息を吐き、眠りの国にいる恋人に囁く。
「俺は春留さんの身請けを望みます」
聞こえていないと分かっていても、つい声が強張ってしまう。実際に伝える時にはきっと、ガチガチに緊張してみっともない姿を晒してしまうに違いないと、今から冷や汗が吹き出てくる。
そう、那津はもうずっと前から決めていたのだ。もし本名を教えてもらえたら、その時には彼の身請けを真剣に考えようと。
もちろん、それが生易しいことではないと分かっている。多額の金子が必要だということではない。我ながら嫌な感じだとは思うが、金ならある。そんなことではなくて、身請けを申し出るということは、彼の人生に多大な変化をもたらすことになるのだ。その責任の重大さを考えねばならない。
とはいえ、那津は最初から、他の旦那衆のように身請けした後愛人として囲うつもりはなかった。それでは、鉢植えの世界から解放した意味がない。別の鉢に移動しただけだ。
春留ならきっと、新しい世界にしっかり根を張って、自分らしい道を見つけることができるはず。願わくば、その隣にいて同じ道を一緒に歩んでゆきたい。それが那津の考えだった。
一刻も早く身請けを申し出たい思いはあったが、焦るのはよくないという理性の宥めも無視はできなかった。もっと環境を整えて、父親にも自分の考えをきちんと話すべきだろう。
揉めごとの種を除いてからでないと、後になって春留に精神的な負担を強いることにもなりかねない。大事なことだからこそ、慎重さが求められるのだ。
「春留さん、あと少しだけ待っていてくださいね……」
薔薇色の丸い頬を手のひらで撫でながら、那津はそっと囁きかけた。くすぐったかったのか、春留はうにうにとぐずってから小さく微笑んだ。
しかし、あと少しなどと悠長なことを言ってはいられないような事態が、春留の周囲で起き始めていたのだ。
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