ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
７.
「すげー、満月だぁ………」
春留は仰向けにぷかぷか浮いたまま、ガラス屋根の向こうで輝く月を眺めた。ついさっきまで激しい雨の中必死に作業していたことが、月のまやかしのように思える。
「先輩、まさにくらげですね」
音も波もたてず、すーっと近付いてきた那津がからかうように指摘する。春留は上を向いたまま「うるせ。刺すぞ」と返す。那津は笑って、
「くらげって、海月と書くんですよ」
「そのくらい知ってる。水母とも書くんだぜ」
「さすが。一年長く生きてると知識の厚みが違いますね」
「おまえはほんっとにひと言多いよな」
春留は呆れたようにそう言って、身体を起こした。そして正面から那津を見据える。
濡れた黒髪を張り付かせ、月光の蒼い陰翳を受けた那津は妖しいほど美しく、やっぱりこいつはルシフェルだ、と改めて思う。ルシフェル、即ち、誘惑の蛇。
「先輩、なんでシャツを脱がないんですか？ 気持ち悪いでしょう？」
「放っとけよ。人様にお見せできるほど、お前みたいにいいカラダしてねえんだよ」
春留はばしゃりと水飛沫を上げて後ろを向く。そして自分に言い聞かせた。なに見惚れてんだよ、俺は―――
「明神っ、競争だ。あっちの端までどっちが早いか」
「受けて立ちますよ。先輩だからって容赦しませんからね」
「それはこっちの台詞だっ。行くぞ、よーい―――」
ドン、と叫んだ瞬間、那津は「俺が勝ったら先輩にキスします」と宣言して泳ぎ出した。蒼い静寂の中、ただ水を掻く音だけが響き渡る。
が、静寂はすぐに終焉を迎えた。先に壁にタッチした那津はニヤリと笑い、
「俺の勝ちですね。いやあ、余裕、余裕」
「ううぅ〜〜、くっそぉ、もう１回―――」
那津は「往生際が悪いですね」と言って春留の腰を抱き、プールサイドに座らせた。膝から下だけが水に浸かった状態で、春留は足をばたばたさせる。
「くっそぉ、もう１回！ もう１回挑戦させろーーっ」
那津もその隣に座ると、「だぁめです」と駄々っ子を諭すように言って腰に腕を回した。そして空いている手で春留の唇をなぞり、
「泳ぐ前に言ったこと、覚えてますか？」
「し、知るかっ。何にも聞こえなかったぞ」
仄かに赤らんだ頬が、全て聞こえていたことを物語っている。那津は妖艶な含み笑いを浮かべつつ顔を近付けたが、何故か途中で止めた。
「ねえ、先輩。シャツを着てる方が裸より嫌らしいって、気付いてます？」
「は？ 何言ってんだよ、お前―――」
キスが落ちてこなかったことへの安堵と失望を持て余しつつ、春留は訝しげに見上げる。すると那津の指先が胸に伸びて―――
「ココ、透けて見えます。赤くてぷっくりした可愛いものが………」
ねっとりと囁いて、シャツ越しに春留の乳首をきゅっとつまんだ。突然の刺激に、思わず「んっ…」と甘い吐息を漏らしてしまう。
その反応に那津は顔を綻ばせ、今度は乳輪ごと挟み込んでくにくにと揉み上げた。
「明神ッ……やめ…ろっ………」
もちろん那津は手を引くことなく、芯を持ってコリコリに勃ち上がった乳頭を愛撫する。
「せんぱい……感じてくれてるんですね。嬉しいです」
指の間で存在を誇張する突起が、愛おしくて仕方がない。濡れたシャツが張り付いた肌も淫らで雄を高ぶらせるが、やはりじかに触れたいという欲求の方が勝った。
那津はシャツのボタンに手を掛け、ぷちぷちと器用に外してゆく。露わになった素肌は、思わず頬をすり寄せたくなるほどの滑らかさで。
「涙がこぼれそうなほど……綺麗です………」
何すんだっ、と抗議してシャツを直そうとしたのだが、那津が余りに真剣な表情で眺めているものだから、機会を逸してしまった。そんな風にためらっているうちに、するすると脱がされてしまう。
「そんな……じろじろ見て楽しいか？ 女みたいに胸があるわけでもねえのに」
「楽しいです。楽しくて嬉しくて切なくて……」
那津は声を詰まらせると、両手を背中に回してぎゅっと抱き締めた。
「先輩には……たくさんお礼を言わねばなりません」
「別に礼なんか要らねえよ。俺が勝手に駆け付けたんだから」
那津は抱く力を少し緩め、腕の中の春留をそっと見下ろした。そしてふわりと笑い、
「今日のことだけではありません。生徒会に直談判してくれたそうですね」
「織田に聞いたのか？ 口の軽い生徒会長だ」
仏頂面でふいと横を向く春留。その頬は微かに赤らんでいた。那津は口付けを落としたい欲求を抑えて、言葉を続ける。
「織田が直接伝えに来てくれたのです。廃部勧告は撤回するからと。そして、何か困ったことがあったら相談に乗るからとも言ってくれました」
「織田が……」
「はい。紫堂先輩の訴えに心を打たれたと、照れ臭そうに言ってましたよ。あの人は氷の女王なんかじゃない。ただ余計なことをべらべら喋らないだけで、心はとても温かい人だと」
「ふん。すぐ感化されやがって。簡単な野郎だ」
不貞腐れたような声で悪態をつく春留を、那津は愛しげに目を細めて見つめた。そして再び抱き寄せて、裸の胸と胸をぴったり合わせ、
「キス……してもいいですか？」
触れ合う素肌の心地よさに酔い惑いながらも、春留は何とかいつもの自分を保った。
「訊くんじゃねえよ、そんなこと」
「だって、いきなりしたら鉄拳が飛んでくるでしょう？」
「殴られんのが恐いのか。情けねーヤツ」
しかし那津は動じることなく、寧ろ深慮を感じさせる明晰な声で、
「殴られた頬より、殴った手の方が痛いはずです。あなたはそういう人なんだ。本当は暴力など好まない。けれど自分の身を守るため、仕方なく鎧を着けている。本来の紫堂春留は、人の痛みが分かる優しい人間なのです」
言葉の全てが春留という存在に浸透することを願って、静かに言い置いた。さらに細い手首を掴み、
「この手が、もう二度と人を殴らずに済むように、俺が、俺がっ………」
俺が守りたい―――そのひと言がどうしても口から出なかった。泰水のことを引きずったままの中途半端な状態で、自分にそんな大層なことが言えるはずもない。
那津は悔しそうに唇を噛み締め、掴んだ手首をゆるりと放した。すると間髪入れず春留のしなやかな腕が伸びてきて、那津の首に巻きついた。
「紫堂せんぱ―――」
「ありがとう、那津」
那津は大きく目を見開いたまま、今の言葉を反芻する。春留の口から初めてこぼれた自分の名は、いつまでも鼓膜に残しておきたいと思うほど甘い響きを伴っていた。
春留はそれ以上は何も言わず、後ろに回した手で那津の頭を優しく撫でた。分かってるよ、那津。お前の気持ちは分かってる―――言葉ではなく、温もりを介したコミュニケーションに、那津の心は切なく震えた。
「先輩……」
那津の囁きを合図に、春留の腕が解かれた。二人はそのまま見つめ合ったが、やがてどちらからともなく顔が近付き―――唇が重なった。
「んっ………ふ、ぅ…………」
最初は少しためらいがちに触れ合わせ、次に唇の柔らかさを楽しむかのように強く押し付ける。そしてゆるゆると唇が開かれると、待ち切れないとばかりに那津の熱い舌が侵入してきた。
春留は背中に腕を回してぎゅっとしがみ付き、徐々に激しさを増す那津の動きに積極的に応える。くちゅくちゅと唾液が絡まる水音に加え、唇の隙間からこぼれる濡れた吐息に否応なく高められた。
舌の裏側をぬるぬると舐め上げられ、春留はたまらず腰を揺らした。するといつの間にか密着していた股間がこすれ、甘痒い電流が四肢を侵蝕していった。
「んっ……ぁ、ぁぁ…………那……津………」
再び春留の口からこぼれた自分の名は、先刻とは異なる艶めかしい響きを孕んでいた。那津は狂おしいまでの愛情に駆り立てられ、春留をその場に押し倒した。そして濡れた唇を、耳や首筋に這わせる。
「ぁっ………や…め……っ……ん、んっ…………」
自分の耳を疑うほど甘ったるい喘ぎが、唇からこぼれてしまう。春留はひくんひくんと腰を浮かせながら、自分の身体がこれほど敏感だったのかと驚きを隠せない。
那津の指先が胸をかすめ、唇が優しく耳を食んだだけで、どうしようもなく昂ぶってしまう。身体を巡る血流が速まり、呼吸が荒く乱れてくる。
「紫堂先輩、俺は………」
いったん身体を起こした那津は、春留を上から見据えた。内心の葛藤を感じさせる苦しげな表情ではあったが、迷いを捨て去るためか小さく首を振り、
「俺は、俺はあなたのことが―――」
その時、どこからともなく激しい音が響いた。那津ははっと息を呑んで辺りを見回す。すると、外から必死にガラスを叩く泰水の姿が目に入った。
その顔は涙に濡れ、那津を探し回ったのか身体は泥はねで汚れきっていた。
「泰水………」
恐らく泰水も、花壇や温室が、いや、那津のことが心配で駆け付けたのだろう。しかし一歩遅く、作業を終えた二人が既に花壇を去った後だったのだ。
「な……つっ………だ、やだぁ…………っ…………」
ガラス越しに、泰水の途切れ途切れの悲鳴が聞こえる。もう、僕を置き去りにしないで、ずっと傍にいて、あの人のところへ行かないで―――
「………行けよ、明神」
「せんぱい……」
「早く行ってやれッ」
厳しい叱責に頬を張られた那津はようやく我に返り、のろのろと起き上がった。そして濡れたシャツを肩に掛けると、一度も振り返ることなく出ていった。
那津が去った後の蒼い静寂。ついさっきまでは心地よかった静けさが、ちくちくと皮膚を刺す。
「………クッ、クククク…………」
春留は横たわったまま肩を震わせた。分かっていたはずだ。那津が誰のものであるのか。
なのに月が演出するこの雰囲気に呑まれ、もしかしたらと期待を抱いてしまった自分の愚かさ、惨めさに笑いが込み上げる。
「………はは、あはははははは…………」
狂った笑いの衝動は暫く収まらず、春留は掠れた声で自分を嗤い続けた。
「…………っくしょい！」
豪快なくしゃみをして鼻をすすり上げる春留を、由宇太は心配そうに見つめた。
「風邪かあ？ 春留。もうすぐ試験なのに」
「ん、ああ。大丈夫だ」
昨夜は結局、濡れた身体を乾かすことなくプールを出てそのまま帰宅した。家に着いた時には身体は冷え切っていたが、心の底はそれ以上に冷たい凍土が覆っていた。
すぐに熱いシャワーを浴びたが、温まったのは皮膚の表面だけだった。もちろん、仕方のないことだと分かってはいたのだが。
「昨日の雨はすごかったなあ。バケツを引っくり返したみたいな、っていう感じ？ いきなり来たもんな」
由宇太ののんびりした声に耳を傾けつつ、梅雨の合間の青空をぼぅっと眺める。
―――あいつら、ちゃんと仲直りできたかな
気を緩めるとすぐに彼らのことを考えてしまう。もう忘れろ、俺には関係ないことだと何度言い聞かせても、意識が勝手にそちらへ流れてしまうのだ。
「梅雨の合間の晴天って貴重だけど、試験前じゃ関係ないもんなあ」
「………でも、花が喜ぶ」
「え？ 春留、何か言った？」
春留は「何でもねえよ」と素っ気なく答えて、またひとつくしゃみをした。
「………なんだ？ これ」
放課後、靴箱を開けると中に一枚のメモが入っていた。春留は不審げに眉根を寄せて取り出し、さっと目を走らせる。
＜お話したいことがあります。放課後、温室に来てください。時間はとらせません。 明神＞
「何の話だよ………」
もう話すことなどないはずだ。今さら、自分に一体何を言おうというのか。それでも春留の足は、真っ直ぐ温室へ向かっていた。
雑木林を抜けて花壇に出ると、昨夜那津と二人で積み上げた土嚢が見えた。花壇の土の流失は何とか免れたようだ。それが分かっただけでもここに来た甲斐があったなと自分に言い聞かせ、春留は温室へ向かった。
那津が雨に打たれながら必死に直していた扉に手を掛けようとしたが、内部で何かが激しく動いているのが目に入った。
春留は扉に掛けた手を戻し、外を回って中を覗いた。そして、そこで繰り広げられている光景を目の当たりにした。
「あ……ああ…………」
那津お気に入りの場所、長椅子の上。いつだったか、傷付いた足の手当てをしてもらったその場所で、那津と泰水が激しく交わっていた。
那津はこちらに背を向けており、その表情は見えない。対して那津の上にまたがった状態で腰を振っている泰水は、恍惚の表情を浮かべていた。
が、外に立ち尽くす春留の存在に気付いたのか、剥き出しの股間を隠そうともせず、勝ち誇った笑みを投げ付けて腰の動きを速めた。
―――これを俺に見せ付けるためにここへ呼んだのか
泰水の策略にまんまと引っかかってしまった自分が間抜けに思えたが、これでよかったんだという思いもあった。
「試験前なんだから、ほどほどにしとけよ」
那津が気付いたら気まずい思いをするだろうと気遣い、春留はくるりと背を向けて足早にその場を去った。
もう二度とここへ来ることはないだろうと、心の中で別れを告げながら。
「んあっ、あ、ああっ、イイ、那津ぅ………イクぅ…………」
春留が去り、勝利を確信した泰水は再び行為に没頭し、そして絶頂を迎えた。達く瞬間にきゅぅっと後ろを窄めると、那津が「うっ」と低く呻いて身じろぎした。
「ああ……那津、那津ぅ……いっぱい、もっといっぱい出してぇ…………」
甘えた催促を繰り返しつつ、自らも吐精を終えた泰水は、満足げに目を細めて那津の身体に抱き付いた。
「んふっ………すごくよかった………那津ぅ………」
そして汗ばんだ首筋へ顔を寄せる。那津は深い息を吐き、黙って泰水の頭を撫でた。
「温室でえっちしてくれたから、昨日のことは許してあげる」
「………ああ」
那津は泰水の身体を持ち上げて抜こうとしたが、泰水は「まだだめっ」と叫んで首にかじり付いた。
「もう少しこうしてるのっ」
「分かったよ、泰水」
泰水は結合部をぬるぬると撫でて、「ふふっ」と嬉しそうに笑う。
「ねえ那津ぅ。夏休み、どこか旅行に行こうよ」
「いや、花の世話があるから―――」
「ええ〜、二泊くらいならいいでしょう？ ねっ？」
「………ああ、分かったよ」
那津は抑揚に乏しい声で了承した。泰水は「那津大好きっ」と叫んで首筋や肩にキスを落とす。そしてゆったり腰を振り始めた。
「ねえ、もう一回………いいでしょう？」
那津はいささか投げやりに頷くと、泰水の腰を支えた。
感情とは関係なくじわじわと湧き上がる生理的な快感に支配されながら、那津は自分の中にぽっかり空いた大きな虚（あな）の存在を感じずにはいられなかった。
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