ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
４.
制服の袖をそっと捲り上げると、手首を掴まれた痕が赤く残っていた。春留は眉をひそめて軽く撫で、再び袖を下ろして隠す。惣領のあの力、表情、尋常じゃなかった。
これまで誰にも靡かず、心を開こうとしなかった春留に、年下の那津がたとえ僅かでも近付くことが許されたのが、よほど悔しかったのだろう。
―――大事なものを傷付けられないように………
「……大事なものなんてねえよ」
頭の中で反響する惣領の声に、ぽつりと言い返す。力ない声だったが、その言葉に嘘はなかった。
傷付けられて困るような大事なものなんて、自分にはない。だからどんな脅迫も、自分には通用しなかった。今も、昔も、これからも。
「あ、やっぱりここか……」
もはや通い慣れた道だった。雑木林を抜けて、温室と花壇のある那津の楽園へ。当の那津は上着を脱ぎ、袖を捲り上げて温室の傍で作業に没頭していた。
「明神！ ずい分熱心だな。何をやってるんだ？」
那津は振り向きざま、嬉しそうににっこり笑って手を振る。
「お前、汗だくじゃねえか。４限もサボってここで働いてたのか？」
「いえ、２限からです」
「おまえ〜〜」
手を伸ばして那津の額をコツンと叩き、
「さっき、お前の担任に捕まって説教されたぜ。ちゃんと授業に出るよう伝えろって。留年したらどうすんだよ」
「大丈夫です。去年も補習授業を組んでもらって進級できましたから」
春留はがっくりと肩を落として、「そういう問題じゃねえだろ」とこぼした。対して那津は鷹揚に笑って、
「でも、先輩に心配してもらえて嬉しいです」
「阿呆。誰がお前の留年なんて心配するか。それよりお前、温室の補修をしてたのか」
温室の細い柱を補強するため、鉄の棒を添えてナイロン製の丈夫な紐で括り付ける。さらに破れかけたビニールシートの補修など、地道な作業をしていたようだ。那津は頷いて、
「この温室、大きい割には柱が細くて強度に欠けるんです。本格的な台風シーズンを迎える前に、補修を終えておかないと」
「なるほど。確かにこの温室、年季入ってるよなあ」
半透明のビニールシートは薄汚れて、ところどころ細かな亀裂が走っている。このくたびれた外観から、内部の豊饒を想像できる者はいないだろう。斯く言う春留だって、最初は余りの落差に驚いたものだ。
「でも、俺が入学した時はもっと酷かったんですよ。ほとんど廃墟でした。この温室も、花壇も」
「それをお前が建て直したのか」
「まあ、そうなりますね」
那津は慈しむように、薄汚れたビニールシートを撫でる。そして再び春留に向き直り、
「もともと園芸部なんてありませんでしたし、俺も部活動なんてやるつもりなかった。まあ花を育てるのは嫌いじゃありませんでしたが、学校に来てまで土をいじろうとは思わなかった。でも、」
一瞬、目を細めて春留の後ろに広がる色とりどりの花壇に目をやる。過去の記憶を透かし見るかのように。
「でも、入学して暫く経った頃、偶然この場所を見つけてしまったんです。廃墟同然の温室と、荒れ放題の花壇を。
花壇では、びっしり生えた雑草の隙間から野生のポピーがちらちら見え隠れしていました。温室に入ると、ほとんど腐りかけたベゴニアやらシクラメンの鉢やらが隅に転がって、苦しそうに喘いでいたのです」
「そうか…。それで放っておけなくなったんだな」
春留の指摘に、那津は恥ずかしそうに微笑みを返し、
「はい。自分だけの力ではどうにもならないと思い、一度は諦めたんです。でも授業中も家にいる時も、草ぼうぼうの花壇や朽ちかけた温室が頭を離れなくて。それで生徒会に直談判して園芸部を復活させ、今に到るというわけです」
那津はさらりとそう言ったが、園芸部を復活させてからここまで蘇らせるまでには、筆舌に尽くせないほどの困難や苦労を経験したに違いない。
花は生き物だから思い通りにいかず、挫折感を味わったこともあるだろう。しかし、そんな重苦しいものを感じさせないほど、那津の笑顔は晴れやかに輝いていた。
「温室や花壇にとって、お前は命の恩人というわけか」
「いや、そんな大仰なことではありません。俺はただ自分の好きなことをさせてもらっているだけで。それに、花は世話した分だけ必ず応えてくれる。寧ろ何の目的もなくだらだらした学校生活を送るところだったのを、花に救ってもらったと思っています。それに―――」
那津はためらいがちに口を噤み、雄弁な眼差しを春留に注いだ。
「ん？ どうした？ 明神」
「あ、いえ………」
―――それに……こうしてあなたと親しくなれた…………
那津は喉の奥のざわめきを抑えて、ふいと下を向く。春留はそっと近付き、
「どうした？ 急に黙り込んで」
「いえ、あの………」
その瞬間、ぐうぅぅ、と那津の腹が豪快に鳴った。春留は「ははっ」と笑って肩を竦め、
「なんだ、お前。腹減ってたのかよ」
「あ、ま、まあ……そうです………」
「昼飯は？ 弁当か？」
那津は力なく首を振り、
「買うの忘れました……。まあよくあることです」
春留は「しょうがねえな」と笑いつつ、さっき買ったばかりのパンを取り出して二つに割った。
「ほら、半分ずつだぞ」
そう言って、カレーコロッケパンの片割れを差し出す。那津はじぃっと見つめて、
「いいんですか……？」
「ああ。あと二つあるから、それも半分やる」
「でも……」
「いいから、さっさと手ぇ洗ってこいっ」
那津は「はいっ」と飛び上がって駆け出し、ホースから水をじゃばじゃば出して手を洗った。春留は「よしよし」と頷いてパンを渡し、自分の分を豪快に頬張った。
「ほほ〜〜、ひさしぶりのひゃれーころっけぱん、ひゃっぱふまいなあ」
膨らんだ頬をもくもく動かしながら、あやしい感想を告げる春留。那津は思わず吹き出した。
「あんだよ？」
「せんぱい……かわいい………」
「うるせ」
春留は口の中のものを呑み込んで、はやばやと２コ目のパンを二つに裂いた。クリーミープリンパンをはむはむしながら、
「なあ、この温室自体を新しく買え換えるのは難しいのか？」
那津は諦めの色濃い笑みを浮かべて首を振る。
「無理でしょうね。何と言っても部員が二人きりの極小クラブですから。その分予算も少ないですし。公認してもらえただけでもありがたいと思わなくては」
「部員の数より、活動内容が重視されるべきだろ。………それよりも、なあ、明神」
那津は受け取ったプリンパンの片割れに口を付けたまま、神妙な口調で自分の名を呼ぶ春留の顔をじっと見下ろした。
「部員の数を増やしたらどうだ？ そうすりゃ予算も上乗せしてもらえるだろうし、人手が増えて作業の効率も上がる。
お前と親しくなりたいっていう不純な動機で入ってくる奴も多いだろうが、こんだけ作業が辛いんだ、いずれ自然に淘汰されると思うぜ。もしかしたら、土いじりの楽しさに目覚める奴だって出てくるかもしれない。最初からその機会を奪っちまうのはもったいなくねえか？」
那津は黙って耳を傾けていたが、やがて視線を外し、自嘲めいた笑みで口許を汚した。
まるで、それができるなら最初からそうしてます、とでも言いたげに。
「明神？」
「あ、いえ……すみません。そうですね、先輩の言うのも尤もだとは思うのですが……本当は―――」
那津の口から続きの言葉が出ることはなかった。ふと唇を閉ざし、一転して輝きの失せた目で春留の後方を見た。
つられて春留も振り向くと、蒼褪めた顔付きで真っ直ぐこちらを見据え、早足で近付いてくる泰水の姿が。
「こんな時間に……何してんだよ、あんた」
感情をコントロールできない情態なのか、それともコントロールを放棄してしまったのか、泰水は怒りと嫉妬に震える声で春留を問い詰める。
「ちょっと寄ってみただけだ。すぐ戻るつもりだったが、こいつが昼飯買い損ねたっつうからさ」
春留はさらりと答え、パンが入った袋を示した。しかし泰水の表情は険しくなるばかり。
その時、泰水が近くのパン屋の袋を２つ提げていることに気付いた。春留は柔らかく笑い、
「お前、友だち想いだな」
そう言って泰水の肩をぽんぽんと叩き、「じゃあな」と短い挨拶を残して去っていった。
春留に肩を叩かれた泰水は強張った表情で、触られた部分をおそるおそる見つめる。那津は慌てて駆け寄り、
「泰水、大丈夫か？」
泰水は口に手を当てて小刻みに頷き、「だいじょうぶ…」と何とか答えた。那津はほっと息をつき、
「とにかく、温室の中で休もう。気分が悪くなったらすぐに言うんだぞ」
「うん……ごめんね、那津」
「何言ってんだ、謝るなよ」
笑顔を見せる那津の胸にかじり付き、泰水はぶつぶつと繰り返す。
「ぜったいに………渡さない…………」
「何か言ったか？ 泰水―――」
「ううん……なんでもない………」
那津に身体を預けつつ温室へ向かう泰水は、心の中で何度も自分に言い聞かせた。あの人は危険だ、排除しなければならない、と。
「お、春留ぅ。今日も手伝いか？ よく続くなあ」
半ば感心、半ば呆れ気味の由宇太にさらりと一瞥を投げて、
「まあ、約束だからな。最後まで全うするよ」
そう言って鞄と上着を持ち、急ぎ足で教室を後にする。二人の関係を嫌らしい目で詮索する者もまだいたが、春留と親しい人間はみな、彼が真剣に庭仕事を手伝っていることを知っていた。
「ほんとヘンな奴。でもまあ、楽しそうだからいいか」
由宇太は誰にともなく呟いて、これまでの冷たい瞳に生き生きとした輝きを宿し始めた友人に、密かな祝福を送った。
珍しく、花壇に那津の姿はなかった。雨もぱらついてきたことだし、今日は温室で作業しているのかなと思いつつ、花壇を迂回して温室の入口から顔を覗かせる。
予想通り二人の背中が見えた。春留が「よお」と気安い挨拶をして中に入ると、二人は一斉に振り向いた。
泰水の威嚇するような険しい眼差しはいつものことだが、何故か那津までもが強張った表情をしている。
「どうした？ 何かあったのか？」
「これ見てよ。どういうつもり？」
泰水が厳しい問いと共に指し示した場所には、肥料がぶちまけられていた。白い粒状の有機肥料や腐葉土などが、広範囲に渡って広がっている。
「これって、昨日あなたが運んだものだよね。バカ力で袋ごと投げ込んだから、破れてこういうことになったんじゃないの？」
確かに泰水の指摘通り、それらは昨日那津と泰水が帰った後、春留が運び込んでおいたものだった。
もちろん袋を投げ込んだ記憶などないし、仮に破れたとしてもこれほど広範囲に散らばるわけがない。作為的にぶちまけられたとしか思えなかった。
「どうするんだよ。雨が降ってきたから花壇の作業もできないし、温室がこの状態じゃ中でも何もできないじゃないか」
刺々しい声を装ってはいるものの、笑いを噛み殺しているのがよく分かる。泰水は分かっているのだ。たとえ春留が反論しても、那津は最終的には自分の味方をしてくれると。
春留は小さく溜め息をついて、ちらと那津の顔を見た。那津は春留の視線から逃れるように目を背け、苦しそうに唇を噛んでいる。
ぎゅっと握り締めた拳は、痛みに耐えるかのように小刻みに震えていた。春留は“しょうがねえな”と口に出さず呟いて、
「悪かった。ここは俺が片付けておくから、お前らは今日は帰れ」
その穏やかな口調に、泰水も那津も驚きを隠せない。当然「俺じゃない」と噛み付いてくるに違いないと思っていた泰水の驚きは特に大きく、ぽかんと口を開けて春留を見据える。が、すぐに顔を歪めて、
「と、当然だよっ！ 明日までにちゃんと綺麗にしとけよっ。那津、帰ろ！」
物言いたげな那津の腕を強引に引っ張って、温室から出ていった。残された春留はイチゴの長靴に履き替えると、「やれやれ」とこぼして肥料の掃除を始めた。
「ったく、あのクソガキ………」
よくもまあ、ここまで派手にぶちまけたものだと思う。けっこうな重労働だったのではなかろうか。そこまでして、春留を追い出したいというわけか。
「……誰も、取ったりしねえよ。バカだな………」
神妙な声で呟いて、黙々と掃除を続ける。全て終えるには相当な時間がかかるだろうなと腹を括った時、かさりと音がして温室の入口が開いた。
「おまえ……どうしたんだ？」
そこから現れた那津は中に入り、ひと言「手伝います」と言って竹箒を手に取った。
「泰水はどうした？」
「送ってきました。ここへ来ることは言ってません」
「そうか……悪いな」
那津は弱々しく首を振り、
「謝らねばならないのは俺の方です。泰水がとんでもないことを……申し訳ありません」
春留は黙ってぽんぽんと肩を叩き、「掃除続けようぜ」と促した。那津は力なく頷き、それから二人ともほとんど言葉を交わすことなく掃除に専念した。地面を綺麗に掃き清め、こぼれた肥料や腐葉土を袋に戻す。
ようやく元通りになった頃にはすでに日は落ち、温室内は弱々しい照明がもたらす薄闇に支配された。
「なんとか終わったな」
清々しい笑みを向ける春留に対し、那津もようやく微笑みを浮かべた。
「あ、お茶を買っておいたんです。飲みますか？」
「おお、サンキュ」
こくこくと喉を鳴らして飲み、「労働の後の茶は旨いな」と笑いながら那津に手渡した。那津は渡されたペットボトルをじっと見て、
「間接キスですね」
「阿呆。そういうこと言うとまた泰水がブチ切れるだろ？」
春留は表情を引き締めて那津を正面から見据え、
「お前が部員を入れようとしないのは、これが理由か」
那津ははっと息を呑んだが、やがて神妙に頷いた。
「そうです。何度か仮入部という形で許可したことがあるのですが、少しでも俺と親しい素振りが見え出すとすぐにこういった嫌がらせをして、追い出そうとするのです」
「そうか……」
「この程度ならまだいいのですが、相手に怪我を負わせたこともあります。ですから、もう誰も入部させないことにしたのです」
春留が思った通りだった。那津は変人、人間嫌いなどではなく、泰水による嫌がらせの犠牲者を出すまいとしていただけだったのだ。
那津はすっと視線を落とし、
「紫堂先輩、もう……ここには来ないでください………」
「明神―――」
「………と、本当なら忠告すべきなのでしょう。先輩の身に危険が及ぶ前に。でも、でも………」
那津は再び春留に切実な眼差しを送り、たったひと言「ここにいてください」と告げた。
春留はゆっくりと近付き、温室の花々も色褪せるような美しい笑みを浮かべた。
「しょうがねえから、いてやるよ」
「先輩っ―――」
那津はペットボトルを投げ捨て、両手で春留の身体を掻き抱いた。春留は驚いたが抵抗はせず、呼吸も許さぬほどの激しい抱擁を受け入れた。
「………鉄拳が飛んでこない」
抱き締めたまま、那津がぽつりと呟く。春留は含み笑いを返して、
「ここで暴れたら、せっかく掃除した温室がめちゃくちゃになっちまう」
「ああ、そうか。そうですね……」
那津はいかにも名残惜しそうに抱擁を解き、
「これからは、温室内にいる時を狙って抱き付きます」
「調子ん乗るなよ。急所に入れりゃ一発ダウンだ」
那津は「参りました」と言って、至極幸せそうに笑った。そして春留の足下に目を落とし、
「あ、イチゴのブーツ、気に入ってくれたみたいですね。よかった」
「アホッ。誰が気に入ってるかよ。靴を汚したくなかったから、仕方なく履いただけだっ」
「でも、あそこに俺の黒い長靴もありましたけど」
「うう……目に付かなかったんだッ」
「つまりイチゴしか目に入らなかったということですね」
じゃれ合いながらも、春留は心の片隅である問いを繰り返していた。
―――なあ明神、お前自身は泰水のことをどう思っているんだ……？
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