ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
３.
「では、そこに今朝届いた苗がありますから、それをひとつずつ分けてこの育苗トレイに植え込んでください」
那津はそう言って、大きな製氷器のようなトレイを差し出した。春留は頷いて、
「この穴に土を入れて苗を植え込めばいいんだな。よし、分かった」
「よろしくお願いします」
春留はまず、那津のやり方をじっと観察して手順を覚えた。そして苗に手に伸ばして、根を千切らないようそおっと株を分ける。那津は微笑んで、
「そんなこわごわやらなくても大丈夫ですよ」
しかし春留は手のひらに乗った小さな苗をじっと見つめ、
「でもよ、こいつは花の赤ん坊みたいなものなんだろ？ やっぱり丁寧に扱わねえと」
優しくつまんでトレイの穴に入れ、上からさらさらと土をかぶせる。
「こんな感じでどうだ？」
「完璧です」
春留は少し得意気に笑って、次の苗を手に取った。ふと見れば、那津はすでに一列分の苗を植え終わっていた。
「お前、早えな」
春留は思わずその手付きに見惚れてしまう。作業が早いのは、苗を粗雑に扱っているからではもちろんない。
那津の繊細な指先には、これまでの経験で培った、力の加減や土の量などの詳細なデータが全て詰まっているに違いない。あっという間に、苗が整然と植え込まれてゆく。
「おおっと、見惚れてる場合じゃねえ」
春留は自分に言い聞かせ、作業を続けた。柔らかな幼苗の感触や、ひんやりした土が心地よい。
「花は好きじゃねえけど、土いじりってのは楽しいもんだな」
浮かれた調子で誰にともなく語りかける春留。那津は同意するように頷くと、作業の手を止めることなく訊ねる。
「そういえば、先輩は何故花が嫌いなのですか？ 何か理由があるのですか？」
「それは………」
春留は口を開けたまま黙り込む。
―――花は……必ず朽ちるから…………
「先輩？」
春留は小さく首を振って那津の方に向き直り、
「花って恥ずかしくねえ？」
「恥ずかしい……ですか？」
「おう。だってよ、花ってのは植物の生殖器なんだぜ。それをまあ、あんなあけっぴろげに見せ付けて。しかも人間はそれを眺めて、匂いを嗅いで、ああキレイだキレイだって―――」
「なっ………お前サイテーッ、超下品っ」
それまで不機嫌そうに黙り込んでいた泰水が、ここぞとばかりに顔を上げて春留を詰る。しかし春留は平然と「事実じゃねえか」と返す。対して那津は、
「ぶっ………くく、くくくく…………」
作業の手を止め、背中を丸めて込み上げる笑いに身体を揺らす。泰水はその背中をばんばん叩き、
「那津ッ、笑ってる場合じゃないだろ！ ちゃんと反論しろよ！」
「いや………でも事実だから」
春留はほら見ろと言わんばかりに肩を竦め、
「花束なんてのも、考えようによっちゃおぞましいよな。女はよく花束もらって喜んでるけど、もし動物の性器を束にして贈ったりしたら―――」
「捕まりますね」
「だろ？」
那津はまだ楽しそうに笑いをくゆらせている。泰水は言葉もないのか、春留に嫌悪の眼差しを送るばかり。
やがて那津は笑いを収め、深慮をにじませた声で、
「でも先輩、人間の認識の方が間違ってるとは思いませんか？」
「というと？」
「本来、生殖器というものは美しく魅力的なものなのです。それを恥ずかしいもの、タブーとして隠そうとするのは人間だけです」
春留は暫し手を止めて考えたが、「お前の言うのも一理あるな」と認めた。
「確かに、アダムとイブも知恵の実を食うまでは隠してなかったもんな」
「その通りです。どうですか？ 花に対する認識が少し変わってきたのでは？」
春留は「う〜〜」とうなったが、ぱっと顔を挙げ、
「やっぱ嫌いだ」
「頑固ですねえ」
しかし、そう言う那津の顔は何故か楽しげだった。その後も二人は手を動かしつつ、雑談に興じたのだった。
「これで全部、だよな？」
「はい。今日中に終えられるとは思っていませんでした。ありがとうございました」
「これだけやると、達成感があるよなあ」
綺麗に植え込まれた苗を眺めながら、春留は感慨込めて呟いた。そして手を洗って荷物を抱えると、
「じゃあな。俺はこれで帰る。暗くなってきたから、お前らも気を付けて帰れよ」
軽く手を上げて温室を出ていった。那津はその後ろ姿をじっと目で追い、そんな那津の横顔を泰水は突き刺すように睨む。
やがて、眼差しを反映した強張った口調で、
「ねえ那津。いつまであの人に手伝わせるの？」
「もちろん、花壇が元通りになるまでだ」
泰水は手を伸ばし、那津の腕にゆるりと絡ませた。
「もういいでしょう？ あのくらい僕たち二人で何とかなるよ。あんな、花が嫌いだなんて平気で言う人に手伝ってもらう必要ないよ」
「でも先輩のお陰で、今日の作業がかなり進んだ。それに、好き嫌いは個人の自由だ。嫌いと言いながらも、苗をとても丁寧に扱ってくれたし、作業にも真剣に取り組んでくれた。花になんか大して興味もないのに、好きな振りをしてる連中よりずっと信じられる」
泰水は絡めた腕に力を込める。所有の意志を託して。そして何とか平静を装い、
「それって、僕のことを言ってるわけ？」
那津はゆっくりと泰水の方を向き、無機質な笑みを向けた。
「まさか。泰水は花が好きだろう？ そうじゃなくて、園芸部に入りたいと押し掛けてきた奴らのことだ。彼らに比べれば、花が嫌いだと豪語する紫堂先輩の方がまだましだということだ」
しかし泰水は疑わしげな表情を崩さず、明神の正面に回って顔を見上げ、
「あの人、綺麗だよね。那津、もしかして好きになった？」
那津は視線を逸らさず、無機質な笑みにさらに磨きをかける。そして「そうだな」といったん肯定し、
「近くにいても邪魔にならないし、頭もそう悪くない。この学校にいる奴らの中では、まあ好きな方かもしれないな」
「ふぅん」
泰水は少し安堵したのか、表情を和らげた。そして甘えた仕草で身体をすり寄せる。
「まあ、好きになっても無駄だもんね。那津は僕のなんだから。でしょう？」
「……ああ」
泰水は「んふっ」とこもった笑いをこぼし、那津の胸に手を伸ばす。そしてシャツのボタンをひとつ、ふたつと外し、露わになった肌に唇を寄せた。
「那津の……匂いがする。大好きな匂い………ふふっ」
泰水はさらに、微かに膨らんだ前を那津の股間にこすり付けた。そうしながら、ちゅっちゅっと音をたてて逞しい胸に吸い付く。
暫く好きなようにさせていた那津だったが、やがてやんわり肩を押し戻して、泰水の身体を引き剥がした。
「やめろ。ここではそういうことはしたくないと言ったはずだ」
泰水はちらと唇を舐めて、
「じゃあ続きは家で。今日は親もいないし。………いいでしょ？ 那津が欲しいの。ねえ………」
「………分かったよ。続きは家で」
「あはっ、嬉しい。早く帰ろぉ」
那津はぎゅっと抱き付いてくる泰水を受け止めながら、きちんと揃えられたイチゴ柄の長靴を見つめ続けた。
紫堂春留と明神那津の仲が急速に深まっているらしい、そんな噂が校内の隅々まで行き渡り、双方のファンからの羨望と嫉妬の眼差しが入り乱れる中、当の本人たちは我関せず、いつも通りの飄々たる態度を崩さず学校生活を送っていた。
特に春留が温室へ入るのを“許可”されたという事実は驚きをもって受け止められ、明神のヤツも所詮人の子か、あの冷たい美貌に惑わされたのかと、あちこちで囁かれた。
しかし実際にはそんな色っぽい事情など微塵もなく、温室へ行っても那津とはほとんど言葉を交わさず作業に専念することもしばしば。
春から夏へ移りゆくこの季節は最も忙しく、株分け、挿し木、植え替え、切り戻し、追肥、害虫駆除と仕事が目白押し。周囲が妄想しているような目眩く艶事などあるはずもない。
なあ春留、明神と温室でナニやってんだよ、などという粘っこい問いに対し、春留は言葉を濁すことなく堂々と「庭仕事だよ」と答えて、相手を呆れさせるのだった。
とはいえ、これまでは他人を寄せ付けることのなかった二人が親しくなったことは事実。それだけでも生徒たちの好奇心を刺激するには十分だったのだ。
「お、紫堂。ちょっと頼まれてくれないか？」
昼休み、購買での戦闘から帰還してきた春留を、教師が呼び止めた。春留が振り向くと、サンダルをぱたぱた鳴らして近付き、
「お前、明神と親しいんだってな。あいつに、ちゃんと授業に出るよう言ってくれないか？ 庭いじりばかりしてるんじゃないと」
「はは。まあ今が一番忙しいというか、手のかかる時期なんですよ」
「おいおい、お前までそういうこと言うなよ。ここは学校だぞ。学問をするところだぞ。このままじゃ、テストでいくらいい点取っても単位はやれん」
春留は苦笑を浮かべつつ「伝えときます」と答え、教師と別れた。
「ったく、しょうがねえな………」
ぶつぶつ言いながらも、思わず笑ってしまう。授業をすっぽかして花の世話。余りに彼らしい。
春留は自分の教室に戻らず、那津の教室の方へぶらぶら歩いていった。そして外からそっと覗く。しかし、彼はいない。
「やっぱり温室か……」
そのままくるりと踵を返し、階段を下りて校舎の外へ出ようとした。その時、
「やあ、春留。もしかして、これから温室かな？」
春留は小さく舌打ちした。この作り込んだ嫌味な声。確かめなくても誰か分かる。
「……んだよ、惣領。俺は急いでるんだ」
そう言って歩みを速めようとしたが、すかさず前に回り込まれてしまい、仕方なく応じる。
「何の用だよ、お忙しい生徒会長様が」
惣領巧巳（そうりょう・たくみ）はククッと喉の奥で笑って、
「僕はもう生徒会長ではないよ。引き継ぎは済ませたからね。前生徒会長だ」
「んなこと言って、どうせお前が裏で動かすんだろ？」
「過大評価してくれるね。でも嬉しいよ。春留にそんな風に言ってもらえて」
惣領は笑顔を貼り付けたままゆっくり近付き、
「温室に入り浸ってるらしいじゃないか。誰にも心を開かない、寄り付く男を冷たい視線で凍えさせる＜氷の女王＞に、一体何が起こったんだ？ 明神はどんな魔法を使った？」
「いい年こいた男が、“魔法”なんて言葉使うんじゃねえよ。気持ち悪ぃ」
「では言い方を変えよう。明神はどんなテクニックを使ったんだ？」
春留はフンと鼻で嗤い、
「相変わらず下衆な男だな」
惣領の脇を通り抜けようとした。しかし手首を掴まれて引き戻される。いつもなら間髪入れず振りほどくところだが、手首を握る力の強さ、そして手のひらの熱さに不穏な激情を感じ、春留は思わず息を呑んだ。
惣領は、ぬらぬらと輝く双眸で春留を見下ろし、
「ああ、僕は下衆な男だ。どうやったら愛しい春留を自分のモノにできるか、思い通りにできるか、そればかり考えている」
「ヒマな奴だな。もっと世のため人のためになることを考えろよ。現役大臣の息子のくせに」
「国民のためだなんて言いながら、権力にしがみ付くことしか考えていない連中よりずっとましだと思わないか？」
これまで幾度となく突き飛ばされた経験がありながら、惣領は臆することなく春留の腰に腕を回して抱き寄せる。
身体の大きさでは惣領には到底敵わず、春留の顔は自然と惣領の首筋へ。シトラスベースの爽やかなフレグランスがふわりと香り、春留の鼻先をくすぐった。
こいつ、香水の趣味だけは悪くねえな。そんな感慨をくゆらせつつも、惣領の胸に自由な方の手を付いて身体を押し戻す。
「何の真似だ」
「何故、明神なんだ。僕ではなく、何故………」
「質問の意味が分からねえ」
しかし惣領は、身内で爆ぜる感情に翻弄され周りが見えないのか、春留の手首をぎゅっと掴んだまま、
「何故……なぜ、明神なんだ………こんなに愛しているのにっ―――」
普段は感情の乱れなど決して見せず、美しく理知的な生徒会長として振る舞っている惣領の顔が、鉛の陰翳を帯びて歪んでゆく。
「春留、春留………君が、僕以外の男のものになるなんて許さない。絶対に許さない」
愛執とも呼び得るほどの熱情が、惣領の手の平から、言葉から呼吸から眼差しから伝わってくる。
しかし春留はそれを平然と受け止め、冷ややかな輝きを宿した双眸で突き返す。瞳に宿った輝きと同じ冷たさを有する声で、
「惣領、自分の感情に酔うな。自分の言葉に酔うな。みっともねえ。愛してるだと？ 生憎だが、俺にはお見通しなんだよ。お前はただ、自分の思い通りにならない人間が身近にいるのが我慢ならないだけだ。
ガキの頃から、全てを自分の意のままに動かしてきて、それが当然だと思っているのだろう。だから俺みたいな存在が許せないんだ」
手首を掴んだ手が一瞬緩んだ。その隙に春留は振りほどき、惣領を突き飛ばしてにやりと笑う。
「お前も、お前の親父さんと同じ人種だ。権力という魔物に取り憑かれ、人を自分の思い通りに動かせることが存在意義だと信じている。でもな、世の中そううまくはいかねえんだよ。分かったか？ お坊ちゃん」
春留は早口で淡々と告げると、くるりと背中を向けた。
「………大事なものを傷付けられないよう、せいぜい気を付けるといい」
底知れぬ闇を孕んだ惣領の声が追い駆けてきたが、春留は振り向くことなくそのまま立ち去った。
BACK TOP NEXT