ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
２２.
教師への事情説明などは全て泰水に任せ、那津は春留の部屋へ向かった。泰水も相当なショックを受けていたが、涙を振り払うように力強く頷いて「こっちのことは心配しないで」と送り出してくれた。
扉の前に立ち、呼吸を整えて呼び鈴を押す。しかし中からは何の反応もなく、那津は迷った挙句合鍵を使って入った。
靴や上着が乱暴に脱ぎ捨ててあったから、帰ってきているのは間違いない。那津は足音を忍ばせて奥へ進み、そして寝室の扉の前に立った。
「先輩、春留先輩……那津です。中に入ってもいいですか？」
すると一拍おいて、中から「帰れ」という強張った答えが返ってきた。先刻の惣領の言葉が頭を掠めたが、敢えて目を逸らして平静を装い、
「少しでいいんです。傍にいることを許してくれませんか？」
しかし春留の答えは変わらなかった。頑なに「帰れ」と繰り返すばかり。那津は迷いつつもドアノブに手を掛けた。
ここを開けて、中に入ることは容易い。しかし、
―――駄目だ。ここの“鍵”はまだもらっていない………
那津はノブから手を離し、「今日は帰ります」と力ない声で答えた。そして後ろ髪引かれる思いで春留の部屋を出ると、とぼとぼと学校へ戻っていった。
その翌日、文化祭二日目も、春留は学校へ来なかった。那津はすぐにでも駆け付けたい気持ちを抑えて荒れた花壇の整理を黙々とこなし、警察の事情聴取も受けた。
犯人に心当たりはあるかと訊かれたが、那津は黙って首を振るに留めた。犯人を突き止めたからって、花壇が蘇るわけでもない。犯人探しなんて虚しいだけだ。
しかしもっと虚しいのは、花壇と温室の整理だった。踏み潰された花を袋に詰め、温室の破れたビニールを剥がし、割れた鉢を集めてゴミの集積場へ黙々と運ぶ。
これまでありったけの愛情を注いで作り上げた那津の楽園は、今やただのゴミに過ぎなかった。
泰水と二人で全ての作業を終え、疲れた身体を引きずって花壇を後にする。お祭り騒ぎの校内、浮かれた客引きの声、明るい笑顔、歓声の中を、那津は肩を落として歩く。
そのまま裏門に向かい、学校を出て真っ直ぐ春留の部屋に向かった。
昨日と同じように、鍵を開けて中に入ったものの、やはり寝室の向こうから聞こえてくるのは頑なな拒絶の言葉だった。
那津はショックを受けながらも、春留のために食事を拵えた。昨日から、まともなものを口にしていないだろうと思ったからだ。
春留の好きなアボカドとツナのサンドイッチを作り、ドアの向こうに「ちゃんと食べてくださいね」と声を掛けて帰っていった。
そして文化祭最終日。やはり春留は休みだった。那津はそのことを確認すると、どこにも寄らずすぐに学校を出た。花壇に寄ったって、もう何もやることはない。片付けは昨日までで全て終わっていた。
いやそれよりも、那津自身、何もない更地の花壇を見るのが辛かった。骨組みだけ残った温室を見るのが苦しかった。
もしかしたら、もう二度とあの場所へ赴くことはないのかもしれない。そんなぼんやりとした確信を抱きながら、那津は花壇の方角を避けるため迂回して裏門へ向かった。
二度あることは三度あるのか、それとも三度目の正直になるか。ともかく春留が会ってくれるという確信の持てないまま、那津は再び寝室の扉に対峙した。
唯一の救いは、昨日作っておいたサンドイッチがなくなっていることだった。もしそのまま干乾びて置いてあったら、悲しくて遣り切れなくて泣き出してしまったかもしれない。
「先輩、那津です。あの……中に入れてはもらえませんか？」
これまでは、間をおかず「帰れ」と返ってきた。しかし今、扉の向こうで動く気配がした。
那津は望みを抱いたが、扉が開けられることはなかった。それでも昨日までに比べれば幾分柔らかな声が、扉の向こうから届いてきた。
「那津……また来てくれたのか」
「もちろんです。当然でしょう？」
「お前の作ってくれたサンドイッチ、すごく旨かった」
那津は扉に向かって笑いかけ、
「愛情がたっぷり入ってますからね。不味いなんて言わせませんよ」
春留は「そうだな……」と独白するように呟き、
「お前は、俺の感情を無視してここへ無理やり入ってくることはしなかった。ありがとう、那津」
「いえ……ここの鍵はまだもらってませんから。でも正直、ここで踏みとどまるのはかなり辛かったです」
那津の素直な告白に、春留は「そうか…」と神妙に返した。そして、
「まだ、お前に謝ってもいなかったな。自分の感情ばかりを優先させちまって。済まなかった」
「先輩が謝罪する理由などないですよ。それよりも、そろそろここを開けてもらえませんか？ あなたの…顔が見たい。身体に触れたい」
「それはできない。お前に……合わせる顔がねえ」
惣領の予言めいた言葉が、再び那津の頭を掠めた。
「何を……言ってるんですか。俺はっ―――」
「ごめんな、那津。本当にごめん。お前の大事なものをめちゃくちゃに傷付けてしまった。取り返しのつかないことを……。そんな俺が、今さらどんな顔してお前の傍にいれる？ もう……これで終わりにしよう」
「せんぱい………」
この扉を、ここを開ければ済むことだ。そして中に飛び込み、有無を言わせず抱き締める。
殴られてもいい、怒鳴られてもいい。そうすることで、自分にとって一番大事なものが何であるのか伝えることができるはずだ。
那津は震える手でドアノブを握り、ゆっくりと回した。が、カチャリと音がする寸前に再び春留の声が聞こえた。
「俺は、花が恐かった」
意外な言葉に胸を打たれ、那津は回しかけたノブを戻して手を放した。そして、春留の言葉に耳を傾ける。
「初めてお前に会った時、俺は花が嫌いだと言った。あれは嘘だ。精確には、花が恐かった。美しく咲いているのはほんの短い間だけ。花はいずれ枯れて醜く朽ちてゆく。それを俺は、嫌というほどよく知っていたから」
春留はいったん言葉を切り、再び何の前置きもなく淡々と話し始めた。
「俺の母親は花が大好きで、家の庭は彼女が丹精込めて育てた花々で埋め尽くされた。お前の花壇に比べりゃ箱庭みたいなもんだけど、でも春になれば色とりどりの花が競い合うように咲き乱れた。一年中ずっと春だったらいいのに、そんな子供みたいなことをよく言ってたな」
「そんなお母さんの願いは、先輩の名前で叶えられたのですね」
那津は、自分でも驚くほど穏やかな声で言葉を挟んだ。春留もまた、「ああ」と柔らかな相槌を返し、
「春がずっと留まっているように。彼女はよくこう言って俺の頭を撫でた。大好きな春、暖かく命を育む春がずっとあなたの中にありますように、と」
那津はその情景を思い描く。春留によく似た美しい女性が、花に溢れた小さな庭でまだ幼い春留を抱き、愛情に潤う眼差しを注いで優しく頭を撫でる。母の腕の中で小さな春留はにこにこ笑い、頬をすり寄せて甘える。
それは余りに美しく、余りに切ない幼き日の思い出。那津は胸の軋みを抑えることができなかった。
「けれど母親は俺を置いて出て行った。季節はまさに春。ママはちょっと買い物に行ってくるから、春留はいい子でお留守番しててね。そう言って家を出て、そして二度と戻ってこなかった。俺は彼女の大好きな春の中に独り、置き去りにされた」
春留は淡々と言葉を続ける。感情を抑えようとする必死の努力が扉越しに伝わって、那津の胸をさらに苦しめた。
「彼女が出て行くと、その不在を察したのか花は次々と枯れていった。俺は何とかして食い止めようとした。水遣りはもちろん、園芸店へ行って店員に教えを乞い、言われるがまま薬やら肥料やらを買い込んで花に与えた。
けれど庭の腐敗は止まるどころかさらに加速した。花は枯れ、蕾は落ち、草は萎れ、根は腐る。庭は生ゴミが腐ったような臭いが充満して、窓も開けられなくなった。
何が間違っていたのか分からない。いや、全てが間違っていたんだと思う。母親が出て行った時点で、庭はすでに死んでいたんだ。死んだものに栄養を与えたってどうにもならない。
俺は幼いながらもそれに気付いてはいたが、認めたくなかったんだろう。あの庭がなくなってしまったら、母親との繋がりが全て絶たれてしまう気がして」
苦い思い出を語り続ける舌を労わるように、春留はいったん口を閉ざした。やがて深い息と共に再び口を開き、
「それに、庭の崩壊と家の中の崩壊は見事に連動していた。庭が朽ちるにつれて、親父の暴力もエスカレートし、家の中はめちゃくちゃになっていった。だから庭の崩壊を止めることで、家の中もまともになるんじゃないかって思ったんだ。何の根拠もない、都合のいい子供の論理だけど、俺は俺なりに必死だった。
でも俺はある時気付いた。朽ちた花は蘇らない、腐った土は戻らない。母さんはもう……帰ってはこない、と。でも、」
春留の声が少しずつだが変化していた。これまで何とか保っていた危ういバランスが崩れ、不穏な熱を孕んでゆく。
「でも、お前と、お前の楽園と出遭ったことで俺の考えに変化が生まれた。俺の不注意でぐしゃぐしゃに踏み潰してしまった花壇を、お前は見事に蘇生させた。俺が……どれだけ嬉しかったか分かるか？ 一度潰されてしまった花を諦めることなく、丁寧に植え替えて世話をし、蘇らせた。お前の花へ注ぐ愛情が、断ち切られかけた命を救ったんだ。なのにっ―――」
扉の向こうで春留は泣いていた。いつ如何なる苦境に立たされても決して涙を見せず、悲しみに溺れぬよう自分を厳しく律してした春留が、子供のように泣きじゃくっているのだ。
そして涙の奥から言葉を搾り出す。自分を責める言葉の刃を。
「なのに俺の、俺のせいで全てが死んでしまった！ お前の大事なもの、何もかも全てが失われてしまった……。もう……戻らない………」
「全てじゃない！ 先輩、俺はあなたをッ―――」
那津はたまらず叫んで、ドアノブに手を掛けた。が、春留の「来るな！」という悲壮な制止を浴びて立ち尽くす。
本当は分かっていた。大事なものはあなたです、あなたを愛しています、だから全てを忘れて俺の腕の中に戻ってくればいい―――そんな言葉など、今の春留には何の意味もなさないと。ただ、虚しい響きをもたらすだけ。
那津は砂を噛むような苦い無力感に苛まれ、扉に切実な眼差しを注ぐことしかできなかった。
「那津……ごめんな。今までありがとう……」
「せん…ぱい………」
春留との間を隔てる扉が、白く霞んで揺らめく。それはもはや扉ではなく、乗り越え難い壁になってしまった。もう、ドアノブも見えない。涙で見えない。
「さよなら、明神」
ああ、また“明神”に戻ってしまったのか―――そんな痛い想いを抱えたまま、那津は気付けば春留の部屋を出ていた。そして行く当てもないまま外を彷徨い歩く。
これまで春留と築いた思い出の残影が次々と頭を掠め、那津を容赦なく苦しめた。が、やがてそこから一つの決意が生まれるのに、そう時間はかからなかった。
那津はぴたりと立ち止まり、自分に強く言い聞かせた。
―――今こそ、本物の強さを見せる時だ
出口のない暗闇の中で、微かな光が見えた瞬間だった。
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