ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
１５.
「いっくぞぉ、那津っ！」
「どうぞ………って、わわわわっ、どこに掛けてんですかっ。俺じゃなくて花ですよっ」
「あはは、悪い悪い」
素直に謝罪しつつも、那津の方にホースを向ける。先端から勢いよく放出される水はシャワーのように細かい粒となって、那津の上に降り注いだ。
那津はぶるっと頭を振るって水を払うと、お返しとばかりに春留目がけて水を放つ。
「やり返してんじゃねえよっ。お前はガキか！」
「目には目を、の精神ですよ。先輩こそ水でこんなにはしゃいで、まるで幼稚園児ですよ。ビニールプール用意しましょうかぁ？」
「うるせっ。俺は水遣りの手伝いに来たんだ！ さあ、仕事仕事」
春留はそう言ってくるりと背中を向け、鼻歌混じりで花壇にしゃわしゃわと水を掛けた。那津も苦笑しつつ、同じように水を掛ける。
晩夏の太陽も地平線の彼方に沈みつつある黄昏の入口。二人が放つ水の恵みは灼けた大地を潤し、その熱気を静めてゆく。
花も草も気持ちよさそうに人工の雨を受けて、束の間の休息にほっと憩う。明日になればまた、灼熱の洗礼が待っているのだ。
春留は隅から隅まで丁寧に水を掛けながら、時折深く息を吸い込んだ。湿気を含んだ土の匂いと、濡れた夏草の匂い。
花壇全体が、いや、この大地が深呼吸しているのが分かる。今自分は、大地の呼気に包まれているのだ。
「先輩、ありがとうございました。今日はこれで十分です」
「あ、ああ……そうか。お疲れさん」
掴んでいたホースを那津に渡し、春留はぶらぶらと花壇を散策する。黄昏時の花壇は群青の浅瀬に沈んで、神秘の揺蕩いを湛えていた。
「あ、あれは……」
春留の視線の先に、周囲から抜きん出て背の高い一画が。向日葵だった。春留は歩みを速めて近付く。太陽は沈んでしまっても、その残影を追いかけるかのように空へ向かって伸びていた。
「やっぱり……きれいだ………」
惣領たちに犯された後、救いを求めるように花壇を訪れた。そしてこの凛と咲く向日葵に那津の面影を重ねた。つい二日前のことなのに、もうずい分昔のことのように思える。
「夏の花……那津の花………」
春留は吸い寄せられるように背伸びをして、黄色い花弁にそっと口付けた。
「妬けますね」
「どわっ」
慌てて振り向くと、微妙な笑みを浮かべた那津が立っていた。確かに笑ってはいるが、どうやら怒ってもいるようだ。
しかし、花にキスなんて乙女チックな振る舞いを見られてしまった春留はそれどころではなく、恥ずかしさを隠すため尖った声で「こっそり近付くんじゃねえよ！」と怒鳴る。
いつもなら「すみませんっ」と飛び上がって謝る那津だったが、今回は黙って近付き、
「これは、俺だけのものです」
強張った声でそう言うと、春留の顎に手を添えてくいっと上を向かせた。湿り気を帯びた黄昏に濡れてしっとり潤った唇が、誘うようにわななく。そこからこぼれる言葉は、内心の困惑を反映して掠れていた。
「なん…だよ。怒ってんじゃねえよ……」
「怒ってるんじゃありません。嫉妬してるんです」
「嫉妬って……相手は花だぞ。それもお前の―――」
那津は少し乱暴に腰を抱き寄せ、顔を近付けた。そしてにやりと笑い、
「花は植物の性器なんですよ？」
「おまえ〜〜」
春留は赤い顔で睨み付けたが、ふいと横を向いて那津に抱き付き、
「今度、お前のにもしてやるよ。それならいいだろ？」
那津はごくんと喉を鳴らし、震える声で「嬉しいです…」と答えた。そして春留の背中に腕を回して力を込め、
「想像しただけで勃ちそうです」
「阿呆。今はしまっとけ。そうでなくても、お前のは無駄にデカイんだから」
那津はククッとこもった笑いを漏らし、「色気のない会話ですね」と楽しそうに指摘する。春留も同意するように笑ったが、そっと顔を上げて熱い眼差しを向け、
「なら、色気のあることするか？」
那津は幸せを噛み締めるように頷いて、顔を近付けた。春留も僅かに顔を傾けて、那津を受け入れる。二人の唇は蕩けるようにぴったり重なって、互いの温もりや質感を伝え合う。
やがてどちらからともなく舌が挿し込まれ、表面をこすり合わせてはそこから生じる緩い電流に四肢を震わせた。
「んぁ……ァ……ン………な…つ………」
那津の舌は次第にその本性を現し、春留の口腔を貪る。喉の奥まで犯すかのような深いキスに、春留は悦びと戦慄を覚えてしがみ付いた。
その時―――
「ぃ…ゃぁぁぁぁッ…………」
魂の底から搾り出すような、切実な叫び。深い口付けに溺れていた春留と那津は、我に返って声のした方を見た。
そこには、眼窩からこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開き、悲鳴の形に開けた口をわなわなと震わせた泰水が呆然と立っていた。
「や、泰水―――」
「ぅぁぁぁぁぁぁーーーーッ」
泰水は人のものとは思えぬ本能からの絶叫をまき散らし、くるりと背中を向けて雑木林の中に飛び込んだ。
「泰水っ！」
那津はすぐさまその後を追い、春留も続いて追い駆けた。しかし雑木林を抜けたところで見失い、二人は息を切らせて互いの顔を見つめ合う。
「くそっ、見失ったか……」
「はい…。あいつは運動苦手のくせに、昔から足だけは速いんです」
気まずさが拭えず、そのまま二人とも俯いてしまう。最も恐れていたこと、最悪の展開という言葉が頭を掠める。しかし那津は意を決して顔を上げ、
「ともかく、あいつの行きそうなところを探してみます。見つけたら何とか落ち着かせて、そして時間を掛けて納得してもらうつもりです。心配しないでください」
春留は暫し黙って考えていたが、
「俺も…探すの手伝うぞ。見つかった後は、お前らの邪魔しないよう消えるから。今回のことは、俺にも責任がある。つい浮かれて、泰水のことを忘れてしまっていた。済まない……」
先輩は悪くなんかありません、そんな言葉が口から出かかったが、那津は意識的に呑み込んだ。春留はそんな温い宥めを必要とはしていないだろう。
だから黙って頷き、「さあ、行きましょう」と促した。春留も力強く頷きを返し、二人は泰水を探すべく走り出したのだった。
「どうだった？」
「やはり、家には帰っていませんでした。家族の話によると、旅行から帰ると荷物を置いて、すぐ俺の家に向かったとか」
「そうか…。なのにお前は家にいないどころか、旅行先からも戻っていなかった。真っ直ぐ俺の部屋に来たからな。泰水はさぞ驚いただろう」
那津は苦しげに頷いた。確かに春留の言う通りだ。驚いた泰水が、自分を探すため花壇を訪れるであろうとは、容易に予測できたはずだ。
なのにあんな不用意な行為をしてしまい、結果泰水にこれ以上ないほどの衝撃を与えてしまった。
「先輩……学校内には……」
「ああ。校舎内はもちろん、敷地内も探したが見つからなかった。夏休み中だから、立ち入り禁止のところも多い。学校にいるとは思えねえな」
「そうですか……」
すでに日は落ち、夏独特の臭気をまとった暗闇が支配していた。那津はぎゅっと拳を握り締め、湧き上がる自責の念に耐える。
それは春留も同じだったが、今はそういった感情に引きずられている時ではないと切り捨てた。
「おい那津。どこか、泰水の行きそうな所に心当たりはねえのか」
「そんな……喫茶店とか本屋とか、キリがないです」
「そうじゃねえ。こういう時に、あいつが行きそうな場所だよ。これまでも何度かあったんじゃないのか？ ケンカして、泰水が怒って―――」
その言葉に弾かれるように、那津ははっと顔を上げた。
「心当たり、あるんだな？」
「は、はい……いえ、確信はないし、これまでも一度しか行ったことがない場所なのですが……」
「ともかく行ってみよう。そこにいなかったら、また別の場所を探せばいい」
「そう…ですね。でも……まさか………」
まだ逡巡している那津の手を引いて、春留は強く促した。
「行くぞ」
那津はゆらゆらと頷いたが、その表情は憔悴しきっていた。目的の場所に急ぎつつも、「まさかあそこに……」とぶつぶつ呟いている。春留はその背中に問いをぶつけた。
「お前が行こうとしているのは、どんな場所なんだ？」
「＜祈願の崖＞です」
「きがん……？」
那津は荒い呼吸の奥から、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「小さな神社の裏手にある崖の途中に祠があって、そこに願を掛けると願いが叶うという噂が、俺たちのいた中学の間で流行っていました。
ただ、そこに下りるまでは足場も脆く、非常に危険な場所で、チャレンジしたうちの何人かは大怪我を負ってしまったとか。学校でも禁止されていたのですが……」
「泰水は、その祠に願掛けしようとしていると？」
横に並んで問いを重ねる春留に、那津は前方を睨んだまま小さく頷く。
「数年前、まだ中学生の頃ですが、一度祠へ行こうとした泰水を止めたことがあります。下らない噂だ、だいいち危険だし、頼むからやめてくれと。
その時は渋々ながら聞き入れてくれましたが、最後にこう言いました。もし那津が僕を裏切るようなことをしたら、その時は何があっても崖を下りて、那津が戻ってきてくれるよう願掛けをするんだ、って」
暗闇の中、急な崖を必死の形相で下りてゆく泰水の姿が脳裡に浮かび、春留は思わず戦慄した。愛情を超えた執着はひたすら物悲しく、胸を締め付ける。
「急ごう、那津。何故だか分からねえが、泰水はそこにいるような気がする」
“苦しい時の神頼み”などと言うと些か暢気に聞こえるが、縋るべきもののなくなった人間が最後に行き着くのは、そういった不可知の存在なのかもしれない。
春留自身はそういった他力本願の考えには賛同しないが、そちらへよろめいてしまう人間の心情は理解できた。
「先輩、あの神社です。拝殿の裏が、崖になっています」
「よし、行くぞ」
朱色の鳥居をくぐって、急な階段を駆け上がる。荒れた呼吸を落ち着かせる間もなく、二人は拝殿の裏に回った。
那津の言葉を裏付けるように、侵入を防ぐ柵が築かれ、＜立ち入り禁止＞の看板が立っていた。そしてその向こうには―――
「泰水！ 危ないからやめろッ。戻ってこい！」
いかにも腰が引けた様子で、それでも悲壮な意志が漲った表情の泰水が、そろそろと崖下に足を伸ばしていた。が、突然声を掛けられて驚いたのか、びくっと身じろぎした瞬間足を滑らせた。
「きゃああああッ」
「泰水ッ！」
那津は駆け寄って柵を飛び越えようとしたが、「こないでッ」という泰水の鋭い制止に遭って、成す術なく立ち尽くした。
足を滑らせた泰水はその場に尻餅をついたが、何とか落ちずに留まることができたようだ。
だからと言って、状況が好転したわけではない。泰水は座り込んだまま崖の端に掴まり、足を伸ばして下りられる場所を探っている。
外灯などもちろんなく、月明かりのお陰で真っ暗ではないものの視界は著しく悪い。こんな時間に崖を下るなんて、怪我をしに行くようなものだ。
那津は泰水を刺激しないよう、努めて冷静に話しかけた。
「泰水、頼むから無茶な真似はやめてくれ。こっちへ戻って、そして一緒に家に帰ろう。な？」
泰水は崖に掴まったまま、顔を歪めて笑った。
「一緒に家に帰って、それで、僕にこう言うんでしょ？ “俺は紫堂先輩が好きだ。だからお前との付き合いは終わりにしたい。もううんざりだ”って」
「泰水、俺は―――」
「どうしてッ？ 僕の方がその人より何百倍、何千倍も那津のこと好きなのに！ どうして、どうして僕じゃダメなのッ？」
泰水の問いに答えようと、那津は柵に手を付いて身を乗り出す。しかしその口からは何の答えも出てこない。
泰水は涙と汗でぐしゃぐしゃの顔を向けて、切実な問いを繰り返した。
「僕が汚いから？ 見知らぬ男たちに犯されて、ドロドロに汚れた僕みたいな子はやっぱり嫌い？ 那津の大好きな花みたいに、綺麗で無垢な人じゃなくちゃ……愛して……もらえないの……？」
那津はぎりぎりと柵を握り締め、項垂れたまま何度も首を振る。
「違う……泰水、そんなんじゃ……ない…………」
「僕ぅ……がんばるから……那津の言うことなんでもきくし、花の世話も一生懸命やるし……がんばって、あの人みたいに綺麗になるから……だから、だからっ―――」
泰水は崖に掴まっている片手を離し、那津に向かって縋るように差し伸べた。
「お願いッ、捨てないでぇぇ…………」
「泰水ぃっ………」
那津は柵を飛び越えて迷わず駆け寄り、差し出された手を掴んだ。そしてもう片方の腕もしっかり掴み、ゆっくりと引き上げる。
「那津ぅ、ごめ……ごめんね………」
「いいんだ、泰水。いいんだよ。無事でよかった………」
そのまま二人は、隙間もないほど固く抱き合った。やがて那津は泰水を抱いたまま、ゆっくりと顔を上げて春留を見た。
その表情は驚くほどやつれて、落ち窪んだ眼窩の奥で深い諦念が揺らめくのがはっきり分かった。
その瞬間、春留は自分が“捨てられた”ことを覚った。ゆっくりと二人に近付き、自分でも意外なほど穏やかな声で、
「明神、ちゃんと泰水を幸せにしてやるんだぞ」
「は、はい……」
那津もまた、その瞬間に全てが終わったことを覚った。もう二度と春留は、自分のことを“那津”と呼んではくれないだろう。
泰水は那津の胸に顔をうずめたまま、苦い勝利を噛み締めた。今交わした僅かな言葉だけで、二人がまだ互いを強く想い合っていることが分かった。
しかし、どんなに苦くても勝利は勝利だと自分に言い聞かせて、那津の温もりに逃げ込んだ。
「さあ、泰水。帰ろう……」
二人は固く抱き合ったまま、春留の前を通り過ぎていった。二人の気配が完全に消えてしまっても、春留はまだその場に留まっていた。やがて何を思ったか、真っ直ぐ崖に向かって歩き出す。
柵を越えて、泰水が下りようとした崖を上から見下ろした。そこにあるのは、眩暈がするような黒き深淵。ここを泰水は、一人で下りようとしたのだ。
「祈願の崖、か……」
春留はぽつりと呟くと、そっと目を閉じた。
―――俺なら、何を祈願する……？
そんな問いに自ら首を振り、崖に背を向けてその場を後にした。
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