ハルとナツの奏鳴曲
―Sonata for HARU and NATSU―
１４.
―――んっ……苦…しい……なんだ、この息苦しさは。しかも……身体が動かねえ……
眉根を寄せて、身体をもぞもぞ動かす。するとその動きを封じるかのように、四肢をぎゅっと押さえ付けられた。
―――これは……寝技だな。くそぉ、この俺相手にいい度胸してんじゃねえか。外して投げ飛ばしてやるっ………
「ぅ……ぅぉぉぉぉぉ……………ってぇい！」
「どわっ」
さっきまでは腕の中で愛らしい寝顔を見せていた春留が、いきなり不穏な唸り声を上げつつ暴れ出した。どうやら那津の肩を掴んで、投げ飛ばそうとしているらしい。
「せっ、先輩！ 参りました。降参です」
「………あんだとぉ〜〜〜？」
まだ投げられてもいないのにだらしねえ奴だっ、そう叫ぼうとした瞬間、春留はぱち、と目を開けた。視界には、眩いばかりの朝日を背景に、困惑げに微笑む那津の顔が。
「那…津……？ あ、あれ……？」
那津は鼻の頭を掻いて照れ臭そうに笑い、
「お早うございます。朝から元気ですね。安心しました」
「い、いや……その………」
「元気なのはいいのですが、朝から投げ飛ばされるのはカンベンです」
春留は面目ないと言わんばかりに俯いたが、すぐにぱっと顔を上げ、
「お前が締め技を掛けるからだっ。だからつい癖で―――」
春留らしい弁解の言葉は、那津の温かな抱擁によって遮られた。
「すみません。腕の中で眠るあなたが余りに無邪気で愛らしかったので、つい抱き締める腕に力が入りすぎてしまいました」
腕の中の春留は、途端に紅く色付く。
「な、なんだよ。ワケわかんねえこと言ってんじゃねえよ………」
那津はクス、と笑ってもう一度「お早うございます、先輩」と囁くように言った。春留も触れ合う素肌の心地よさを噛み締めながら、「おはよう、那津」と柔らかな声で返した。
那津はそっと抱擁を解いて上から覗き込み、
「先輩、身体は大丈夫ですか？ 昨夜はその……少し無理をさせてしまったというか……」
春留はさらに頬を赤らめつつも、無愛想な口調を装って、
「べ、べつにあのくらいじゃびくともしねえよ。言っただろ？ 見かけは女みたいだけど、体力には自信あるって」
「そうですか、それなら安心しました。その調子ならまだまだイケそうですね。俺もあんなもんじゃないんで。次回は楽しみにしててくださいね」
爽やかな口調でさらりと恐ろしいことを言う那津。さすがの春留も少し蒼褪めた。
「ちょっ……待てよっ。確かに体力には自信あるけど………」
「けど、何ですか？」
「お前は絶倫かっ。お、お前のアレ………」
もごもごと口ごもる春留ににっこり笑いかけて、
「無駄にデカイ、ですよね？」
「うう………なに得意気に言ってんだよっ。そんなに自慢すんじゃねえよ。どうせ俺のはお前に比べりゃガキ同然―――」
「大丈夫。先輩のもちゃんとムケて―――」
「アホっ、死ね！」
魂ごと蕩けるような愛の交わりに没頭した翌朝にしては、些か色気に欠けるものの、ベッドの上でじゃれ合う二人は仲睦まじい恋人同士そのもので、その表情は溢れんばかりの幸せで輝いていた。
「お待たせしました。冷蔵庫の余り物で作ったものばかりですが」
「おお〜〜、旨そう。お前、やるなあ」
大きなトレイの上に並べられた遅い朝食を、春留は子供のように目を輝かせて見詰めた。と同時にタイミングよく、腹がぐぅ〜〜と鳴る。
那津は優しく目を細めて微笑み、サラダの上の温泉卵をスプーンで割る。黄身がとろりと流れてドレッシングと混ざると、再び春留の腹が鳴った。
「正直なお腹ですね」
「うるせ。どうでもいいから早く食わせろ〜〜」
「はいはい」
均等に混ぜ合わせたサラダを小皿に盛り付けて差し出す。さらに冷蔵庫の余り野菜を細かく切って入れたミネストローネスープ、プレーンオムレツ、ボイルしたウインナー、クロワッサンが乗ったプレートを膝の上に乗せ、ベッドに並んで座った状態で遅い朝食を楽しんだ。
「先輩、ちゃんと自炊してるんですね。冷蔵庫も調味料も充実してました」
春留はもぐもぐと忙しく口を動かしながら頷く。
「おう。ガキの頃からやってっから。人間、必要に迫られればできないことはない」
那津は少し考えて、慎重に口を開く。
「お母さんは、仕事を持っていたのですね。だから先輩が―――」
「違う。母親は出ていった。だから俺がやるしかなかった」
那津はこくんと喉を鳴らし、努めて平静な声で「そうですか」と相槌を打つにとどめた。対して春留は、何事もなかったかのように食事を続けている。
しかし俯き加減で髪が顔に掛かっているため、その表情を窺い知ることはできなかった。そんな微妙な空気の中、食事は淡々と進んだが、
「なんだぁ？ お前。ウインナー残してんじゃねえか。俺がもらうぞ」
フォークを持った手がぬっと突き出され、那津の皿に乗ったウインナーにぶすりと突き刺さる。那津は「あッ」と声を上げ、
「残したんじゃありません、取っておいたんです！」
「もしかして、好きなものは最後まで残しておくタイプか？」
「先輩は、好きなものは最初に平らげるタイプでしょうね、きっと」
「おう、その通り。つうか、ウインナーが好物ってお前、小学生かよ。そういや、弁当にタコさんウインナー入ってねえと機嫌悪くなる奴っていたよなあ」
そう言いながら、フォークに刺さったウインナーを那津の口許へ。那津は素直に口を開けてぱくん、とかぶりつく。春留はにやりと笑い、
「おお、餌付け成功」
しかし那津はそれ以上に不敵な笑みを拵え、
「もうとっくに餌付けされてますよ。昨夜は美味しいミルクを飲ませてもらいましたから」
春留はフォークを握ったまま、真っ赤な顔でわなわなと震える。
「てめえ………思い出させんじゃねえよ…………」
殺気を感じた那津はトレーを持ってあたふたと立ち上がり、後片付けを始めたのだった。
「お、そうだ。野菜室にサクランボが入ってるから食おうぜ」
春留の言葉に従い野菜室を開けると、艶やかな赤い実の詰まったパックが。那津はそれを取り出して中身をざっと洗い、皿に盛って春留の許へ。再びベッドの上に身体を寄せ合って座り、自然な仕草で春留の腰に腕を回した。
決して自分のものにはならないと思っていた温もりをこんな風に独り占めできて、春留は嬉しいような切ないような複雑な感慨に囚われる。
しかし何とか平静を装い、ひと房つまみ上げて那津の口許へ近付けた。那津は「いただきます」と礼儀正しい挨拶をしてから、そっと唇を付けた。
「どうだ？ 甘いか？」
「はい、甘くてみずみずしいです。誰かの唇みたいに」
「お前はひと言多いって、何度言えば分かるのか……」
春留はわざとらしく溜め息をつき、自分も食べようと手を伸ばした。しかし那津に止められ、「何だよ」と睨み返す。
「ほら、こうやって二つの実が繋がってるのがあるでしょう？ 恋人同士がこれを一つずつ食べると、ずっと一緒にいられるというジンクスがあるんですよ」
春留は思いっ切りしかめっ面を拵えて二つの実をひったくり、まとめて口の中に放り込んだ。那津は「ああっ」と悲愴な声を上げ、
「ジンクスが……」
「阿呆。いい男がジンクスだのおまじないだの言ってんじゃねえよ。一緒にいたいなら、てめえで努力しろってんだ」
「分かってます。ちゃんと努力しながらも、つい神頼みもしてしまう切ない男心、先輩には理解できないのかなあ」
那津は弁解がましくそう言うと、「せめて種だけでもっ」と叫んで春留の唇を強引に塞いだ。
驚いて半開きになった唇を割って舌がぬるりと侵入し、口内にあったサクランボの種をひとつ器用に絡め取る。那津は口を離してにっこり笑い、種の乗った舌を出して親指を突き上げた。
「お前はぁぁ〜〜〜」
「なかなかの舌使いでしょう？ さ、先輩。今度こそ」
再び二つ繋がっている実をつまんで、春留に笑いかける。しかし、
「い、や、だ。勝手に一人で食ってろ」
きっぱりあっさり拒絶されて、どよ〜んと落ち込む那津。こいつ、こういうキャラだったのか…と微妙な感慨に耽りつつ、春留はしょうがねえなと独りごちた。サクランボの柄を取って実を唇に挟み、
「おら、なつ」
ほんのり頬を染めて那津の方へ突き出す。那津は大きく瞬きしてから嬉しそうに口許を緩め、
「いただきます」
唇に吸い付いてサクランボを舌で奪い、二、三度咀嚼してから春留の口へ戻す。
「んっ……ふ………」
甘酸っぱい果汁と唾液が混ざった極上の甘露が、二人の口内を行き来する。
「もっと……たべたい………」
春留の甘えた催促に応え、那津は果実を含んだ唇を押し付ける。
「ふぅ……ぅ…ン………ん、んっ…………」
小さな実はあっという間になくなったが、新しいサクランボを加えようとはしなかった。互いの舌を味わうことに熱中し始めた二人は、いつの間にか身体をぴったり密着させ、クチュクチュ音をたてて濃密な口付けを繰り返す。
ようやく離れた唇は、唾液の糸でしっかり繋がっていた。那津が唇をちょっと触れ合わせてそれを吸い取ると、春留は濡れて艶めく光沢を帯びた唇を震わせて「あふぅ…ン」と鳴いた。
焦点の合わぬ瞳は懶惰な色気を醸し、那津の獣欲をじわじわと揺さぶる。那津は少し怒ったような声で、
「そんな……顔しないでください。堪らないです……」
「何……言ってんだよ、おまえ……」
那津が言っていることがよく分からず、首を傾げて問い返す。そんな姿すら、言いようのない愛らしさを湛えていた。高原に咲く花が、そよ風に吹かれて揺らめくような。
もちろん本人はそんな自覚、露ほども持っておらず、那津の顔を無邪気に見上げる。
「那津……」
じっと見詰められて、春留の喉奥に甘い疼きがともる。つい先刻、春留にサクランボのジンクスを拒絶されて、しょぼんと項垂れていたのと同じ人物とは思えないほど、こちらを見下ろす那津は抗い難い雄の魅力に溢れていた。
このまま目を合わせていたら惹き込まれてしまう、脅威を感じた春留は自ら目を逸らして、
「それよりお前、ずっとここにいて大丈夫なのか？ 家の人は心配してるんじゃ……」
那津は綿毛のような笑みを浮かべて「大丈夫です」と答えた。その瞬間、春留はほぅっと息を吐いた。那津の答えに安堵したからではない。春留の理性を狂わす熱い眼差しの鎖が、フッと解けるのを感じたからだ。
穏やかに目を細めてこちらを見ている那津は、いつもの那津だった。
「本当は、今日まで旅行に行っているはずなんです。今日の夕方にこちらに着く予定でした。ですから、もう少し先輩とここでイチャイチャして、それから花壇の水遣りをして、家に帰ります」
春留は冷ややかな視線を向けて、
「俺とこうして二人きりでいるのに、花壇のことは忘れねえんだな」
咎めるような指摘に、那津はびくぅんと飛び上がり、
「す、すいませんっ！ 俺、気が利かなくて。その、花のことになるとつい……」
あわあわしつつ必死に弁解する那津を暫し睨んでいたが、やがてふわりと笑って那津の頬を指先で撫で、
「俺は、お前のそういうところが好きだよ」
春留はさらりと、しかし想いを込めて告げた。那津はぽかんと口を開けて見詰めるばかり。しかし、そうするうちに今にも泣き出しそうに顔が歪み、
「せんぱい……今のもう一度言ってください………」
「誰が言うか！」
「そんなあ……もう一度―――」
「うるせ。ほら、まだサクランボ残ってるぜ。もう少しイチャイチャするんだろ？」
那津はこくんと頷いて、春留の身体をぎゅぅっと抱き締めた。
「……言っとくが、挿入はなしだからな」
「指だけでもダメですか？」
「当たり前だ！ ボケッ！」
腕の中で喚く春留への愛しさを抑え切れず、那津はその頭に何度も何度も口付けを落とした。
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