４.

食事を終えて大広間を出たところで、若女将に声を掛けられた。隆矢と優里は神妙な顔付きで頷くと、彼女の後に付いていった。

中庭を通り抜け、最近完成したばかりの別館へ。そこにはホテル型の建物とは別に、和風の離れも二棟ほど用意されていた。

それぞれに小さな庭と露天風呂が付いており、団体客がメインの本館とは隔絶した別世界の静寂と彩りに包まれていた。

「こちらです。さあどうぞ」

離れの客間に招かれて戸惑いつつも上がると、そこには和彦が寛いだ格好で座っていた。そして二人の姿を見とめると、嬉しそうに相好を崩した。

「あの……これは一体………」
「まあお座りください」

和彦の言葉に従って二人は腰を下ろした。清々しい畳の匂いが鼻孔を心地よくくすぐる。

すると若女将は楚々と歩みを進めて、和彦の隣に寄り添って座った。それだけでもう、二人が親密な関係を取り戻したことが分かる。

「隆矢さん、優里さん、本当にありがとうございました」

和彦がそう言って頭を下げると、それに追随するように若女将も頭を下げた。隆矢は口許を緩め、

「気持ちが通じ合ったのですね？　よかった、本当によかった」

そわそわと落ち着かなかった優里も、ぱぁっと笑顔を輝かせて身を乗り出した。若女将は恥らうように微笑んで、

「まさか彼があんな風に気持ちを伝えてくれるなんて……。まだ夢を見ているようです」

そう言って和彦の顔に上目使いの甘えるような視線を送る。そして二人の方を向き、

「あのブーケを目にした途端、必死に着込んでいた重い鎧がすっと消えて、心も身体も軽くなりました。
私はこれまで藤間旅館の名を、母の名を汚さぬよう、誰の力も借りず何もかも一人で完璧にやり遂げねばならないと気負っておりました。和彦さんが自分は必要ないと思い込んでしまうのも、ある意味当然だったのです。でも、」

柔らかな笑みを優里に向けて、

「でも、あなたが作ってくださったブーケが教えてくれました。私は一人ではないと。あの笹舟のように二人でそっと寄り添って生きていけば、つらいことも苦しいことも半分になって乗り越えてゆけるのだと。だから私は素直にこう言えたのです。和彦さん、私を助けてください、と」

そう言って、再び甘えるような視線を送った。それを優しく受け止めた和彦は小さく頷いて、

「これまでだったら、俺は貴女の助けになんかなれない、そう答えてしまったでしょう。でも今なら分かる。ただ傍にいて、自分の仕事に励んでいるだけでいいんだと。そう、隆矢さんが言ってくれたように、互いの存在を身近に感じていられるだけで強くなれる」

力強い口調で言い置いて、幼馴染み、いや、恋人の肩を抱いた。そして、

「彼女と今すぐ一緒になることはないでしょう。でもいつか必ず、俺はここの料理長になって彼女と共にこの旅館を守ってゆきます。約束します」
「楽しみにしています。いつかあなたの創作料理が食べられることを」

隆矢の言葉を後押しするように、優里も顔を真っ赤にしてうんうん頷く。その頭をぽんぽんと撫でて、

「こいつはシイタケが苦手なんで、こいつでも食べられる旨いシイタケ料理を考案してください」
「分かりました。任せてください」

しかし優里は眉根を寄せて、

「ぅぇぇ………しいたけやだ…………」

隆矢の腕にぎゅっとしがみ付いた。和彦も若女将も声を上げて笑ったが、何やら二人で目配せを交わすと、

「それで、お世話になったお二人にぜひお礼を差し上げたいのですが」
「えっ？　いや、お礼なんてそんな。なあ？　優里」

優里は隆矢の腕にしがみ付いたままこくんと頷いて、

「花束作るのとても楽しかったです。しかも喜んで受け取ってもらえて。それで十分です」

若女将はにこっと笑って小さく頷き、

「もちろん、そう言われるだろうとは思っておりました。でもこれは私たちのほんの気持ちなんです。今夜ひと晩、この離れをお使いください」

お礼なんて要らないと言っていたはずの隆矢だったが、思わずぐいと身を乗り出して、

「つまり……ここに泊まっていい、と………」
「はい。もちろんお風呂もお使いください。お布団もご用意させていただきます」

優里は「ふわぁぁ…」と声を上げ、

「すごぉい、おにいちゃん、この素敵なお部屋に泊まれるんだよ」
「あ、ああ……そうだな………」

すでに頭の中はエロい妄想でいっぱいの隆矢は、半分うわの空で応える。乳白色の湯けむり、ほんのりのぼせた肌、素肌にまとった浴衣、格式ある和室に並べられた二組の布団―――これが温泉。正しい温泉の姿。

しかしそんな隆矢の妄想など知る由もない優里は、ひたすら無邪気にはしゃいでいる。若女将は含蓄ある笑みを向けて、

「きっと、素敵な夜になりますよ」


―――ううっ……これは完全にバレてるな、俺たちの関係………


隆矢は気を抜くと緩んでしまう口許を何とか引き締めて、

「では、お言葉に甘えて」

わざと素っ気ない口調で申し出を受け入れた。膝の上でこっそりと、熱烈なガッツポーズを作りつつ。

そしてまだ隣ではしゃいでいる優里に、今夜は覚悟しとけよと無言の宣戦布告を叩き付けた。




「何だとぉ、離れで二人きり？！」

取り敢えず優里を離れに残したまま、隆矢は本館に戻ってきた。黙って部屋を移動することはもちろんできないから、相太に事情を伝えるためだ。隆矢はだらしなく緩んだ表情を隠そうともせず、

「そうなんだよ。いやぁ、ちょっと色々あってさ」

そして和彦と若女将のことや優里のブーケのことなどを、簡単に説明した。

「最初は断ったんだけどな、先方がどうしても、って。それに優里も離れに泊まれるってはしゃいでいるし。だからまあ、せっかくの好意だし素直に受けようかなあと」

相太は黙ったまま、疑わしい目付きで睨んでくる。

「な、なんだよ、その目」
「おまえ……二人きりなのをいいことに、優里にエロいことを………」
「ば、ばっか。するわけねえだろ。ただ二人でゆったり露天に浸かって、小さな庭でも散策して………」

相太は複雑な溜め息をつくと、「分かったよ」と応じた。

「他の連中には適当なこと言っておくから。明日の集合時間には遅れるなよ」
「おうっ」

笑顔全開で頷いて、そそくさと離れに戻ろうとする隆矢をいったん呼び止め、

「おい、ちゃんとゴムは持ったか？」
「もっちろん！」

揚々と答えてしまってから、はたと硬直する。相太は声を荒げて、

「てめえっ、やっぱりエロいことする気満々じゃねえかッ」

何も反論できず逃げるように走り去る隆矢の背中に、豪快な溜め息を送るしかできなかった。




「お兄ちゃんっ」

別館まで戻ってみると、優里が離れの玄関口で不安げに立っていた。隆矢の姿を見つけるや否や駆け寄って飛び付いてくる。

「どうした？　優里」
「ひとりでいたら……なんか恐くて、さびしくて………」

隆矢は「バカだな」とあやすように答え、肩を抱いて室内に入っていった。そして、

「どうする？　風呂に浸かるか？」
「うんっ、一緒に入るぅ」

余りにあっさり承諾されて、少々気抜けする。たぶん、昨日の大浴場みたいに楽しく入浴できると考えているのだろう。

「言っとくが、けのびはできないからな」
「むぅ。分かってますっ」
「昨日みたいに騒ぐんじゃなく、しっとり湯を愉しむんだぞ」

子供扱いされたのが気に入らないのか、優里は「はぁ〜い」と少し不貞腐れた返事を返してぱたぱたと風呂場へ向かった。隆矢も苦笑を浮かべつつ、その後に続いた。




ちゃぷん、という微かな水音すら、艶めいた陰翳を帯びている。何もかもが昨日の大浴場とは違っていて、優里は困惑する余り温かな湯の中でカチンコチンに固まっていた。

すぐ隣で浸かっている隆矢の顔を見ることもできず、ただ仄かに白濁した湯の表面にじっと視線を注ぐだけ。そんな優里の緊張を察したのか、隆矢は朗らかな声で、

「ほぅら、優里。お月様が見えるぞぉ」

それに誘われるように夜空を見上げると、お団子みたいにまん丸のお月様が輝いて二人の頭上を照らしていた。

「ふふっ。お風呂に浸かりながらお月様が見られるなんて……」
「ああ。何だか不思議だよなあ」

ようやく笑顔を取り戻した優里の白い肩をそっと撫でて、

「寒くないか？」
「ん……へいき………………ぁ、あの……ちょっと寒いかも」

恥ずかしそうに俯いて言い直す優里に温かな眼差しを送ると、その身体を後ろからすっぽりと包み込んで抱き締めた。

「これで……どうだ？」
「んっ………あったかぁい……きもちいいの………」

隆矢の胸に身体を預けた優里は、うっとりと目を細めて甘い息を吐く。やがてもぞもぞと腰をくねらせて、

「おにいちゃま……何だかどきどきするよ」
「そうか？　俺もどきどきしてるよ」
「ほんと？」

隆矢は「ああ」と答えるが早いか、腕の中の身体をくるりと反転させて向かい合わせになり、優里の手を取って自分の胸に当てた。

「ほら、な？」

優里はのぼせて薔薇色に染まった頬をさらに紅くして、「どきどきしてる…」と呟く。そしてさらに身体をすり寄せて、隆矢の首筋に頬をぺったりと付けた。

「優里……こっち向け」

頭上から降ってきた甘い低音に従って、ゆるゆると顔を上げる。すると、濡れて輪郭にまとわりつく髪や汗ばんだ肌が魅せる男性的な色気を湛えた隆矢が、不動の瞳でじっとこちらを見つめていた。

いつもと変わらぬ優しいお兄ちゃんのはずなのに、何故か優里の心臓はとくとくと早打ちを始めた。

「ぁ……おに…ちゃ………」

そうするうちに隆矢の顔が近付いてきて、そのまま二人の唇はぴったりと重なった。湯気でしっとりと潤った唇の感触は余りに心地よく、触れ合わせるだけの軽いキスにもかかわらず二人共に酔い痴れる。

しかし、これだけがキスではないことをもう優里は知っている。隆矢の手が優里の顎に触れてくいっと上を向かせると、それに合わせて優里は誘うように唇を開いた。

「あ……ふ…………」

隆矢は三分咲きほどに綻んだ唇の隙間に舌をすべり込ませ、熱くとろける口腔をねっとりと掻き回す。さらに舌の滑らかさを味わうかのようにぬるぬるとこすり付けると、優里は「んふっ」とこもった喘ぎをこぼして腰を揺らめかした。

隆矢は空いている手を湯の中にそっと沈め、優里の背中をなぞりながら腰へ、さらにその下の谷間へ滑らせていった―――

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