黒艶のGuardian
＜8＞
室内の空気が一気に張り詰めてゆく。そのキリキリという音が、葵衣にも聞こえるような気がした。葵衣は膝をついて俯いたまま、浅い呼吸を繰り返す。今ほど、自分という存在が忌まわしく感じられたことはない。綺羅の前に姿を現さなければ、いや翡向が自分を拾ったりしなければ、いやそもそも生まれてこなければよかった。
自分のせいで翡向の出世どころか、生命すら絶たれてしまうかもしれぬ。今この場で死ねと命じられれば、喜んで従っただろう。それで綺羅の怒りが収まるのなら……。
「確かに葵衣は細胞移植を受けています。しかし、ガーディアンではありません」
まるで、この場の緊張感を宥めるかのような柔らかな声だった。葵衣が驚いて顔を上げると、声を裏切らず穏やかな表情の翡向と目が合った。綺羅の厳しい咎めに対し、ここまで冷静に対応できる人物はこの国にはいないだろう。
「ガーディアンではない、だと？」
「左様で。先ほど申したとおり、葵衣は家族です。俺は彼と守護契約を交わしていませんし、今後交わすこともない。葵衣、陛下に証拠をお見せしなさい」
自分が何をすべきか、葵衣はすぐに察した。上着を緩めてすとんと肩から落とし、綺羅に背中を向ける。
「……契約痕がない」
声を上げたのは、側近の一人だった。その言葉通り、葵衣の背中、肩甲骨と肩甲骨の間に、守護契約を交わした場合に必ず表れる緋色の痣、契約痕はなかった。しかし、綺羅の疑いは晴れぬ。別の疑念が生じたようだ。
「守護契約も交わさず、ガーディアンとして使用しないのなら、なぜそもそもこの者を引き取ったのだ」
葵衣は素早く衣服を直すと、綺羅に向かって深く頭を下げ、
「畏れながら、私がお答えいたします。私はプラントで廃棄処分となりました。理由はご覧の通り、この髪と目の色のせいです。こんな不吉な色のガーディアンなど欲しがる者はいない、当然です。しかし私は死にたくない一心から廃棄所を抜け出した。そして森を彷徨っているところを、翡向に救われたのです」
綺羅はしばしの無言を経て、口を開いた。
「翡向、お前はなぜ彼を拾ったのだ」
翡向は苦笑を浮かべ、
「さあ…なぜでしょうかね。たぶん、一緒に生きていく人間を欲していたのだと思います。俺が戦場から帰ってくるのを、ひたすら待っていてくれる人間」
綺羅の眉間の皺が、わずかに深くなる。しかし翡向は気にすることなく、もちろん怯えも見せず淡々と言葉を続けた。
「若い時は、孤独にも耐えられました。いやむしろ、孤独こそが俺の宿命と思っていた。しかし歳を重ねるにつれて、その重みが骨身に沁みるようになってきました。人は一人では生きられないという当たり前の真理を、頭ではなく心と身体で理解するようになったのです」
翡向はそう言って葵衣の隣に膝をつき、その頭をわしわしと撫でた。そして綺羅を見上げ、
「陛下のような強靭な精神の持ち主には、理解し難い甘い感傷かと思いますが、俺は所詮その程度の人間です。ともかく俺は、この葵衣をガーディアンにするつもりは毛頭ありません。そこだけはご理解いただきたい」
「……その者は、お前の大事な家族なんだな」
「仰る通りです」
翡向は即答を返すと、隣でカチコチに固まっている葵衣を愛おしげに見つめた。そんな二人を、綺羅は相変わらず感情の磨滅した顔で見下ろす。緊張を孕んだ静寂に、誰もが息苦しさを感じ始めた時、綺羅は重々しく口を開いた。
「相分かった」
たったひと言だったが、これで翡向の無実が晴れたことは明らかだった。みな一様にほっと息をつく。うつけだ何だと馬鹿にしつつも、翡向が国境防衛の要であることは、みな分かっているのだ。粛清で失えば、大きな痛手になると。
「ご理解賜りまして、感謝致します。これからも、国のため陛下のために粉骨砕身尽くす所存でございます」
「その気取った話し方はやめろと何度言えば分かる」
「あ、これはすいません」
翡向は豪快に笑って、がりがりと頭を掻いた。
「はー。何とか陛下のご機嫌を損ねずうまく乗り切ったわね。さすがに緊張したわ」
そう言って首をポキポキ鳴らす雪代に、葵衣は神妙な面持ちで「ああ」と返すしかできない。雪代はその背中を叩いて、
「暗くならないの。いいじゃない、何のお咎めもなかったんだから」
「それはそうだけど……」
自分のせいで、危うく翡向が皇帝の不興を買うところだったのだ。最悪の場合、謀反の意ありと見なされたかもしれぬ。
「もし皇帝に納得してもらえなかったらと思うとゾッとするよ。翡向がこれまで慎重に慎重に積み上げてきたものが、全て水の泡になってしまう。それどころか、翡向の命まで危険に……」
「気にするな、葵」
突然背後から声を掛けられ、葵衣は弾かれたように振り向いた。そこには、労わるような笑みを浮かべた翡向が。
「お前が気に病む必要はこれっぽっちもないぞ。何も罪は犯していないのだからな。それに、親が子を命がけで守るのは当然のこと。お前のためなら俺は喜んで命を捨てるぞ」
「な…んだよそれ。そんなこと言うなよっ……」
葵衣が胸苦しさを覚えたのは、喜んで命を捨てるという言葉に対してだったのか。それとも───
「俺は、あんたの子供じゃない」
「はは、そうだな。むしろ俺の方が子供みたいなものだ。いつも小言を言われてばかりで」
「まったくだ。今日もちゃんと風呂に入って、頭と身体を洗うんだぞ」
葵衣はなんとか軽口を返したが、胸の奥はまだ疼いていた。
綺羅が翡向の邸を訪れた後、数日間はまだ緊張の余韻が邸内に漂っていた。しかしそれも時間の経過とともに薄れ、やがて消えてしまうと、いつもののんびりした日常が戻った。
北の国境付近に不穏な動きは観測されず、翡向が召還されることはなかった。有能な部下たちが交代で警備に当たっており、翡向はその間、邸で書物に没頭することができたのだ。没頭しすぎて風呂に入らず、葵衣の小言を浴びるのもまた、日常の風景となった。
そして、皇帝の訪問から半月ほど経過した頃。その使者は訪れた。残酷な運命を携えて。
「皇宮からの使者？ 何よ、また雨宿りでもさせろっていうのかしら」
ぶつぶつ文句を垂れる雪代とともに、葵衣も広間へ向かった。邸内にいる者、全員がそこに集められたのだ。これから、重要な伝達があるらしい。広間にはもちろん、翡向もいた。不審げに眉根を寄せている。どうやら彼も、伝達の内容に心当たりがないようだ。
全員が集まったのを確認すると、豪奢なお仕着せをまとった使者は、もったいぶった態度で伝令書を開封した。そして甲高い声で読み上げる。
「“葵衣”を余の第303機ガーディアンとする」
使者は「以上」とだけ言って、伝令書を閉じた。濃密な静寂が、室内を支配する。それは困惑の表れだった。
「葵衣を……ガーディアンに？」
邸内で、葵衣が細胞移植を受けていることを知っているのは、翡向と雪代だけだ。当然、みな訳が分からないという顔つきをしている。しかし使者は構わず、葵衣に視線を据え、
「すぐに仕度をしろ。といっても荷物をまとめる必要はない。ここにあるものを王宮へ持ち込むことはできん。いやしくも王宮に足を踏み入れるのだから、王宮の空気を汚さぬ程度の身なりを整えろという意味だ」
言葉も口調も尊大だったが、そんなことは気にならない。あまりの出来事に思考も感情も停止した葵衣は、ただ呆然と視線を彷徨わせるしかできなかった。その時、
「貴様、ふざけたことを言うな」
地を這うがごとき低音。翡向のこんな声は初めて聞く。
「葵衣をガーディアンにするだと？ よくもそんなことが───」
使者にゆっくり近づく翡向の背や肩は、まるで甲冑を着けているかのように盛り上がっていた。そこに滞留するのが怒りの感情であることは、誰が見ても明らかだった。
その瞬間、停止していた葵衣の思考が弾かれたように再稼動する。葵衣は、憤怒の形相で今にも使者に手を掛けようとしていた翡向に駆け寄り、彼を押さえるようにしてその前に出た。そして使者に向かって精いっぱいの笑顔を浮かべ、
「皇帝陛下のガーディアンとしてこの身を捧げることができるなんて、光栄の至りです。すぐに仕度をして参りますので、今しばらくお待ちください」
翡向の剣幕に驚きと怯えをさらしていた使者は、我に返ったようだ。芝居がかった不興顔で翡向を睨み、
「しかしこの男は、陛下の決定に不満があるようだ」
「不満だなんてとんでもありません。ただ、あまりに突然のことで驚きが勝ってしまったのでしょう。私のような者が、陛下に仕えるなんてあり得ないと。そのせいでつい、あんな言葉が」
使者は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、
「まあ確かに、お前のような不浄の色を持つ者が陛下に仕えることになるなんて、驚いて当然かもしれんな」
「貴様……」
背後から、怒りを噛み潰したような呻きが聞こえる。葵衣は笑顔を崩さず、翡向の腕を強く掴んだ。そして、
「では、失礼いたします」
使者に頭を下げると、翡向の腕を掴んだまま部屋から退出した。そして早足で自分の部屋へ向かう。
「葵衣！ 葵衣待て！」
追いかけてくる翡向の声には、胸をかきむしるような悲愴感があった。そう、彼も分かっているのだ。もうどうすることもできないと。しかしそれでも、何とか抗おうとする。
「葵衣、早まるな。お前を皇帝のガーディアンにするだなんて、そんな馬鹿な話があるものか」
葵衣は翡向に背中を向けたまま、小さく首を振る。
「いっときの気まぐれだろうが冗談だろうが、皇帝は一度命令したことを覆すことはない。翡向も分かっているはずだ」
「だから早まるな。何とか切り抜ける方法を考えて───」
「無理だよ。まったく、駄目じゃないか。皇帝の使者にあんな剣幕で詰め寄ったりして。謀反の意ありと告げ口されたらどうするんだよ。これまで、あらゆる屈辱に耐えて守ってきたものも、失うのは一瞬だ」
葵衣は宥めるようにそう言って、クローゼットを開けた。そして、ヒヤシンスブルーのゆったりとした長衣を選ぶ。
「これが一番上等かな。翡向が買ってきてくれたんだよな。もったいなくて一度も着てない。はは、まさかこんな時に着ることになるなんて……」
紫がかった美しい青地の布に、ぽつぽつと水玉模様が。何とかこらえていた葵衣だったが、もう限界だった。涙を乱暴に拭って、急いで着替える。そして翡向に向き直ると、彼はこれまで見たこともない、途方に暮れたような顔をしていた。
「なんて顔してんだよ。泣く子も黙る北の番犬が。まるで、親に捨てられた子供みたいだぞ」
翡向は口を開いた。が、言葉が見つからないらしく、無言のまま苦しげに首を振った。葵衣は「しょうがないな」と肩をすくめ、
「そもそも俺は、プラントの廃棄場でくたばる運命だった。それを翡向が救ってくれたからこそ、自分の人生を自分らしく生きることができた。俺にはもったいないような6年間だったよ。これで十分だ。思い残すことはない」
もちろんこれは嘘だ、ぎりぎりの強がりだ。しかしこうでも言って自分を欺かないと、精神の平衡が保てない。だから葵衣は自分に言い聞かせた。もう十分だ、これでいいんだと。
「翡向、今までありがとう。だらしないだのちゃんとしろだの、顔を見れば小言ばかり言ってたけど、俺は、あんたを───」
葵衣は軽く床を蹴って翡向に抱き着き、そして唇を重ねた。
「あんたを、愛してた」
無意識のうちに過去形になった愛の言葉が、自分の未来を暗示しているように思えたが、それでも最後に伝えられたことに満足した葵衣は、笑みを閃かせて翡向のもとから去ったのだった。
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