黒艶のGuardian
＜9＞
その夜。翡向のもとから光が去ってしまったのと呼応するかのように、月の輝きも星の煌きもない夜。重苦しい静寂に満たされた邸内を、伽琉羅は胸の痛みを抑えつつ進んだ。そして広間を横切り、テラスへ。そこで、背中を丸めて項垂れる黒い人影にそっと呼びかけた。
「翡向」
人影の主は黙したまま。伽琉羅がもう一度声を掛けようとした時、ようやくわずかに顔を上げ、
「……お前はこうなることを案じていたんだな、伽琉羅」
彼のこんな声は初めて聞く。翡向という人間の脆く繊細な部分がそのまま剥き出しになったような声には、どこか胸を打つ哀情があった。
「だからあんなことを言った。葵衣と守護契約を交わせなどと」
「そう、ね。葵衣を欲しがる男が現れる可能性も考えるべきだとは思ったわ。でも、北の番犬が大切にしている者を奪おうなんて蛮勇の輩はそうそういないだろうから、そこまで真剣には考えていなかった。けれどまさか、皇帝が……」
皇帝が葵衣をガーディアンとして召し上げた。そう聞いた時、まさかと思ったのは事実だ。しかしそれと同時に、伽琉羅は皇帝の、綺羅の気持ちが分かるような気もしたのだ。
「俺にはあのお方が分からん。なぜ葵衣をガーディアンにするなどと……」
伽琉羅の心を読んだかのように、翡向が呻いた。その痛みをこらえるような声に伽琉羅は顔をしかめつつ、翡向の隣に腰を下ろして考えを素早くまとめた。そして慎重に口を開く。
「私の勝手な推測に過ぎないのだけど、皇帝はあんたのことが妬ましくてならないのよ」
翡向はのろのろと顔を上げ、濁った目を伽琉羅に向けた。
「妬ましいだと？ 全てを思い通りにできる男がなぜ俺のような───」
「あの綺羅という男が不幸なのはね、中途半端に聡明だからなのよ。真に聡明ならあんな無茶な領土拡大で国を疲弊させはしない。かといって、権力を握ったことで有頂天になれるほど馬鹿でもない。自分には人望がなく、国民からは愛されず、心から忠誠を誓っている家来もいないことがよく分かっているのね」
「だから中途半端に聡明、か」
「そういうこと。それとは対照的に、翡向は人望がある。部下からも慕われ、敬愛の情を持たれている。おまけに……」
伽琉羅はふぅっと息を吐き、
「ここを皇帝一行が訪れた時の話、聞いたわ。葵衣との微笑ましいやり取り。葵衣は大事な家族なんですと言って照れくさそうに笑う。それを目にした皇帝は思ったはずよ。この男には愛する家族までいるのか。自分は誰からも愛されず、誰も信用できず、孤独に耐え忍んでいるというのに、と。だから、」
「妬ましさのあまり、家族を奪ったというのか」
「あくまで私の推測。単に、翡向がガーディアンを持つのを怖れて、その可能性を潰そうとしただけかもしれないし。いずれにしても、どうするの？」
問いの重さに耐えられぬとばかりに、翡向は再び項垂れる。
「どうも……できん」
「葵衣を見捨てるのね。このまま皇帝と守護契約を交わして正式にガーディアン、生物兵器となり、いたずらに消費されて、四肢は醜く崩れて朽ち果てる。それを、指を咥えて眺めている、と」
言い終わると同時に、すごい勢いで胸倉を掴まれた。拳に浮き出た血管が、怒りの激しさを物語っている。しかし伽琉羅は臆することなく見返し、
「反論があるなら、ちゃんと口で言いなさい」
「………ッ」
翡向はガチッと音を立てて奥歯を噛み締め、掴んでいた手を放した。伽琉羅は乱れた襟元を直し、
「別れ際、葵衣はあんたに何て言った？」
確信的な問いに、翡向は息を呑む。伽琉羅は構わず続けた。
「あんたを愛してると言ったんじゃない？」
翡向は両目を見開いたまま、呼吸すら忘れたかのように固まった。やがてゆるりと首を振り、
「いや、愛して“いた”と……」
今度は伽琉羅が怒りを露わにした。すっくと立ち上がり、濃密な闇も戦くような激しさで追及する。
「どうしてあんたも葵衣も、そんな簡単に諦めるのよ！ほんとにこの国の男たちときたら、あの暴君にすっかり骨抜きにされて。いいわ、そうやって一生、イヌのままでいなさい。牙も爪もないイヌのままでね」
痛烈な言葉を叩き付けると、くるりと背中を向け早足で立ち去った。
母さんは、少しずつ狂っていった。
盲目的な愛に酔っていられた間は、まだよかったのかもしれぬ。しかし家を出て誰にも邪魔されず詮索もされず二人で暮らせるようになり、さらに俺も生まれて生活が安定したことが、皮肉にも狂気を育んでしまったのだ。
母さんは絶えず、“声”に怯えていた。二人の罪を暴き、糾弾する“声”。それは外部から発するものではなく、己の内側から湧き上がるものだ。ゆえに、耳を塞いでも意味はない。外部の騒音を遮断したことで、内部の声はますます鮮明化し、良心の急先鋒として追及する。
母さんは次第に追い詰められ、やがて、“諸悪の根源”である自身とその夫にして兄である男を消すことによって、罪から逃れようとした。
あの日。終わりの日。彼女はいつも使っていた肉切り包丁を夫の胸に突き立て、迸る血飛沫を浴びながら自身の喉を掻き切った。一人残された罪の子は、両親の亡骸を何時間も何時間も見つめ続けていた───
「ぅ……っ……」
目を覚まし、夢でよかったと安堵することはできなかった。夢であると同時に、過去に起きた現実でもあるからだ。
最近は、こんなに生々しく思い出すことはなかった。なぜ今さらと考え、ああそうかとすぐに合点がいった。翡向と別れたからだ。翡向の庇護を失ったことで、過去の亡霊がここぞとばかり浸蝕を始めたのだろう。
好きにすればいい、どうせこの身はもう死んだも同然なのだからと嗤い、葵衣はゆっくり身体を起こした。
昨日は簡単な身体検査を受け、ここで休むようにと言われた。すぐに守護契約が交わされるのかと思っていたから拍子抜けしたが、考えてみれば慌てて契約を交わす必要などないのだ。皇帝は100を超えるガーディアンを所有しているのだし、だいいち、ガーディアンを振るって戦場に自ら赴くわけでもないのだから。
もしかしたら、と楽観的な考えが頭をかすめる。もしかしたらこのまま、ガーディアンにならず一介の使用人のままでいられるかもしれない。
契約には、所有者も多少の身体的負担を負う。自分のような“不浄の色”をまとった者と、皇帝がわざわざ契約を交わすメリットなどないのだから。
「起きたか」
男がノックもせず部屋に入ってきた。葵衣はすぐに居住まいを改め、「おはようございます」と丁寧に頭を下げた。男は鷹揚に頷くと、
「仕度をしろ。これからお前が寝起きする場所に案内する」
葵衣は言われた通り、顔を洗って用意された服に着替え、男の後に続いた。皇宮の敷地内で最も奥まったところに、皇帝が所有するガーディアンの住まい、彼ら言うところの“保管庫”があるようだ。
「ここだ」
重厚な扉がゆっくりと開けられた。その向こうに広がる光景に、葵衣は瞬きも忘れ驚きをさらす。部屋は広かったが、床に隙間もないほどたくさんの布団が敷かれ、そこにだらしなく寝そべっている。ざっと見た限り、全員女性。
「ちょ……ちょっと待ってください！ 俺、俺は男ですよ！ ここに女性と雑魚寝なんてまずいでしょう」
案内してきた男は肩をすくめ、何か言おうとした。しかしそれに先んじて、入口近くに寝ていた一人が笑って手を振り、
「いいのよぉ。あたしたちは気にしないから」
「そういう問題では───」
すると葵衣の顔を見た女性たちが次々と起き上がり、
「やだ、すっごい綺麗な男の子！ 君みたいな子なら大歓迎よ」
「そうそう。逆に襲われないよう気をつけないとね」
「あたしが守ってあげるから！」
その勢いに気圧された葵衣が思わず後ずさると、案内の男は「そういうことだ」と言って葵衣を残し、さっさと行ってしまった。
「ちょっと……待て、これは……」
葵衣は室内を見渡す。敷きっぱなしの布団の隙間には、汚れた食器やパンくずが。空気もべたついて、湿気のにおいがする。
「こんなところで生活できるかっ……」
葵衣はしばし俯いてぶつぶつ言っていたが、はたと顔を上げて全員を睨みつけた。その目は完全に据わっている。
「全員、外に出ろ」
女性たちは一様にきょとんとした顔をして、葵衣を見上げる。
「なによ、いきなり───」
「いいからしばらくの間、外に出てろ。これから掃除する」
「掃除ぃ？」
葵衣はずかずかと室内に踏み入ると、次々と布団を剥いでいった。その上に寝転んでいた者はみな、強制的に排除され、しぶしぶ言われた通りにした。
「ねえ、ほんとに掃除してるわよ」
外から覗き込みながら、呆れたように囁きを交わす。対して葵衣はフル回転で、広い室内を駆け回った。
「ついでだ、布団も干すぞ！」
全員の布団を外に干し、汚れた食器を集めて洗い、床を掃いて雑巾がけ。その頃には、干していた布団も日光をたっぷり浴びてふかふか。厚さも3倍くらいになっていた。それを取り込んで敷いてゆく。
「よし。これなら何とか生活できるな」
葵衣は満足げに頷いて、追い出していた部屋の主たちを呼んだ。
「うっわー、なにこれ！ きれーい」
「見て見て！ 布団がふっかふか。気持ちいいー」
「いい匂いがする！ 太陽の匂いね」
全員大喜びで、布団の上を転げ回る。しかし精魂尽き果てた葵衣はどかっと座り込み、
「いいか、これから定期的に掃除するからな。手伝ってくれよ」
「はーい！」
みんな手を挙げていい返事。しかし葵衣はがくりと項垂れた。
───こりゃ手伝わないな。
次からはちゃんと片付けるんだぞと言い聞かせた時の、翡向の返事と同じだった。いい笑顔、いい返事。しかしちゃんと片付けた試しがない。葵衣はくすりと笑う。喉の奥に甘いものが広がったが、それを掻き消す勢いで胸に鋭い痛みが走った。現実を思い出したからだ。彼にはもう会えない、二度と、会えない。
「……ッ」
葵衣はぎりっと奥歯を噛み締め、込み上げるものを押し留めた。涙は、危険だ。何とかギリギリの状態で保っている心のバランスを、一気に崩してしまいかねない。崩れたものを元通りに整えるのがどれだけ困難かは、経験上知っている。
───諦めろ。いずれにせよ俺は、“ここ”に辿り着く運命だったんだ。あの、細胞移植を受けた時から。その途中、ちょっと寄り道をしただけだ。幸せな寄り道を。
葵衣は己に言い聞かせ、俯いていた顔を上げた。すると、自分に真っ直ぐ向けられた悲愴な眼差しに気付いた。
「あれは……」
彼女はびくりと身体を震わせると、あからさまな怯えをさらした。そして見えない何かから逃れるかのように部屋を飛び出す。
「待っ……」
彼女は、皇帝一行が雨宿りに訪れた際、皇帝に付き添っていたガーディアンだ。彼女が“告げ口”をしたせいで、葵衣が細胞移植を受けていることが皇帝に知られることになった。
「待ってくれ！」
今さら彼女に何を言うつもりなのか、責めるつもりなのか恨みをぶつけるつもりなのか自分でも分からぬまま、葵衣は逃げる彼女を追いかけた。
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