黒艶のGuardian
＜7＞
「うわ、ひどい雨だな」
つい一時間ほど前までは、澄んだ青空にクリームのような雲が呑気に浮かんでいた。しかしあっという間に空は暗くなり、遠雷が鳴り始めたと思ったら、大粒の雨が降り出した。
すでに洗濯物は取り込んでいたから慌てることはなく、葵衣は雨と風が打ちつける窓に顔を近づけて外を眺めていた。その時、馬小屋で馬の世話をしていたはずの馬丁が邸に駆け込んできた。
「たた大変です！ 翡向様、翡向様！」
馬小屋からここまで、雨避けも使わずそのまま走ってきたのだろう。ずぶ濡れだったが、それを気にする様子もない。それどころではないことが、彼の身に起こったということか。
「どうした、落ち着け」
騒ぎを聞きつけた翡向が書斎から出てきた。すると馬丁はすがるように翡向を見上げ、
「たった今、伝令の者が俺んとこに来て……こ、皇帝陛下がここに来るから準備をしておくようにと」
「どういうこと？ もっと分かりやすく言いなさい」
雪代がたしなめると、「どういうこともこういうこともありません！ そのままです！」と喚いて咳き込んだ。雪代は仕方なく、その背中をさすってやる。
「もしかして、雨宿りか？」
翡向の問いに、馬丁は熱烈に頷いた。
「そうです。狩りの途中だったようで、雨避けは持参しているものの、この豪雨では役に立たない。ちょうど、近くに翡向様のお邸があるということで、雨が止むまでの間……」
邸内が騒然となった。ここを皇帝が訪れる。もちろん、ただ雨をしのぐ場所を提供するだけでは済まされぬ。皇帝に相応しいもてなしをして、不興を買わぬようにしなければ。
「ど、どうしましょう。今からでは食材を買いに街まで出ることもできないわ。あるもので何とかしないと」
さすがの雪代も青ざめている。葵衣も一瞬、頭の中が真っ白になった。ここに皇帝が、あの綺羅が来るなんて……。
「みんな落ち着け。凝った料理など出す必要はないぞ。狩りとこの雨で疲れたお身体を、ゆっくり休めてもらうことが重要だ。身体を温める飲み物と、濡れた身体を拭う柔らかな布が最高のもてなしだ。そして何より大切なのは、歓迎する心だ。必要以上に怖がらなくていい、緊張しなくていい。分かったな？」
翡向の冷静な諭しに、みなようやく人心地ついたようだ。一様にかくかくと頷いて、自分のすべきことに取りかかるため散っていった。
葵衣も、皇帝一行を迎える準備に専念する。客間を整え、寛げるように柔らかな腰当てを選び、明かりを調節した。
「あ、あれが……」
窓から外へ視線を移すと、馬に乗った一行が近づくのが見えた。併走する従者に挟まれているのが、皇帝その人だろう。左右を挟んだ従者が日よけのような布を頭上にかざしているが、あれではこの雨をしのぐことはできまい。葵衣は急いで部屋から出ると、雪代に伝えた。
「陛下がお見えだ」
「分かったわ。とにかく最善を尽くしましょう」
雪代の言葉に頷き、葵衣は深呼吸をしてから邸の玄関口へ向かった。
「陛下をこのようなむさくるしい場所にお迎えすることになり、恐縮至極ではありますが、ともかく濡れたお召し物をお預けください。そして、こちらで身体をお拭きください」
翡向が畏まった口上とともに布を差し出すと、皇帝綺羅は黙って上着を渡し、布を受け取った。そして身体を拭いながら、
「翡向、その口調はやめろと言ったはずだが」
不機嫌に引きつった声に、側近や従者たちの顔が強張る。しかし翡向は頭を掻いて、
「そうでしたね。陛下を前にすると、つい」
そう言って笑ってみせた。その場の空気が、ほんのわずか緩む。この光景を、葵衣は隣の部屋からこっそり窺っていた。
───あの男が、皇帝綺羅……。
謀殺と粛清を繰り返し、玉座を我が物とした男。葵衣は漠然とだが、血に飢えた獣のような人物を想像していた。しかし実際は、ジェードグリーンの眸が印象的な美青年だった。表情は、昏い内面を反映するかのように陰鬱に沈んでいるが、血や残虐を好む異常性は見当たらない。
もちろん、人間の内面などそう容易く分かるものではない。翡向だって、豪放磊落と見せかけて実は、多くの鬱屈を抱え込んでいるのだから。
「陛下、空腹ではございませんか。何か召し上がりますか」
「要らん。空腹ではない。しかし疲れた。疲労を癒すものが欲しい」
綺羅の言葉にかぶせるように、側近たちが声を上げた。
「さっさと用意せんか！ 陛下はお疲れなのだぞ」
「雨宿りの場所に、お前のようなうつけの邸を選んでやったのだ。光栄に思え！」
葵衣は思わず舌打ちした。側近の侮辱的な言葉に腹が立ったからではない。あんな甲高い声で喚いたら、陛下の疲労が増すだけじゃないかと思ったからだ。そう、結局は自己の保身ばかり。本当に、心から皇帝の身を案じている者などいないのだ。
葵衣はすぐに厨へ向かい、あらかじめ用意しておいた月華草の蜜と、井戸から汲み上げた水を温めた湯を混ぜ、淡い紫色をした月華草の花の砂糖漬けを散らした飲み物を作った。そしてそれを、綺羅のいる客間へ運ぶ。
「失礼いたします。温かいお飲み物をお持ちしました」
緊張していないと言えば嘘になる。しかし、目の前の人物は独裁的な手腕で恐怖政治を執行する血塗られた皇帝ではなく、翡向の大切な客。そう思うことで、心からの歓迎を表現できると考えたのだ。
飲み物を持って現れた葵衣を、綺羅の側近や従者たちは息を呑んで見つめた。その濃密な視線に葵衣自身も気付いたが、己の髪と目の色のせいだろうと受け流した。この国には滅多にいない黒髪黒瞳。不吉な色。これまでも、よく奇異な目で見られたから慣れている。
「おお、葵衣、すまんな。まず、そちらの御仁に差し上げなさい」
翡向の指示に従い、一行の中でひときわ鋭い目付きをした男にカップを差し出した。男は携帯していた匙でカップの中身をすくい、自分の口へ。毒味役だとようやく気付いた葵衣は、ここまで謀殺を怖れる綺羅に対し憐れみを覚えた。
いつだったか翡向が言っていた。皇帝は自身の影に怯えているのだと。自身のこれまでの行いが、そのままわが身に降りかかってくるのではないか。誰も信じられず、誰に心を許すこともできず、冷たい玉座を守り続けねばならない。孤独な王───
葵衣が差し出した飲み物を口にした男は、一瞬だが目を見開いて驚きを露わにした。が、すぐに表情は消え、小さく頷く。
「さ、葵衣。陛下へ飲み物を」
さすがに緊張が隠せず、恭しく差し出すと、綺羅はちらと葵衣の顔を一瞥してから黙ってカップを手に取り、口へ運んだ。その瞬間、綺羅の顔を毒味役の男と同じ驚きがかすめた。そして、
「これは……美味だな。それに、身体が温まる」
葵衣はほっと息をつき、安堵と喜びのあまり素のままの感想を漏らした。
「ああ、よかった」
するとすかさず側近が声を険しく張り上げ、
「陛下に対して無礼ではないか！」
あんたの方が陛下の神経を逆撫でしてるじゃないか、そんな言葉が喉元まで出かかったが呑み込み、「大変失礼致しました」と深く頭を下げた。側近は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、
「陛下へのもてなしが茶の一杯とは。これだから野蛮な軍人は───」
「黙れ。お前の声は癇に障る」
綺羅の不機嫌この上ない制止の声に、側近は飛び上がって平伏した。あーあ、だから言わんこっちゃないと、葵衣はこっそり溜め息をついた。
「葵衣と言ったな。この飲み物は何だ」
まさか直接言葉を掛けられると思っていなかった葵衣は、驚きとともに翡向を見た。そして、翡向が穏やかな顔で頷くのを確認してから口を開いた。
「はい。そちらは月華草という花の蜜を湯に溶かしたものです。この蜜は滋養を多く含み、身体を温める効果があるとともに、疲労の回復も促進する。狩りの途中、突然の雨に遭われた陛下のお身体を癒すにはぴったりと思い、ご用意致しました」
「月華草か、聞いたことがないな」
「非常に珍しい花で、栽培も難しいんですよ。それをこの葵衣が丹精込めて育てて、蜜を収穫できるまでになりました」
説明を引き取った翡向は、葵衣に笑みを向けた。
「なるほど。確かにこれは、最高のもてなしだな」
綺羅はそう言って、カップの中身を一気に飲み干した。そして葵衣に向かい、
「お前は、翡向とはどのような関係なのだ。血縁か？」
「あ、いいえ。私はその……彼に拾われました。それ以来、ここで世話になっていて……」
「家族ですよ、彼は。葵衣は大事な家族です」
明るい声で、翡向がきっぱり断言した。葵衣の顔が、自然と紅潮する。それをじっと見ていた綺羅は、わずかな好奇心をにじませて問うた。
「普段の翡向は、どんな男だ」
本来ならば、どのように答えれば翡向の評価を上げることができるか考えてから口を開くべきだったろう。しかし葵衣は反射的に顔を上げ、
「畏れながら申し上げます。普段の翡向はだらしないのひと言に尽きますっ。ものは出しっぱなし、読んだ本は仕舞わない、服は脱ぎっぱなし。風呂だって俺がしつこく言ってようやくしぶしぶ入る始末。もう少しちゃんとしてくれれば───」
早口でまくしたててから、はたと気付いたが後の祭り。翡向は額を押さえて天を仰ぎ、
「葵衣よ……俺の出世がかかってるんだぞ」
「だって本当のことだろ！」
ムキになって言い返すと、翡向は鷹揚に笑って「分かった分かった」と宥め、綺羅に頭を下げた。
「今、葵衣が申した通りです。全く面目ない」
綺羅は何も言わない。ただ、翡向と葵衣の顔をじっと見詰める。さすがにこのままでは翡向に悪いと思った葵衣は、声を一段低め、
「でも、部下と使用人を大切にするとても優しい人です。そして、国境防衛に対する熱意は誰にも負けない。私はそう思っています」
「おお、うまくまとめたな」
茶化しつつも、まんざらでもない様子の翡向。照れくさそうに頭を掻いている。そんな様子を、綺羅はやはり無言のまま見ていた。が、やがて空のカップを葵衣に向けて、
「もう一杯もらおう」
葵衣は「すぐにご用意します」と行って厨へ走り、同じものを作って再び綺羅の元へ。当然のように毒味役が手を伸ばしたが、綺羅は「よい」と短い言葉で遮って、毒味なしで飲んだ。
「やはり、二度目も美味だな」
綺羅が味わっていると、室内が明るくなってきた。翡向が「ああ」と声を上げ、
「陛下、どうやら雨が上がったようです」
カーテンを開けると、室内が日の光で満たされた。みな一様に目を細め、明るさに慣れると、窓の外に広がる青々とした丘陵、その自然の美に見入った。
「窓も開けてみましょう」
両開きの窓を外へ向けて大きく開く。すると雨上がり独特の、青みを含んだ清浄な空気が一気に流れ込んだ。
「何もない田舎ではありますが、この景色だけは自慢できます」
その言葉に促されるように、綺羅はゆっくり立ち上がった。そして窓辺に近づく。
「お前はこの景色をいつも見ているのか……」
「え？ 何か仰いましたか？」
「いや、何でもない」
するとそれまで部屋の隅に控えていた一人の女性が、そろそろと綺羅に近づき何かをそっと耳打ちした。さっきから彼女は何か言いたげな様子で、ちらちらと葵衣を見ていたのだ。
「……なんだと」
綺羅の声と表情が変わった。それに引きずられるように、親密さが漂っていた室内の空気も一変する。
「翡向。その葵衣という者はガーディアンだな」
側近や従者たちが一斉に凍り付く。翡向は、ガーディアンを一体も所有していないことになっている。なおかつ、所有する場合は必ず、中央庁へ申請しなければならない。中央庁に黙って所有するのはご法度。謀反の意ありと見なされても申し開きはできない。
「余のガーディアンの目は誤魔化せぬ」
綺羅に耳打ちした女性は、彼が所有するガーディアンだった。それゆえ、すぐに気付いたのだろう。葵衣の身体が、細胞移植を受けていると。
「何か、言うことはあるか」
じわりじわりと、室内の温度が下がってゆく。綺羅の冷酷な暴君としての、容赦ない粛清者としての一面が、今まさに露わになろうとしていた。
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