黒艶のGuardian
＜6＞
「いい天気だなあ。どうだ葵、久しぶりにちょっと遠出しないか」
笑顔で誘う翡向に、葵衣は難しい顔を返す。
「まだ手紙と書類の整理も終わってないし……」
「いいじゃないか。仕事には明日があるが、今日の青空は今日だけのものだぞ。もしかしたら、これが最後の青空かもしれない」
葵衣はどきりとした。翡向はただの軽口のつもりなのだろうが、国境防衛に向かう翡向を見送るたびに、これが彼の生きた姿を見る最後になるかもしれないという胸を灼く感情に耐えている葵衣にとっては、生々しく重い言葉だった。
「……そんなわけ、ないだろ」
葵衣はぽつりと返して顔を背けた。が、すぐに翡向を見上げ、
「弁当とか要るだろ？」
「いや、弁当は雪代に作ってもらった。二人分。準備万端だ」
葵衣は肩をすくめ、
「最初から行く気満々じゃないか」
「葵に断られたら、一人で淋しく花でも摘んでこようかと思っていた」
「しょうがないな。翡向に摘まれる花が可哀想だから、一緒に行ってやる」
憎まれ口を混ぜつつも承諾すると、翡向は嬉しそうに頷いた。そして、浮かれた調子で「馬の用意をしておくぞ」と言って外へ飛び出る。
「まるで遠足に行く子供じゃないか。まったく」
ぼやきつつも、口元が綻ぶのを抑えられない葵衣だった。
甘い溜め息とともに、懐かしいという言葉が漏れそうになってしまう。昔よく、翡向と訪れた場所。昼間でも鬱蒼として暗い針葉樹の森を通り抜けた先に広がる草原は、季節によっては白い花に覆われ、得も言われぬ芳香が風に乗って届く。
葵衣は何度訪れても、森を抜けた瞬間の光の洪水に新鮮な感動を覚えた。そして、今回も。葵衣は歩みを緩め、そこかしこで弾ける白光と、咲き乱れる花の共演に酔い痴れた。
「もう少し先まで行ってみるか？」
葵衣の先を行っていた翡向が足を止め、馬上から振り向いて訊ねる。葵衣はゆるりと首を振り、
「いや、ここでいい。お腹もすいてきたし」
本音は“ここがいい”だ。懐かしい場所で、思い出に浸りたい。しかしそんな感傷を覚られるのが恥ずかしかったから、こんな言い方をしたのだ。翡向は頷いて馬から降り、近くに繋ぐと、どさりと腰を下ろした。
「ああ、いい気持ちだ」
「ん……」
今度は葵衣も素直に頷いた。そして心地よい涼風に身を浸していると、記憶の襞から思い出がぽろぽろとこぼれ落ちてくる。
まだ翡向に心を閉ざしていた頃、よくここに連れてきてもらった。柔らかな草の上で大の字に寝転んで、流れる雲を数える。交わした言葉は少なかったが、同じ空を同じ姿勢で見ているだけで、通い合うものは確かにあった。
当時の葵衣は頑なだったから、それを認めようとはしなかったが、今でもこうして覚えているのだから、言葉以上に濃密なコミュニケーションが交わされていたのは間違いない。
「……葵衣。俺に言いたいことがあるのではないか？」
「え？」
思い出に浸っていたせいで、翡向の言葉を理解するのに少し時間を要した。そして、喉の奥でああ、と声を上げる。気付いていたんだな、だから今日、誘ってきたのか。
「翡向は、結婚しないのか」
予想とはかけ離れた話題だったのだろう、翡向は無防備な驚きをさらした。
「結婚？」
「伽琉羅から聞いた。誰とも結婚するつもりはないと。自分には、家庭を築く資格はないと思っているのか？」
ようやく話が見えてきたのか、翡向は淡い笑みを浮かべ、
「伽琉羅が深刻ぶって話したのか。参ったな、そんな真面目な話ではないよ。俺はいい夫、いい父親にはなれんだろうし、それに家庭を持つと色々と制約があるからな。今のように自由にはできん」
葵衣はふいと横を向いた。もちろん、これが翡向の本心でないことは承知している。でも、この上辺の理由を受け入れるべきなのかもしれない。本当の理由を追及することは、翡向の傷を抉ることになるからだ。そんなことをしても、誰も幸せにはならない。
葵衣が顔を背けたまま逡巡していると、大きな手で頭を撫でられた。
「葵衣、ありがとう」
それは唐突な感謝の言葉だったが、翡向が何に感謝しているのか葵衣には分かった。ありがとう、俺のことを考えてくれて、俺のために悩んでくれてありがとう───
葵衣はぎゅっと唇を噛み締めた。眼球が火照り、視界に靄がかかる。それでも必死に、泣いていない態を装った。が、
「結婚か……俺には縁がないが、そろそろ葵の相手も考えてやらんとなあ」
翡向の発言で一気に涙が引っ込んだ。葵衣は「ハァ？」と声を尖らせ、
「なに寝惚けたこと言ってんだよ」
「寝惚けてなどいないぞ。葵ももう十八。結婚には少し早いかもしれんが、今から相手を探しておいて損はない」
「いらないよ、そんなの」
「どうした、照れてるのか」
「違う！」
葵衣の剣幕に、少なからず驚いたようだ。翡向は目を見開いて、
「そんなに嫌なのか？」
本当の理由を言うわけにはいかぬ。一生傍にいたい人が近くにいるからとは。だから葵衣は、別の理屈を提示した。
「嫌とかそういうことじゃない。そもそも、俺なんかと所帯を持ちたがる女なんているわけないだろ。穢れた出自と不吉な色をまとった俺みたいな……」
言ってしまってから、葵衣は己の浅慮を後悔した。翡向の額に、苦悩の翳がさすのを見たからだ。
「葵衣、頼むから……そんなことを言わんでくれ」
「でも……事実だろ」
葵衣は答えてから一拍おいて、「ごめん」と小声で詫びた。そして翡向を見上げ、その濡れた目尻をそっと撫でる。
「泣くなよ。北の番犬のくせに」
「番犬も泣く時は泣く」
開き直ったような返しに、葵衣は呆れつつも笑ってしまった。すると翡向の指が伸びて頬に触れ、
「ああ、葵の笑顔は本当に綺麗だな」
「はぁ？ 春の陽気で頭がヤられたか」
いかにもバカバカしいと言わんばかりにはね付けたが、顔が赤くなっていることは自覚済みだ。翡向のストレートな言葉は虚飾のない人間性そのもので、それゆえに浸透力は大きい。今も、あっという間に葵衣の心を火照らせてしまった。
葵衣は深呼吸をして、肺の中に溜まった熱気と、若草の香りがする清涼な空気を入れ替えた。そうしてのぼせた心をほんのわずか落ち着かせると、淡々と告げた。
「翡向が結婚しないなら、俺もしないよ。だってあんた、なんにもできないじゃないか。生活能力ゼロ、いやマイナスだな。散らかしまくるから」
「生活能力ゼロは否定できんが、だからってお前にそこまで世話になるのも……」
困惑をさらす翡向を、葵衣はキッと睨んで、
「否定できないなら、黙って俺に従え。俺が一生、面倒見てやる」
翡向はきょとんと目を剥いて、瞬きも忘れた様子で葵衣を見つめた。が、やがて頭をがりがり掻いて豪快に破顔した。どことなく照れくさそうにも見える。
「参ったな。まるでプロポーズだ」
まただ。またこのストレートな言葉に、葵衣は翻弄される。
「どこにそんなロマンを感じたんだよ！」
「黙って俺についてこい、一生面倒見てやる──誰が聞いてもプロポーズだぞ」
「………っ」
何か反論せねばと口をぱくぱくさせたが、葵衣はそのまま黙り込む。そして、そっぽを向いたまま、ぼそっと言った。
「いいよ、それで。プロポーズってことで」
恥ずかしくて翡向の顔を見ることができない。もしかしたら、さすがに呆れているかもしれぬ。今のは冗談だと誤魔化そうとした時、頭に大きくて温かい手のひらが乗った。
「ありがとな、葵衣。俺は幸せ者だ」
幸せなのは自分の方だと思う。翡向と出会えて、こうして一緒に過ごすことができて、彼のおおらかな愛を感じながら生きてこれたこと。これに勝る幸せがあるだろうか。
彼がいなかったら自分は、ガーディアンにすらなれなかった廃棄物として、遅かれ早かれ朽ちていただろう。
「……なんだよ、単純だな」
「幸福なんて単純なものだ。旨い飯が食えて、ぐっすり眠れて、大事な人間が傍にいる。平凡な一日の積み重ねが、幸福を築いてゆくんだよ」
翡向はそう言って、ぽつりと付け加えた。
「戦場にいると、特にそう思う」
これは、相手が葵衣だからこそ言えたのだろう。普段の翡向は、こんな感傷的なことは決して口にしない。戦場こそ我が故郷と豪語して、嬉々として乗り込んでゆく。それこそが北の番犬だからだ。
葵衣はそっと手を伸ばし、翡向の大きく無骨な手に触れた。剣を握り、敵の生命を奪うことを宿命付けられた手。しかし本来ならば、父親がガーディアン開発者でなかったならば、この手は病める者、傷付いた者の手を握り、その生命を救うために働いていたはずだ。その意味では翡向は、葵衣以上にガーディアンという存在に人生を狂わされたのだ。
「旨い飯も、心地よい寝床も、俺がちゃんと用意しておく。だから必ず、何があっても帰ってくるんだぞ。戦場でなんて死ぬんじゃないぞ」
あの人を独りにしてはだめ───伽琉羅の懇願が脳裏で瞬く。翡向には帰ってくる場所が、待っている人が必要なのだ。
「もちろんだ。葵を残しては逝けんよ」
再び、大きな手のひらが頭に乗った。わしわしと撫でられ、いつもなら子供扱いするなと言うところだが、なぜか今は涙が出そうになる。
「ぜったいだからな。約束だからな。ずっと……最後の最期まで一緒だからな」
涙声を隠すため早口で訴えると、翡向は思わず見惚れるほど美しい笑顔で頷いた。
「ああ。ずっと一緒だ」
しかし二人の別離の時は、すぐそこまで迫っていた。
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