黒艶のGuardian
＜5＞
「翡向様、お帰りなさませ！」
明るい顔で出迎える使用人たちに、翡向は頷きを返す。そして馬上から降りると、愛馬を馬丁に預けた。
「皇帝から、どんなお褒めの言葉がありましたか？」
「さすがに今回は、貴族たちも翡向様のお力に恐れ入ったでしょうねえ」
興味津々の彼らに笑顔で相槌を打ち、邸内に戻ろうとすると、葵衣がすっと近づいてきた。
「……何かあったのか？」
胸の奥の傷付きやすい部分を、そっと撫ぜるような控え目な労わりに、翡向は思わず目を細める。
「お前の目は誤魔化せんか。いや、大丈夫だ、ありがとう」
それでもまだ葵衣は、不安げに顔を曇らせている。翡向はその頭をわしわしと撫で、
「皇帝の不興を買ったとか、そういったことではないから心配するな。ただ……己の無力を痛感しただけだ」
そう言って力なく笑うと、遅れて今到着した馬車に視線を送り、
「あの中に、女性が一人乗っている。彼女を俺の部屋に案内してやってくれ」
「女性？」
「ああ。陛下から褒美として賜った美女だ。しかしまあ、葵衣の方が綺麗だけどな」
「つまらない冗談言うな！」
ぴしゃりと言い返す声こそ勇ましいが、顔は赤くなっている。翡向は「冗談ではないぞ」と浮かれた調子で返すと、葵衣の赤い頬をさらりと撫でて邸内へ入った。
「……さて。そこに座ってもらえるかな」
翡向が椅子を指差すと、女性は言われた通りすとんと腰を下ろした。そしてじっと翡向を見返す。その顔には怯えも媚びも怒りもない。生を達観した者だけがまとえる“無”表情、ある種宗教的な無垢があった。
「この国の言葉は分かるか？」
「……スコシ、ダケ」
「そうか。ならば俺が貴女の言葉を話そう」
すらすらと自国の言葉を話す翡向に、彼女は心底驚いた様子で、
「なぜ、我々の言葉が話せるのか」
翡向は穏やかに笑って、
「貴国の文化や芸術に興味があってな。ええと……確かこの辺に……」
翡向は書棚に顔を近づけて本を探す。
「ああ、これだこれだ。さすがは葵だ。きちんと分類してあるからすぐに見つかったぞ」
翡向は取り出した一冊の本を彼女に差し出した。
「この本で勉強した」
それを見た瞬間、彼女の顔を驚きと懐古が覆った。
「懐かしい……。我々はみな、この教本で勉強する」
翡向は頷き、
「とても分かりやすく、文学的な香気もある、素晴らしい教本だ。これだけで、貴国の文化レベルの高さが分かる」
「しかしお前たちは、我々を野蛮な民族と呼ぶ」
「それは無知のゆえだ。無知は恐怖と攻撃性を喚起する。闇雲に攻撃を仕掛け、屈服させようとするのはそのせいだ。異なる文化、異なる風俗、異なる宗教を理解せず、ただ力でのみ支配しようとする姿勢こそ、野蛮と言わねばならん」
女性は、黙って翡向を見つめた。その、言葉の真偽を見極めようとするかのような厳しい眼差しを、翡向は真っ直ぐ受け止めた。やがて彼女は、視線を据えたまま、
「……もうひとつ、お前に聞きたい。お前はガーディアンについてどう思う」
意外な問いだったが、翡向は即答を返した。
「人間性に対する冒涜だ。我々はガーディアンを生み出すことによって、人間の尊厳を傷つけている。自分で自分の首を絞めているようなものだ」
「しかし先刻、妾をこの部屋へ案内した青年はガーディアンと見受けたが」
「よく分かったな。確かに彼はガーディアンになるべく細胞の移植を受けた。しかし守護契約は交わしていないし、これからも交わさぬ。彼は一人の自由な人間として生を全うするだろう」
女性は「なるほど」と低く呟いた。そして翡向を見据え、
「この野蛮な国にも、お前のような男がいることは分かった」
彼女はそう言って、ほんのわずか、薄皮一枚分だけ警戒を解いた。翡向は「それでは」と前置きして、大きな地図を広げた。
「現在、この辺りが貴国との国境ということになる。その途中に、通商の中継地となっている街がある。俺がそこまで連れて行ってやる。そこから先は、俺の使いとして通商人の一行に紛れて国境を越え、故郷へ帰るがいい」
女性はひときわ大きく目を見開き、瞬きも忘れ翡向を見つめた。
「妾を……逃がすというのか」
「そうだ」
「なぜ」
「貴女は、自害するつもりなのだろう」
無言で息を呑む。それが答えだった。翡向は、彼女の薬指に嵌められた指輪に視線を落とし、
「その指輪は、神と婚姻の儀を交わした証だろう？ 神の花嫁が、他国の、それも野蛮な国の男に穢されるなど、決してあってはならぬ。その指輪にはおそらく、神との契約を記した紙片と、毒薬が入っている」
「その通りだ。だから妾を逃がすと？」
翡向は苦笑を浮かべ、
「国家防衛という錦の御旗のもとに、これまで散々人を殺してきたくせにと言われれば返す言葉もないが。戦場では、それが俺の仕事だと割り切ることもできる。しかし戦場外の場所で非業の死を目にするのは……耐えられん」
女性は呆れたように肩を竦め、かすかに笑った。先刻までの無表情が嘘のような、表情豊かな仕草だ。
「お前は優しすぎる。軍人には向いていない」
「はは。つい先日、同じことを言われた。貴女を案内した青年に」
翡向は笑いながら、地図を畳んで彼女に渡した。
「今夜はここで休むといい。隣の部屋が客人用の寝室になっている。明日の朝、早く出立する。いいな？」
「承知した」
彼女の返答を聞いた翡向は立ち上がり、「では」と言って部屋を出ようとした。その背中に、思慮の色濃い声が掛かる。
「翡向。お前はこの国を愛しているか」
唐突な問いだったが、翡向は驚くことなく「もちろんだ」と冷静に返す。
「ならば、あの男を殺すべきだ」
彼女の声に、不要な強張りも芝居がかった抑揚もなかった。恬淡とした物言い。だからこそ、翡向は惹き付けられた。ゆっくりと振り向き、彼女と向かい合う。
「この国は、芯が腐っている。見せ掛けは大木だが、このままでは遅かれ早かれ倒れる。その地位に相応しくない者が、玉座に居座っているからだ」
「俺にどうしろと」
「それは、お前が考えることだ」
翡向は額を押さえ天を仰いだ。が、すぐにくくっと笑い、
「名前を、教えてくれないか」
「妾の名か？ 那由他（なゆた）だ」
「那由他……一千億の星……」
翡向は大きく息を吐いて、彼女を見つめた。
「貴女の言葉、胸に留めておこう」
翌朝早く、翡向と那由他は連れ立って出立した。葵衣は二人を見送ると、軽い朝食をとって翡向の書斎にこもり、手紙や書類の整理を始めた。翡向の秘書としての務めも、葵衣が果たしていたのだ。
仕事に没頭していると、いきなり扉が開いて人が入ってきた。伽琉羅だ。
「あら、翡向は？ いないの？」
彼女も、この書斎へ入ることを許されていた。部屋を見渡して翡向がいないことを確かめると、
「まだ寝てるとか」
「いや。今朝早く出かけた」
いきさつを簡単に説明すると、伽琉羅は苦笑を浮かべ、
「せっかく皇帝から美女を拝受したのに。律儀な男ねえ」
葵衣も「はは」と笑って肩をすくめ、
「あなたに対する配慮もあるのでは」
「私に？ どういうこと？」
不思議そうに首を傾げる伽琉羅に、葵衣は戸惑いつつ答えた。
「え、だって、結婚前に愛人なんて、いくら皇帝からの褒賞でも……」
伽琉羅は「ああ」と合点がいったように声を上げると、肩をすくめて「結婚はしないわよ」とあっさり言った。葵衣は驚いて立ち上がり、
「な、なんで？ まさか愛想を尽かしたとか。いや、確かに翡向はだらしないし片付けもできないし、放っておいたら平気で三日ぐらい風呂に入らないし、女性を喜ばせる気の利いた言葉も一切吐かないかもしれないけど、でも誠実で───」
伽琉羅が肩を震わせて笑っているのに気付き、葵衣ははたと我に返り口を閉ざした。
「くくく……ああもう、翡向はほんとに幸せ者ね」
「なっ、何を……」
赤い顔でキッと睨む葵衣に、伽琉羅は優しく微笑み、
「翡向は私とも、誰とも結婚しないわ。結婚して家庭を築く、そんな普通の幸せは、自分には分不相応だと思っているの」
「なんで……まさか、自分がガーディアン開発者の息子だから？」
「ええ。生命を冒涜した罪深い人間の血を継ぐ者が、家庭を持つなんてできないって」
「翡向には何の罪もない」
葵羽はきっぱり言ったが、と同時に胸の奥がじくりと痛んだ。翡向がガーディアン開発者の息子であることを知った時、自分も口を極めて罵ったからだ。おぞましい人体実験者の息子、あんたにも穢れた血が流れているんだ、と。
もちろん今はそんなこと露ほども思っていない。しかし言われた方は忘れられないだろう。傷は癒えぬまま、今も血を流し続けているに違いない。
「私もそう言ったわ。でもこればかりは、他人が何を言っても無駄だと分かった。子供の頃の強烈すぎる体験が、彼に植え込んだ罪悪感は並大抵のものではないのだと。父親の研究室に次々と連れてこられる検体。翌日には死体となって運び出される者もいた。その中には、自分と同い年くらいの子供も。細胞の移植と浸潤による苦痛を訴え、助けを求める悲愴な声に対し、自分は何もしてあげられない。その無力感と自責の念は一生消えない、そう言ってたわ」
葵羽は唇を噛み締めた。ガーディアンに改造された者の苦しみが当人にしか分からぬように、すぐ傍で苦痛に喘ぐ者を見殺しにするしかない者の懊悩も、当人にしか分からない。
「だからね、葵衣。あの人をお願い。傍にいて支えてあげて」
「俺が……」
「そう。あの人を独りにしては駄目。独りになったらきっと、生に対する執着を捨ててしまう。事実、あんたを引き取る前は、敵陣に一人で乗り込んだり、かなり無謀なこともしてたのよ。いつ死んでも構わないって。そう、翡向には一緒に生きる人が必要なの。それに相応しいのは、葵衣、あなたよ」
葵衣はああ、そうか、と喉の奥で呟いた。伽琉羅は翡向を深く理解し、心から愛しているのだ。
そして葵衣は嫉妬した。彼女の愛の深さに。自分はそれを超えられるだろうか。まだ自信は持てないが、しかし、
「分かりました。俺は何があっても、翡向の傍にいる。彼を“あちら側”へは行かせない」
伽琉羅は「よかった」と破顔し、葵衣に駆け寄った。そしてぎゅっと抱き着くと、
「やだ、あんたこんなに背が高かったっけ。いつの間にか追い越されちゃったわ」
そう言って、くすぐったそうにふふっと笑った。
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