黒艶のGuardian
＜4＞
「……死屍累々だな」
「まったくだわ。戦場の方がマシってやつね」
葵衣たちは呆れたように呟きながら、広間に転がって大鼾をかいている酔漢たちの上に毛布を掛けた。放っておいてもいいのだが、これでも一応、翡向を支える有能な部下たちなのだ。
「翡向は？」
翡向もその辺に転がっているだろうと思ったが、見当たらない。葵衣の問いに、雪代は「さあ？」と首を傾げた。すると別の使用人がにやにや笑いながら、
「伽琉羅さんと寝室ですよ。野暮なことは聞かないように」
「あ、ああ。そうか」
翡向と伽琉羅の付き合いは長く、時期はまだ未定だったが、いずれ二人は結婚するだろうとみな思っていた。
「俺も、そろそろ休むよ。それじゃ」
葵衣はそう言ってくるりと背中を向け、早足で広間を後にした。
「……あんた、余計なことを」
雪代に軽く睨まれた使用人は、その理由が分からず瞬きを繰り返す。雪代は視線を外して溜め息をつき、
「世の中、うまくいかないものだねえ」
「見るたびに綺麗になっていくわねえ」
「あ？ 俺がか？」
「寝言は寝て言いなさい」
伽琉羅はぴしゃりと叩き付け、寝台の上で身体を起こした。そして毛布の端を引っ張り上げ、剥き出しの乳房を一応隠す。そして溜め息をついた。
「葵衣よ。決まってるでしょ」
途端に翡向の顔は緩み、うんうんと何度も頷いた。
「だろう？ 綺麗なだけじゃないぞ。読書家で勉強熱心だし、性格はまあちょっとキツいところもあるが真面目で優しい。いい子に育ってくれたものだ。まだ早いかもしれんが、あれももう十八。いずれいい相手を見つけてやらんとな」
そう言う翡向の顔は、子を溺愛する親の顔そのものだった。伽琉羅は二度目の溜め息をつく。
「なぁんにも分かってないのねぇ」
「ん？ なんか言ったか？」
「別に。それより翡向。あんた、葵衣と『守護契約』を結んでおいた方がいいんじゃない？」
伽琉羅の言葉に、緩んでいた翡向の顔が険しく強張った。
「どういう意味だ」
「どういうもこういうも、そのままの意味よ。葵衣は誰とも契約を交わしていない。ということはつまり───」
「そんな必要はない。武器変容しないのになぜ契約の必要があるんだ」
普段より一段低い声は、感情を抑えようとしていることの表れだろう。この話題が翡向を不快にさせるであろうとは、伽琉羅も分かっていた。
ガーディアンとその所有者であるガーディアンマスターを結び付ける基盤、それが『守護契約』だ。
母体（ガイア）の組織を移植されたガーディアンは、個体によって差はあるが、三カ月から半年で組織が完全に浸潤し安定する。その後、土台である人間の身体と母体の組織が最も深く融合している『核層』の一部を切り取り、それを所有者の身体に植え付ける。これが『守護契約』だ。そうすることで初めて、マスターは自らの意思でガーディアンを武器召喚することができる。
ガーディアンは、マスターの意思に逆らうことはできない。召喚されれば、否応なしに武器変容する。剣が意思を持たず、鞘から抜かれれば武器となるのと同様だ。
「契約を交わしたら、必ず武器変容しなくちゃいけないわけではないでしょ。ただ、所有者をはっきりさせておいた方がいい。葵衣の所有者はあんただってことを───」
「葵衣は人間だ。誰かに“所有”されるものではない」
翡向は重々しく告げると、この話は終わりとばかりに背中を向けた。伽琉羅は声に出さずやっぱりダメかと呟くと、自分も背中を向けて布団へ潜り込んだ。
その二日後。翡向は皇帝の居する中央殿へ出向くことになった。皇帝からの召命がかかったのだ。
今回の国境防衛に対する労いと褒賞が受けられると分かっていたが、にもかかわらず腰が重くなってしまうのは仕方ないだろう。相手は“普通の”帝ではない、あの綺羅なのだ。神経質なほど慎重に振る舞う必要がある。
もし自分が何らかの理由で綺羅の不信を買い、粛清の対象になったとして、翡向としてはそれも運命と鷹揚に受け入れることができたが、ただそうすると、邸で働く使用人たちが路頭に迷ってしまう。いやそれならまだしも、連帯責任という名目で使用人たちまで処刑される可能性も否定できぬ。
血の繋がった家族がいない翡向にとって、彼らは家族同然。翡向がうつけを演じ、北の番犬として命を賭して国境防衛に当たっているのは、“家族”を守るためともいえるのだ。
「やれやれ。本でも読んで過ごしたかったがな。仕方あるまい」
翡向はぼやきつつ身支度を整えた。
「あ、葵衣。翡向様を呼んできて。中央殿から迎えが来たわ」
「ああ、分かった」
葵羽は翡向の部屋へ急ぎ、一応ノックしてから応えを待たず扉を開けた。
「翡向、中央殿から迎えが……」
「おお、そうか」
翡向は頷いたが、葵衣の前でぴたりと足を止め、
「どうした、葵。顔が赤いぞ」
「え？ 気、気のせいだろ」
素っ気なく返してふいと顔を背ける。そうするしかできなかった。正装した翡向の威容と光輝にあてられて、鼓動が速まったなど死んでも言えぬ。
「……正装した姿を見るのは久し振りだな」
顔を背けたまま葵衣がぽつりと言うと、翡向はからかい混じりに、
「どうだ、似合うだろう。惚れ直したか」
「誰が！ 馬子にも衣装だと思ったんだよ」
「はは。褒め言葉と受け取っておこう」
翡向はそう言って、実際嬉しそうに笑った。葵衣はひそかに呼吸を整えてから、顔を上げて再び翡向と向き合った。
彫金の施された喉当てや、貴石が縫い込まれた腰帯、螺鈿細工の手甲といった装飾品は、なるほど見事なものだ。しかしそれらは、翡向の彫刻のような身体を飾るからこそ、輝きを発揮するのだ。
葵羽は無意識のうちに目を細めた。きらびやかな装飾品が眩しかったからではない。光の粒子を含んだ翡向の銀髪が、いや、その存在自体が神々しくて、目の奥に鈍痛がともる。自分の黒に染まった瞳には、翡向の輝きは重荷なのだ。
いつだったか、翡向の部下が言っていた。あの方はまさに軍神。戦場にいるだけで、我々は勝利を確信できるのだ、と。葵衣は戦場を経験したことがないが、それでもその言葉は理解できるような気がした。
「さて。中央殿からの迎えをあまり待たせると、謀反の兆候ありと見なされるかもしれん。行ってくるか」
翡向は重厚な装いには不釣合いな軽口を叩くと、葵衣に「行ってくるよ」と言い置いて部屋を出た。
中央殿は、皇帝が政を行ういわば国の中枢。国防や軍事の方針もここで決められるが、その決定に翡向を初めとする軍人は一切関わることができなかった。
全ては皇帝と一部の貴族による閉鎖的な御前会議で決定し、軍人はそれを忠実に実行するだけ。ゆえに机上の空論めいた、およそ現実味に欠ける作戦が強いられることもあった。
それを現実的な計画に練り直し、成功へ導くための道筋をつけることが現場では求められる。その結果、作戦が失敗すれば軍の力不足、成功すれば作戦立案者の功績となるのだから、兵士たちが不満を溜め込むのも当然だった。
しかし、東方軍のクーデーター失敗、その後の凄惨極まる粛清が重しになり、今のところ公然と不満を口にする者はいない。しかし腹の中は推して知るべし。ちょっとしたきっかけさえあれば、いつ暴発してもおかしくない不穏な淀みを、翡向自身も敏感に感じ取っていた。
中央殿に足を踏み入れた翡向は、かすかに眉根を寄せて鼻をひくつかせた。甘ったるい匂いが充満している。貴族たちが肌に塗りたくっている香料の匂いだろう。
動物性の貴重な原料を使った高価な香料なのだろうが、翡向の邸の周辺に咲く花や、木々の間を通る風が運ぶ自然の薫り、その芳しさには到底及ばない。
すでに帰りたくなってきたが、もちろんここで踵を返すわけにもいかぬ。翡向は、不愉快な臭いをなるべく取り込まぬよう、呼吸を意識的に浅くした。
「ほら、あれが北の……」
「蛮族どもを蹴散らしたって」
「へえ、頼もしい。でもちょっと怖いなぁ」
貴族たちは遠巻きに眺めて、こそこそと言葉を交わす。しかし翡向は一切気にせず、案内人の後を悠々と歩いた。
そして拝謁の間へ。まだ空の玉座の前で素早く両膝をつき、頭を下げて皇帝の入室を待つ。この姿勢になるたびに翡向は、まるで斬首前の罪人のようだと思うのだ。
そのままどのくらいの時間が経過しただろう。もちろん、顔を上げて時間を確かめるなどご法度。何分、何時間でもこの姿勢を維持して、皇帝がおわしますのを待たねばならないのだ。やがて、
「上げろ」
感情の磨滅した無機質な声が、頭上から降ってきた。翡向は一拍おいて、いかにも畏れ多いと言わんばかりにそろそろと顔を上げた。
膝をついた姿勢は崩さず、皇帝、綺羅に視線を向ける。綺羅はきらびやかな刺繍の施された長衣をゆったりとまとい、寛いだ姿勢で座っていた。
その左右には、昏い目をした若い女性が控えている。二人ともガーディアンだろう。皇帝はいかなる時も複数のガーディアンを携えていた。噂によると、100を超える数のガーディアンを所有しているらしい。自ら戦場へ赴くわけでもないのに、武器ばかり集めるとは滑稽だと翡向は内心嗤っていた。
綺羅はわずかに身を乗り出し、翡向と視線を重ねる。その動きに合わせて、腰まで届く金糸の髪がさらりと霊妙に鳴った。
ジェードグリーンの瞳は硝子玉のようで、硬質な輝きが蓋をしてその奥にあるはずの人間性が窺えない。滅多に動かぬ表情筋のせいで、喜怒哀楽がすっぽり抜け落ちた顔は、端整ではあるがどこか人形めいて不気味だ。
剣の達人でもあり、日ごろから鍛錬を欠かさぬ身体は程よい筋肉がついているが、精悍さは感じられぬ。それは恐らく、その身体をべったりと覆う澱のような倦怠のせいだろう。全てが思い通りになるということが、どれほど退屈で疲れることなのか、彼を見ていればよく分かる。
「今回の国境防衛、実に見事だったな。我が軍の被害は、わずか20名の負傷者のみだったと」
まるで感情のこもっていない賛辞に、翡向は深々と頭を下げ、
「畏れながら、申し上げます。このたびの国境防衛は、緻密且つ大胆な作戦計画があればこそ成し遂げられたもの。我々は、このような作戦をお与えくださった陛下にただ感謝と畏敬の念を抱くばかりであります」
口先だけの世辞に、計画策定に関わった貴族たちは得意気に頷いた。しかし綺羅は眉間に淡い皺を刻み、
「翡向、その変に畏まった話し方はやめろ。虫唾が走る」
その場に緊張が走る。貴族の中には、自分が不興を買ったかのように青ざめている者も。しかし翡向はがりがりと頭を掻いて笑い、
「これは失礼しました。やはり俺のような無骨者には不釣合いでしたね」
するとほんのわずかだが、綺羅の口角が上がった。途端に緊張が緩んだ。
「褒美は何がいい。遠慮は要らん、言ってみろ」
「そうですね。では、とびきりの美女を一人」
周囲から溜め息が漏れ聞こえた。やはりこいつは、酒と女にしか興味のないうつけ者だと呆れたのだろう。
「実は、懇意にしていた可愛い女が愛想を尽かして出ていっちまいましてね。淋しくて淋しくて」
「陛下の御前で下世話な話をするなっ」
側近の叱責に、翡向は「失礼しました」と首を縮めてみせた。しかし綺羅は別段不愉快な顔も見せず、
「領地からの徴収物に、なかなか美しい女がいた。好きにするといい」
「それはそれは。ありがたく頂戴いたします」
翡向は頭を床に付きそうなほど下げた。綺羅はそれをちらと見下ろすと立ち上がり、退出しようとした。その時、綺羅の左側に控えていた女性がくずおれるようにして倒れ込んだ。その場は騒然となったが、綺羅は表情を変えずそのまま退出した。
「起きろ、起きんか！」
側近の一人が怒りも露わに、倒れた女性の身体を揺さぶった。が、「ひぃっ」と弱々しい悲鳴を上げて後ろに飛びのく。女性の指はぐずぐずに崩れ、手が丸太のようになっていた。
「なななんだこれはっ」
翡向はゆっくり立ち上がって近づき、
「臨界点を超えたんですよ」
「なんだと？」
「武器変容を繰り返すと、移植された細胞の浸潤がさらに進み、人間としての肉体を保つことが困難になる」
翡向の言葉通り、女性の身体はさらに崩壊していった。先刻翡向は、彼女を見た時から限界が近いことを察していた。
「よほど、酷使されたのだろうな」
中央殿ではガーディアンの鍛錬と称して、定期的に試合形式の戦闘訓練が行われていた。しかしそれは、実質的には貴族の娯楽のようなものだった。兵士を一対一で闘わせ、どちらが勝つか賭けの対象にするのだ。
そしてその戦闘訓練には、皇帝自ら参加することもあった。ガーディアンを使った戦争ごっこ。しかしガーディアンにとっては、本物の戦闘も“ごっこ”も変わらない。武器変容すればそれだけ消耗し、細胞浸潤が進む。やがて訪れるのは肉体の崩壊だ。
「ご……ろじ…て……」
細かく震える唇から、必死の嘆願が漏れる。殺して、と。細胞浸潤の苦痛は、経験した者にしか分からぬ。生きたまま身体を内側から喰われる痛みなど、誰が知り得ようか。
しかし翡向にはどうしてやることもできぬ。その左胸に剣を突き立ててやれば、この苦しみを終わらせることもできようが、今は武器を携帯していない。いや、もし持っていたとしても、この中央殿で勝手に抜刀すれば、あらぬ嫌疑をかけられる恐れがある。
「すまん。俺にはどうしてやることもできん……」
すると、もう一人控えていたガーディアンが傍らに膝をつき、衣服の下に隠し持っていたナイフで彼女の喉を突いた。
「なっ、何をする！」
側近たちは飛び付いてナイフを奪い取ったが、刺された方はすでに安らかな顔で事切れていた。
「この女……陛下のお傍でナイフを隠し持っていたとは。憲兵に引き渡せ！」
拘束されても抵抗するそぶりも見せず、ガーディアンは大人しく連行されていった。堂々と、前を見据えて。
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