黒艶のGuardian
＜3＞
「おおーい、葵。風呂入ったぞぉ」
声を掛けられ振り向けば、ゆったりとした部屋着をまとった翡向がくつろいだ笑みを浮かべていた。
「あ、ああ」
翡向は普段、葵衣のことを『葵（あお）』と呼ぶ。彼だけが口にする特別な呼び名は、葵衣の胸に複雑な漣を生じさせた。嬉しくてくすぐったくて、そんな自分が恥ずかしい。6年間も一緒に暮らしていて、いい加減慣れろと思うのだが、それがなかなか難しかった。
今も、喉の奥がずくんと疼いたが、それを誤魔化すためわざと低い声で応じたのだ。
「さっぱりしたなあ」
翡向はそう言って、さらりと髪をかき上げる。普段はひとつにまとめている髪は、緩やかに波打って肩口から垂れていた。
埃を洗い落としたからだろう、銀色の髪は貴婦人たちが好んで着ける白銀の装飾に勝るとも劣らぬ眩さで、日に灼けた肌との対比はどことなく艶めかしい。
大きく開いた衿元から覗く胸筋は甲冑のごとく逞しく雄々しく、あの胸に抱かれて果てたいと秘かに願っている女性が多いことも、葵衣は知っていた。
葵衣はほとんど反射的に目を逸らせたが、翡向は気にしていない様子で笑顔のまま、
「身体も頭も三回ずつ洗ったぞ。いやあ、驚いた。流しても流しても水がどぶの色をしていた。参った」
「そりゃ、戦場を駆け回ってたんだからそうなるだろ」
斜め下を向いたままぶっきらぼうに答えると、ふわりと石鹸の匂いが鼻孔をかすめた。顔を上げると同時に、翡向が大きく両手を広げるのが見えた。そして、強く温かく大きな抱擁。
「葵、いい子にしてたか？」
「……だから、もう子供じゃないって」
「はは、そうか。あれから六年だから、十八になるんだな」
「ああ。立派な大人だ」
そう言いながら、葵衣はそろりと抱き返した。分かってる、いくら大人だ大人だと言い張ったところで、翡向にとって自分は所詮子供。保護の対象でしかない。昔も今も、そして恐らくこれから先も。
「どうやったら対等になれるんだろう……」
「ん？ 何か言ったか？」
「……いや、何でもない」
葵衣は自分から抱擁を解き、抑えきれぬ溜め息をひとつ、ついた。そして思考を切り替え、
「酒宴までまだ時間がある。部屋で身体を休めてるといい。どうせ、今夜は浴びるほど呑むんだろ？」
「そうだな、葵に盃を取り上げられるまでは呑むつもりだ」
「盃を取り上げたら、酒瓶から直接呑むくせに」
「そんな無作法なことはしないぞ」
「無作法が服着て歩いてる男が何を。さっき、六日間風呂に入ってない身体で抱き着いてきたのは誰だよ」
「はは、すまんすまん。久し振りに葵の顔を見て、つい嬉しくてな」
こういう言葉にいちいち感情を揺さぶられる自分が情けない。必要以上に喜ぶなと言い聞かせる。
「さっき書斎を見たぞ。いやあ、綺麗だな。一瞬、ここはどこだと思ったくらいだ」
「当然だ。分類と収納に一カ月半かけたんだから。ま、三日で元通りだろうけど」
「一週間は現状維持できるよう努力する」
「俺は三日に賭ける」
葵衣は言い返してからふと目を逸らし、
「そういや、まだ言ってなかったな。お帰りなさい」
三カ月にわたって、激戦地で血と汗を流して国境を守り抜き、ようやく帰還した想い人を迎える言葉としては、あまりに日常的でそっけない。それは分かっている。分かっているのだが、可愛げのない唇は感動的な出迎えの言葉とは無縁だった。
無事に帰ってきて嬉しい、会いたかったという気持ちはおそらく、他の誰にも負けない。しかしそれを表現し伝えることができなければ、それは“無い”ことと変わらない。葵衣は、感情を素直に表せない自分の性格を恨めしく思いながら、翡向に背を向けた。すると、
「お前からのお帰りなさいが一番嬉しいぞ」
続けて、「ただいま、葵」と返ってきた。それもまた、日常的な挨拶と変わりない言葉だ。しかし幾重にも重なり凝縮された想いが、鼓膜にずしりと響く。
葵衣は背中を向けたまま、熱い息を吐き出した。本物の言葉にきらびやかな修辞は不要。それはシンプルであればあるほど、心の奥深くにすっと沁み込んでゆく。
葵衣は振り向いて翡向の顔を見据え、もう一度「お帰り」と言った。そして宴の準備を手伝うため、厨房へ急いだのだった。
「おお、来たか来たか」
日暮れとともに訪れた客人たちは、これまで翡向とともに死地をくぐり抜けてきた部下であると同時に、有能な武人、猛者たちだった。
すでに酔っている者もおり、赤い顔をして醺香をまき散らしていたが、翡向家の使用人たちはみな慣れっこで、笑顔で迎え入れた。
「皆さま、無事に戻られて本当に安心致しました。今夜はどうぞ、羽目を外して楽しんでください」
雪代の言葉に、広間に集まった男たちは盃を掲げ笑顔で応えた。広間は中庭に隣接しており、中庭との仕切りを外しているため開放的な空間になっていた。
草の薫りのする夜風が、酔いの回って火照る肌をほどよく冷ましてくれる。客人たちは寛いだ様子で酒を酌み交わし、会話に興じた。
その間を、葵衣たちは忙しく立ち働く。大酒飲みの健啖家揃いだから、銚子も皿もあっという間に空になってしまう。料理と酒をひたすら運びつつ、酔った男たちからの軽口を適当に流す。
「おお～、葵衣！ なんだ、ちょっと見ないうちにずいぶん美人になったなあ。んん？」
「まったくだ。見るたびに綺麗になってるぞぉ」
「二人とも、冗談は顔だけにしてくれませんか」
葵衣が冷たく返すと、二人の酔漢は「うおおお」と身体をくねらせて悶え、
「きたきた！ このキツい返しがまた堪らんっ」
この若干マニアックな反応は無視して、葵衣は自分の仕事に専念する。すると背後から懐かしい声が。
「はは、相変わらずだな」
葵衣はすぐさま反応した。くるっと身体を反転させて駆け寄り、
「祈夜（いりや）！ おかえり」
祈夜は彼の人柄そのままの温かな笑みとともに、「ただいま」と返した。彼は葵衣とは3歳しか年が離れていないが、翡向の片腕を務めるほどの優秀な戦士だった。
翡向の戦術をよく理解し、不測の事態にも冷静に対応する。もちろん、剣の腕もたつ。翡向はいずれ彼を、自分の後継者として北方軍の司令官に推挙するつもりだった。
祈夜は早くに両親を亡くしていたこともあり、翡向は何かと面倒を見た。葵衣が翡向に引き取られた頃はすでに寄宿舎住まいだったが、休暇になると訪ねてくるなど交流は続いた。葵衣と親しくなるのに時間はかからず、葵衣にとっては兄のような存在だった。
「今回も、かなりの勲功を上げたみたいだな」
葵衣の言葉に、控え目に首を振り、
「自分の手柄ではないよ」
葵衣は思わず吹き出す。
「まるで、翡向みたいなことを言う」
祈夜は頭を掻き、
「大将がうつったかな。でも事実だから。それより葵衣」
祈夜は少し顔を近づけ、葵衣の耳元で、
「あの人には、まだ伝えてないのか？」
その問いに秘めやかなものを感じた葵衣はあからさまにうろたえ、
「な、何をだよ」
「何をって、大将に愛しているって伝えたのか？」
「はァ？ バッカなことを……」
葵衣としては冷ややかに否定してみせたつもりだったが、真っ赤にのぼせた顔が台無しにしていた。祈夜は溜め息をついて「やっぱりまだか」と呟いた。葵衣は顔を赤くしたまま詰め寄る。
「まだ、って前提からして間違ってるから！ なんで俺が翡向を……」
葵衣の抗弁を聞き流した祈夜は、淡く笑ってもう一度溜め息をつくと、葵衣に背を向けて宴席へ向かった。去り際にちらと見えた切なげな眼差しが、なぜか葵衣の心に深く刻まれた。
給仕も一段落した頃、葵衣は中庭に出た。広間に立ち込める酒気にあたってしまったのか、身体が熱い。冴え冴えとした夜気を吸い込んで、身体を内側から冷やそうと思ったのだ。しかし葵衣はぴたりと足を止めた。
「翡向……」
月華に湮む中庭で軽く目を閉じ佇む翡向が、何をしているのか葵衣は知っている。酔いを冷ましているのでも、風の音に耳を傾けているのでもない。彼は祈りを捧げているのだ。
今回の戦いで奪った命に対する、鎮魂の祈り。神聖な静謐が彼の周囲を取り囲み、安易に近づくこともできぬ。葵衣は息を殺し、彼の祈りに寄り添うようにそっと目を閉じた。
「……葵か」
呼び掛けられ、葵衣は目を開けた。翡向は穏やかに笑ってこちらを見ている。葵羽は笑みを返さず、小さく頷いて近づき、
「あんたは……優しすぎる。軍人には向いてない」
国中の人間が、タチの悪い冗談だと思うだろう。北の番犬、比類なき武人、闘うために生まれてきた男が、軍人に向いてないだなんて。
「いつか、優しさが命取りになるようなことが起きる」
「なんだ、心配してくれるのか」
揶揄めかした言葉を返され、葵衣は表情を尖らせて噛み付いた。
「俺は真面目に言ってるんだ！」
「ああ、分かってるよ。ありがとう」
翡向は真摯な声で答えると、「自分でも分かっている」と続けた。
「俺は親父に対する反発から、軍人になったようなものだ。自ら進んでこの道を選んだわけではない」
医者でありながら生命倫理を踏みにじる行為に手を染め、ガーディアンというおぞましい生物兵器を生み出した。だから軍人という医者と対極の職業で、なおかつ父が生み出した兵器を使わないことで、徹底的に父親を否定しようとしたということだろう。
「進んで選んだわけじゃないのに、下手に功績を上げるから将軍なんかに担ぎ上げられるんだよ。しかも皇帝にまで目を付けられて。踏んだり蹴ったりじゃないか」
「はは、まったくだ」
屈託なく笑う翡向につられて、葵衣もつい笑ってしまう。しかしすぐに顔を引き締め、
「戦場でなんて、死ぬなよ」
「心配はいらん。頑丈さが取り柄だからな」
「俺が腹にナイフ突き立てても死ななかったもんな」
「ああ……しかしあれは痛かった。うん、痛かった」
しみじみ呟く翡向は、言葉に反して笑っている。あの時のことを、こんな軽い思い出話のように口にできる日が来るなんて、当時は想像もできなかったはずだ。
六年前。翡向に拾われた当時の葵衣は、誰に対しても心をぴったり閉ざしていた。普段は無表情で、笑いもしなければ怒りもしない。ただ夜になると時折パニック発作を起こし、自傷行為に走ることもあった。
鋏を持ち出して髪をざくざくと切り、身体を傷付け、先端で目を刺そうとする。黒は、罪の色。黒い髪も瞳も、自分の身体に流れる穢れた血の証だ。それに耐えられず傷付けようとする手を、翡向と雪代が押さえ込む。
他の使用人たちはみな、関わりたくないとばかりに顔を背け、しかるべき施設に預けた方がいいと進言した。
しかし翡向は決して見放そうとはしなかった。葵衣の心を開くための努力を惜しまず、少しずつ、本当に微々たる歩みだったが距離を縮めていったのだ。
夜、廃棄場の穴倉を思い出して怖がる葵衣を、翡向は抱き締めて眠った。大丈夫、怖くないぞ。お前はもう二度と暗闇に惑うことはないと言い聞かせ、己の体温と鼓動を分け与えるようにぎゅっと抱き締めた。
移植手術の後遺症で身体が痛む時は、一晩中さすり続けた。朝は葵衣が目覚めるのを待ち、おはようと挨拶を交わしてからベッドを下りるようにした。昼間は時間さえあれば、他国の独特の文化や風土の話をして聞かせ、葵衣の知的好奇心を刺激した。
そしてようやく、葵衣の顔に笑みと輝きが宿り始めた時だった。使用人の一人が口を滑らせたせいで、ガーディアンの生成法を発明したのが翡向の父親であることが、葵衣に知られてしまったのだ。
自分をこんな身体にした原因を作ったのが、翡向の父親だった。葵衣は裏切られたと思った。それまで与えてくれた優しさの全ては偽りだったのかと。
しかし葵衣は、本当は分かっていた。翡向の愛情は本物であると、心の底の底ではちゃんと理解していたのだ。傷付いたのは感情の表層だけで、翡向に対する信頼に亀裂が走ることはなかった。にもかかわらず、感情に振り回された葵衣は翡向を詰った。
翡向は苦渋の表情で、黙っていたことを詫び、葵衣を宥めようとする。葵衣は受け入れず翡向の身体に拳を叩き付け、あんたを許さないという呪詛とともに、手近にあったナイフを翡向の腹に突き立てたのだ。
あの時の、手に伝わった生命の感触は鮮明に覚えている。葵衣は瞬きを忘れ、じわじわと視野を染めゆく鮮紅を見つめた。と同時に、口から悲鳴とも咆哮ともつかぬ叫びが迸る。その時、翡向は何と言ったか。
『お前の痛みはこんなものではなかっただろう。すまなかった』
労わりと慈愛に満ちた言葉が、葵衣を正気に返らせた。震えながらも医者を呼びに飛び出し、治療の甲斐あって翡向は一命を取り留めたのだ。
その夜、葵衣は翡向の傍を離れなかった。とめどなく流れる涙を拭いながら、ごめんなさいと何度も詫びる葵衣。翡向はその頭を撫でながら、
『親父は、自分が作ったガーディアンに殺された。俺は自業自得だと思ったよ。もし今回、同じ結果になっていたとしても、俺は自業自得と思っただろうな』
その言葉で葵衣は、翡向の心に爪を立てる罪悪感がどれほど深いものか、ガーディアン作成者の息子であることをどれだけ恥じているか悟ったのだ。
翡向は怪我について、事故だと言い張った。誰に非があるわけではないと。負傷した本人がそう言うのだから、軍警もそれ以上は追及できず、不運な事故ということで片付けられた。
それから葵衣は、翡向の怪我が快癒するまで献身的に看護した。とはいえ、大したこともできぬ。包帯の交換は雪代の方が上手かったし、当時は料理など未経験。傍について薬を準備したり、身体を拭いてあげたり、窓の開け閉めをして室内の空気を快適に保つ、その程度のことしかできなかった。
それでも翡向は大層喜び、葵のお陰で傷が早く治りそうだと笑った。そして傷も全快し、再び任務に当たれるようになった頃には、二人の間に強く太い絆が生まれていたのだ。
それは現在に至るまで、一度も揺らいだことはない。しかし互いに対する感情の性質については、少しずつずれが生じてきたように思う。
それはもっぱら、葵衣の方に原因があった。むしろ、翡向は昔からほとんど変わっていない。昔もそして今も、翡向は葵衣の親代わり。葵衣は可愛い子供だった。
しかし今の葵衣に、子供らしさを感じる者はいないだろう。この六年で背は伸び、身体つきには青年特有のしなやかさと強靭さが備わった。実際、翡向の手ほどきにより、葵衣の剣の腕前はかなりのものだった。
この国では不吉とされる黒い髪も黒い瞳も、彼がまとえば星の瞬く皓夜の如く清冽と美しい。めったに曲線を描くことがない唇がたまに綻ぶと、周囲を取り巻く空気が艶を帯びる。かつては不安定で、翡向や雪代の支えがないと簡単に均衡を崩した精神は健やかで強く、青年らしい真っ直ぐな矜持がその立ち居振る舞いからも窺えた。
実際、翡向の部下の中にも葵衣の隠れファンは多く、半ば冗談、半ば本気で『黒曜石の君』と呼ぶ者もいたのだ。しかし。
「ああ、風が冷たくなってきたな。ほら、寒いから邸の中に戻っていなさい」
翡向の言葉に、葵衣はかすかに眉根を寄せ、
「大丈夫だよ。心配性だな」
「子供の頃、ちょっと冷えただけですぐ腹を壊してたじゃないか」
「子供の頃だろ！」
そう、相変わらずの子供扱い。何年たっても年齢差は縮まらないように、何年たっても自分の立場は変わらない。それを思うと胸の奥に鬱々としたものが広がるが、ではどんな立場を望んでいるのかと聞かれると、葵衣は確かな答えを返すことができなかった。
例えば、彼を補佐する部下になりたいのか、悩みを共有できる友人になりたいのか。あるいは……。
『大将に愛しているって伝えたのか？』
祈夜の言葉が脳内に反響し、葵衣は思わず固まった。
「ん？ どうした？」
心配そうに顔を覗き込んでくる翡向。葵衣の唇は意思に反してかすかにふるえ、
「俺……翡向を───」
「こんなとこにいたのね、翡向。おっかえりぃ」
月夜の興趣にはふさわしくない明るい声が響く。葵衣ははっと我に返り振り向くと、広間と中庭の境界で、軽く手を挙げ笑う女性がいた。
「おお、伽琉羅（かるら）か。来てくれたんだな」
「ええ、来てやったわよ。タダ酒が呑めるんでしょ？」
翡向は楽しげに笑うと、葵羽の脇をすっと通り抜けて彼女の元へ。そしてその肩を抱いて、邸の中へ戻っていった。
残された葵羽はしばし風に当たっていたが、やがてそっと首を折ると、給仕の仕事に戻った。
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