黒艶のGuardian
＜2＞
「は～、癒される……」
文字通り、塵ひとつ落ちてない部屋の片隅で、葵衣は達成感と清浄感に恍惚としていた。ここは翡向の書斎。書棚には分野ごとに分類された書籍が隙間なく並べられ、デスクの上には必要最小限のものが端にぴったり沿うように置かれていた。
葵衣は満足げに頷いてから、がくりと肩を落とした。
「ああ……この整然とした景色も今日までか……」
ぼやきつつもつい口元が緩んでしまうのは、雪代に指摘された通り翡向の帰還に喜びが隠せぬからだ。
「ほんとにあの人は、出したものを出したところに仕舞う、ただそれだけのことがどうしてできないんだか。出しっぱなしにしてそこら辺に投げ出して、挙げ句見当たらないから一緒に探してくれって。探しものに使う時間ほど、人生で無駄な時間はないって高名な哲学者も言ってるじゃないか。まったく……」
翡向に対する愚痴なんて、いくらでも出てくる。それは、葵衣が翡向と共に過ごした時間の濃密さを表すものでもあった。北の守護神、戦闘狂、うつけ者という表層ではなく、翡向という人間そのものを知っている葵衣だからこそ言えるのだ。
事実、貴族の間で翡向は、力だけが自慢のうつけ者と評されているが、この書斎を見ればそれがどれだけ的外れな評価であるか分かるだろう。ここには、国の内外から集められた兵法書や戦闘記、自然科学や哲学の名著、古典文学まで幅広い文献が並んでいた。
国立の図書館にもひけをとらない知識の集積。もちろんこれらの書物はただのお飾りではない。翡向は屋敷にいる時間のほとんどをこの書斎で過ごす。彼が、最小限の損害で最大の戦績を上げることができるのは、こうした研究の積み重ねによって、戦場で状況に応じた最適な戦略を常に導いているからだ。
ただ、そのことについて彼自身が口を閉ざしているから誰も知らぬだけ。事実、この書斎のことを知っているのは、ここに入ることを許されたごく僅かな者だけだ。
それ以外の者にとって翡向は、剣の達人で類い稀な武勇の持ち主ではあるが、酒と女が好きなうつけ者に他ならなかった。
葵衣は書架に近づき、黒い革張りの背表紙にそっと触れた。
『超越せる生体科学 ─守護神器概説─』
革の表紙に金の箔が烙されたかなり分厚い本だ。この書斎にある本で唯一、一度もページがめくられたことがない。葵衣は一度引き出したが、溜め息とともに戻した。そう、守護神器（ガーディアン）。これもまた、翡向がうつけと呼ばれる理由のひとつだった。
嘗て、この瑞青の国は現在の三分の一ほどの領土しかない小国で、国境付近での紛争も多く、隣国と絶えず緊張関係を強いられていた。
それが、わずか20年で侵略戦争による領土拡大を成し遂げ、現在の軍事大国と成り上がった。その最大の要因こそ、禁断の科学の落とし子、守護神器（ガーディアン）だった。
今から28年前。瑞青の西南に位置する霧深い森に、一人の翼ある者が迷い込んだ。異国では『天使』とも呼ばれるその者は、神霊力で自身の身体を自在に武器化でき、その威力は人間の振るう武器の比ではなかった。
前皇帝は、その彼でもあり彼女でもある翼ある者を、多大な犠牲という対価と引き替えに捕えることに成功。そして国中の科学者を召喚し、その細胞を人間の身体に移植して、神霊力を持つ“兵器としての人間”を造るよう命じた。
数年に及ぶ研究と生体実験の末、神霊力を持つ人間兵器、『守護神器』の製造に成功したのは、当時優秀な外科医だった翡向の父親。書棚にある守護神器に関する本も、彼の著作だ。
母体である天使は『ガイア』と呼ばれ、現在も製造工場（プラント）で生かされている。その身体の一部を人間に移植すると、細胞は恐るべきスピードで増殖する。そのまま、細胞の侵蝕に肉体が耐えられず、当初はほとんどが命を落とした。それを、臨界点ぎりぎりで留まる方法を探り当てたのが、翡向の父親だったのだ。
移植を受けてガーディアンとなった半人半天使は、所有者（ガーディアンマスター）と守護契約を結ぶことで、自身の意思とは関係なく召喚の儀によって武器化させられる。
人としての輪郭がどろりと崩れ、一振りの剣や槍、矛などに変形するさまは、守護神器を知らぬ他国の人間からすれば、恐るべき妖術か悪夢のように見えただろう。
しかし瑞青にとっては、まさに天からの恩恵。神霊力を宿した神器に人間の武器が敵うはずもなく、侵略戦争で次々と戦果を上げ、小国は瞬く間に軍事大国へ成り上がったのだ。
守護神器の製造方法は第一級の国家機密とされ、守護神器は次々と生み出された。生命や神に対する冒涜ではないかと声を上げる者も少数ながら存在したが、戦力の強大化という多大なる恩恵の前では、良心の声は無力だった。
ガーディアンの素体となったのは、主に親のいない孤児や犯罪者、その子供などで、それもまた反対の声が大きくならない要因でもあったのだ。
そして他ならぬ葵衣も、子供の頃に移植手術を受けた。しかし手術は失敗と見なされ、葵衣は廃棄処分となった。移植後の細胞浸潤の過程で、突然変異による『黒化』が発生したからだ。
葵衣は生来、髪の色は金で瞳はヘーゼルだったが、手術後は髪も瞳も黒に変色。瑞青では、黒は災厄の色とされているため、こんな不吉な“武器”を携えて戦場へ赴こうという者がいるはずもないと、その場で廃棄が決定したのだ。
そんな葵衣を拾ったのが、翡向だった。プラントの裏手にある廃棄場から逃げ出した葵衣は、翡向と偶然出会い、自分と一緒に来いと差し伸べられた手を掴んだのだ。
しかし葵衣は、新しい人生に過度な期待を抱いていなかった。翡向が軍人であることが分かり、自分を守護神器として所有するつもりだと思ったからだ。
黒は災いを招くと言われているが、科学的な根拠などない迷信と笑い飛ばすこともできよう。翡向はそういった図太い神経の持ち主で、タダで守護神器を手に入れたと喜んでいるに違いないと。
結果から言えば、それは違っていた。翡向は葵衣をガーディアンにするどころか、そもそもガーディアンを一体も所有していなかったのだ。それは、北の番犬と呼ばれるようになった現在も変わらない。
翡向は、軍人ならば複数体所有するのが当然のガーディアンを、今まで一度も使わずに、数々の武勲を上げてきたのだ。
しかしそれこそが、翡向がうつけ者と囁かれる原因だった。なぜガーディアンを持たないのかと訊ねる相手に対し、翡向はいつも面目ないと言わんばかりに頭を掻きながらこう答えた。
『聞こえてしまうんだよ。彼ら、彼女らの声が。痛い、苦しい、もうやめてくれ、いっそ殺してくれと。だからとても、自分で使う気になれない』
この返答を聞いた者はまず驚き、それから肩をすくめて嗤う。軍人のくせに何と薄弱な精神。北の番犬が聞いて呆れる、と。ガーディアンを使わず、己の剣技と武勇で国境を守り、蛮族を退けてきたことを称賛する者は少数派だったのだ。
翡向の耳が、武器化したガーディアンたちの声に敏感なのは事実だった。その原因は翡向の幼少期にある。
彼が両親と暮らしていた自宅兼診療所の隣には、父の研究所があった。父はそこで、ガーディアン製造の研究を行っていた。
実験体として国から与えられた人間に、母体の細胞を移植して経過を見る。細胞の浸潤は非常な苦痛を伴うもので、実験体の悲鳴や苦悶、悲嘆は、少年翡向の日常と分かち難く結び付いていた。
痛い、苦しい、助けて。耳を塞いでも、鼓膜に染み付いた声は消えぬ。じきに父は診療所を閉鎖して研究に没頭し、そんな夫に嫌気のさした母は家を出ていった。
この経験が、翡向の耳をガーディアンの“声”に敏感にさせ、それがガーディアンを使わない理由だというのは理解できるが、それは真実の一面に過ぎない。翡向がガーディアンの使用を拒むのは、深い自責の念に囚われていたからでもあった。
自分の中には、医師でありながら生命を冒涜したガーディアン創造者の血が流れている。どれほど国の発展に貢献したとしても、翡向は父の所業を肯定する気にはなれなかった。
翡向は早々に父と同じ医者となる道を捨て、軍人になることを決意した。それも、ガーディアンを使わない軍人に。そうすることで父に抵抗し、身体の中に流れる父の血を浄化しようとしたのかもしれぬ。
翡向はひたすら武芸に励み、文字通り血のにじむような努力の果てに、己の能力だけでガーディアンを超えたのだ。
葵衣は思う。翡向が自分を引き取ったのは、わずかでも罪滅ぼしができればと考えたからに違いないと。廃棄され、死を待つだけだったガーディアンのなりそこない。そんな葵衣に翡向はこう言った。廃棄、すなわちお前は自由になったのだと。そして本当に自由を与えてくれた。誰かの所有物ではなく、人殺しの道具ではなく、人間としての生を与えてくれたのだ。当然ながら葵衣は、これまで一度も武器変容（トランス）したことはない。
「早く……帰ってこいよ。それでまた、この部屋をぐちゃぐちゃにすればいい。俺が片付けてやるから」
葵衣は胸の奥の本音を吐き出すと、扉を閉めて書斎を後にした。
その日は、みな朝からそわそわしていた。無理もない。主人がもうすぐ帰還するのだ。圧倒的勝利という栄光を従えて。
「翡向様よ！」
誰かの声を合図に、使用人たちが一斉に外へ飛び出した。邸は緩やかな丘の中腹に建っている。視線を下方へ向ければ、愛馬に乗って悠々と丘をのぼってくる翡向の姿が見えた。
部下も従者もいない、一人だ。軍のトップが部下も従えずたった一人で帰還するなど聞いたことがないが、翡向はいつもこうだった。俺の護衛など要らないから、早く家族に顔を見せてやれ───長期間の遠征で離れ離れになっていた家族のもとへ、兵士たちを一刻も早く帰してやりたいという思いからだった。
「おお、わざわざ出迎えてくれたのか。すまんな」
翡向はそう言って、馬上で笑った。陽光を受けて、銀髪がひときわ眩い輝きを放つ。誰もが目を細め、口々に喜びを表した。
「お帰りなさいませ、翡向様！」
「今回も大変なご活躍だったようで」
「ご無事で何よりです」
翡向は馬を下り、彼らの言葉に笑顔で頷きながら屋敷へ向かった。が、途中でぴたりと足を止めたと思ったら、両手を広げ、
「おお、葵（あお）！ そんなところにいたのか」
迎えに出た使用人たちの後方にいた葵衣の姿を目敏く見つけ、大股で近づいてぐわしと抱き締めた。その拍子に、翡向の全身から茶色い砂埃のようなものが舞い上がる。
「ぶ、は、はッ……ちょ、翡向！ あんたすげえ臭い！ 何日風呂入ってないんだよ」
葵衣は喚きながら、抱擁を解こうともがく。すると翡向は豪快に笑い、
「ははは、ばれたか。六日は入ってないな」
葵衣はぐぐぐ…と翡向の身体を押し戻し、
「まず風呂だ！ そんな汚ない身体で部屋には入らせないからな！」
「いいじゃないか、ちょっとくらい。ベッドでごろんと……」
葵衣は髪を逆立て、
「冗談じゃない！ 絶対だめだ！ 即刻風呂！」
「わかったわかった」
翡向は頭をがりがりと掻いて笑いながら頷く。そして言われた通り、浴場のある離れの方へ向かった。
「まったく……いきなりこれだ」
葵衣はぼやきつつ自分の身体をぱんぱんはたく。すると雪代がにやつきながら近づき、
「嬉しいくせに」
葵衣は眉間にざっくり深いしわを刻んで「ああ？」と剣呑に返し、
「あんな野獣みたいな臭気放ってる男に抱き着かれて、喜ぶ変態がいるか」
「素直じゃないんだから」
勢い込んで言い返そうとしたが、それを制するように「さあて、宴の仕度仕度」と張り切って、雪代は厨房へ行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、葵衣はぼそっと呟いた。
「……そりゃ、嬉しくなくはないけど」
が、そんな言葉を否定するようにすぐさまぶんぶん首を振り、雪代の後を追って厨房へ向かったのだった。
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