黒艶のGuardian
＜1＞
少年が目を覚ましたのは、ごみ捨て場だった。濃度の高い、ほとんど液体に近いような腐臭が、全身の皮膚から浸透してくる。
『これは失敗作だ』
『こんなもの誰が欲しがるか』
『廃棄するしかあるまい』
意識を失う直前に耳にした言葉が、脳裏で瞬く。それに弾かれるように起き上がると、身体のあちこちでぐわんぐわんと痛みの轟音が鳴り響いた。
それでも彼は立ち上がり、この穴倉から脱出するため壁に手をついてのぼり始めた。見れば、指には頭皮の付いた人毛らしきものがべったりと絡み付いている。声にならぬ悲鳴を上げてそれを払い、喉奥から込み上げる黄色い液体を吐いてから、再びのぼる。
ようやく地上に降り立つと、行く当てもないまま歩き出した。
『なんて不吉な色だ。おぞましい』
『罪の色だ』
『そうだ、確かこいつの父親と母親は───』
「やめろぉぉぉぉぉぉーーー！」
そこから先は駄目だ、思い出すな！ 少年は内なる声から逃れるように走った。
本当は、体力的にも身体的にも歩くのがやっとの状態だ。組織移植を受けたばかりの身体は、苦痛だけが己の存在価値だと訴えるかのように、容赦なく痛みを湧き上がらせる。
しかし少年は走り続ける。彼を動かしているのは、立ち止まることに対する本能的な怖れだけだった。止まった瞬間、あの“声”に捕えられてそこで全てが終わってしまう、自分が壊れてしまうと分かっていたのだ。
『こいつの母親は、己の犯した罪に耐え切れず───』
「やめろやめろやめろ……」
『夫であり兄である男を自らの手で───』
もうだめだ。声に捕まってしまう。常闇が、すぐそこまで……。
その時少年に起きたのは、奇跡だったか必然の出会いだったのか。
「なんだ、お前は。なぜ子供がこんなところにいる」
立ち止まることへの恐怖心を忘れ、少年は前方のシルエットに視線を据えた。腰まで届く豊かな銀色の髪が、全てを黒色に染め上げる横暴な闇を皓然と跳ね返す。しかし顔は、夜陰に湮んで見えぬ。
「お前、どこから来た」
重ねられた問いに、少年は答えた。来た道を指差し、
「ハイキされたから、逃げてきた」
「……そうか」
その返答だけで全てを察したのか、男は思慮の痕跡が窺える低音で応えると、ゆっくりと近づいてきた。その歩みを照らすように月が現れる。
「廃棄、即ちお前は自由になったということだ」
「自由……」
「お前は誰の所有物でもない。誰かが振るう武器としてではなく、人殺しの道具でもなく、お前自身のためにお前自身の生を生きることができる」
男はそう言って、手を差し伸べる。
「俺と一緒に来い。新しい人生の始まりだ」
少年がその手を取ったのは、『自由』や『新しい人生』という光り輝く言葉に惹かれたからではない。そういった言葉に惑わされるには、少年はあまりに深い闇を抱えていた。
ただ、この男と話しているとあの声が聞こえなかった。あの声から逃れられるかもしれない。そんな淡い期待のゆえだった。
「あの、おじさん……」
声を掛けると、男はがりがりと頭を掻いて、
「おじさんはやめてくれ。まだそんな歳じゃない。俺の名は翡向（ひむか）。よろしくな、少年」
月明かりが少しずつ、男の姿を照らし出す。それを見た少年は、小さな溜め息をついた。失望の溜め息だ。男はどう見ても軍人だった。一緒に来いと言ったのは、つまりそれが目的だったのだ。少年を守護神器（ガーディアン）として所有することが。
自由というのは所詮、一部の選ばれた人間にのみ許された特権。少年は、人格を剥奪され、武器として、物として生きる己の宿命を、深い諦念とともに噛み締めたのだった。
───六年後。
その知らせがもたらされると同時に、邸はある種の狂騒状態に陥った。
「翡向様のご帰還が、正式に伝達されました！」
使用人たちから、一斉に歓声が湧き上がる。感極まって目頭を押さえる者もいた。
「よかった……。叛乱は制圧したと噂では聞いていたけど、正式な伝達が来るまでは不安で不安で……」
「いやいや。翡向様率いる北防軍は最強無敵。今回もまた、人的被害を最小限にとどめての圧倒的勝利なんだろう？ 北の蛮族どもが何度叛乱を起こしたって無駄さ」
「北の国境は、翡向様がいる限り破られることはないな」
使用人たちが興奮気味で言葉を交わす中、葵衣（あおい）は一人、難しい顔をして考え込んでいた。
「ええと、まずは酒宴の準備だな。酒はどのくらい用意しておけばいいんだ。あの人も部下たちも怪物的酒豪だからな。あとは料理……うう、仕込みにどのくらい時間がかかるか」
ぶつぶつ呟いていると、ぽんと背中を叩かれた。振り向いた先にいたのは、この邸に最も古くから仕えている雪代（ゆきしろ）という女性。彼女は、葵衣にとって母親に近い存在だ。
葵衣がこの屋敷で暮らすことになった六年前、精神的な均衡を著しく欠いていた葵衣を、翡向とともに根気強く支えてくれた。
「早速頭を悩ませてるわね、葵衣」
葵衣は力なく頷くと遠い目になり、
「この平穏で静かな日常がもうすぐ終わるんだなあと思うと、つい溜め息が……」
しかし雪代はにやりと笑い、
「嘘おっしゃい。よかった嬉しい早く会いたいって顔に書いてあるわよ」
「なッ……別に俺は嬉しくなんか……。だいたい、あれは死んでも死なない人だから。今回も特に心配なんてしてなかったし」
「はいはい分かりました。ともかく、今から酒宴の準備をしておかなくちゃね」
すると、その言葉を聞きつけた使用人たちが不満げな顔で、
「翡向様のご活躍で北の国境が守られたんだ。国を挙げて大々的な凱旋パレードや祝賀会を開くべきじゃないのか。自邸でちまちま宴をやってお祝いするだけなんて」
「全くだ。翡向様の功績はもっともっと評価されて然るべきだ。なのに───」
二人の訴えを、雪代は強引に遮った。
「翡向様はね、そういう大仰なことがお嫌いなのよ」
最古参の雪代にそう断言されては言い返せない。二人は肩を落として自分の持ち場に帰っていった。雪代は「やれやれ」とこぼし、
「お気楽な頭で羨ましいわ。凱旋パレードだって。翡向様が、どれだけ慎重に振る舞っているか全く分かってないのね」
葵衣は黙って頷く。彼女の言う通り、翡向は己の功績に賞賛が集まらないよう、慎重を期して行動していた。理由は単純。目立ちすぎて皇帝の気に障り、粛清の対象にならないようにするためだ。
大陸の中央に位置する国、瑞青（ずいしょう）の若き皇帝綺羅（きら）は、前皇帝の三男だ。つまり皇位継承の順位は第三位となる。
しかし第一皇子は不幸な落馬事故で半身不随の身となり、その後自殺。第二皇子は原因不明の病であっという間に衰弱し、灯火が消えるようにその短い生涯を閉じた。
立て続けの不幸に精神の均衡を欠いた皇后は、これは謀略だ、二人とも殺されたのだと“妄言”をまき散らし、狂疾を理由に遠い西の地にある離宮に送られ、そこで野生の毒花の花粉を誤って吸引して呆気なく死んだ。
晴れて皇位継承者となった綺羅だが、当時の皇帝、つまり綺羅の父は頑健且つ勇猛な根っからの武人で、彼の御世はまだまだ続くと思われた。
しかし狩りに出た折、突然馬が暴走し崖から馬ごと転落。岩に頭を強打し即死だった。第一皇子の事故との類似性を口にする者もいたが、綺羅が即位すると不穏な噂は消え去った。
当時、綺羅はまだ20歳に満たぬ若造で、摂政を立てる必要があったが、綺羅は拒否。意見する者を悉く粛清し、恐怖政治の土台を築くまで一年かからなかった。
もはや、皇子たちや前皇帝の死が天の采配によるものと考える者は皆無だったが、それを口にする者も皆無だった。
みな貝のように口を閉ざし、皇帝の眉間に己の運命が刻まれていると言わんばかりに息を詰めてその機嫌を窺う。眉間にわずかな皺が現れようものなら、顔面蒼白で不機嫌の理由を探して平身低頭謝罪するのだ。
斯くして綺羅は、その地位を脅かすものは全て排除した、はずだった。しかし粛清が止むことはなかった。手段は目的となり、まさに粛清こそが皇帝綺羅の存在する唯一無二の証。と同時に、彼自身の精神を安寧に保つ薬でもあった。
謀殺や暗殺により地位を得た者は、自らその影に怯えるようになる。疑心暗鬼から謂れのない罪を着せ、残酷な方法で処刑する。恐怖政治の完成だ。
「東方軍の粛清は、まだ記憶に新しいのに」
葵衣の呟きに、今度は雪代が黙って頷いた。
領土拡大の恩恵を受けるのは貴族ばかりで、軍人の地位は低く蔑ろにされているとの不満をくすぶらせた兵士たちが、東方軍の将軍を担ぎ上げて武力蜂起を企てた。しかしそれは寸前で皇帝の耳に入り、大々的な粛清が行われた。
翡向もその鎮圧に向かったが、帰還後しばらくの間は、額に憂愁の翳が張り付いていた。豪放磊落な彼には珍しいことだった。
葵衣は気を遣って敢えて訊ねなかったが、後で人づてに聞いたところによると、処刑の様子は酸鼻を極めるものだったらしい。
生きたまま四肢を切断された者、猛獣に喰われた者、火炙りにされた者。国を守るため共に闘ってきた兵士たちの酷い死に様に遭い、翡向がどれほどの心痛を抱え込んだか想像に難くなかった。
この東方軍のクーデター未遂以降、翡向はさらに慎重に振る舞うようになった。最も防衛が難しいとされる北の国境を幾度となく蛮族の侵攻から守り、『北の守護神』の異名をとるまでになったが、それを自分の功績とはしなかった。
ことあるごとに『有能な部下たちのお陰』と吹聴し、自分自身を『力だけが取り柄のうつけ者』と笑い飛ばした。それが、唯一無二の保身の方法と分かっていたからだ。
「翡向様には戦功だけでなく、人望もある。皇帝はきっと、内心穏やかではないはず。ただ、北の国境を防衛できるのが翡向様以外にいないから仕方なく生かしているだけ。翡向様がこの国に不可欠の存在であることを証明して、粛清から免れるため、北の蛮族に定期的に暴れてもらう必要があるなんて、なんか倒錯してるわね」
雪代はそう言ってから、ばつが悪そうに肩をすくめ、
「やだやだ、せっかく翡向様が帰ってくるのにこんな暗い話。やめましょ」
「そうだな。ともかく今は、全身全霊をかけて酒宴の準備をしないと。でもその前に、俺は翡向の部屋を掃除してくる」
「また掃除？！ もう十分綺麗じゃない」
雪代の言葉も尤もなのだが、葵衣は首を振り、
「塵ひとつ落ちてない状態にして、もう一度目に留めておきたいんだ。あの人が帰ってきたらどうせ、一日と経たずごみ溜めみたいになるんだから」
そう言って肩を落とす。雪代は笑いながら、労わるように励ますようにその肩を叩いたのだった。
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