優情鬼 ―『遭桜記』外伝―
＜第九話＞
夕食を終えて自室に戻った桜蘭は、満腹の狸腹を抱えてベッドの上にころんと転がった。そしてそのままうとうとしたが、机の上のテキストを見てはっと目を覚ます。
「明日の予習しなくちゃ……。あしゅのヤツ、うるせえんだもんなあ」
せめて私の授業ぐらいはきちんと予習しておきなさいと、口がすっぱくなるほど注意されていたのだ。
面倒臭いとは思うが、なるべく分かり易く教えようと熱心にノートを作って授業の準備をしている阿修羅を見ていると、あまり不真面目なのも申し訳ないと思えてくる。桜蘭はよっこらしょと起き上がって、机の前に座りテキストを開いた。
とその時、携帯がメールを受信した。
「お、恵からじゃん」
笑顔でメールを開けた桜蘭だったが、すぐに凍り付いた。それは恵からのメールではなく、恵の携帯を使って送られた脅迫メールだった。
添付されている写真には、顔が腫れ上がり、口の回りを大量の血で汚した恵が写っていた。そして、彼を助けたければ今から三十分以内に講堂裏の倉庫に一人で来るようにと書かれていた。
「くっそぉ」
迷っている暇はなかった。すぐに向かわないと間に合わない。もちろん阿修羅に打ち明けることも考えたが、言えばきっと厳しく制止される。
「ごめんっ、あしゅ」
桜蘭は部屋の電気を点け低く音楽をかけて在室を装うと、こっそり家を飛び出し学校へ向かった。
口から滴る血を手で押さえることもできない。後ろ手に縛られたまま床に転がされた恵は、時折すぅっと意識が遠のく甘美な感覚に酔った。
「寝てんじゃねえよ、おい」
尖った靴先で鳩尾を蹴られ、内臓が浮き上がるような嘔吐感に襲われる。げえげえとえずく恵を、男たちはげらげら笑って罵った。
ここまで痛め付けられ、踏み付けられても、恵の心に怒りや憎しみは湧かなかった。代わりに大きな疑問符が頭を支配する。恵は顔を上げ、男たちの後ろで夜の女王のごとき非情な目で見下ろす黎人と視線を重ねた。
「どう…してここまで……黎人……」
すると黎人は全く表情を変えぬまま、冴え冴えとした声で答えた。
「鬼は鬼らしく、これまで鬼になった生徒のようにさっさと退学すればよかったんだ。なのに君のせいで学園の秩序が乱れた。だから制裁を与えただけのことだ」
「そ…れじゃ……鬼を作っていたのは黎人だったのかっ……」
「ああ、そうさ。鬼ってのは昔から、権力者にとって都合のいい存在なんだ。邪魔な人間を鬼に仕立て上げて処刑したり、鬼に喰われたことにして陰で虐殺したり。
馬鹿で迷信深い民は鬼の実在を信じてるから、煽動するのはたやすい。うちの生徒みたいにね。鬼なんているはずないのに―――」
「いや、鬼はいるぜ」
恵は息を呑んだ。この声は……
「鬼はいる。お前ん中に」
「お、桜蘭っ！！」
厳しい宣告とともに現れた桜蘭は、まるでたった今闇から生まれたかのように濃い魔の陰翳を背負っていた。
こんな桜蘭は見たことがない。その邪悪な美に恵は魅入られそうになったが、すぐに正気を取り戻した。
「桜蘭、だめだ！ 逃げるんだ！」
黎人は桜蘭にも制裁を与えるつもりなのだろう。自分が受けた暴力や苦痛と同じものが桜蘭にも与えられるなんて耐えられない。そもそも、鬼だった自分が桜蘭の好意に甘えて親しくしてしまったのがいけないのだ。
「恵を返してもらいに来た」
静かに告げる桜蘭に、黎人は嗤笑を返して、
「もちろん、返すよ。ただし、こっちの用事が終わったらね」
言い終わると同時に、それまで成り行きを傍観していた男たちがゆっくり近づいてきた。桜蘭は素早く身構えたが、彼らに暴力的な意志は感じられず一瞬戸惑った。そのわずかな隙をついて、背後から近づいた男が大きな布で桜蘭の口を塞いだ。
「ううっ……」
桜蘭は振り解こうと暴れたが思うように躰に力が入らず、そのままがくりと膝を折った。布には揮発性の薬品が染み込ませてあったのか、鼻や喉の粘膜がひりひり痛む。
「先輩方、ここからはお好きなようにどうぞ」
邪悪な陽気さを孕んだ黎人の声が、倉庫内を毒々しく染め上げた。男たちは三人がかりで桜蘭の躰を持ち上げ、予め敷いてあったマットの上に横たえた。傍らでは岩崎と武内が、淫笑を浮かべてカメラを弄んでいる。
「何をする気なんだ……」
恵の不安に満ちた呟きに応えたのは、黎人だった。床に転がされたままの恵をわざわざ起こして、その耳元で囁く。
「知りたいかい？ これから君の親友の甲斐桜蘭君は、三人の先輩方に代わる代わる犯されるんだ」
「おかされる……？」
恵には、黎人の言っている意味が理解できなかった。黎人はくくっと嗤って、
「強姦だよ。いや、輪姦と言うべきかな。桜蘭は裸にされて、尻の穴に先輩たちの太いペニスを突っ込まれるんだ」
「なっ……ん………」
完全に思考停止状態に陥った恵は、瞬きも忘れて眼前の情景を凝視する。黎人の言う通り、桜蘭の服がゆっくり剥ぎ取られてゆく。
「で、ことが終わったら桜蘭の撮影会だ。どんな卑猥なポーズをさせようか、今から楽しみだな」
恵は大声で喚いて桜蘭の元に駆け寄ろうとしたが、すぐさま岩崎や武内に引き戻され床に昏倒した。それでも這って何とか近づこうとする。
「やめろよぉッ、桜蘭っ、桜蘭！！」
しかし背中を踏み付けられ、数センチしか進むことができなかった。
「どうして……どうしてこんなっ……」
恵の切実な問い掛けは、響き渡る冷ややかな哄笑に掻き消された。
「桜蘭、そろそろ風呂に入ったらどうだ？」
阿修羅は扉越しに呼びかけたが、返ってきたのは無反応だった。満腹で眠ってしまったのかもしれないと思い、「入るぞ」と一応断りを入れてから扉を開けた。が、部屋のどこにも桜蘭の姿はない。
阿修羅は慌てるなと自分に言い聞かせ、室内をぐるりと見回した。ベッドの上に開いたまま投げ出された携帯電話に目を留め、一番新しい着信とメールを確認すると、くるりと踵を返して部屋を出た。
「あいつめ……私に黙って……」
話せば助けに行くのを止められると思ったのだろう。
「私が……友人を見殺しにしろなどと言うはずがなかろう」
阿修羅は淋しげに呟いて、真直ぐ学校に向かった。
素肌の上を湿った手のひらや熱い舌が這い回る感覚は不快以外の何ものでもない。阿修羅との交戯で愛撫には慣れているはずなのに、ひとつひとつの動作が未知のおぞましさをもたらした。
それでも桜蘭は歯を食いしばって別のことに集中した。四肢の自由を奪っている体内の“異物”を浄化することに。それは別段難しいことではなかった。
「うっ……く……」
あと少し、あと少し。あとは体内の気の流れを整え、正常に戻すだけ。男の手が桜蘭の下着の奥に這い入り、柔らかな性器に触れようとした瞬間、桜蘭はカッと目を見開いて素早く立ち上がり、呆然とする三人の喉元に重い蹴りを入れた。そして近くにあったバットを手に取り、蹲る男たちに留めの一撃を食らわせた。
「くそッ、なんでだ！」
薬で躰が麻痺しているはずの桜蘭の大立ち回りに、岩崎と武内は慌てふためいたものの、すぐに気持ちを切り替えて飛び掛かった。しかし桜蘭の強烈な突きを食らい、「げえっ」と潰れた声を上げて呆気なく昏倒した。
「桜蘭！！」
必死にその名を叫ぶ恵に、桜蘭は力強く頷いてみせた。もう大丈夫だよ、心配は要らないから、と。
桜蘭の圧倒的な強さであっという間に形勢逆転となったにもかかわらず、黎人は先刻と変わらぬ冷静さを保っていた。感情の磨滅した無機質な瞳で桜蘭を見返す。
「学園の鬼とは、お前にとって邪魔な人間のことだ」
桜蘭も、黎人に劣らぬ冷静さを保ったまま語る。
「最初の鬼は、成績優秀な生徒会長。そして次はモデルをしている美少年。次はプロチームからも目を付けられるほどの優秀なサッカー選手。目立つ者、人気のある者が悉く標的にされたんだ」
「そうだよ。学園の人気者、憧れの的は僕一人で十分だ。僕が一番美しく、僕が一番賢い。それこそが守るべき学園の秩序だ」
「とんでもねえ独裁者だな。でもひとつ分からないことがある。なぜ幼い頃から親しかった恵を鬼にしたんだ。それに、恵はそんな目立つ奴でもないだろ？」
桜蘭の問いをきっかけに、黎人の表情が変わった。双眸はぬめった輝きを帯び、頬骨は突き出て、口端は吊り上がる。生臭い瘴気すら感じられる変貌を目の当たりにした恵は、カラカラに乾いた口から悲鳴とも呻きともつかぬ引き攣った声を漏らした。
対照的に桜蘭は、表情を変えず黎人の鬼形を見据える。ついに、黎人の内部に潜む『鬼』が姿を現したのだ。
「……僕だけのものだ」
黎人は地を這う低音で呟いて、ゆっくりと躰の向きを変えた。そして恵に正面から対峙する。その手には鈍色に輝くナイフが。
「父さんは僕だけのものだ」
「れ、黎人……」
「父さんが愛情を注ぐ対象は僕だけだ。なのにお前は途中から割り込んで、愛情を横取りした。だから制裁を与えてやるんだ！」
「やめろっ」
黎人が恵目掛けてナイフを振り下ろすのと、桜蘭が飛び掛かるのはほぼ同時だった。手首を掴んで押し戻そうとしたが、黎人の力はその細い腕からは信じられないほど凄まじく、桜蘭はその動きを止めるのがやっとだった。
「恵っ……逃げろ、早くっ……」
すぐ背後で震えている恵に呼びかけたが、生まれて初めて明確な殺意を向けられた恵は衝撃と恐怖に押さえ付けられ、立ち上がることすらままならない。
「やめ…るんだっ……お前、本物の鬼になっちまうっ……」
桜蘭の切実な訴えも、憎悪と嫉妬に狂った黎人には届かない。
「こんなことして……お前の父ちゃんが誰より哀しむんだぞっ」
「うるさいッ」
黎人は叫ぶと同時にいったん躰を引き、バランスを崩した桜蘭を突き飛ばして恵に襲い掛かった。
「恵ぅッ」
次の瞬間、刃物が躰に突き立てられる生々しい音がした。そして、
「ぅ……ぐ、ふっ………」
素早く身を翻して恵の前に躍り出た桜蘭が、口から血の泡を吹いて頽れる。その腹に刺さったナイフは、桜蘭の鼓動に連動するように小刻みに震えた。
「お、桜蘭………桜蘭ッ！！」」
恵は傍に這い寄って、桜蘭の名を必死に叫ぶ。しかし、返ってくるのは荒く苦しげな呼吸と、喉の奥で血液が逆流する音ばかり。
「い、いやだ………うわあああああああーーーーーッ」
その瞬間、周囲を灼き尽くすほどの凄まじい鬼気が迸った。
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