優情鬼 ―『遭桜記』外伝―
＜第十話＞最終話
「ひぃぃぃっ……」
黎人は恐怖に萎縮した声帯から悲鳴を絞り出し、文字通り腰を抜かしてその場に座り込んだ。そして、たった今恵の躰から“生え出た”異形の化け物を見上げた。
「お……鬼っ………」
それは、祖父の書庫にあった古書に描かれていた鬼と同じ姿をしていた。赤銅色のぬるりとした肌を持ち、瘤状に隆起した筋肉の鎧を付け、耳まで裂けた口に鋭い犬歯、瞳孔の縮んだ臓物色の眸。そして何より―――額を飾る二本の彎曲した角。
書物と迷信の中にしか生息していないと思い込んでいた化け物が、恵の延髄からずるりずるりと躰を伸ばしていた。
「よ…くも……よくもぉぉ………」
恵の口からどろどろに煮詰まった怨嗟が吐き出される。そのたびに鬼は少しずつ膨張していく。
「よくもおうらんを………」
鬼はすでに、倉庫の天井に届くまでに肥大した。しかし恵の怨嗟は止まず、鬼の依代に相応しい血走った獣の眸を黎人に据え、鼻に幾重もの皺を寄せて、怒りと憎しみをぶつける。
「ゆるさない……ころす、ころしてやる………」
恵の宣告に同調するように、鬼が腕を振り上げた。白銀に輝く鉤爪の切っ先が真直ぐ黎人に向けられた瞬間、黎人は白目を剥いて昏倒した。恐怖のあまり失神したのだ。
が、そんなことで桜蘭を奪われた恵の怒りが収まるはずもない。
「ころす……れいと……ゆるさない………」
鬼はにちゃりと嗤い、再び腕を振り上げた。その時、
「やめろ、恵。憎悪に呑まれちゃいけない」
恵は息を呑み、声がした方を振り返った。
「おう…らん……」
腹にナイフが刺さったままの桜蘭はゆっくり立ち上がり、血だらけの唇をふんわり緩めて笑ってみせた。いつもの屈託ない笑顔で。
「恵、大丈夫だ。俺はこんぐらいじゃ死なねえよ」
桜蘭はそう言ってナイフの柄を握り、一気に抜いた。傷口から血が溢れ足許はよろめいたが、それでも恵を安心させるため笑顔は崩さなかった。
「恵、お前が鬼の依代だったんだな。全然気付かなかったよ。妬みも憎しみも知らないお前の綺麗な心が、わずかな鬼気を消し去っていたのだろう」
「おうらん……ぼく………」
「心配要らない。お前なら鬼に支配されたりしない。さあ、腹の底に気を溜めて、実体化しつつある鬼精を払うんだ。俺も協力する」
差し出された桜蘭の手を掴もうと、恵は一歩踏み出した。そして手を伸ばしたが、あと少しで届くというところでがくりと膝を折り、涙の溜まった目で桜蘭を見上げた。
「もう……遅いんだ、桜蘭………」
「恵っ……」
その時、鼓膜を引っ掻くような不快極まる笑い声が響いた。鬼の哄笑。
『そう、もう遅いのだ』
陰にこもった地鳴りのような太い声が、勝利を宣告する。桜蘭はキッと見返して、
「うるせえ！ 勝手なことぬかすなっ。さっさと恵から離れろ！」
『威勢ばかりのこわっぱが。お前ごときが何をしても無駄なこと。こやつの躰と魂が我が物になるのはもはや時間の問題。大人しく我が贄となれ』
言うが早いか、鬼は桜蘭の胴回りほどもあろうかという太い腕を振り回した。桜蘭の躰は弾き飛ばされ、壁に激突してずるずると落下した。
「く…そぉ……」
傷口が完全に塞がる前に受けた攻撃は、予想以上のダメージをもたらした。止まりかけていた血が再び溢れ、視界が二重三重にぼやける。それでも桜蘭は立ち上がろうとした。すると鬼はあの耳障りな笑いをまき散らし、
『無駄だと言っているだろう。貴様ごときがどう足掻いたところで、私を倒すことはできぬ。こやつを救うことはできぬ』
「う…るせっ……恵を鬼にしてたまるかっ」
すると鬼は憐れみと侮蔑を込めて桜蘭を見下ろし、
『明王の封印より解き放たれてこやつの躰に逃げ込んだはいいが、魂を支配することがなかなかできなかった。お前が言った通り、こやつは妬みも憎しみも知らぬ。その無垢な魂に付け入る隙は皆無だったのだ。
しかし、宝珠のごとく美しい心が一瞬にして憎悪に染まった。なぜなら―――』
「――黎人が憎かった……桜蘭を……僕のだいじな友だちを傷つけた黎人がゆるせなかった……殺してやりたいと……心の底から思っ…た………」
恵の言葉に、桜蘭は鼓膜が灼かれるような痛みを覚えた。それは自責の痛みでもあった。
「俺が……お前を鬼にしちまったのか？ 俺が……俺が、俺が…………ちくしょぉぉッ………」
桜蘭は悲壮な叫びとともに、鬼に向かって突進した。しかし鋭い鉤爪の返り討ちに遭い、新たな血を滴らせて力なく喘ぐ。
『ここでお前を殺せばこやつの心は壊れ、我が鬼精と完全に一体化する。桜蘭とやら、ご苦労だったな』
再び振り上げられた腕はしかし、空中でぴたりと止まった。鬼は怒りと苛立ちに、歯をガチガチと鳴らした。
「桜蘭っ、逃げて！！」
わずかに残された人としての精神力を総動員して、恵が鬼の動きを止めたのだ。しかし、それも玉響のこと。鬼はすぐに主導権を奪い返し、桜蘭目掛けて腕を振り下ろした。
「おうらぁ…ん………」
恵の悲愴な叫びが闇に融けたその時、桜蘭の前を優雅な影がひらりと横切った。
「あ……あしゅ……」
自責の涙で濁った視界に凛然と立つ阿修羅。腰まで届く黒髪が、裸電球の脆弱な明かりを受けて艶やかな光沢を見せる。棍棒のような鬼の腕を片手で受け止め、そのままゆっくりと顔を上げた。
「一度封印された死に損ないが、随分と勝手な真似をしてくれたな」
冴え冴えとした声が、その玲瓏たる美貌により一層の凄みを与えた。禍々しく冷たく、背景の色彩すら変えてしまう。鬼は生臭い息を吐いて犬歯を剥き出し、
『貴様……我が同族か。なにゆえ邪魔立てをする』
「お前が憑いている少年は、私の大事な生徒だ。そしてお前が殺そうとした桜蘭は、私の伴侶。生かしておくわけにはいかぬ」
阿修羅の宣告を、憑依鬼は嘲笑で受け止めた。
『何と。無知は憐れ、無知は罪。この鬼齢百五十年を超える大傑鬼を相手に、大言壮語も甚だしい。あくまで邪魔をすると言うのなら、貴様も一緒に―――』
その時、静寂を保っていた闇の粒子ひとつひとつが共振するように騒ぎ出した。風もないのに阿修羅の髪はざわりざわりと揺れ、その瞳孔がみるみるうちに縮んでゆく。冷酷非情な魔棲の眸は、禍々しく美しい。嘲るように吊り上がった紅の唇から滴るは、冷ややかな最後通牒。
「たかが鬼齢百五十年のこわっぱが、この私相手に凄むとは。死して浄土は踏めぬだろうが、鬼が堕ちる無間地獄で己の愚挙を悔いるがいい」
次の瞬間、阿修羅の周囲に留まっていたわずかな鬼気が一気に膨張した。その灼けつくような波動を正面から浴びた憑依鬼は驚愕と同時に震え上がり、阿修羅の言葉通り己の愚挙を悔いた。
この桁違いの鬼気。勝機などあるはずもない。
『な…んだ、この馬鹿げた鬼気はっ………』
本能的な恐怖から、憑依鬼がいったん恵の躰に逃げ込もうとした時だった。憑依鬼の腕は肩から千切れ、赤黒い血潮を噴き出しながら床の上でびちびちと跳ねた。
臓腑が縮み上がるような咆哮を上げ、鬼は苦痛にのたうつ。それでも闘争本能から残った片腕を振り上げた。が、
『ぐ……はっ………』
それが阿修羅の頭を潰すより早く、銀色の閃光が憑依鬼の首を奔った。血飛沫が噴き上がり、闇に鮮やかな血華を咲かす。
胴体から切り離された頭はごろりと床に落ち、目を剥いたまま二、三度ガチガチと歯を鳴らしてから黒い塵となって滅えた。
おそらく、最後まで何が起きたのか分からなかったろう。右腕だけ鬼態化させた阿修羅の鋭い鉤爪が、目にも留まらぬ疾さで喉元を掻っ切っていったとは。
頭が滅えると同時に、恵の延髄から生えていた憑依鬼の躰も跡形なく滅え去った。
「お……桜蘭っ、桜蘭っ」
恵はほとんど四つん這いのまま桜蘭の元に駆け寄った。そして傍らに膝をつき、名を呼びながら激しく泣きじゃくる。
「大丈夫、大丈夫だよ、恵。さっきも言っただろ？ こんぐらいじゃ死なねえって」
「だ、だって……血が、血がいっぱい……」
桜蘭はゆっくり起き上がって、血を吸って真紅に染まったシャツをめくり上げた。そして「ほら」と言って笑ってみせる。恵はぽかんと口を開け、
「傷が……塞がってる。どうして……」
困惑を隠さず呟く恵を、桜蘭はじっと見つめた。それから視線を阿修羅に移す。わずかな視線の交錯で、二人は意志の疎通を交わした。
桜蘭は淋しげに微笑んでから、自分を鼓舞するようにふっと息を吐き、
「ごめんな、恵。俺、お前にずっと嘘ついてた。俺さ、人間じゃねえんだ。阿修羅とともに何百年と生き存えてきた、鬼なんだよ」
桜蘭の突拍子もない告白に、恵は黙って耳を傾けた。何言ってんだ、と一蹴することも、そんな馬鹿なことあるか、と嗤うこともせず。
桜蘭はこんなでたらめを言う人間じゃないと分かっていたし、腹に受けた致命傷がすでに塞がっているという事実が、人間離れした回復力を証明していた。
それにもうひとつ、恵は確かに見たのだ。壁に映った阿修羅の影が、ほんの一瞬だったが巨大化するのを。その盛り上がった額には彎曲した二本の角が、紛れもない鬼の証があった。
「俺、友だちが欲しかったんだ。一緒に学校へ行って一緒に勉強して、休み時間にバカ話して笑い合って、また明日な、って手を振って別れるような友だちが」
「桜蘭……」
「恵と過ごせてほんとに楽しかった。幸せだった。自分が鬼であることを忘れてしまうくらい。でも……結局はお前を騙してたことになるもんな。ごめんな、ごめんなぁ……」
桜蘭は涙声で何度も何度も謝罪し、叱責を待つ子供のように項垂れた。恵は何と応えてよいか分からず、ふと顔を上げる。すると桜蘭の頭越しに阿修羅と目が合った。黙って二人のやり取りを見守っている。
―――この人はこれまでずっと、桜蘭を護ってきたんだ。そしてこれからも……
恵は思い出した。桜蘭を拒まないでやってほしいと阿修羅に頼まれたことを。その時感じた、溢れんばかりの優しさ、愛情を。
「たとえ鬼だろうと狸だろうと、桜蘭は僕の大切な友だちだよ。これからも、ずっと」
恵は一点の曇りもない声でそう言うと、いつも桜蘭がするようににぱっと笑った。
「恵ぅ……」
桜蘭は俯いたまま拳で目をこしこしこすったが、すぐにがばと顔を上げ、
「狸ってゆうな！」
「ははっ、ごめんごめん」
恵はおどけた仕草で肩を竦めると、腕を広げて桜蘭を抱き締めた。
「ありがと、桜蘭。僕の……友だち……」
そのまま固く抱き合う二人に、阿修羅は温かな視線を注いだ。やがて恵は抱擁を解き、
「黎人とも、もう一度正面から向き合ってみる。たぶん黎人は、僕が保人さんの、つまり黎人の父親の子供じゃないかと疑ってるんだと思う。保人さんが僕を不動学園に入学させたことで、その疑いを強めたんだろう」
「てことは、恵とあいつは異母兄弟？」
「いや、違う。僕の父さんは、僕が生まれてすぐ病死したんだ。僕は正真正銘、父さんの子だよ。だからきちんと誤解を解いて、黎人を嫉妬の泥沼から救ってやらないと」
ナイフを握り締め、『父さんは僕だけのものだ』と繰り返す黎人は、まさに嫉妬に狂った鬼そのものだった。
桜蘭は遠い遠い記憶を透かすように目を細めた。かつては自分も、父の愛が欲しくて苦しんだのだ。愛は執着を生み嫉妬を生み、そして人は鬼になる―――
「あしゅ……」
いつの間にか阿修羅が傍にいて、桜蘭の肩を優しく抱いていた。言葉は要らなかった。桜蘭は暗い思考の澱を払い、阿修羅に向かって微笑みかける。阿修羅もまた何も言わず、目を細めて頷いた。
「気を失っている男たちのことは心配いらん。目を覚ました時には、この夜のことは綺麗さっぱり忘れているだろう。だから君は、このまま真直ぐ家に帰りなさい」
阿修羅の言葉に恵は素直に頷き、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。僕はもう二度と憎悪に屈したりしません。鬼に支配されたりしません」
「ああ。君ならきっと大丈夫だろう」
「はいっ」
恵は晴れやかな笑顔を向けると、桜蘭に手を振って、
「それじゃ桜蘭。また明日、学校で！」
桜蘭も笑顔で応じた。
「おう！ またな、恵！」
そして恵の背中を見送り、やがてそれが闇に融けて見えなくなると同時に、双眸から大粒の涙をわあっと溢れさせた。
「あしゅっ、俺、俺っ……」
「いい子だ、桜蘭。よく我慢したな」
「俺ぇ……」
泣きじゃくる桜蘭をそっと抱き締め、阿修羅は震える背中をあやすように撫で続けた。
翌日。清々しい気持ちで目覚めた恵は、素早く身仕度を済ませ学校へ向かった。長らく抱え込んでいた心の沈殿物が一掃されたような、不思議な高揚感で躰を弾ませて。
そして教室に入って自分の机に鞄を置くと、ひとつ前の空の机が目に入った。「おはよう」と言いながら近づいてきたクラス委員の水嶋に、
「なあ、あの席って誰がいたんだっけ？」
すると水嶋も首をひねり、
「さあ？ 前から空席じゃなかったか？」
「そうだっけ……」
「そうだよ。あ、どうせ空席なんだから、恵がここに来ればいい。もう離れ小島はやめようよ」
水嶋の勧めに従って、恵は席を移動した。ずっと『鬼』の定位置の離れ小島だったから、景色が新鮮だった。きょろきょろ辺りを見回してから、教科書などをしまう。その時、机に何か文字が彫られているのに気付いた。
「かいおうらん……？ なんだろ、名前かな」
恵は文字の上をそっと指でなぞった。そしてもう一度、口に出してみる。
「かいおうらん……」
その響きに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「さて、次はどの町に行ってみるか」
「そうだな。どこでもいいけど、もう学校はいいや」
淋しそうに目を伏せて答える桜蘭を、阿修羅は黙って抱き寄せた。そして、
「恵やクラスメートたちの記憶からお前のことは消し去ったが、ともに過ごした時間そのものが消えてしまったわけではない。私の術が及ばぬ心の深層には必ず、親友・甲斐桜蘭の名は刻み込まれているはずだ」
「うん……たとえ鬼でも大切な友だちだって言ってくれたもんな」
「鬼でも狸でも、だろう？」
にやりと笑って余計な付け足しをする阿修羅を、桜蘭は思い切りどついた。
「狸じゃねえって！」
「うるさいぞ。それより桜蘭、お前、倉庫に呼び出されて辱めを受けたのだろう？ どこまでされたのか、正直に言いなさい」
「されてねえって！ 未遂だよ未遂！」
顔どころか全身を真っ赤に染めて言い募る桜蘭に、阿修羅は妖艶な流し目をくれて、
「本当か？」
「本当だって！」
「ふむ。ならば後で確かめさせてもらうぞ。行為の痕跡が残っていないか、じっくりねっとり、な」
「エロ鬼！！」
お決まりの罵倒を阿修羅は楽しげに受け止めつつ、桜蘭の丸い頬にそっと口づけた。
二人の旅は、まだまだ続く―――
＜終＞
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