優情鬼 ―『遭桜記』外伝―
＜第八話＞
翌日。火傷はすでに完治していたが、不審に思われぬよう一応包帯だけ巻いて桜蘭は元気いっぱい登校した。
「おっはよー」
聞いただけで誰もが笑顔になりそうな挨拶とともに扉を開け、一歩教室に踏み込むと同時に、朝には相応しくない淀んだ重い空気がざわっと波打った。
桜蘭は首を傾げつつ自分の席へ向かって進む。すると自席の周囲を多数の生徒が取り囲んでいるのが見えた。
クラスメートだけではない。他のクラスや学年の生徒、そして水無月黎人をはじめとする生徒会の面々も揃っていた。
「桜蘭っ……」
その中から、恵が素早く駆け寄ってきた。青ざめた顔で、今にも泣き出しそうに眉を歪めて。
「たっ、大変なんだ。桜蘭の机に―――」
続きは聞かなくても一目瞭然だった。生徒たちが取り囲む桜蘭の机いっぱいに、赤いインクで大きな×印が書かれていたのだ。
これが何の印なのか考えるまでもない。新たな『鬼』の誕生を、悪趣味な鬼ごっこの再スタートを知らせる合図だった。
「どっ、どうしよう……僕のせいだ。僕が調子に乗って仲良くし過ぎたんだ。だからっ……」
自責の言葉を喉奥から絞り出す恵に黎人は冷ややかな一瞥をくれてから、肩を竦めて桜蘭に向かい、
「だから言っただろう？ 言動を改めないと鬼の餌食になってしまうと。君のためを思って忠告したのに。残念だけど、こうなってしまってはもう遅い。不動様の意志は絶対だからね。今日から学園の鬼は、君だ」
黎人の宣告に同調するように、周囲を取り巻く生徒らが一歩、二歩と後ずさった。まるで穢れを怖れるかのように。その時、
「よかったなぁ、恵。これでもうお前は鬼じゃなくなったぞ」
一体誰が、こんな言葉を予想できただろうか。その場にいる全員が息を呑んで目を剥き、桜蘭を凝視する。が、そんな張り詰めた空気をものともせず、桜蘭は彼のアイデンティティともいえる桜匂う可憐な笑みを咲かせて、
「俺は別に鬼でもいいんだけどさ、このでっかいバッテンは邪魔だなぁ」
そして鞄からタオルを取り出し、ごしごしこすり始めた。
「お、薄くなってきた。取れる取れる」
必死にこする桜蘭を暫し見つめていた恵は、自分もタオルを持ってきた。そして、
「桜蘭、手伝うよ」
「おう、さんきゅ」
するとそれまで傍観者だった水嶋が、突然肩を震わせて笑い出した。
「ははっ、甲斐君が鬼だって。バカバカしい。僕も手伝うよ」
そしてどこからかたわしを持ってきて、一緒にこすり始めた。
「そうだよなあ……甲斐君が鬼って……」
「なんか違うよなあ」
「ていうかさ、そもそも鬼って何？ 誰が決めんの？」
「不動様だってよ」
「誰だよそれ。知らねーよ」
「俺も知らねえ」
集まっていた生徒らは口々に鬼や不動様への不信を言い合っては、肩を竦めて笑った。バカバカしい、俺たちは何であんなもの怖がってたんだ？―――つい先刻まで室内を支配していた毒々しい緊張感は退き、徐々にいつもの朝の空気が戻ってきた。たった一人を除いて。
机をこすっている桜蘭と恵を射抜かんばかりに凝視する黎人の周囲には鉛色の瘴気がたちこめ、その表情は険しさを増してゆく。双眸はぬらぬら光り、頬骨は突き出て、眉は吊り上がり、まさに鬼の形相に。
「鬼は……いる。鬼は……」
地を這うような呟きに気付いたのは、桜蘭だけだった。
恵らの助けもあって、授業が始まるまでに赤い×印を綺麗に消すことができた。そしていつも通り授業を受け、休み時間を過ごし、やがて昼休みに。昨日までと何ら変わらぬ日常がそこにはあった。
「めっし、めっし、昼めっし」
桜蘭が空腹を抱えて教室を飛び出すと、阿修羅にばったり出くわした。阿修羅は心配げに眉をたわめ、
「桜蘭、聞いたぞ。お前の机に『鬼』の印が付けられていたそうだな」
「ああ、あれ？ でももう消しちゃったよ。恵とか水嶋が手伝ってくれたんだ」
あっけらかんとした口調でそう言って微笑む桜蘭を、阿修羅は驚きを隠さず見つめた。桜蘭は澄んだ目で見返して力強く頷き、
「大丈夫だよ、あしゅ。心配いらない」
桜蘭の言葉を吟味するように重い沈黙を保っていた阿修羅だったが、すぐに柔らかな笑顔を咲かせた。
「そうか、分かった。いい友だちを持ったな」
「うん！」
桜蘭は元気に答えて、前方で待っている恵や水嶋たちの元に駆けていった。そしてはしゃぎながら学食へ向かう。そんな彼らの背中を見送った阿修羅は唇を綻ばせつつも、胸が音をたてて軋むのを感じた。
我らは人にあらず、ゆえに人と深く関わること勿れ―――
阿修羅は小さく頭を振って、喉奥に凝る訓言を呑み込んだ。
桜蘭が『鬼』になって一週間、これまでと何ら変わらぬ毎日が平穏に過ぎていった。クラスメートはもちろん、他クラスや他学年の生徒も桜蘭が鬼だと知っていたが、もはや胡乱な目で見る者はいなかった。
正体の分からぬ『鬼』への恐怖から解放された彼らは、まるで悪い夢から醒めたかのようにみな晴れ晴れとした顔をしていた。学園は正常を取り戻しつつあったのだ。
そんな毎日を、恵は信じられないような思いで過ごしていた。鬼と蔑まれ苛められ、友だちはおろか話し掛けてくれる人もいない絶対的な孤独を輩（ともがら）に、暗く憂鬱な学園生活がずっと続くに違いないと覚悟していたのだ。ほんのひと月前までは。
それが今ではどうだ。桜蘭というかけがえのない友人を得て、毎日が楽しくて仕方がない。特別なことが待っているわけでもないのに、明日が待ち遠しい。恵はそんな自分の変化に面映いものを感じつつ、足取り軽く帰宅した。
水無月家の敷地内に間借りして住んでいる恵は、家人用の裏門をくぐって離れに向かった。すると中庭の向こうから名前を呼ばれた。
見れば、広い縁側に座っている水無月保人（やすと）が笑顔で手招きしている。恵はわずかに躊躇したものの、素直に駆け寄った。
「お帰り、恵」
保人は水無月家の当主、つまりは黎人の父親だった。若い頃から病弱で線も細く、繊細すぎる神経を持て余しているようなところがあった。現在も臥せっており、母屋の自室で一日中読者や書き物をして過ごしていたのだ。
「外に出て大丈夫なのですか？」
「ああ。今日は気分がいいんだ」
その言葉通り、白皙の面てには病の蒼い兆しではなく、生命の活発な活動を示す仄かな赤みが差していた。保人は息子の黎人を凌ぐほどの美貌の持ち主で、こうして微笑っていると旧家の当主というより溌剌とした美青年に見えた。
「恵、学校は楽しいかい？」
唐突な問いに面喰らったものの、恵は笑顔で「はい！」と答えた。すると保人はその答えを噛み締めるように頷いて、
「よかった。ずっと気になっていたんだ。僕は余計なことをしてしまったのではないかと」
「そんな、余計なことだなんて……」
「不動学園に通い始めてからの君は、ずっと暗い顔をして塞ぎ込んでいただろう？ 確かに教育レベルは高いかもしれないが、校風はあまり上品とは言えないからね。僕も六年間通っていたから分かるけど。でも最近の恵はとても楽しそうだ」
「はい、素晴らしい友人ができたんです」
保人はまるで自分のことのように喜んで、
「それはいい。友人は宝だよ。大事にしなさい」
その言葉を恵は恭しく受け取った。そして保人をじっと見つめ、
「あの……僕を不動学園に通わせてくださって、本当にありがとうございます。将来必ず、このご恩に報いたいと思ってます。僕、がんばります！」
保人は淡い春光を想わせる微笑みを浮かべ、恵の頭をぽんぽんと撫でた。二人の間に通う親密な空気が、背景の色彩まで優しくまろやかに見せた。
しかし、そんな二人を物陰から窺う黎人を取り囲む空気はひたすら暗く冷たく、そしてわずかながら狂気を秘めていた。
時刻は黄昏、逢魔が時。広く豪奢な寝台の上で、裸の三人が濃厚に絡み合っている。
そのうちの一人は黎人だった。仰向けに寝ている男の上に跨がり、いわゆる騎乗位の体勢でまぐわっている。
スプリングを利用した激しい上下運動を繰り返し、自ら蜜壺の奥を穿つ。かすかに汗ばんだ白い肌が、群青色の若い闇の中でぬるっとした爬虫類めいた光沢を帯びている。
黎人は唇を舐めて淫蕩な笑みを浮かべ、括約筋をぎゅっと締めた。すると男は「うぐっ」と野卑な呻きを漏らし、自らの不甲斐なさを誤魔化すように「今日は凄えな。何があったんだ？」と揶揄めかして訊ねた。
もちろん黎人は無視して腰を振り続ける。一人お預けを食らっている三人目の男は、黎人の背後から腕を回してその乳首や性器をクチュクチュと弄り、ささやかながら性の饗宴に参加していた。
この二人は生徒会の副会長で、黎人の中等部からの親衛隊。仰向けで黎人の尻に陰物を突き立てているのが岩崎で、背後から黎人の躰を愛撫しているのが武内だった。
「はっ、あ、ん、んっ……」
陰茎を喰い締めている入り口が小刻みに痙攣し始めた。射精の予兆。黎人は無意識のうちに角度をつけて奥をズゥンと抉り、絶頂の高みに向かって駆け上がった。
同じタイミングで岩崎も弾け、股間をビクッビクッとはね上げて黎人の内部に流し込んだ。が、もちろんこれで終わりではない。二人の交接が終わるのをじりじりしながら待っていた武内は、まだ繋がったままぐったりと弛緩した黎人の腰を抱えて持ち上げた。
中からずるずると、白濁に塗れた岩崎のモノが引きずり出される。しかし構うことなく黎人を俯せにして膝を立たせ、涎を垂らして天を睨む自身を溶け崩れた秘孔に突き刺した。
放ったばかりの岩崎の精液が圧し出され、白い気泡を弾かせつつ黎人の太ももを滴り落ちる。
「なかっ……すげえ柔らかくて熱い………」
武内はうわ言のように呟きながら、何かに取り憑かれたように腰を打ち付けた。口は緩み、目の焦点は泳ぐ。
度を超えた性感は理性の残滓をも吹き飛ばし、武内は獣めいた咆哮とともに黎人の中で射出した。収まりきらぬ精が逆流し、どろどろと溢れ出してシーツに大きな染みを作った。
「あーあ。出しすぎなんだよ、お前」
岩崎は自分のことを棚上げして、呆れたように文句を言う。ようやく全部出し切った武内は強張った肩をかくんと落とし、黎人の中から自身を引き抜いた。そして黎人の躰をそっと横たえると、自分もその隣に寝転んで熱っぽい賛辞を呟いた。
「やっぱ黎人は最高だ」
すると岩崎も、黎人を挟んで反対側に寝転び、
「でも今日は何だかご機嫌斜めだぜ。ん？ どうしたんだよ、黎人」
「学園の秩序が乱されてる」
性交の直後とは思えぬほど平静な声で、間髪容れず答える黎人。岩崎は「ああ」と返し、
「鬼のことか。甲斐桜蘭を鬼にしたのは失敗だったな。本人も周囲も全く気にしてないようだ。甲斐の人気は高まる一方で、学園の鬼そのものに疑いを抱く者まで現れ始めている」
すると武内はニタリと笑い、
「甲斐桜蘭か。確かに綺麗だもんな」
ふざけた口調にもかかわらず、黎人は激しく反応した。がばと起き上がって噛み付かんばかりの勢いで、
「僕の方がずっと綺麗だ！」
「も、もちろんだよ、黎人」
慌てて宥める武内に、岩崎は冷ややかな視線を投げ付けた。それは無言のうちに『言葉に気をつけろ』と諭していた。
「とにかく、早いうちに手を打っておいた方がいいだろう。どうする？ 黎人」
黎人は暫し考えるふりをしたが、すでに結論は出ていた。
「甲斐君には、鬼として学園を去ってもらう」
その方法に心当たりがあるのか、岩崎は目をきらりと輝かせ、
「確か去年も似たようなことがあったよな。女優の息子でモデルみたいなことやってた奴が鬼になったのに、決して屈しなかった。えらくプライドの高い奴だったな。つまり、」
いったん言葉を切り、口許を嫌らしく歪め、
「“あれ”と同じことを甲斐にもやるということか。はは、楽しみだ。先輩方も悦ぶぜ、きっと」
「そうだな、きっとうまくいく。で、どうやって甲斐を拉致るんだ？」
勢い込んで訊ねる武内に、黎人は冷然と答えた。
「拉致るんじゃない。脅迫して呼び出す」
「脅迫？」
「恵を利用する。あいつも痛い目に遭わせないと気が済まない。目の前で、大事な友人が輪姦されるのをせいぜい目に灼き付ければいい。僕の大事な人を奪ったのだから、そのくらいの償いはしてもらう」
鬼気すら漂う黎人の言葉に、岩崎と武内は慄然と竦んだ。
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