優情鬼 ―『遭桜記』外伝―
＜第四話＞
「んー、別に鬼になってもいいや」
ていうかほんとに鬼だし、と心の中で続けて、桜蘭は恵の隣に並んだ。すると恵は眉を吊り上げて「何言ってるんだ！」と険しい声で叫び、
「鬼になったら誰もまともに口を利いてくれない。絶対的な孤独に耐えなきゃいけない。どんな理不尽な苛めにも抵抗は許されず、校内で起きた事件は全て鬼のせい。あらゆる罪と穢れを一身に引き受けねばならないんだよ。だからそんな軽々しく鬼でもいいなんて言っちゃ駄目だ」
懇々と諭すその言葉には、彼がこれまで耐え忍んできた孤独と苦悩、そして桜蘭への深い思い遣りがにじんでいた。それを全身で受け止めた桜蘭は、晴れやかな笑みを向けて、
「だからさ、俺が鬼になったら恵の孤独も少しは癒されるだろ？ 一人より二人の方がずっといい。孤独もつらさも半分になるし」
「そんなっ、駄目だよ桜蘭！」
「はは、やっと名前で呼んでくれた。恵、お前ほんっとにいい奴だなあ。今日び、自分さえよければいいって人間がほとんどなのにさ」
桜蘭の暢気な感慨に呆れつつ、恵は小さな溜め息をついてぽつぽつと語り出した。
「母さんの……背中を見て育ったからかな。いつも自分のことは二の次で、人のために一生懸命なんだ」
「そか。えらい母ちゃんだな」
桜蘭の飾り気のない賛辞に、恵は嬉しそうに頷いた。
「うん。母さんは僕の誇りなんだ。若い頃からずっと水無月家で家政婦をしてるんだけど、家主からの信頼も篤いんだよ」
「水無月家って、学園創設者の？」
「そう。僕が生まれてからは、水無月家の敷地内に住まわせてもらっている。黎人とは同い年ということもあって、小さい頃はよく一緒に遊んだけど、今はもう家で顔を合わせることもないよ。特に僕がこの不動学園に入学してからは、一層僕を嫌うようになった」
「何でだ？ 一緒の学校に行けて喜ぶなら分かるけど」
「たぶん……使用人の息子が自分と同じ学校に行くなんて、彼のプライドが許さなかったんじゃないかな。
と言っても、僕がこんな金持ち学校に通えるのは、黎人の父さんのお陰なんだよ。中学まで地元の公立学校に通ってた僕に、いい教育を受けさせてやりなさいと言って入学金と月謝を出してくれたんだ。だからとても感謝してるんだ」
「そっか……」
桜蘭は考えを巡らせた。最初の『鬼』は成績優秀で人望のあった生徒会長。次は美少年でモデルもやっていた生徒、サッカー部のエース。そして、水無月家の使用人の息子、恵。彼らに共通しているのは―――
「なあ、桜蘭。僕は大丈夫だよ。どんな苛めに遭ったって、絶対に退学したりしない。この三年間を耐え抜いてみせる。でないと、入学金を出してくれた黎人の父さんに顔向けできないからね。だから僕のことは心配しないで。君は君なりに、楽しい学園生活を送ってほしい」
清々しい表情でそう言う恵を、桜蘭は眩しそうに目を細めて見つめた。
「―――ということがあったんだ」
恵から聞いた話を全て伝えた桜蘭は、神妙な顔付きで阿修羅の反応を待った。阿修羅は「なるほど」とだけ言って腕を組み、
「確かに、かすかだが学園内に鬼気を感じた。外部からの侵入者により結界が破られ、封印されていた鬼精が解き放たれたのだろう」
「そ、そいつは今どこにいるんだ？」
「それはさすがに分からん。推測の域を出ないが、おそらく生徒の誰かの体内に逃げ込んで、その身体を奪う機会を眈々と狙ってるはずだ」
「身体を……奪う？」
そんな恐ろしいことができるのだろうか。桜蘭は顔が強張るのを感じた。そんな桜蘭の怯えを察したのか、阿修羅は手を伸ばしてそっと抱き締め、
「そうだ。母体が激しい負の感情、嫉妬や憎悪、怨恨に支配された瞬間を狙って“奴”は母体との一体化を図るだろう」
「そしたら……そいつは鬼になっちゃうの？」
腕の中で小さく震える桜蘭に、阿修羅は優しく声をたわめて答えた。
「鬼精の方が勝ったら、人としての魂は喰われ鬼と化す。確率は依代となった人間の気性にもよるだろうが、五分五分だ。
しかし、封印が解かれてから一年以上経過しているからな。このまま何事もなく、鬼精が消滅する可能性もある。だからお前が神経質になる必要はない。それより問題は、もうひとつの『鬼』だ」
阿修羅が言わんとすることは分かっていた。桜蘭は顔を上げて阿修羅を見返し、
「恵のことだね？」
「ああ。人間の疑念や怯えが生み出す鬼の方が、ずっと厄介だ。彼は可哀想だが、他の生徒のように退学しない限り、鬼として忌み嫌われ続けるだろう」
「うん、そうだね……」
阿修羅はきっと、恵と親しくなることに反対するだろう。なるべく目立つ行動は避けて、平凡に穏便に学校生活を楽しむ。そういう約束で通学を許してもらったのだ。しかし、
「あしゅ、俺、恵と友だちになるって決めたんだ」
「……なぜ彼なんだ？ 学校にはもっとたくさんの生徒がいる。彼と親しくなることで、他の人間と友人になることができなくなるかもしれないのだぞ」
「分かってる。でもさあ、あしゅ。あいつ自分と仲良くしたら俺まで仲間外れにされるからって、遠ざけようとしたんだぜ。自分が苛められているのに、俺のこと心配してくれたんだ。俺は、友だちになるなら恵みたいな奴がいい。心が綺麗で、他人のことを思い遣れる人間と仲良くしたいよ」
阿修羅は黙って耳を傾けていたが、承諾はしてくれない。当然だろう。『鬼』のレッテルを貼られて苛められることになるかもしれないのに、簡単に賛成できるはずがない。それでも桜蘭は訴えを続けた。
「仲間外れにしたきゃすればいい。そんな奴らとつるむくらいなら、鬼だろうが魔だろうが、恵と友だちになった方がずっといい。それに、一緒に鬼になれば孤独も淋しさも半分になるだろ？」
阿修羅の唇がふっと綻んだ。
「孤独も半分になる、か。ずいぶん昔だが、同じことを私にも言ってくれたことがあったな。あの時は本当に……嬉しかった」
過去を懐かしむような優しい口調でそう言うと、阿修羅は桜蘭を膝の上に抱き上げて軽く口づけ、
「分かったよ、桜蘭。自分で選んだ友人だ。大事にしてあげなさい。その代わり、何か困ったことがあったら私にすぐ相談すること。いいな？」
「うん！ あしゅ、ありがとう！」
桜蘭は瞳を輝かせて感謝の言葉を伝えると、阿修羅の胸に顔をすり寄せて甘えた。その背中をあやすように撫でながら、阿修羅は甘くほろ苦い低音で囁く。
「桜蘭、明日は私の授業があるぞ。ちゃんと予習をしておくように」
「…………」
得意の狸寝入りを決め込む桜蘭の頭を、阿修羅はコツンと軽く小突いた。
翌朝。恵がいつものように肩をすぼめてなるべく目立たないように登校していると、背後から春風のように朗らかな声で名前を呼ばれた。
「恵、おっはよ〜〜」
驚いて振り返ると、桜蘭が手を振りつつ笑顔全開で駆け寄るのが見えた。
「恵、昨日は案内してくれてありがとな」
「こ、こちらこそ……ていうか桜蘭、なんで―――」
「俺さ、考えたんだけどやっぱ恵の友だちになる。決めたんだ」
迷いのない澄み切った黒瞳が、真直ぐ見つめてくる。そこに映った自分の顔は、八割の困惑と二割の喜びに揺らいでいた。
「それにさ、俺思ったんだけど、こんなやり方おかしいって思ってる奴もきっといるはずだ。ただ表立って言えないだけで。そういう奴らも仲間にして、どんどん鬼を増やしちまおうぜ。なっ？」
あまりに突飛な考えについてゆけず、恵はぽかんと口を開けたまま見返す。桜蘭はニカッと笑い、「急がないと遅刻するぞお」と言って駆け出した。
「あ、あの……」
追い掛けようか迷っていると、再び背後から声を掛けられた。振り向いた先には、昨日、桜蘭と一緒に学校を訪れた美貌の男性が。
「私は甲斐桜蘭の後見人を務めている者だ。鈴宮恵君だね？ 君のことは彼から聞いた」
「そ、そうですか……。すみません。なんか、色々ご迷惑をお掛けしてしまって……」
桜蘭とは付き合わないでほしいと言われるに違いない、そんな恵の予想を裏切って、
「これからも、彼をよろしく頼む。仲良くしてやってほしい」
「えっ？ でも僕は……」
「これまで各地を転々としてきたせいで、桜蘭には同年代の友人がいない。だから君の孤独や淋しさが解るのだろう。桜蘭の身を案じてくれるのは嬉しいが、彼を拒まないでやってほしい」
意外な言葉に驚きつつ、恵は考えるより先に「はいっ」と答えた。そしてそろそろと顔を上げる。
ああ、なんて綺麗な男の人だろう。いや、綺麗なだけじゃない。温かさや優しさ、桜蘭への深い愛情が全身から溢れ出ている。彼は切れ長の目をかすかに細めて、
「見たところ、君はとても聡明で年齢以上の落ち着きがある。桜蘭は調子に乗って暴走することがあるから、その時は厳しくたしなめてくれ」
「はい、分かりました」
恵が答えると同時に、前方から苛立った叫びが届いた。
「めぐむ〜〜、早くしろよっ。遅刻だぞぉ」
「あー、ごめんごめん。今いくよ」
走って桜蘭の後を追う恵を、阿修羅は苦笑とともに見送った。
揃って教室に入ってきた桜蘭と恵を、クラスメートたちは困惑とともに迎えた。どうやら、桜蘭との距離感を計りかねているようだ。
彼と親しくはなりたい、しかし傍にいる恵の存在が気になる。もしやこの転入生は、『鬼』についてまだ何も知らないのではないか。このままでは、彼に『鬼』が伝染してしまうのは時間の問題だ。
「あのさあ、甲斐君。この学校に鬼がいるって話、知ってる？」
無知な転入生に伝える義務があると思ったのか、クラス委員がおずおずと口を開いた。すると桜蘭は「うん」と無邪気に返し、
「知ってるよ。恵が鬼なんだろ？」
「し、知ってるんだ……」
「知ってる。昨日、本人から聞いた。でもさあ、こんなのただの苛めだろ？ 俺、そういうのヤなんだ。ま、俺のこと鬼扱いしたきゃすればいいよ。机、後ろにずらそうか？」
あまりにあっけらかんとした桜蘭の物言いに、思わず吹き出す生徒もいた。自然と、桜蘭と恵の周りにクラスメートが集まってくる。
「ねえねえ甲斐君。新しく来た古文の先生、甲斐君の後見人なんだって？」
「昨日、ちらっと見たけど、超超超美形だよな」
「一緒に住んでるんだって？ いいなあ……」
どうやら彼らは、鬼より新任の先生の方に関心がある様子だった。嬉しいような恥ずかしいようなくすぐったいような感情を持て余しつつ、桜蘭は鼻の頭を掻いて「まあな」と素っ気なく答える。
「でもさ、甲斐君と何だかお似合いだよな」
妄想爆発な発言に、桜蘭は思い切り咽せて、
「そ、それどういう意味だよ！」
「だって甲斐君もとっても可愛いし。二人並んでたら背景に薔薇の花が見えてくるっていうか……」
「可愛いってゆうな！ 薔薇とかゆうな！ 俺は男だぞっ」
真っ赤になって反撃する桜蘭を、恵は笑いながら宥めた。
「ほらほら、そういうとこが可愛いんだよ」
「なっ、なんだよ恵まで！ あっ、そういえばさっき、あしゅと二人でひそひそ話してたよな。どうせ、俺のお守よろしく頼むとか言われたんだろっ」
恵は肩を竦めてにやりと嗤い、
「ま、当たらずとも遠からず、ってとこかな」
「うぬう……あしゅの奴ぅ……」
真っ赤な顔のままむくれる桜蘭の顔が面白くて可愛くて、恵は声を上げて笑った。そして、はたと気付いた。こんな風に心から笑うのって、本当に久しぶりだな、と。
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