優情鬼 ―『遭桜記』外伝―
＜第二話＞
大きな校門から車のまま敷地内に入り、広い駐車場に車を留めた。さすがは金持ち学校、駐車場内には高級外車が多く見られた。阿修羅は校内の地図を取り出し、大体の位置関係を把握する。
「ふむ……高等部の校舎は東側か。それにしても広いな」
桜蘭を促して車を降り、駐車場の外に出た。地図を頼りに校舎を探してもいいのだが、うろうろ迷っている時間もない。
「私はさっきの守衛に、校舎への道順を訊いてくる。すぐに戻るから、お前はここで待っていなさい。いいな？」
桜蘭は「はーい」と優等生の返事をして、阿修羅の背中を見送った。そして辺りをきょろきょろ見回す。桜はすでに散り始めており、風が吹くたびざあっと音をたてて花びらが舞い上がった。
「そっか……ここの桜はすぐ散っちゃうんだよな……」
桜蘭が生まれ育った桜海（おうみ）の国では、桜はひと月以上も散ることなく、満開のまま人々に桜色の夢を与え続けた。
「なつかしいなあ……」
あれから何百年経っただろう。過ぎ去った歳月を数えるのは疾うにやめてしまったが、気が遠くなるほど昔のことだというのは分かる。それでもなお、故郷のことは鮮明に覚えていた。
そう、自分はあそこで生まれ、育ち、喜びや哀しみを知り、そして……阿修羅に出遭ったのだ。
そんな感慨をくゆらせながら桜吹雪に身を浸していると、どこからか助けを求めるようなか細い悲鳴が聞こえてきた。モノローグの世界から帰還した桜蘭は、すぐさま悲鳴のした方へ駆け出した。『ここで待ってろ』という阿修羅の言い付けは、すでに頭から消えていた。
「確かこっちの方から……」
細い脇道に入ると、その先に三人の生徒がいた。間違いない。さっきの悲鳴はここから聞こえたものだ。
「おい、鈴宮（すずみや）。約束破ってんじゃねーよ。金持ってこいって言っただろ」
大柄な生徒が威嚇するような低音でそう言って、『鈴宮』と呼ばれた生徒を睨み付けた。
「む、無理だよ。お金なんて、僕……」
鈴宮少年が、その身体に相応しい弱々しい声で反論すると、もう一人の茶髪の生徒はにやにや笑いながら、
「お前の母ちゃん、水無月（みなつき）家で住み込みの使用人やってんだろ？ 盗み放題じゃねえか。つーか、今までだって散々ちょろまかしてきたんだろ？」
すると鈴宮少年は青ざめつつもキッと見返して、
「か、母さんのことそんな風に言うな！」
しかし二人の生徒は取り合わず、代わる代わる脅して少年を追い詰めてゆく。少年の背後には小さな池があり、今にも落とされそうだった。
「しょうがねえ、明日まで待ってやるから。今度こそ必ず持ってこいよ。約束破ったらどうなるか―――」
「おいお前ら！ 何やってんだッ！」
彼らのやり取りを聞いて怒り心頭の桜蘭はこれ以上黙っていることができず、大声を張り上げて突進した。その勢いに驚いたカツアゲ組の二人は、鈴宮少年を突き飛ばして逃げ出した。
「うわっ、わ、わわっ」
一人残された鈴宮少年は池の縁でバランスを崩してよろめく。
「あっ、危な―――」
助けようとその腕を掴んだ桜蘭だったが、助けるどころかそのまま一緒に池に落ちた。どぷん、と重い音がしたのも当然だった。それは池というより泥の沼。そこに頭から思い切り突っ込んだ二人は、全身泥まみれで誰が誰やら分からないほどだった。
「うわー、やっちゃったなあ」
桜蘭はこの状況にしては暢気な声でそう言って、鈴宮に笑いかけた。対して鈴宮はがばと頭を下げ、
「すっ、すみません！ あの僕っ―――」
「ああ、いいっていいって。俺の方こそごめんな。ちゃんと助けられなくて。取り敢えず、池から出ようぜ」
桜蘭はそう言って立ち上がり、鈴宮に手を差し出した。鈴宮は戸惑っているようだったが、おずおずと桜蘭の手を掴んで自分も立ち上がろうとした。が、
「わわっ、わっ……」
池の底が滑ってうまく立てず、桜蘭の手を引っ張る形で再び一緒に池の中へ。まるで泥レスリングだった。尻餅をついた姿勢で向かい合った二人は、泥人形みたいになったお互いの姿をしばし眺めていたが、
「ぶっ、くくくく……ひでえ格好………」
「はは、あはははっ……そっちだって……」
何だか可笑しくて、池の中でげらげら笑った。その時、
「桜蘭っ、どこにいるんだ！」
阿修羅の声が聞こえた。桜蘭は尻餅をついたまま「あしゅ！ こっちだよ」と声を上げた。やがて、
「まったく……あそこで待っていろと言っただろうが」
ぶつぶつ言いながら、阿修羅が姿を現した。そして、池の中で泥まみれのまま手を振る桜蘭らしきものを見つけると同時に、目を見開いてぽかんと口を開けた。
「桜…蘭……？」
惚けた口調になるのも仕方ないだろう。桜蘭は「へへっ」と笑って、
「足滑らせちゃってさあ。頭から突っ込んじゃった。失敗失敗」
一瞬のしじまを経て―――
「おっ、お前は何をやっているんだっ！！ 私があれほど―――」
「まあまあ。落っこちちゃったものはしょうがないだろ？ 人間万事塞翁が馬、って」
「言ってる場合か！ 今日は転校初日なのだぞ！ 一体どうする―――」
「すっ、すみません！」
阿修羅の怒りを遮るように鈴宮がよろよろと立ち上がり、深く頭を下げた。
「彼は、苛められていた僕を助けてくれたんです。そのせいでこんなことになってしまって……。本当にごめんなさい」
「謝るなよ。お前のせいじゃないんだから。なっ？」
「でも……」
二人のやり取りを黙って見ていた阿修羅は、強張っていた肩を落とし、
「事情は何となく分かった。ともかく、二人ともその格好ではどうにもならんだろう。泥を洗い流して着替えなければ」
「あ、あの……確かクラブハウスにシャワーがあったかと……」
おずおずと口を挟む鈴宮に、阿修羅は頷きを返し、
「そうか。では君、すまんが彼を案内してやってくれ。私は誰か職員を掴まえて事情を話し、クラブハウスに着るものを届けてもらうようにする」
「分かりました」
鈴宮がかすれた声で了承を伝えると、阿修羅は「頼んだぞ」と言い残して校舎に向かった。その後ろ姿を見送った鈴宮は、はあっと溜め息をついて、
「あんな綺麗な男の人、初めて見た……」
熱っぽい呟きに、桜蘭はくすぐったいものを感じつつ、
「そうかあ？」
「う、うん。びっくりした。あ、それより君、転校生なんだね」
「おう。今日からここに通うんだ。名前は甲斐桜蘭。よろしくなっ」
にゅっと差し出された泥まみれの手を鈴宮少年はじっと見つめ、
「僕は二年の鈴宮恵（すずみや・めぐむ）。こちらこそ、よろしく……」
困惑混じりに応えて、ためらいつつもそっと手を握り返した。
「うわ、きったねー。何だよあれ」
クラブハウスへ行くには、生徒の憩いの場となっている中庭を通らねばならなかった。青々とした芝生に白いベンチが映える美しい中庭に、突然泥人間が現れたのだ。注目を集めない方がおかしい。
恵は誰とも目を合わせないよう、下を向いたまま急いだ。しかしこういう時に限って、一番会いたくない人間に遭遇してしまうものだ。
「まさか恵？ 何やってんだよそんな格好で」
毒のある嘲りがにじむ声に呼び止められ、恵は仕方なく立ち止まった。
「黎人（れいと）……おはよ」
黎人と呼ばれた生徒は芝居がかった仕草で肩を竦め、
「ひどいものだな。ま、似合うと言えば似合うけど」
そう言って笑うと、黎人の後ろにぴったりくっついている三人の生徒も、それに和するように笑い声を上げた。
黎人は背こそあまり高くないが、整った顔立ちの美少年だった。だからこそ余計に、侮蔑の意図をもった笑いには迫力があった。黎人は続けて桜蘭の方に視線を移し、
「で、君は？」
「俺は甲斐桜蘭。今日転校してきたばかりなんだ。で、恵の友だち」
「友だち？ 恵の？ ははっ、そりゃあいい。お似合いだよ」
黎人はバカにしたように笑って桜蘭に向き直り、
「僕は二年の水無月黎人（みなつき・れいと）。一応、生徒会長をやっている」
すると取り巻き連中がここぞとばかりに口を挟む。
「水無月君は学園創設者の直系なんだよ」
「水無月家はもともと地方の有力豪族で、この辺りを治めていた由緒ある一族なんだ」
「つまり彼は、未来の学園理事長というわけさ」
いわゆる学園一の権力者ということだろう。そういった権力が背後にあるからこその、生徒会長なのかもしれない。が、そんな背景になど何の関心もない桜蘭は、「ふーん」と気のない相槌を返しただけで恵に向かい、
「なあ恵、早くクラブハウスとかいうとこに行こうぜ」
そして黎人とその取り巻きたちに「じゃあな」と言って背中を向け、歩き出した。恵は慌ててその後を追いかけ、
「かっ、甲斐君！ 駄目だよあんなっ……」
「へ？ 何が？」
「あんな……僕のことを友だちだなんて言ったら……」
桜蘭はぴたりと足を止め、恵の顔をじっと見返した。そして、
「俺たち、もう友だちじゃないのか？」
すると恵は今にも泣き出しそうな顔をして、きゅっと唇を噛み締めた。やがて口を開けて震える声で、
「僕なんかと友だちになっちゃ駄目だ。だって僕は……『鬼』だから」
桜蘭は思わず眉をひそめた。まさか彼の口から『鬼』という言葉が出てくるなんて。しかも、自身が『鬼』だなどと。
「どういうことだよ、恵。何でお前が鬼なんだ？」
桜蘭の当然の質問に、恵は哀しげに目を伏せて、
「今に分かるよ」
そう言って、俯いたまま歩き出したのだった。
BACK TOP 遭桜記INDEX NEXT