続・傍にいさせて
第23話
「ルチアさん、貴女はもう帰りなさい」
二つの唇が触れ合う寸前にライアンはそっと身体を引き、
「これ以上遅くなってはご家族やフレデリックに申し訳が立たん。ホイミンのことは心配要らない。必ず俺が捜して―――」
「いやです、帰りません。ライアン様はいつだって、私のことをただの家政婦としてしか見てくださらない。私がどれだけ淋しい思いをしているか、ご存知ないの？」
ルチアは甘えた口調で咎めるようにそう言うと、身体をすり寄せて胸を押し付けた。大きく開いた胸元から、今にもこぼれ落ちんばかりの乳房を強調するように。そして顔を上げ、口づけを誘う。しかし、
「ルチアさん、もう一度言う。早く帰りなさい」
「ど、どうして？ 私はっ―――」
「貴女は本当によくやってくれている。そのことについてはとても感謝している。しかし、貴女は家政婦だ。それ以上でもそれ以下でもない」
ここまではっきり拒絶されるとは思ってもいなかったルチアは、返す言葉もなく呆然と見上げた。その時、ルチアは見た。ライアンの不安げな眼差しが、真っ直ぐ窓の外に注がれているのを。
そう、もはや彼の心はここにはない。たった今、自分が燃えるような愛の告白をしたばかりだというのに。ライアンは、森の奥深くを彷徨っているホイミンをひたすら思っているのだ。これが、敗北の証でなくて何であろう。
「……なんでよ。なんであんな汚らわしい魔物のことばかり。やっと二人きりになれたっていうのに、あたしのことを見ようともしない。いつだってホイミン、ホイミン。ふざけないでッ」
ルチアは腹の底に積もりに積もった本音をぶちまけると、ライアンの身体を突き飛ばして外に駆け出した。
「女は魔物、か……」
ライアンはぽつりと呟くと、素早く家を出た。もちろん、ルチアの後を追うためではない。
「ホイミン、待っていろ。必ず捜し出してやるからな」
そして森に続く道に一歩踏み出した時、前方から近づく人影に気付いた。それは―――
「うわぁぁ、もう森の外に出られたんですね。すごーい。僕も移動呪文が使えるようになりたいなあ」
ホイミンは感心して、サイラスに抱き上げられたまま両足をぱたぱたさせた。サイラスは優しく目を細め、
「こら、ホイミン。大人しくしていないと落ちるぞ」
ホイミンはサイラスの腕の中でもぞもぞした挙げ句、
「あ、あの〜。もう大丈夫です。自分で歩けますぅ」
「いや、このまま家まで送ってやる。そんな裸足のまま砂利道を歩いたら、あっという間に怪我をしてしまうぞ」
サイラスに窘められて、ホイミンは大人しく身を任せることにした。やがて、
「あ、あれが僕のおうちですぅ。あれ？ 家の前に誰か……」
家を出てすぐのところに、人影が見えた。それは紛れもなく―――
「ライアン様！ ライアン様ぁっ」
叫びながら身を乗り出すホイミンを、サイラスは素早く抱き戻した。そして早足で近づく。
「ホイミン！ 無事だったのか！」
駆け寄るライアンに、無邪気に手を伸ばすホイミン。しかしサイラスは、腕の中のホイミンを渡すことを拒絶するように、すっと一歩引いた。ライアンは、ホイミンを抱いている男の存在に初めて気付いたかのように、険しく眉根を寄せて睨みつける。
「何者だ、お前は」
サイラスはその問いには答えず、ライアンを凌ぐほどの眼力を返し、
「ふ…ん、貴様が騎士ライアンか。これまでずいぶんと仲間を殺してくれたな」
「何だと？ どういう意味だ」
初対面の男からいきなり物騒な言葉を叩きつけられ、ライアンは色めき立った。しかしサイラスは平然と「そのままの意味だ」と返し、剣呑な眼差しで射抜く。二人の間にいるホイミンは、不穏な緊張感が一気に高まるのを肌で感じた。
「あ、あのっ、ライアン様！ サイラスさんは元は魔物なんです」
このままではいけないと、ホイミンは強張る舌を必死に動かして説明した。
「魔物、だと？」
「はい。元はダークドラゴンだったのですが、人間に対する犠牲的献身がデミウルゴス様のお目に留まり、その恩寵を受け人間になることができたのです」
「ダークドラゴン……」
驚きに目を瞠るライアンに、サイラスは陰気な笑みを向け、
「まあ、今では後悔しているけどな。姿形が変わったところで、俺が魔物であることに変わりはない。そして、人間は必ず俺たちを裏切る。決して理解し合うことはできない」
厭世的な口調で断言する。対してライアンは眉をひそめ、
「勝手に決め付けるな。俺は―――」
「自分は違う、と？ ならばなぜあんたは、夜の森にホイミンを置き去りにして自分一人だけ帰ったんだ。ホイミンは裸に裸足で、森の中を彷徨っていたんだぞ。もし俺が見つけなかったら、凍死していたかもしれない。どうせ魔物だから、どこでくたばろうが知ったことじゃない、そんな意識があったんだろ？」
「ふざけたことを言うな！」
ここまで直接的な怒りを露わにするライアンは珍しかった。激しい怒声にホイミンはびくっと震え、思わずサイラスの首にしがみつく。それは反射的な行動ではあったが、ライアンの怒りに油を注ぐのには十分だった。
威嚇する猛禽のごとく、端整な鼻梁に険しい皺を寄せ、
「ホイミンを渡してさっさと失せろ」
普段の穏やかで礼節ある近衛騎士隊長を知っている人間ならば、驚き、そして竦み上がっただろう。しかしサイラスは平然と受け流し、さらに笑みまで浮かべ、
「はッ、誇り高き救世の騎士が聞いて呆れるな。あんた、今まで誰といた？ 身体から女の匂いがぷんぷんしてるぜ。ホイミンがいないのをいいことに、女と乳繰り合っていたのか」
「黙れ！」
「おおっと、大声を出すな。取り敢えず今はホイミンを返してやる。今は、な」
思わせぶりな言葉とともに、抱いていたホイミンの身体を差し出した。が、ライアンが受け取るより先にホイミンに向かって真摯な声で、
「ホイミン、俺はここを発ってまた旅に出ようと思う。一緒に来ないか？」
「えっ……？」
予想だにしなかった申し出に、ホイミンはもちろんライアンも固まった。
「いずれこの男は、お前のことが邪魔になるはずだ。人間と魔物はずっと一緒にはいられないと、お前も分かっているだろう？」
「ぼ、ぼくぅ……」
「そうなった時、お前がどれほど傷つくか。それを思うと苦しくてたまらない。ホイミン、俺と一緒に行こう。今すぐは無理でも、俺が必ずライアンのことを忘れさせてやる」
ライアンはこれ以上ないほど凶悪な顔つきでホイミンの身体を奪い取り、無言で歩き出した。怒気のせいかひと回り大きく見える背中に向かって、サイラスは声を張り上げた。
「ホイミン、二日後の正午にあの森の入り口で待っているからな！」
第24話
口の中がカラカラに渇いている。身体の触れ合っている部分が灼けるようだ。ライアンの腕の中、世界で一番安全で温かくて幸せな場所にいるはずなのに、ホイミンは自分が激しく怯えていることに気付いて呆然とした。
無言のまま家の中に入ったライアンは、真直ぐホイミンの寝室に向かった。そして、抱いていた身体をベッドの上に乱暴に投げ落とす。これまでもリビングでうとうとしていた時など同じようにベッドに運んでもらったことがあったが、こんな荒っぽい扱いをされたのは初めてだった。
「ライアン様、あの、僕っ……」
とにかく、何か言わねばと思った。心配かけてしまってごめんなさい、酷いことを言ったサイラスを許してください、そして、自分はサイラスと一緒に行くつもりはありません、ライアン様がいいと言うまでずっとお傍におります―――しかし、そのどれも口から出ることはなかった。身体をくるんでいたサイラスの外套を、いきなり剥ぎ取られたからだ。
「ひゃあっ」
ホイミンは驚いて悲鳴を上げ、裸のままライアンをこわごわ見上げた。するとライアンは忌々しげに外套を投げ捨て、ホイミンの上にのしかかった。これまで受け止めたことのない重量に、ベッドのスプリングがギシギシ音をたてる。
「ホイミン、これは何だ」
久しぶりに口を開いたライアン。その地を這うような禍々しい響きに、ホイミンの背筋がざわりと総毛立った。
これは一体誰だろう。この月明かりが生む昏い陰翳を背負い、双眸に冷たい焔を宿し、力の加減もせず乱暴に肩を掴み、優しさのかけらもない口調で詰問する男性は。まさかこれがライアン様だと？ いいえ、そんなはずはない、そんなはずはっ―――
「答えろ！ これは何だ。あの男とどこで何をしてきたんだ！」
肩を激しく揺さぶられて、現実逃避しかけていたホイミンは我に返った。もつれる舌を必死に動かして、
「こ、これって……？」
「お前の身体に散っている紅い痕だ」
ライアンはぞっとするほど平淡な声で答え、その場所や数を知らしめるように指でなぞった。首筋、肩、胸、臍の周りを。
ホイミンは、正直に答えることでライアンの怒りを収められると思った。だから当然、言葉を選ぶことなくありのままを答えた。
「サイラスさんが、お口でちゅってしたんです。僕、くすぐったいし少し痛いからやめてって言ったのに、何度も―――」
ギリッ、と硬いものがこすれ合う音が聞こえた。見ればライアンが、喉奥から込み上げるものを押し戻そうとするかのように奥歯を噛み締めている。
「ライアン様……」
驚いたホイミンは思わず手を差し伸べたが、それをうるさそうに払い、
「それだけか。他には何をされた。正直に言え」
ホイミンは行き場を失った手で無意識のうちにシーツを掴み、
「ほ、ほかには…唇にキ、キッスを……」
ライアンの顔が、さらに険しさを増した。ここに至ってようやくホイミンは、正直に答えるべきではなかったと朧げながら悟った。と同時に、ライアンに対し嘘などつけないということも分かっていたのだが。
「そ、それから……ここをお口の中に……」
ホイミンはそう言って、震える指先で自身の股間を指し示した。するとライアンは喉の奥で低く唸り、次の瞬間、ホイミンの唇を荒々しく塞いだ。
「んう、ううう〜」
自分がキスをされているのだと分かるまで時間を要した。なぜなら、これまでライアンがたびたびしてくれた『キッス』とこの粗暴な行為との間に、共通項を見つけることができなかったから。ただ、口と口を合わせているということ以外に。
「んっ、んっ」
口の中にぬるりと入ってきたもののあまりの熱さに驚く間もなく、舌を激しく吸い上げられた。息もできず徐々に朦朧としてきた頭で、やっぱり“これ”はキスじゃないとホイミンは思った。
キスというのは温かくて柔らかくて優しくて、かすかな唇の触れ合いから確かな愛情を伝え合うもの。なのに“これ”はただ苦しいだけで、何も伝わってこない。こんなに深く唇を合わせているのに、湧き上がるのは虚しさばかりだった。
ゆっくり意識を手放し、鉛のような虚無感に沈み込もうとした時、ようやく口づけから解放された。ホイミンは上半身を大きく揺らして呼吸を繰り返し、新鮮な空気を体内に送り込んだ。
すると、うねうねと波打つ白い胸に誘われるように、ライアンが顔を近づけてきた。そしてあどけない膨らみを見せる桜色の突起を口に含み、きつく吸い上げた。
「ゃっ、ぁ、ぁ………いたい、いたいですぅ………」
先刻、サイラスからも同じことをされたが、あの時よりずっと痛みが強かった。サイラスの時に感じた甘い疼きが生じることはなく、ただ痛みと恐怖が心身を支配した。
「ひぃっ」
散々吸われた場所に軽く歯を立てられ、あまりの刺激にホイミンは痛ましい悲鳴を上げた。しかしライアンの耳には届いていないのか、或いは頭の中で渦巻く感情の轟音に掻き消されてしまうのか、やめる気配はなかった。それどころか―――
「………っ、」
ホイミンは言葉を失った。突然、股間がかぁっと熱くなったのだ。驚いて視線を落とすと、ライアンの大きな手が性器を掴んでいるのが見えた。柔らかく項垂れたままのそれが、ライアンの熱い手のひらでくにゅくにゅと揉みしだかれている。
「やだぁ……やだぁぁ……」
『ホイミン、もう大丈夫だ。迷子になって怖かったろう』。そんな労わりの言葉とともにきゅっと抱き締めてくださるはず……そんな甘い再会の場面を思い描くことで、ホイミンは夜の森で不安に潰されず頑張ることができたのだ。
なのにライアンは抱き締めてくれるどころか、優しい言葉も掛けてくれない。ただ自分の中で荒れ狂う感情に従うばかり。
その乱暴な行動や荒れた呼吸、ぬらりと凶暴な輝きを宿した双眸、そして肌からたちのぼる濃厚な雄の匂いは、ホイミンがこれまで周到に抑え込んでいたある記憶を呼び覚ますのに十分な生々しさを発していた。
「たすけて……たすけてぇ………」
ジルベルト村の地下倉庫で受けた辱めの記憶。二度と思い出すことのないようしっかり蓋をしていたはずの爛れた記憶が、蓋の隙間からゆっくりと溢れ出しホイミンの意識を蝕んでゆく。
あの時はただ怖くて痛くてかなしくて、正気を保つためひたすらライアンの名にすがった。そして今も―――
「たすけて……ライアンさまぁ………」
あの時のように、ライアンに助けを求めるホイミン。自分を傷つけようとしているその当人に助けを求めるという滑稽さに気付けぬほど、心は恐怖に乱れ萎縮していた。
「こわいよぉ……ライアンさまぁ……」
ホイミンは哀訴を繰り返しながら、ゆっくりと心を閉ざそうとしていた。
第25話
その時、ライアンは得も言われぬ陶酔感に溺れていた。二重三重にも心を縛めていた枷を取り払い、感情の暴走に全てを委ねる。何という悦び、解放感だろう。
身体の奥底から湧き上がる、切実な叫び。そうだ、俺はずっとこれを欲していた。自分のものにしたかった。なぜもっと早くこうしなかったのだろう。我慢して我慢して己を欺き、欲望から目を背けていた。その挙げ句、危うく他の男に奪われるところだったのだ！
怒り、焦り、嫉妬が燻朱の炎となって理性を焼き尽くす。残されたのは、雄の本能としての所有欲と支配欲。そしてさらに原始的な性欲。そうだ、これでいい。欲望の赴くまま、この愛しい獲物を―――
たすけて……ゆるしてぇ……
ライアンはふと眉をひそめた。荒れ狂う感情がもたらす轟音で麻痺しかけていた鼓膜が、かすかな訴えを察知したのだ。
たすけて……ライアンさまぁ……
その声は自分の名を呼んでいた。自分に救いを求めていた。それは鼓膜から浸透し、頭の中にゆっくりと広がってゆく。
「ぅ……ぁ、ぁぁ………」
そして、ライアンは見た。身体の下で苦しげに喘ぎ、とめどない涙でシーツを濡らすホイミンを。月光を受けてほの蒼く輝く素肌には、鬱血の痕や浅い歯形が散って痛ましい陰翳を見せている。
「ライアンさまぁ……たすけてぇ……」
ホイミンの唇が哀しい訴えにわなないた時、ライアンは己のしたことを悟った。ホイミンの上から弾かれたように飛びのき、ゆっくりと後ずさる。
「あ、あ……俺は、俺はっ………」
ホイミンはまだ、ライアンの名を呼びライアンに助けを求めていた。この極限状態で見せたホイミンの信頼は、鋭い刃となってライアンの胸を抉った。リアルな痛みに呻いたライアンは、そのままよろめきつつ部屋を出た。
「ライアンさま……ライアンさま……」
一人になったホイミンは、その後もライアンの名を呼び続けた。すがるような呼びかけが、無人の闇中にただ虚しく響いた。
ガチャガチャと鍵を開ける荒々しい音がしたと思ったら、扉が凄い勢いで弾け飛んだ。そして、濃密な夜の匂いと怒りをまとったルチアが姿を現した瞬間、フレデリックは今日の策が失敗に終わったのだろうと悟った。
こういう時のルチアには変に慰めの言葉を掛けず、そっとしておいた方がいいと長年の経験で分かっていた。「お帰り」と挨拶だけすると、なるべく不自然に見えないよう自室に上がろうとしたが、それに先んじてルチアが正面にどん、と座った。フレデリックは仕方なく、浮かせた腰を戻した。
「今日は色々疲れただろう」
労わりの言葉は、ルチアの怒りオーラに呆気なく弾き返されてしまった。血走った目でじろりと睨まれ、
「回りくどいこと言わないでよ。分かってるんでしょ、失敗したって」
「ん、あ、ああ」
フレデリックは今朝、ルチアに頼まれて森に出かけ、『奇跡の泉』への道順を示す標識を逆向きにした。さらにその先の三本道にも偽の標識を立てて、森の内部へ迷い込むようにしたのだ。もちろん、ホイミンを森の奥深くへ追い払うためだ。
とにかくライアンと二人きりになりたいルチアの願いを叶えるためだったのだが、どうやらライアンは誘惑に乗らなかったらしい。残念ではあったが、隊長らしいな、とも思う。思わず口元が綻んでしまったが、まずいことにルチアに見咎められてしまった。
「ちょっと、何笑ってんのよ！」
「あ、ああ、いや。別に笑ったわけでは……」
もごもごと言葉を濁すフレデリックに突き刺すような視線を送ったルチアは、いきなり唇をにっと吊り上げた。その表情の変化に薄寒いものを感じたフレデリックは、無意識のうちに身構えた。
ルチアはすいと身を乗り出し、密談に相応しい距離まで顔を近づけると、芝居がかった声で、
「ね、フレデリック兄さん。可愛い妹がここまでバカにされて、悔しいでしょ？」
「え？ いや、まあ……」
「仕返ししてやりましょうよ。噂を流すの。妹が騎士団長ライアンに乱暴されそうになった、って」
「なっ……」
あまりの提案に絶句するフレデリックを措いて、ルチアは言葉を続ける。
「今日、夜遅くまで私がライアン様と二人きりだったのは事実。そこで何があったかなんて、他人には分からない。だから兄さんが同僚とかに、妹が泣きながらライアン様の家から逃げ帰ってきた、みたいに言えばきっと、良くない噂が―――」
「ルチア、俺は確かにライアン隊長とお前がうまくいってくれればいいと思って、協力してきた。でもな、それはできない。俺はあの人を心から尊敬している。大陸の英雄と賞賛されながらも決して驕り高ぶることなく、弱き者を守り、強い敵には自ら率先して立ち向かう。まさに騎士の中の騎士。そんな隊長を貶めるようなことは、たとえお前の頼みでも引き受けられない」
フレデリックはきっぱり言い置いて立ち上がり、
「それにな、そんな噂を流して傷つくのはお前の方だぞ。おそらく噂を聞いたほとんど全ての人が、お前の方が嘘をついていると思うだろう。ライアン隊長がこの街の、この国の人々から得ている信頼はその程度の噂では揺るがない。ルチア、ライアン隊長のことはもう諦めよう」
自分の頼みをフレデリックが拒絶したことに、ルチアはひどく驚いているようだった。無理もなかろう。これまで彼は、妹の願いなら何でも叶えてきた。兄というより、自由奔放で我がままなお姫様に仕える下僕のように。
「世の中には、どんなに努力しても叶わないことがあるんだ。ルチアもそろそろ、それを知った方がいいな。それじゃ、おやすみ」
背中に濃厚な視線を感じながら、フレデリックは自室に戻ったのだった。
第26話
翌朝。窓から射し込む朝日に促されて目を開けたホイミンは、暫しぼぅっとして天井を見つめた。昨日という長い一日の疲れがどろりとした澱のように心身にこびりついて、頭も身体もうまく動かせない。
「ライアンさまぁ……」
なぜ、あんなことになってしまったのだろう。昼間のピクニックはとても楽しくて、しあわせだったのに。
「僕が……悪いんだ。泉に行く途中で迷ってしまって……」
せっかくルチアさんが道を教えてくれたのに。そんな簡単なお使いもできないのかと自分で自分が嫌になってしまう。ライアンに、『奇跡の泉』の水を飲んでもらいたかった。健康で長生きできるという魔法の水を。
「ライアン様、すごく怒ってた……」
水を汲んでこれなかったからといって怒るようなライアンではないと、ホイミンにも分かっている。では何がライアンの怒りを煽ったのか。あのような乱暴な振る舞いに駆り立てたのか。少し考えて、ホイミンは途方に暮れてしまう。
ホイミンはのそりと起き上がり、ぷにぷにした薄桃色の身体をじっと見つめた。もちろん昨夜の痕跡は残っていないが、肌を吸われ噛まれた時の痛みや恐怖、そしてライアンの手のひらの熱さは感覚の表層部にしっかり爪立てていた。
「早く、起きなくちゃ」
時計を見たホイミンは、自分に言い聞かせるように呟いた。起きてライアンの朝食の仕度をせねばならない。ぐずぐずしている時間はない。ベッドから下りて備え付けの洗面台にぴょんと飛び乗り、触手を回転させてばしゃばしゃと顔を洗うと少しだけ気分がよくなった。
そうだ、多少気まずい思いをするだろうけど、いつものようにライアンのために朝ごはんを作っていつものように送り出してあげれば、しあわせな日常を取り戻すことができるに違いない。
「よし、がんばる！」
ホイミンは自分に気合を入れると、1階に下りた。そしてエプロンを着けてキッチンに入る。すると、テーブルの上に一枚の紙が置いてあるのが目に留まった。それを手に取って読むうちに、張り切っていたホイミンの心はぺしょっと潰れてしまった。
『ホイミンへ
昨夜は本当にすまなかった。こんな詫び状で済むこととは思っていないが、ともかく謝らせてほしい。
それにホイミンのことだから、自分に何か非があったのではないかと思い詰めてしまうかもしれない、そんな危惧もあった。はっきり言うが、ホイミンは全く悪くない。非は全て俺にある。感情を抑えられなかった俺に。だからホイミン、決して自分を責めてはいけない。分かったね。
それから、俺はしばらくこの家を出て騎士団の宿舎で生活しようと思う。少し頭を冷やし、心を整理する必要があると考えたからだ。でないと、また昨夜のようなことをしでかしてしまうかもしれん。これ以上、ホイミンに怖い思いをさせたくはない。
そしてもうひとつ。大事なことを伝えよう。もしホイミンが、昨夜会ったサイラスという男と一緒に行きたいというのなら、俺は止めない。ひと晩中ずっと考えていたのだが、ホイミンは俺といるよりあの男といた方が、より自分らしく生きることができるのかもしれない。
俺と一緒にいる限り、ホイミンは『自分は魔物だ』という意識に囚われ続けるだろう。そして俺の傍にいるための『理由』を求め続けるだろう。そう、共に旅をしていた時、俺の傷を癒すことが唯一の存在理由であり、今は俺のために家事をすることが存在理由であると思い込んでいるように。
そうやって、俺のために何かしようと必死なお前を見ていると、つらくてたまらなくなる。やはり、魔物は魔物と共に生きるのが自然なのかもしれん。
お前と離れるのは、確かに淋しい。けれど、感傷に溺れて大事なことを見失ってはならないと思う。ホイミンもよく考えて、結論を出してほしい。もしあの男と一緒に行くのなら、家の中にあるものは何でも持っていって構わない。今まで、本当にありがとう。
ライアン』
「いやぁ……いやぁぁ……」
ホイミンは手紙を掴んだまま号泣した。なぜライアンがこんなことを書いたのか分からない。分からないながらも、ライアンが本気だということは伝わった。
「ぼく……もういらないの？ 人間と魔物はいっしょにいれないの？ そんなのやだよぉぉ」
『魔物は魔物と共に生きるのが自然』という手紙の文言が、ホイミンの胸を引き裂いた。やはりサイラスの言う通り、人間と魔物が理解し合うのは不可能なのだろうか。自分はこんなにライアンのことを想っているのに。
『ライアンの、お前に対する愛情が足りないのだ』
サイラスに言われた言葉が、胸にずぅんと響く。それでも構わないと思っていたはずなのに、言葉の重みをあらためて思い知ったホイミンは呆然としてしまう。でも、それでも、
「おそばに……いたいんだもん」
もし少しでもライアンが必要としてくれるのなら、やっぱり傍にいたい。はっきり『要らない』と言われるその時まで。
ホイミンは涙でくしゃくしゃになった手紙をテーブルの上に戻し、必死に涙を拭った。そしていつも通りの生活を続行しようと決意する。ライアンはしばらく宿舎で生活すると書いてあったが、その“しばらく”が終わればまたこの家に戻ってくれるはず。自分はそれを待ち続ければいいのだ。
「えと、古文書研究所で本の整理をして、それから夜ご飯の買い物をして、それから―――」
新たに溢れる涙をぐいぐい拭って、ホイミンは“いつも通りの生活”を復唱した。
第27話
「ああ、フレデリック、ここにいたのか。捜したぞ」
控えの部屋で午前中の報告書を書いていると、ライアンが入ってきた。フレデリックは慌てて立ち上がり、一礼する。そして頭を上げてライアンの顔を見ると同時に絶句した。
どんな難局にあっても輝きを失わぬ鋼の双眸は疲労に濁り、眉間には慢性的な苦悩を想わせる浅い皺が寄り、頬は青ざめやつれている。こんなあからさまな衰弱をさらした隊長は、見たことがない。
「隊長……あの、どこかお加減が悪いのですか？」
漸う口を開いたフレデリックに、ライアンは哀しげに微笑み、
「いや、ゆうべあまり眠れなくてな。心配は要らん。それよりルチアさんのことだが」
フレデリックは思わず姿勢を正した。まさか、昨日のことがばれたのではいか。自分とルチアが結託して、ホイミンを森の奥へ追い払おうとしたことが。
追及を覚悟したフレデリックは、頭の中に素早く謝罪の言葉を用意した。が意外なことに、謝罪したのはライアンの方だった。フレデリックに向かって頭を下げ、
「昨夜は済まなかった。ルチアさんの帰宅が遅くなってしまって。ご家族も心配されたことだろう」
「い、いえっ、そんな……」
「実はな、ピクニックの最中にホイミンが迷子になってしまったのだ。それを一緒に捜してもらっているうちに、あんな時間になってしまった。本当に申し訳ない」
フレデリックに何が言えただろうか。『大丈夫ですから気にしないでください』―――そんな宥めの言葉をしゃあしゃあと言えるほど、フレデリックの神経は図太くなかった。
「た、隊長、あのっ……」
どうしてよいか分からずおろおろしながらも、フレデリックはふと思った。もしかしたら、ライアンがここまで疲弊しているのは迷子になったホイミンを心配したからではないか。だとしたら、自分は何てとんでもないことをしてしまったのか。
「隊長、ホイミンさんは見つかったのですか？」
祈るような気持ちで訊ねたフレデリックを、ライアンは驚きを隠さず見返した。が、すぐに目を細めて、
「ああ、大丈夫だ。見つかったよ」
フレデリックがほっと胸を撫で下ろし、「ああ、よかった」と呟くと、ライアンはやつれた口元にほんの一瞬嬉しそうな笑みを浮かべて、
「ありがとう、フレデリック。お前のその気持ちが俺は何より嬉しい。高が魔物が迷子になったぐらいで……と思われても仕方ないのだからな」
「隊長……」
「ともかく、昨夜のことは済まなかった。ご両親にも謝罪の気持ちを伝えておいてほしい」
ライアンはそう言って再び頭を下げると、「報告書の邪魔をして悪かったな」と詫びて退室しようとした。が、
「ま、待ってください、ライアン隊長！」
フレデリックの鋭い呼びかけに驚いた様子で、ライアンは立ち止まり振り返った。フレデリックはその目を真直ぐ見据え、
「謝らねばならないのは私の方です。ホイミンさんが迷子になってしまったのは私のせいなのですから」
きっぱりと自らの非を詫びた。そして不審げに眉根を寄せながらも黙って続きの言葉を待つライアンに、妹の頼みを断りきれず、『奇跡の泉』への道標を逆向きにしたことを包み隠さず話した。そして、
「私と妹がしてしまったことは、簡単に許されることではないと分かっております。ホイミンさんが無事に見つかったからよかったものの、もし迷子になったまま帰ってこれなくなっていたらと思うと……。
でも隊長、これだけは分かってください。妹は、ルチアは本当に隊長のことが好きだったのです。家事は苦手なくせに、家政婦の仕事を全うするため必死に努力をしていました。なのに隊長は一向に自分のことを見てくれない、そんな苛立ちが、いつも隊長の傍にいるホイミンさんに向かってしまったのです」
フレデリックはいったん口を閉じ、言うべきことの整理をする。まだ足りなかった。これでは全てを正直に打ち明けたことにはならない。もうひとつ、言わねばならぬことがある。それは、
「正直に言えば、私もつい先刻までは高が魔物と思っていました。でも隊長のお顔を拝見して、昨夜どれだけホイミンさんのことを心配したのか思い知らされました。私にとってルチアが大事な妹であると同様に、隊長にとってホイミンさんは大事な存在なのですね。人間だろうが魔物だろうが関係ない。
そもそも隊長は、人間と魔物が平和に仲良く暮らせる世界を実現するために、命を賭して戦った。そんな隊長が、人間と魔物を差別するはずがないのに、私は―――」
「フレデリック、もういい」
ライアンに遮られ、フレデリックはびくりと身じろいだ。そして硬直したまま、続く叱責の言葉を待つ。もちろん、覚悟はできていた。どんな咎めも甘んじて受けるつもりだった。しかし、
「正直に話してくれて感謝する。ありがとう」
「隊長……」
「お前のしたことが、正しかったとは言わん。しかし愛する者の望みを叶えるためなら間違ったこともしてしまう、そんな弱さは人間なら誰でも持っていると思う。もちろん俺でもだ。重要なのは、過ちを過ちとして認め反省すること。そうすることで我々は成長し、弱さを克服することができるのだ」
ライアンは信じられないほど穏やかな声でそう言って、フレデリックの肩をぽん、と叩いた。そして、
「いいか、フレデリック。これからは妹を正しい方向へ導いてあげなさい。それが兄として、人生の先輩としての務めだぞ。分かったな？」
「は、はいっ、隊長！」
みっともない涙声になってるという意識はあったが、疼く涙腺はどうにもならなかった。ライアンという人間の大きさにあらためて触れたフレデリックは、ただ奥歯を噛み締めて嗚咽をこらえるしかできなかった。ライアンは黙って頷くと、部屋を出ようとした。その時、
「ライアン様！ こちらにいらしたのですか」
息を切らせて飛び込んできたのは、古文書研究所の所員だった。その慌てぶりを目にしたライアンは、さっと顔を曇らせた。普段走り慣れていないのか、所員は苦しげに肩を上下させつつ、
「ホイミンさんが書架の上から落ちて怪我を―――」
「何だとっ」
「今、救護室で手当てを受けていますが、意識が戻らないので所長がライアン様をすぐに呼んでくるようにと」
しかし、ライアンは動こうとしない。そんなライアンを所員は不思議そうに見つめたが、フレデリックにはその心中がよく分かった。近衛騎士が任務中に城を離れていいのか。騎士としての責務と、ホイミンへの想いが激しい葛藤を生んでいるに違いない。
「隊長。早く行ってあげてください。定時の巡回は私が代わりに行きますから」
フレデリックが後押しすると、ライアンはようやく頷いて、
「……済まない、フレデリック」
後を頼むと言い置いて、ライアンは凄い勢いで部屋を飛び出した。
第28話
救護室に飛び込んだライアンの目に、頭に白い包帯を巻かれ、ベッドの上で目を閉じて静かに横たわっているホイミンの姿が映った。
「ホイ…ミン……」
それは、ライアンのある記憶を刺激した。以前共に旅をしていた時、重傷を負って生死の境を彷徨ったホイミン。そう、あの時も確か、血の気の引いた身体に包帯を巻かれ、何度呼びかけても目を開けようとしなかった。その姿と目の前の光景が二重写しになって、ライアンの心に迫ってくる。
「目を、開けてくれ、頼む……」
これは、自分への罰なのだろうか。感情の暴走を抑えられずホイミンを傷つけた挙げ句、面と向かって謝罪もせず逃げるように家を出るという卑怯極まりない行為は確かに罪深い。それに対し神は、大事な者を奪うという罰を与えたのか。
『隊長にとってホイミンさんは大事な存在なのですね』
先刻のフレデリックの言葉が脳裏をよぎり、ライアンは喉の奥で吼えた。そうだ、かけがえのない、大事な存在。そんなこと、疾うに分かっていたはずなのに！
「ホイミン、ホイミンっ！」
ライアンはベッドにすがりついて、その名を呼んだ。こんな取り返しのつかない状況になってようやく、どれほど自分がホイミンを求めていたか気付くなんて。
「俺は……」
勝手な感情で、ホイミンを縛り付けてはいけないと思っていた。ホイミンを本当の意味で自由にしてやること、自分らしい生き方ができるよう後押ししてやること。それがホイミンのためにしてあげられることだと思ったからこそ、あんな置き手紙を残したのだ。しかし、
「行かないでくれ……傍にいてくれ、頼むっ……」
傍にいてほしい、たったひとつの願いが、鋼の理性を融かしてライアンの心を支配する。それに命じられるままそろそろと手を伸ばし、ホイミンの頬を優しく撫でながら、ライアンは苦しい自問を繰り返した。
なぜ、もっと早くこうしなかったのだろう。頬を撫で、ずっと傍にいてくれと懇願する。魔物だろうが人間だろうが関係ない、ホイミンが大事なのだ、ホイミンを愛しているのだと率直な想いを告げる。それだけで、ただそれだけでよかったのに。何かが変わったかもしれないのに。
「目を……開けてくれ、ホイミン、ホイミン！」
ホイミンの小さな身体を揺さぶらんばかりの声で呼びかけた時、救護室の扉が開いて古文書研究所の所長ラウルが入ってきた。ライアンは涙の痕跡を隠そうともせず、ラウルに詰め寄る。
「ラウル！ 何があったんだ。ホイミンは、ホイミンはっ……」
ライアンの噛み付かんばかりの剣幕とは対照的に、ラウルは恬淡と頷き、
「書架の整理をしてもらっていた。慣れた仕事だから大丈夫だろうと思っていたのだが、足を滑らせて落ちてしまったのだ。ま、軽い脳震盪だろう。医者も心配いらないと言っていた」
「………」
ライアンは目を開けたまま固まり、やがて震える声で、
「軽い脳震盪、だと？ ちょ…っと待て。さっきお前んとこの所員が、息を切らせて俺を呼びに来たんだぞ！ ホイミンの意識が戻らないから、すぐに来てくれ、と」
ラウルは「ああ、」と答えてにやりと笑い、
「そのくらい大袈裟に言わないと、堅物で糞真面目で仕事魔な誰かさんを呼びつけることはできないだろうからな」
「なっ……」
絶句するライアンを面白そうに眺めていたラウルだったが、すぐに表情を引き締めて口を開いた。
「けどな、ホイミンの様子がおかしいのは事実だぞ。ぼんやりして書架から落ちるなんて、これまでなかった。いや、今日だけじゃない。そうだな……お前の誕生日の辺りから特に、元気がなかった」
「そう、か……」
そのまま深刻な沈黙に埋もれるライアンを、ラウルはじっと見つめ、
「何かあったのか？ 体調を崩して休んだ後、研究所に出勤してきた時は元気で、お前の誕生日にはケーキを作るんだと張り切っていたのに」
「ケーキ？」
「ああ。リキュールたっぷりのチョコレートケーキにフルーツコンポートを挟んで木いちごを飾って……とうきうきしながら私に話してくれた」
「いや、ちょっと待ってくれ……」
ライアンの戸惑いも尤もだった。たった今ラウルが話したバースデーケーキは、ルチアが作ってくれたものそのままではないか。
「どうした？ ライアン」
「いや、実は……」
ライアンは、誕生日の出来事をそのままラウルに話した。するとラウルはきりきりと眉を吊り上げ、
「やられたな、ライアン。それは十中八九、ホイミンが作ったものだ。おおかた、その女に自分が作ったことにしてくれと頼まれ、ホイミンは泣く泣く承諾したのだろう」
ライアンは重々しく頷きながら、誕生日のことを思い出していた。確かに、あの時のホイミンはおかしかった。食事の間中ずっと塞ぎ込んで、“ルチアが作った”ケーキを要らないと言って突き返したのだ。
それを叱ったライアンに対し、小さな目に涙をいっぱい浮かべながらも、あのケーキを作ったのは自分だと暴露することは決してしなかった。ルチアとの約束を守らねば、と自分に言い聞かせていたのだろう。
「バカな子だ、お前は……」
愛情の詰まった声で囁くと、心なしかやつれた薄桃色の頬に、ライアンはそっと口づけを落とした。
第29話
「あ、あれっ？ ここは確か……」
ホイミンは身体をくりんくりんと回して辺りを見渡した。柔らかな緑に覆われ、美しい花々の咲く草原。この場所には見覚えがあった。
「えと……確か僕、研究所の本棚から落ちて……」
眉間（眉はないけれど）に皺を寄せて必死に記憶を辿っていると、どこからか優しい声が聞こえた。
『ホイミン、こちらですよ。また逢えましたね』
「あっ、ホワイトドラゴン様！」
魔物の頂点に立つと言われる神聖なるホワイトドラゴンが、金色に輝く瞳を細めて笑っていた。ホイミンは嬉しくて、ぴょんぴょん跳ねながら近づく。そしてぐいんと頭を下げて、礼儀正しくお辞儀をした。
「お久しぶりです。またお逢いできて嬉しいですぅ」
ホワイトドラゴンはゆったりと頷き、
『私も逢えて嬉しいですよ。元気にしてましたか？』
いつものホイミンなら、「はいっ、元気いっぱいです！」と答えていただろう。しかし、ホワイトドラゴンの問いから逃げるように俯き、
「元気……ですぅ……」
『あらあら、とてもそうは見えないですよ。何かあったのですか？』
その柔らかな声に促され、ホイミンはぽつりぽつりと話し始めた。
「ライアン様が……魔物は魔物と一緒にいるのが自然だって……。僕、ライアン様のお傍にいるためいっしょけんめがんばったけど、でもやっぱりライアン様も人間の方がいいみたいで……」
『まあ。ライアンがそう言ったのですか？ 人間の方がいいと』
「い、いえ、そうじゃなくて……えと、」
ホイミンは、ライアンが残した置き手紙の文言を正確に思い出そうとした。
「そう、自分のために何かしようと必死な僕を見ていると、つらくてたまらなくなる、って。だから自分とは離れて、元は魔物であるサイラスと一緒に生きた方がいいと」
『……なるほど。よく分かりました』
ホワイトドラゴンは感心したようにそう言って深く頷くと、驚くべき言葉を口にした。
『自分は魔物だからと、壁を作っているのはホイミンの方ではないですか？』
「えっ、僕が……？」
『そうです。自分は魔物だから、人間であるライアンの傍にいるには何か役に立たねばならないと、そう思い込んでいるのでは？』
「だってそれは……当然のことで……」
戸惑うホイミンの頬を、ホワイトドラゴンの羽がふわりと撫でた。
『よく考えて。ライアンがあなたを傍に置いているのは役に立つからではなく、あなたがホイミンだからです。ホイミンという愛しい存在だからです。ライアンの中では疾うに、ホイミンを魔物だとか人間だとか区別する意識は消えているはずです』
ホワイトドラゴンは続けて、ホイミンの顔を覗き込み、
『ね、ホイミン。あなたは一度死に、昼は魔物、夜は人間というある意味“不完全な”状態で蘇りました。それは何故だと思いますか？』
そう、ホイミンはまさにそれをホワイトドラゴンに質したかったのだ。サイラスの言うように、ライアンの愛情が欠けているからなのか。それとも、ホイミンの愛情がまだまだ足りないのか。
ホイミンはぷるんと頭を振り、
「分からないですぅ……。どうしてちゃんと人間になれなかったのか。何がいけなかったのか……」
ホワイトドラゴンは『しょうのない子ね』と笑って再びホイミンの頬を撫で、
『思い出してご覧なさい。あなたが死んで、クリフトの呪文によってホイミスライムの姿で生き返った時、ライアンはまた魔物に戻ってしまったと残念がりましたか？』
ホイミンは考えることなくすぐに首を振ることができた。
「いいえ。むしろ残念がる僕を宥めてくれました。姿かたちがどうあれ、ホイミンはホイミン。自分の大事な相棒だと言って………あっ！」
ホイミンは弾かれたように顔を上げた。分かったのだ。ずっと身内でくすぶっていた問いの答えが。
『分かったようですね。そう、ライアンはホイミスライムのホイミンも人間のホイミンも、全く平等に愛しているのです。どちらかを選ぶなんて、彼にはできないのでしょう。だからあなたは、両方の性質を兼ね備えた存在として蘇った。あなたはまさに文字通り、人間と魔物の架け橋となり得る存在なのです』
「ライアン様が……」
ホイミンの小さな身体は感動に震えた。やっと、ようやく理解した。ライアンの愛がどれほど偉大で崇高なものなのか。なのに愛情が足りないだなんて考えた自分の、何という愚かさ、卑小さ。
「僕……僕ぅ……」
次から次へと湧き上がる感情に翻弄され、言葉を失うホイミンを、ホワイトドラゴンは優しく促した。
『さあ、あなたの世界にお戻りなさい。ライアンが、あなたが目覚めるのを今か今かと待っていますよ。そうして目覚めたら、臆することなく自分の気持ちを打ち明けるのです。自分は魔物だからこんなこと言ったら迷惑じゃないかなんて考える必要はないと、もう分かりますね？』
「は、はいっ」
ホイミンは小さな目に涙をいっぱい溜めつつも、しっかりした声で返事した。ホワイトドラゴンはにっこり笑って、
『ライアンは、あなたが思っているよりずっと大きくて強い人間です。だから、たまには我がままも言ってご覧なさい。きっと喜んで受け止めてくれますよ』
「え、それじゃ……夜、一緒に寝てください、とか言ってもいいの……？」
赤くなってもじもじしつつ訊ねるホイミンに、ホワイトドラゴンは熱烈に頷いて、
『ええもちろん！ もしそれを断るようなことがあったら、男の風上にも置けないと私が怒っていた、そう言っておやりなさい』
ホワイトドラゴンの勢いにちょっと戸惑いつつも、ホイミンは「分かりました」と答えた。そして深く一礼し、
「本当にありがとうございました。これからも、僕を、僕たちを見守ってくださいますか？」
『ええ、もちろん。天空から見守っていますよ』
ホワイトドラゴンの言葉を胸に、ホイミンはライアンの待つ世界へ戻っていった。
第30話
「ん、ぅ……」
頬に、あたたかくやわらかいものが触れた。それはまるで、彼岸から此岸への優しい導き手のように、ホイミンの目覚めを促した。
「ふ…わ、ぁ……」
まだぼんやり霞がかかった視界を、ライアンの少し不安げな顔が覆っている。それを認識すると同時に、目覚める寸前に感じたのは頬に落とされたキスだったのだと分かった。嬉しくて、思わずほわぁっと笑ってしまう。
「ライアン、さまぁ……」
「ホイミン、どこか痛いところはないか？」
「ない、ですぅ……ぅ、ぅっ、ぇぇっ………」
痛いところはないと言いながらも、ほろほろと大粒の涙をこぼすホイミンに、ライアンは慌てて、
「こ、こら、無理をするな。痛いなら痛いと正直に―――」
「痛いんじゃないですぅ……ただ、嬉しくて。またライアン様のお顔を見ることができて……」
その言葉を聞いたライアンは、一方的な別離の手紙を置いて家を出てしまったことが、ホイミンの心をどれほど傷つけたか思い知った。
「済まなかった、ホイミン……」
弱々しい声で謝罪するライアンを、ホイミンは涙を透してじっと見つめ、
「ライアン様は、僕のことがお嫌いになったのですか？ 邪魔になったのですか？ 魔物と一緒に暮らすより、人間の方がいいと」
「違う！ そうではない。ただ俺はっ―――」
「だったら、お傍にいさせてください。僕はサイラスさんと一緒には行きません。だって僕はライアン様のことが……だ、だいすきなんです」
全身を真っ赤に染めて決死の告白をしたホイミン。『愛してる』という言葉こそ使わなかったものの、それと同等の、いやそれ以上の想いがこもっていることは、感情の機微に疎いライアンにもしっかり伝わった。
「僕がライアン様のために何かしたい、お役に立ちたいと思うのは、僕が魔物だからではありません。ライアン様が好きだからです。ライアン様の喜ぶお顔が見たいからです。好きな人のために何かしたいと思うのは、人間でも魔物でも同じでしょう？」
ホイミンの告白を、目を見開いて硬直しつつ聞いていたライアンだったが、やがてがくりと肩を落とし、
「先を……越されたな」
「ライアン様？」
「いや、何でもない」
ライアンはまるで、恋人を慈しむような手つきでホイミンを抱き上げ、膝の上に乗せた。そしてその体温を指先で反芻するように撫でながら、
「傍にいてくれ。魔物だろうが人間だろうが関係ない。ホイミンと一緒にいたい。俺はホイミンを―――」
愛してる、と言おうとしたところで、ホイミンの小さな身体がぶるっと震えた。何事かと訝った次の瞬間、
「うっ、うわぁぁぁ〜〜〜〜ん、ふぇ、ぇっ、ぅぇぇぇ〜〜〜」
全触手を広げてぺたんと座り込み、大声を上げて号泣する。こんな泣き方をするホイミンは初めてだった。全身で感情を表現するその姿に、これまでのすれ違いが生んだ不安や孤独の深さをライアンは思い知った。
この小さな身体ぎりぎりいっぱいまで溜め込まれた感情が、堰を切って溢れ出す。ライアンはその全てを涙ごと受け止めようと、腰を折って膝の上のホイミンをふうわりと抱き締めた。
「つらい思いを……させたな」
思えばホイミンはいつだって、真っ直ぐな愛情を捧げてくれた。それを正面から受け止めきれなかった自分の狭量さが腹立たしい。
ホイミンは純真な分だけ、傷つく時も真正面からざくりと傷つく。突然家政婦を雇われてしまった時、どれほどショックだったろう。『もうお前はいらない』と言われているように感じたのではなかろうか。
涙のピークは越えたようで、ホイミンはぐずぐずと洟をすすっている。その身体をあやすように揺らしながら、ライアンは傍らにいるラウルの様子を窺った。なんとも甘い茶番だと冷ややかに眺めているに違いないと思いきや、彼は見たこともないような優しい表情をしていた。
その時ライアンは、この偏屈な友人はただの冷血漢ではないことを思い出した。ただ透徹した観察眼と怜悧な知性を持っているがゆえ、上辺だけの安っぽい感傷を見抜いてしまうのだ。だから心の深い部分に触れれば、霊妙にして繊細な響きを奏でる。
「ホイミン、想いが通じてよかったな。まったくライアンは幸せ者だ」
口調こそ揶揄めいているが、どこか羨望の陰翳が感じられる言葉は、案外彼の本音かもしれない。ホイミンはがらがらの声で「ありがとございますぅ…」と律儀に返し、豪快に洟をすすり上げた。
「ほらほら、鼻をチンしなさい」
ライアンは柔らかな布をホイミンの顔にあてがって、優しく促す。ホイミンは触手に力を入れ、次の瞬間「ふんっ」と雄々しい鼻息を上げて洟をかんだ。
「おお、よしよし。その調子だ」
目尻を下げてホイミンの世話を焼くライアン。その膝の上でふんふんと洟をかむホイミン。そんな二人をしばし眺めていたラウルは、「もう暫く休んでいなさい」と告げると仕事場に戻っていった。
「あ、僕も古書の整理がまだでした」
するべき仕事を思い出したホイミンは、慌てて起き上がろうとしたが、すぐにライアンに制止された。
「ラウルも休んでいろと言っただろう？ もう少し横になってなさい」
「でも……」
「それよりホイミン、ひとつ訊きたいことがある。俺の誕生日にルチアさんが用意してくれたケーキのことだが、あれはお前が作ったものだな？」
ホイミンは小さな目がぽろん、と落ちそうなほど見開いてライアンを見上げたが、すぐに全身で否定する。
「ち、違いますぅ！ 何を言ってるんですか。あのケーキはルチアさんがライアン様のために―――」
「しかし、さっきラウルから聞いたぞ。俺の誕生日にケーキを作るんだと張り切っていたそうじゃないか。しかもそれは、ルチアさんのケーキと全く同じものだ」
反論の言葉が見つからないのか、黙り込んでしまったホイミンに、ライアンは率直な疑問をぶつけた。
「なあ、ホイミン。なぜそこまでしてルチアさんを庇おうとするんだ。彼女は……彼女はお前のことを……」
―――邪魔に思うあまり森の奥へ追い払おうとしたのだぞ。続く言葉を言うべきか否か迷っていると、ホイミンがぽつりぽつりと答えた。
「だってルチアさんは、僕に友だちになりましょうって言ってくれたんだもん。それに、ルチアさんはライアン様のことが大好きなんです。大好きな人のために何かしてあげたいっていう気持ち、僕にもよく分かるから……」
「そう、か……」
人間と魔物の間に交わされる友情、その難しさと尊さを知るホイミンにとって、『友だちになろう』という申し出は何より優先されるべきものだったに違いない。自分の気持ちを殺してでも、ルチアの願いを聞き入れようとしたのだろう。
「分かったよ、ホイミン。もうこの話はなしにしよう。その代わり、今度ケーキを作ってくれるか？」
ライアンの頼みに、沈みがちだった表情がぱあっと華やいだ。ホイミンはぐいんぐいんと頷いて、
「ホイミン特製スペシャルゴージャス特大メガ盛りケーキを作りますぅ！」
「い、いや……普通のでいいぞ」
ライアンは苦笑いしつつ、ケーキ作りの使命感に燃えるホイミンを目を細めて見つめた。
第31話
もう大丈夫ですからお仕事に戻ってくださいというホイミンの言葉を素直に受け入れて、ライアンは救護室を出た。そして早足で城に戻ろうとしていると、行く先にフレデリックとルチアの姿が見えた。何やら言い合いをしているようだ。
ライアンが声を掛けるべきか迷っていると、こちらに気付いたフレデリックが妹の手を掴んで近寄ってきた。
「隊長、ホイミンさんの怪我の具合は……」
「ああ、軽い脳震盪だ。もう意識も戻ったし、心配はいらない」
「そうですか。それはよかった」
フレデリックはほっと息をつくと、すぐに表情を引き締めてルチアに向かい、
「さ、ルチア。隊長に言うことがあるだろう？」
どうやらフレデリックは、ルチアに謝罪をさせようとしているようだ。しかしルチアは唇をきつく結んだまま、ライアンと目を合わせようともしない。そんな妹に厳しい視線を向け、フレデリックは尚も謝罪を促そうとした。しかし、
「フレデリック、もういい」
ライアンの制止に遭って、困惑しつつも掴んだ手を離す。やはりそっぽを向いたままのルチアに、ライアンは媚びるでもない諭すでもない、ただ彼の温かな人間性が自然とにじんだ柔らかな声で語りかけた。
「ルチアさん、俺はこの通り鈍感な男だから、家政婦を申し出てくれた貴女の本当の気持ちに気付くことができなかった。そのせいで貴女を傷つけてしまったかもしれない。申し訳なかった。その上で、貴女に頼みたいことがある。今すぐは無理かもしれんが、いつかホイミンと友だちになってくれないだろうか」
ルチアの強張った表情が驚きに緩んだ。驚いたのはフレデリックも同じだったが、余計な口を挟まないよう自分を律しているのか、黙って二人を見守る。
「友だちになろうという貴女の言葉を、ホイミンは今でも大事に胸にしまっている。本当に嬉しかったんだ。あの子がどれほど人間と心を通わせたいと願っているか、俺も今回のことであらためて思い知った」
驚きに緩んだルチアの唇が、かすかに震えている。自分の言葉はルチアにちゃんと届いている、ライアンはそう信じつつ続けた。
「ルチアさん、あの子は今でも、誕生日のケーキは貴女が作ったと言っているんだよ」
ルチアははっと顔を上げた。ライアンに何もかも知られていることを悟ったのか、恥じ入るように目を伏せ、
「どうして……」
「言っただろう？ ホイミンは今でも貴女を友だちだと思っている。友だちとの約束は守らねばならないと必死なんだよ」
これ以上の言葉は必要ない。あとは彼女が自分で考えて答えを出してくれるのを待とうとライアンは判断し、二人の会話に真剣に耳を傾けていたフレデリックに軽く目配せして、その場を後にした。
城での勤務を終えたライアンは、もちろん真っ直ぐ家路についた。あんな大仰な置き手紙を残して家を出たというのに、結局すぐ戻ることになった。まるで親に叱られた子供の家出だなと自嘲しつつも、ホイミンの待つ我が家に帰れる喜びを噛み締めた。
「ホイミン、ただい―――」
帰宅の挨拶を言い終わるより早く、熱い抱擁に迎えられた。ホイミスライムの時と同じ勢いで抱き着いてくるものだから、いつも受け止めきれずよろけてしまう。しかし今回ばかりは、しっかと受け止めた。
「ライアン様ぁ、おかえりなさいっ」
「ああ、ただいま、ホイミン」
ライアンの存在を確かめるように、胸に顔をこすり付けていたホイミンは、やがてゆるゆると顔を上げて視線を重ねてきた。飴色の瞳はとろりと潤んで、一途な輝きを湛えている。
「よかっ…た……ライアン様、おうちに帰ってきてくれて……」
「すまなかったな、心配をかけて。もう二度とあんな一方的なことはしない。約束する」
「はい。どこにも行かないでください……」
その訴えを身体で表すように、ホイミンはきゅっと指を立ててライアンの外套にしがみついた。その控え目ながらも必死さの伝わってくる仕草が愛おしくて、腰を抱く腕につい力が入ってしまう。するとホイミンが「ぁっ…」と声を上げた。
「すまん。痛かったか？」
力の加減を誤ったかとライアンが心配すれば、ホイミンはぷるんと頭を振って、
「いえ、痛いんじゃなくて……えと、えと……」
もじもじした挙げ句、ライアンの腰と密着している自身のかすかな膨らみを指差して、
「ここがうずうずしますぅ」
「なっ……」
自分がどれほど淫らな含蓄に富んだことを言っているのか自覚のないホイミンは、カチンと固まったライアンに邪気のない笑顔を向けた。
「バッ、バカなこと言ってないで、早く食事にしてくれ」
途端に触れ合っている部分が熱を帯びてきたように思えて、ライアンは狼狽を隠そうともせずあたふたとホイミンの身体を押し返した。しかし、
「もうちょっとだけ、ぺたっとくっついてちゃだめですか？」
温もりを求めるようにそっと指先を伸ばし、淋しげな上目使いで伺いを立てるホイミン。その慎ましくも愛らしい甘えの仕草は、ライアンの心を真っ直ぐ射抜いた。
思わず熱烈な抱擁を与えたくなったが、軽はずみな行動はその先へ進みたいという強烈な欲望を刺激することになる。以前ほど己の理性や自制力に自信が持てなくなっていたライアンは、仕方なく背中を向けた。
「すまんが、腹が減っているんだ」
ホイミンはしおれた声で「分かりましたぁ」と答え、とぼとぼとキッチンへ。が、次の瞬間、
「えっ？ あ、あ…んっ………」
ライアンはいきなりホイミンの腕を掴んで抱き寄せると、うなじを片手で支えて上から唇を塞いだ。無防備な唇はあっという間に舌の侵入を許したが、甘くとろける口内を味わってしまったら歯止めがきかなくなると分かっていた。ライアンはすぐに口づけをほどき、
「食事にするぞ」
「は、はいっ」
突然の口づけに頬を紅潮させつつ、先刻とは打って変わって浮かれた足取りでキッチンへ向かうホイミンを見送ってから、ライアンは頭を抱えた。
「ああくそっ、何をしてるんだ俺は……」
今や風前の灯火となった理性が、脳裏で儚く揺れた。
第32話
その夜は予想通り、なかなか寝付けなかった。ライアンはベッドの上でごろごろしつつ、ゆっくり夜が流れてゆくのを待った。どうせ明日は休日なのだから、多少寝不足でも構わないさと自分に言い聞かせて。
そして空が白み始めた頃ようやくうとうとしかけたが、浅い眠りは周囲を漂う甘く香ばしい焼き菓子の匂いによって覚まされた。のっそりと身体を起こして時計を確認すると、時刻はすでに昼近かった。こんな時間までベッドの中にいたのは久しぶりだ。
「それにしても、いい匂いだな」
誰にともなくぼそりと呟きつつ、手早く身支度を整える。そしてキッチンを覗くと、甘い香りの中でホイミンがにっこり笑って迎えてくれた。
「ライアン様、おはようございますぅ」
「あ、ああ、おはよう。ホイミン、それは……」
テーブルの上では、焼きたてアップルパイが美しい飴色の輝きを見せていた。ホイミンは申し訳なさそうに俯いて、
「あ、あの……これはライアン様のじゃないんです。前にあげる約束をしたことがあって、それで……」
「いや、それは構わないんだが……しかしすごいな。今朝起きて、これを作ったのか」
ホイミンはぱっと顔を上げて「はい！ 頑張りました！」と元気に答える。が、時計を見て急に慌て始め、
「ひえええ〜〜、もうこんな時間！ 急がなくちゃ。あの、ライアン様のお食事はできてますので、ごゆっくりしててください。僕はこれを届けてきますっ」
そしてアップルパイを平らな箱に入れて蓋をし、頭の上に乗せて下から触手で支えた。
「では、行ってきます！」
そのまま家を飛び出したホイミンを、ライアンは複雑な表情で見送った。
アップルパイをしっかり支えたまま、ホイミンは森の入り口へ急いだ。バトランドを後にして再び旅に出るというサイラスが、そこでホイミンを待っているはずだった。
果たして、サイラスはそこにいた。ホイミンは息を弾ませつつ近づき、そしてサイラスをじっと見上げた。旅装のサイラスも、黙ってホイミンを見返してくる。
「サイラスさん、あの、僕……」
言うべき言葉を用意していなかったホイミンは最初口ごもったが、自分の気持ちを素直に伝えればいいと思い直しあらためて口を開いた。
「サイラスさん、僕はあなたと一緒には行きません。ライアン様のお傍にいます」
ホイミンの表情や態度で半ば予想はついていたのか、サイラスは驚きも落胆も見せずただ静かに目を逸らした。
「サイラスさん、聞いてください。僕、分かったんです。どうして僕は半分魔物、半分人間になったのか。ライアン様の愛情が足りないからじゃない。全く逆です。ライアン様は、ホイミスライムの僕も人間の僕も、等しく愛してくださっているのです」
ホイミンの言葉に、今度はサイラスも驚きを露わにした。ホイミンは続けて、
「ライアン様はこれまで幾度となく、魔物だろうが人間だろうが関係ない、ホイミンはホイミンだと言ってくださいました。人間と魔物の境界を越えた大きな愛情を与えてくれていたのに、僕はそれをきちんと受け止めて理解することができなかった。だからうじうじ悩んで迷ってしまったのです」
こうして言葉にすると、あらためてライアンの愛の大きさが感じられる。ホイミンは潤む瞳をぱたぱたと瞬かせて、真っ直ぐサイラスを見つめた。
「いつかきっと、サイラスさんもそういう人と巡り会えます。サイラスさんの過去も傷も哀しみも全てひっくるめて、大きな愛情で包み込んでくれる人。だからどうか……絶望しないでください。信じ愛する心を捨てないでください。僕の……心からのお願いです」
サイラスは何も言わず、静かに目を閉じた。ホイミンの言葉を吟味するように。やがてその口元をかすかな笑みが掠めると同時に目を開け、
「ホイミンはこれまで、たくさんつらい目に遭ってきた。人間に酷い目に遭わされ、命まで奪われた。それでもお前は信じ愛する心を捨てなかったんだな。絶望するのは簡単だ。しかしそこからは何も生まれない……分かったよ、ホイミン。俺もお前のように強くなれるよう努力する。そしていつか、お前にとってのライアンのような者と出会えると信じて……」
サイラスは真摯な口調で答えると、ホイミンの前に膝をついた。そして、
「ありがとう、ホイミン。お前に会えてよかった」
「そ、そんなぁ〜〜、照れますぅ」
紅く染まった身体をくりんくりん回すホイミンを、サイラスは笑って眺めた。やがて頭の上を指差して、
「ところでさっきから気になっているんだが、その平たいものは何だ？ 日よけか？」
ホイミンは「あっ」と声を上げ、
「忘れるところでした。これ、アップルパイです。前に約束しましたよね、今度焼いてあげます、って」
「覚えていてくれたのか」
「はいっ、もちろんです！ 今朝焼いたばかりのほかほかです。旅の途中で食べてくださいね」
サイラスは笑顔で頷き、平たい箱を恭しく受け取った。それをいったん傍らに置くと、ホイミンの身体をそっと抱き上げ、
「ありがとう、ホイミン」
礼を述べるとともにその頬に唇を押し当てた。ぶちゅぅぅ、とお礼のキスにしてはいささか大仰な音を立てて唇を離すと、なぜかホイミンの背後に不敵な笑みを向けて、
「じゃあな、ホイミン。元気で。幸せになるんだぞ」
別れの挨拶を残して森の中へ去っていった。
「サイラスさんも、幸せになってください……」
ホイミンは森に向かって呟くと、来た道を戻ろうとくるりと振り向いた。すると、
「ライアン様！？ どうされたのですか？」
木の蔭から現れたライアンの元に慌てて駆け寄る。
「どうしてここに？」
「うん？ いや、その……お前があんまり慌てて出かけるものだから、気になってな」
答えながらライアンは、ホイミンを抱き上げた。そしてわずかな躊躇ののち、さっきサイラスがキスをした同じ場所に同じくらい濃厚な口づけをした。途端にホイミンは真っ赤になり、
「ラ、ライアン様っ？ ど、どどどうされたのですか？！ いきなりキッスなんて……」
「消毒だ」
「ほえ？」
「……なんでもない。さ、帰るぞ、ホイミン。さすがに腹が減った」
わけが分からないながらも「はいっ」と返し、いつものようにライアンの懐中に潜り込む。そこから見上げたライアンは仏頂面で、そしてかすかに頬が赤らんでいた。
第33話
家に戻って朝食兼昼食をのんびり楽しみひと息つくと、ライアンが「これから出かけるぞ」と言い出した。
「どこへ行くのですか？」
「うん？ 城下町だ。頼んでいたものが出来上がったらしい。引き取りに行く」
何だろうと首を傾げるホイミンに「早く仕度をしなさい」と言って、ライアンは外套を羽織った。ホイミンは急いで家の戸締りを済ませ、お出かけ用のマントをかぶってライアンの懐中へ。
「こうして二人で出かけるのは久しぶりですね」
浮かれた声で告げるホイミンの頭をふわふわと撫でると、ライアンは家を出て城下町へ向かった。
休日とあって町は賑わっていた。ライアンは人込みの間をすり抜けて、真っ直ぐ目的の店へ向かう。店内に顔を出すと途端に、「きゃあっ」という黄色い歓声が沸いた。
「ライアン様、いらっしゃいませ！」
「お待ちしておりました」
若い女性店員が他の客そっちのけで駆け寄ってくる。ホイミンはライアンの懐深くに潜りながら、やっぱりライアン様はモテモテなんだなあと、嬉しいようなくすぐったいような淋しいような、複雑な感慨に耽った。
しかし、ホイミンにとってさらなる驚きは次の瞬間にあった。ライアンが外套を広げてホイミンを抱き上げると、先刻の何倍もの歓声が上がったのだ。
「きゃああっ、ホイミンちゃん！」
「来てくれたのねっ」
「ああっ、このマントうちのお店のね！ 可愛い！ めちゃくちゃ似合ってる！」
周囲から声が上がり、その多重放送についていけずホイミンはくりんくりんと身体を回す。すると「かわいいーーっ」とさらに甲高い声が上がり、ホイミンは目をぱちぱちさせた。ライアンは仕方ないなと言わんばかりの苦笑を浮かべ、
「ほらほら、騒いでないで、出来上がったドレスを見せてくれないか」
店員たちは「はぁ〜い」と肩を竦めて応じ、奥から小さなドレスを持ってきた。そしてホイミンに笑いかけ、
「どうぞ。試着してみてください」
ホイミンは何がなんだか分からず、呆けた顔でライアンを見上げる。ライアンはふっと笑い、
「忘れたのか？ 来週はクリフトとアリーナの結婚式だろう？ 王族の結婚式に相応しいドレスを見立ててみた。さ、着てみなさい」
ホイミンはまだぽかんと口を開けたまま、差し出されたドレスを見つめる。ホイミンの身体よりやや濃い薔薇色で、翅のように薄く透ける軽やかな生地を幾重にも重ねることで、ふんわりと丸みを帯びたシルエットを生み出している。裾は真珠を模したビーズで縁取られ、動くたびきらきらと上品な輝きを見せた。
「こんな……きれいなドレス初めてですぅ……」
ホイミンはうっとりと呟きながら、マントを脱いだ。そして、ドレスを着せてもらう。左右の細い袖口に触手を一本ずつ通し、首の付け根でボタンを留める。
「おお、似合うじゃないか。鏡を見てごらん」
ライアンに促され鏡に映して見ると、お姫さまのような自分がいた。
「うわぁぁぁ………」
ホイミンは嬉しくて、くるんと回ってみたり裾をつまんでお辞儀をしてみたり。
「何だか自分じゃないみたいですぅ」
そしてライアンを見上げ、
「これ、ライアン様が選んでくださったのですか？」
「ん？ あ、まあそうだな。と言っても全体の色合いや形のイメージを伝えただけだがな。ここまで見事に作ってくれるとは。さすがはバトランド一の仕立て屋だ」
「お褒めの言葉ありがとうございます」
店員らはライアンの言葉に深々とお辞儀をし、
「褒められたからというわけではありませんが、私たちからホイミンちゃんへプレゼントです」
そう言って、ドレスと同じ色のヘッドドレスをホイミンの頭に乗せ、顎の下でリボンをふんわり結んだ。
「いやぁぁん、かわいい〜〜」
「ホイミンちゃんてば、お嫁さんより目立っちゃうわよ」
「そうそう。きっと注目の的ね」
口々に褒められ持ち上げられ、ホイミンはふわふわ夢見心地。そんなホイミンを横目にライアンは眉をひそめ、店員たちにそっと耳打ちする。
「すまんがその辺にしておいてくれ。あんまりおだてると、あのまま飛んでいってしまう」
然もありなん。ホイミンは触手が地に着いていない状態で、赤く火照った身体は今にもほわほわ宙に浮かび上がりそうだった。店員らはくすくす笑いながら頷き、
「では、ドレスをお包みいたしますね」
そしてびろうど張りの美しい箱を広げ、ホイミンのドレスを丁寧に畳んで収めた。
「うわあ、あんなきれいな箱に入れてくれました」
「ああ、よかったな、ホイミン」
ホイミンは嬉しくて嬉しくて、触手がくねくね波打つのを抑えられなかった。
そして、ついにその日がやってきた。クリフトとアリーナの結婚式。王の親書を携え、ホイミンを伴って国を出たライアンは、無事サントハイム王国に到着した。そこで二人を待っていたのは―――
「ライアン！ ホイミン！ 久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
共に苦難を乗り越えた仲間であり、敬愛すべき勇者でもあるソロが、屈託ない笑顔で迎えてくれた。ライアンは固い握手を交わし、再会を喜んだ。
「いよいよあの二人も結婚か。じゃじゃ馬姫もついに年貢の納め時というわけだな」
「だといいけどね。結婚ぐらいではアリーナは大人しくならないかもな」
「確かに。クリフトも大変だな」
そんな気安い会話を交わす二人を、ホイミンは懐中から楽しげに眺めていた。その時、
「あら、そこにいるのは剣の腕だけは一流の天然鈍感騎士様じゃなくて？」
聞き覚えのある声に、ライアンの眉もぴくりと吊り上がる。声をした方を見ると、そこには黒髪黒瞳の美女が二人。言うまでもない、マーニャとミネアだった。
「ああ、お前たちか」
さっきの当てこすりは聞こえなかったふりをして、ライアンはちらと肩を竦める。優雅にお辞儀をして「ご無沙汰しております」と挨拶するミネアとは対照的に、マーニャは紅く濡れた唇を妖艶な笑みの形にして、
「相変わらず愛想のない男ね。そんなだと、可愛いホイミンちゃんを他の男に取られちゃうわよ」
実際に取られそうになったばかりだったこともあり、ライアンは過敏に反応してしまった。
「うるさい！ 騎士に愛想などというものは必要ないっ。そもそも騎士というのはだな―――」
「まあっ、ホイミンちゃん、お久しぶり。元気そうで……本当によかったわ」
ライアンの熱弁をあっさり遮って、その懐中にいるホイミンに微笑みかける。マーニャもミネアも口元は笑っていたが、瞳は苦しげに揺れていた。事前に、ソロから聞かされていたのだ。あの冒険の後、ホイミンを襲った途轍もない悲劇を。
「ホイミスライムの姿で会うのは初めてね。でも人間の姿に負けないほど可愛いわ」
「そ、そんなあ……」
超絶美女の二人に褒められて、ホイミンは赤くなってもじもじする。その仕草がまた可愛いと、マーニャとミネアは争うようにしてホイミンの身体を抱き上げた。
「きゃ、可愛いドレス。よく似合ってるわ」
「ありがとうございます。ライアン様が選んでくださったんです」
「へええ〜〜、ライアンがねえ。見かけによらず、乙女な趣味してんのねえ」
「誰がだ！」
「でも、こんな可愛いドレスを選んであげるなんてけっこうやるじゃない。ちょっと見直したわ。騎・士・さ・ま」
そう言ってマーニャが投げキッスを送ると、ライアンは仏頂面で手を振ってキスをはね返した。途端にマーニャは声を荒らげ、
「ちょっと信じられない！ 何よその態度。前言撤回よ！」
そしてイーッと舌を出すと、ホイミンに向き直り、
「ねえねえホイミンちゃん。一緒に花嫁さんに会いに行きましょうよ。ね？」
「えっ、いいんですか？」
「いいわよぅ。きっとアリーナも会いたがってるわ。さ、ミネア、行きましょ」
右手にホイミンを抱き、左手でミネアの腕を掴んでさっさと歩き出してしまった。その後ろ姿を見送りながら、ソロは笑って、
「それじゃあ僕たちもクリフトに会いに行こうか。ホイミンは彼女らと一緒で大丈夫だろう」
「ああ、そうだな」
ライアンは心なしか疲労のにじむ声で応じると、ソロの隣に並んだ。
第34話
「ソロ！ ライアン！ 来てくださったのですね」
新郎の控え室に顔を出すと、すっかり仕度を整えたクリフトが笑顔で迎え入れてくれた。襟や袖に金の縁取りがされた白い上下が、優しさと清廉さを兼ね備えた彼の個性を際立たせている。
「クリフト、おめでとう。心から祝福を贈るよ」
「これでサントハイムも安泰だな」
ソロとライアンからの祝福に、クリフトは丁寧なお辞儀を返す。
「まだまだ未熟者ですが、これから姫と二人で力を合わせ、サントハイムのさらなる繁栄に尽くしたいと思っております」
優等生の返事に、ソロはいたずらっぽい笑みを浮かべ、
「サントハイムの繁栄より、まず先に君がやるべきなのはアリーナのお転婆を直すことだろう？」
「そうだな。いつまた壁に穴を開けて、城を抜け出すとも限らない」
ライアンも同調して、苦笑を向ける。するとクリフトは「はは…」と乾いた笑い声を漏らしてかくんと項垂れ、
「そうですね。仰る通り、そちらの方が喫緊の課題でした」
そう言って、今日のめでたい日には不似合いな深〜い溜め息をつき、
「これからずっと姫のお傍にいられると思うと、嬉しくて嬉しくて時折気が遠くなってしまいます」
そしてうっすら遠い目をした。心なしか縮んだようなクリフトの肩を、ソロとライアンは力づけるように黙って叩いたのだった。
結婚式は、サントハイム城内の教会で執り行われた。パイプオルガンの荘厳な賛歌が高いヴォールト天井に響き、まるで教会全体が祝福を歌っているかのようだった。
「ぅっ、ぇぇっ、ぇっ…姫さまきれいですぅ……かんどうですぅ………」
ホイミンはずっと泣きっぱなしで、ライアンにしょっちゅう涙と鼻水を拭ってもらわねばならなかった。特に、初めて見る純白のウェディングドレスにすっかり魅入られたらしく、うっとりと眺めてはぐずっと豪快に洟をすする、その繰り返しだった。
「では、誓いの口づけを」
神官の促しにクリフトは小さく頷き、アリーナの顔を覆うヴェールをそっと持ち上げた。さすがの女傑も緊張気味なのか、顔が強張っているのが分かる。
するとクリフトは、あらゆる強張りを一瞬で解いてしまう優しく包み込むような笑みを浮かべ、アリーナの唇にふわりと触れ合わせた。
「はああああ〜〜〜〜」
ホイミンの感動と高揚も頂点に達したようで、目を見開き口をぽかんと開けたまま、神に祝福された二人の口づけに酔った。
「いいなあ……」
羨望の響きが濃く反映したホイミンの呟きは、何故だかライアンの胸に深く刻まれた。
荘厳且つ神聖な式が終わって中庭に出ると、そこはすでに戦場の態だった。参列者の若い女性らはみな双眸を爛々と輝かせ、バルコニーの前を陣取っている。もうすぐ、そこからアリーナが姿を見せることになっているのだ。
「ライアン様、あの人たちは何をしているのですか？」
バルコニーの前に群がる女性たちを指差し、ちょんと首を傾げるホイミンに、ライアンは苦笑しつつ、
「ああ、あれはブーケ待ちだろう。古くからの習慣でな、花嫁が後ろを向いたまま持っていたブーケを投げるんだ。で、それを手にすることができた女性は、愛する人と幸せになれるという言い伝えがある。一国の王女のブーケだからご利益も相当なものだろうと、みんな躍起になっているに違いない」
ライアンの説明を真剣な表情で聞いていたホイミンは、その懐中から勢いよく飛び出し、
「僕も！ 僕もブーケ欲しいです！」
「え？ ホイミンがか？」
「はい、僕も行ってきます！」
そして戦闘意欲を全身に漲らせ、揚々とバルコニーに近づこうとした。その身体をライアンは素早く引き止める。
「待ちなさい。本当にブーケが欲しいんだな？」
「はい、欲しいですっ」
「そうか……分かった。ならこっちだ」
そして何故か、バルコニーとは反対方向に歩き出した。ホイミンは慌てて、
「ライアン様、バルコニーはあっちです。もっと近くに行かないと……」
「いや、あんな近くでは駄目だ。花嫁はあのアリーナだぞ」
群集からどんどん離れていくうちに、バルコニーにアリーナが現れた。ウェディングドレス姿で、手にはブーケを持っている。が、いきなり肩と腕をぐるぐる回し始めた。ライアンは苦い笑いを浮かべ、
「そら、見ろ。準備運動してるぞ。ったく、どこまで飛ばす気だか」
いつでもどんな時でも全力のアリーナ。加えて可憐な外見を裏切る怪力。新記録が期待できそうだ。
「よし、取り敢えずこの辺りにいよう」
バルコニーは遥か彼方。本当にこんな遠くまで飛んでくるのかホイミンは半信半疑だったが、アリーナのことは共に冒険をしたライアンの方がよく分かっているだろうと思い、信じることにした。
するとアリーナは、上半身を軽く前屈させた。次の瞬間、
「おおおお〜〜〜〜〜っ」
耳を疑うような雄叫びを上げて、身体をぐわっと後ろに反らした。その勢いを借りて、手にしていたブーケを背後に投げ飛ばす。それは群がる女性たちの頭上を凄い速さで通過し、まっすぐライアンたちの方へ飛んできた。
「よし、目測通りだ」
ライアンは素早く落下地点へ移動し、ホイミンを抱えた両手を思い切り上へ伸ばした。
「今だ、ホイミン！ しっかり掴め！」
「はいっ」
ホイミンは飛んできたブーケを全身で受け取り、「やったぁ」と勝ち鬨を上げた。しかし、
「ちょっと！ 何よあのホイミスライム！」
「ブーケを渡しなさい！」
「追いかけるわよ！」
ブーケ欲しさに本能を剥き出しにした女性らが、ライアンたち目掛けて突進してきた。
「まずい、逃げるぞ！」
ライアンが慌てて走り出すと、物陰からソロが顔を出し、
「こっちだ、ライアン。急げ！」
「おお、すまん」
ソロの先導に従って、城の敷地内を逃げ回る。
「ホイミン、しっかり掴まっているんだぞ」
「はぁい」
ホイミンは半分の触手でブーケを抱え、残り半分でライアンの胸にしがみつき、きゃっきゃと笑う。
「幸せのブーケですぅ」
何だか楽しくて嬉しくて幸せで、必死に走っているライアンには申し訳ないけれど、このひとときがずっと続けばいいのに、とホイミンはひそかに思ったのだった。
第35話
「はああ〜、何だか夢を見てるみたいでした。まだ目がチカチカしてますぅ」
ベッドの端に腰かけ、うっとりと中空を見上げながら目を瞬かせるホイミンは、ホイミスライムから人間の姿に変わっていた。
すでに日も落ちて久しい時間。二人は祝賀パーティーを少し早めに、ホイミンが人間化する前に抜け出して部屋に戻ってきた。そして部屋付きの広い風呂に浸かって旅の疲れを落とし、ようやく人心地ついたところだった。
落ち着いて寛げるよう、パーティーが催された王宮から少し離れた小宮殿の豪奢な客間を用意してくれたのはありがたいのだが、たった一つ重大な問題があった。ベッドが一つしかないのだ。
もちろん、この部屋を提供してくれたクリフトたちに他意がないのは分かっている。ホイミンが夜だけ人間の姿に変わることは、ライアン以外誰も知らないのだから。ベッドは一つで十分と考えるのも尤もだろう。
ライアンは、部屋の中をぐるりと見回した。猫足の曲線が美しい長椅子は、ベッド代わりにするには小さい。まさか床に寝るわけにもいくまい。何より、一緒にベッドで寝ない（寝られない）理由をホイミンに納得させることは難しいだろう。
ライアンは覚悟を決めた。今夜ひと晩くらい眠れなくても何てことはない。ホイミンの甘い寝息に耳を傾けつつ夜を過ごすのもまあ悪くないだろう。最近錆びついて久しい理性を鍛え直すいい機会だと自分に言い聞かせ、再びホイミンの方を見やると、窓辺に立って夜空を見上げていた。
取れたのがよほど嬉しかったのか、その両手にはブーケが。時折顔を近づけ、花の香りにうっとり目を細める。その無邪気な仕草が可愛くてたまらない。ライアンは秘めやかな夜の興趣を乱さぬよう、ひたりひたりと足音を抑えて近づいた。
「まるで……花嫁みたいだな」
思わず口をついて出た言葉に誰より驚いたのは、当のライアン自身だった。何を言ってるんだ俺は、という苦い呟きが喉の奥へ消えてゆく。もちろんホイミンも驚いた様子で瞬きしつつ、ちょんと首を傾げ、
「花嫁、さん？ 僕が？」
「あ、ああ、いやその……ほら、その白い夜着はまるでドレスのようだし、手にはブーケ。これでベールをかぶっていたらまさに花嫁のようだと……」
言い訳のつもりが、どんどん深みにはまってゆく。額の汗を拭いながら言い訳を続けるライアンを、ホイミンは黙って見つめていた。が、やがてかすかな笑みとともに、
「ありがとございますぅ……僕も、ライアン様の花嫁になりたかったです。でも……」
続く言葉はホイミンの口から出ることはなかったが、ライアンの耳にははっきり届いた。でも、僕は男の子だし、それに何より……魔物だから。
「ホイミン……」
こういう時、何と言えばいいのか分からない。繊細な心のおののきを癒す優しい言葉。ライアンは必死に語彙の海を探したが、どれも平凡で無骨で、ホイミンの憂いを払ってやれるほどの力はない。ならば、
「ホイミン、こっちを……向きなさい」
しゅんと項垂れてしまったホイミンに優しく命じると、ライアンは深く息をついた。そして、一体何を言われるのだろうと、息を詰めて言葉を待っているホイミンの、ほどよい丸みを帯びた頬を手のひらで包み込み、そのままゆっくり顔を近づけてゆく。
この状況で交わす口づけがどれほどのリスクを孕んでいるか、ライアンが分からぬはずはなかった。欲望への導火線に、自ら火をつけようというのだから。
しかし、言葉の無力さを補うことができるのは、こうした肌と肌の触れ合い、温もりの交換であることもまた、ライアンは知っていたのだ。
「ライアン……さま……」
ホイミンは不安と怯えと期待がない交ぜになった瞳を真っ直ぐ向けて、ゆっくり瞬きした。夜に濡れた長い睫毛が、しんなりとたわむ。ライアンはまずそこへ口づけて睫毛のふるえを味わってから、ふんわり綻んだ唇に己のそれを重ねようとした。その時、
「こんばんわぁ、遊びにきちゃった。開けて〜〜〜」
酒精の影響が強く感じられる上機嫌な呼びかけとともに、扉が外からガンガン叩かれた。声の主の顔がとっさに思い浮かび、ライアンは思わず殺意を覚えた。
「あんの女ぁ〜〜〜〜」
しかしホイミンを怖がらせてはいけないと何とか抑え、
「ホイミン、返事しなくていいぞ。もう寝ていることにしよう」
「え、でもせっかく遊びに来てくださったのに」
「ただの酔っ払いだ。移動呪文が使えない我々は長旅で疲れている。今夜はゆっくり―――」
「ライアン、いないのか？ クリフトとアリーナも来てるんだ」
予想外のソロの声。どうやら酔っ払いのマーニャだけでなく、全員揃っているようだ。こうなると、無視を決め込むわけにはいかない。
「ホイミン、お前は出なくていいからな」
ライアンは低い声で言い含めると、扉を細く開けた。案の定、勇者一行勢ぞろいだった。眠いふりを装って「こんな遅くにどうしたんだ」と訊ねれば、酒瓶を抱えたマーニャが「夜はこれからでしょ？」とすかさず返してきた。続けて、
「久しぶりに全員集まったのよ。思い出話を肴に酒を飲む。それが仲間ってもんよ」
「クリフトとアリーナまで引っ張ってきたのか。二人は新婚なんだぞ」
ライアンの尤もな指摘に、ソロは苦笑を浮かべ、
「いや、アリーナはぜひホイミンに渡したいものがあるからって。もう寝てしまったかな」
「ん、あ、ああ。もうとっくに夢の中だ。今日は色んな経験をして疲れたんだろう」
「え〜〜、つまんなぁい。あたしもホイミンちゃんに会いたいの〜〜。ホイミンちゃ〜〜ん」
アルコールの勢いなのか生来の傍若無人なのか、恐らくその両方だろうが、マーニャは扉をぐいと開け、ライアンの脇を素早くすり抜けて部屋の中へ侵入した。ライアンは慌てて追いかけたが後の祭り。マーニャは一気に酔いが冷めた様子で立ち尽くし、
「ホイミン……ちゃん？」
部屋の奥で佇むホイミンに、呆けた声で呼びかけた。応えてホイミンはにっこり笑い、
「はい、ホイミンですぅ」
「うっっそぉぉぉ〜〜〜、だって、だってついさっきまで……」
驚愕を露わにしたのは、もちろんマーニャだけではない。ソロもミネアもクリフトもアリーナも勝手に部屋に入り込み、そして瞬きもせず人間化したホイミンを凝視した。ややあって、
「……驚いたな。ライアン、これは一体どういうことなんだ？」
ソロの問いを、適当にあしらうことはできない。ライアンは「実は」と前置きし、
「ホイミンがホイミスライムの姿なのは昼間だけなんだ。日が沈むと同時に人間化し、また日の出とともにホイミスライムに変わる。何故なのかはよく分からんが……」
「そうだったのか……」
「黙っていて済まなかった。俺もどう説明していいか分からなくてな」
ライアンの謝罪を、ソロは微笑みで受け止め、
「確かに、言葉で説明されても実感が湧かなかっただろうな。それにしても、何故半分魔物で半分人間に……」
全員で考え込んでいると、ホイミンが「あの…」と遠慮がちに切り出し、
「それはきっと、ライアン様が魔物の僕も人間の僕も、平等にあ……愛してくださっているからだと……」
ホイミンの“答え”に、真っ先に反応したのは当のライアンだった。髪を逆立て、
「なッ、何を言い出すんだお前は！」
もちろん怒っているのではなく豪快に照れているだけなのだが、ホイミンは予想外の剣幕に怯えてしまった。ソロは「まあまあ」と宥め、
「ホイミンの言う通りだと思うけど」
「そうよぅ〜〜、さすがはホイミンちゃん、天然騎士より聡明だわ」
「人間と魔物に注がれる平等な愛。素晴らしいことですわ」
「神はやはり全てお見通しなのだな」
「はい、姫の仰る通りです」
口々に感想を言い合ってはひたすら感心する彼らに、ライアンは何も言えず顔を赤くしたまま黙り込む。するとマーニャがすすす…と近寄って、
「それにしても、夜だけこんな美少年になっちゃうなんて……もう、ライアンのす、け、べ」
「…………！！」
すっかり目の据わったライアンが剣を取ろうとするのを、マーニャとホイミンを除く全員が半笑いで抑えたのだった。
第36話
ソロたちに宥められてようやく落ち着きを取り戻したライアンだったが、まだ目は据わったままだった。低い声で、
「で、何をしに来たのだ、お前たちは。俺をからかいに来たのかっ？」
「いや、そうじゃなくて。ほら、アリーナ。それをホイミンに渡すんだろう？」
ソロに促され、アリーナが前に進み出た。その手には、白いヴェールが。
「ホイミンがウェディングドレスを羨ましがっていたと聞いてな。さすがにドレスはあげられんが、せめてこのヴェールでもと思って持ってきた」
アリーナの申し出に、ホイミンは慌てふためく。
「そ、そそそんなっ。姫さまのヴェールを頂くわけには……」
「別に構わん。もう使うこともないだろうしな。ま、私がクリフトと離婚して別の男性と再婚するようなことになれば、話は別だが」
とんでもないことをさらりと言うアリーナに、その場の全員が固まった。ただし、苦笑いを浮かべているクリフトを除いて。
「そういうことにならないよう、私も努力いたします。さ、ホイミンさん、姫の気持ちをどうぞ受け取ってください」
伺いを立てるように、ホイミンはおそるおそるライアンを見上げた。対して、ライアンは小さな頷きを返す。承諾をもらったホイミンは、「ではお言葉に甘えて……」と応えて一歩前に出た。するとアリーナはその頭に、小さなティアラの付いたヴェールをそっと乗せた。
「おお、似合うぞ。どうだ？ ライアン」
感想を求められたライアンは、「まあな」と素っ気ない答えを返してすっと目を逸らす。するとすかさずマーニャが割り込み、
「だめよぅ、この男に感想なんて求めちゃ。それより、ね、ね、今日取ったブーケを持ってみて。ほらっ、可愛い花嫁さんの出来上がり！」
そうして、恥ずかしそうにもじもじしているホイミンをぐいぐい押して、無理やりライアンの隣に立たせた。
「うん、なかなかお似合いじゃない。ちょうどいいわ、ここにはクリフトもいることだし。二人で永遠の愛を誓い合いなさい。ね？」
すると案の定というか予想通りというか、ライアンが「ふざけるな！」と顔を赤らめて怒鳴った。しかし「はいはい、照れないの」とマーニャに軽くあしらわれる。ライアンは不快げに鼻を鳴らし、
「照れてなどいない。こんな茶番に付き合う謂れはないと言っているのだ。ホイミンにこんな格好をさせて、全くくだらん」
ライアンの言葉に、マーニャのこめかみがぴくりと揺れた。
「ふ〜ん、なるほど。魔物相手に愛を誓うなんて、バカバカしくてできないってわけ？」
「違う！ 誰がそんなことを―――」
「じゃあ何なのよ！！」
ライアンの剣幕をも凌ぐ勢いで、マーニャが怒鳴り返した。その声に、これまでのからかうような軽い響きは一切なかった。美しい黒瞳も、その奥に焔を宿しているかのようにぎらぎら輝いている。そう、マーニャは本気で怒っているのだ。
「騎士たる者、恋だの愛だの甘ったるいことは口にしないって？ バッカじゃないの。惚れた相手に愛を誓うこともできないチキン野郎が、えらそうに騎士道語るなっつうのよ」
「…………っ、」
ライアンは反論しようとしたが、言葉が何も出てこなかった。何故なら、全くもってマーニャの言う通りだからだ。ただの臆病者が、騎士の仮面を着けているだけ。
そしてマーニャ以外の仲間たちも、少なからずマーニャに共感していることが分かる。誰もマーニャをたしなめようとせず、黙って成り行きを見守っているのだから。その時、
「あ、あのっ、僕、僕はライアン様に永遠の愛を誓いますっ。というか、もうずっとずっと前に僕は勝手に誓ってるんです。ライアン様にもう要らないって言われるまで、お傍にいるんだって」
「ホイミン……」
「だからもう、いいんです。同じ誓いを返して欲しいとか、そんなこと思ってません。分かってるんです。人間と魔物がずっと一緒にいることはできないって。分かって……いるんです……ぅっ、ぇぇっ………」
両手にしっかり握ったブーケに顔をうずめ、ホイミンは静かに泣いた。ヴェールに覆われた華奢な肩が、初めは小刻みに、やがてひきつけを起こしたかのように大きく震え始めた。
ライアンは、複数の目から注がれる痛いほどの視線を背中に浴びつつ、ホイミンに近づいた。そして大きく息を吐く。本当に、ここで逃げたりしたら騎士どころではない。男の風上にも置けぬ。
「ホイミン、お前にはいつも先を越されてしまう。たぶん一生……俺はお前には敵わない」
「ライアン……さま？」
ホイミンはそろそろと顔を上げ、ヴェールの向こうから涙に濡れた一途な眼差しを送ってくる。ライアンはヴェールをそっとめくり、額や鼻の頭に張り付いた花びらを丁寧に取ってやった。そして、
「マーニャの言う通り、俺は臆病者だ。心を満たすこの熱い感情を、認めるのが怖かった。一度溢れてしまったら最後、制御できる自信がなかったのだ。そのせいでお前の想いに背を向け、己の感情に枷をはめた。だがしかし……」
ライアンの言葉をひとつも聞きこぼすまいと、真剣な表情でじっと見上げてくるホイミンが愛しくてならなかった。ライアンは声帯を圧迫する熱塊を何とか嚥下し、
「これ以上、己を偽ることはできぬ。ホイミンを愛しているという己の感情を。今ここで、俺も誓おう。この命が尽きるまでお前を愛し続けると」
一瞬のしじまの後、ぱさり、とかすかな物音がした。ホイミンが、手にしていたブーケを落とす音。気付いていないのか、拾おうともせずそのまま固まっている。心配になったライアンは、そっと顔を覗き込み、
「大丈夫か？ ホイミン」
「だっ……だいじょうぶじゃないですぅ……だって、ライアンさまが、ライアンさまが……」
「ん？ 俺がなんだ？」
「ぼ、ぼくをあいしてるなんて……そんなこと……」
どうやらライアンの『誓い』で、ホイミンの心は感情の飽和状態になってしまったようだ。ライアンはふっと目を細めて「困った子だ」と囁き、両腕を広げてホイミンを花嫁のヴェールごと抱き締めた。
「愛してるよ、ホイミン」
一度言ってしまったら、これまで頑なだった心も舌もほぐれたようだ。二度目の愛の言葉は、自分でも驚くほどすんなり出てきた。
今さらながら、悔やまれる。どうしてもっと早く、こうしていなかったのだろう。そうすれば、ホイミンを悩ませたり泣かせたりすることもなかったのに。
「ぇっ、ふぇっ……僕もっ、僕もだいすきですぅ〜〜、ライアンさまぁぁ……」
胸元にすがりついてふにふに泣きながら、「だいすき」を繰り返すホイミン。その背中をあやすように撫でながら、ライアンは「ああ、俺もだ」といちいち相槌を返した。
やがてホイミンの涙も鎮まった頃、マーニャはぐずっと洟をすすり上げて、
「よかったわ、ホントに。天然騎士もやるときゃやるじゃない」
ほとんど条件反射的に“大きなお世話だ”という返答が舌に乗ったが、ライアンはそれを呑み込んで「ありがとう」と小声で返した。途端にマーニャは顔を歪め、
「うぇっ、気持ち悪い。どうしたのよ、急に紳士になっちゃって」
「人が礼を言ったんだ。素直に受け取れっ」
「気持ち悪いから気持ち悪いって言ったのよ。素直でしょ？」
相も変わらずの口喧嘩だったが、先刻のような刺々しさはなかった。ソロも笑いながら宥め、
「それにしても本当によかった。クリフト、二人の誓い、ちゃんと聞き届けてくれたか？」
「ええ、もちろんですとも。私を通して、神の御許に届いているはずです」
その時、クリフトの言葉に呼応するかのように風が鳴った。
「あっ、ホワイトドラゴン様！」
ホイミンが指差した窓を見ると、白いドラゴンがくるりと優雅に旋回し、夜空の向こうへ消えてゆくのが見えた。
「魔物の頂点に立ち、最も神聖と言われるホワイトドラゴンが祝福に来てくれたに違いない」
アリーナの指摘に、誰もが敬虔な面持ちで頷いた。
「こんなにたくさんの祝福を受けて、もしホイミンを泣かしたりしたら承知しないわよ。脳天にメラゾーマぶちかましてやるんだから」
マーニャがライアンに詰め寄れば、ソロまで乗っかって、
「なら僕は、ギガデインだ」
「お前ら……それ普通に死ぬぞ」
呆れたような口調で力ない反論をするライアンを、皆が笑った。ただ一人ホイミンだけは、
「やっ、やです〜〜。ライアン様死んじゃいや！」
涙目ですがりついたのだった。
第37話
先刻の『誓い』の余韻にのぼせているのか、ホイミンはほんのり頬を赤らめてぽぅっと宙を見つめている。
勇者一行が去ってしまった部屋はがらんとして、さっきまでの騒々しさから一転、夜本来の静けさと秘めやかさを取り戻した。
夜通し居座るつもり満々で酒瓶片手に訪れたはずのマーニャも、「それじゃごゆっくり♪」などと含蓄ある言葉を置いてそそくさと自分の部屋に帰っていった。
いきなり部屋へ押し掛けてこられた時は腹が立ったが、実際には、彼らのお陰でホイミンと二人きりという状況の危うさから逃れることができたのだ。そのことを、ライアンは今になって痛感した。
「ライアン様……」
まだヴェールをかぶったままのホイミンが、内心の躊躇がよく分かるおずおずとした歩みで近づいてきた。寝着の裾からちらちらと覗く足首の白さ、細さが目に痛い。
ライアンは思わず目を逸らし、と同時にこんな細部にまで意識が向いてしまう自分に密かな畏れを抱いた。俺は一体どうしてしまったのだ、と。
「ライアン様、あの……僕のお願い、聞いてくれますか？」
ライアンはそっぽを向いたまま、「なんだ、言ってみなさい」と促した。一瞬の間をおき、
「結婚式で、姫様とクリフト様がしてたみたいなキッスをしてくれませんか？」
「……それは、できん」
ライアンの明確な拒絶をまともに食らい、ホイミンの涙腺はあっという間に壊れた。目の縁に大粒の涙が溢れ、ぽろぽろと連なって頬の上を滑り落ちる。ホイミンはそれを拭おうともせず、ただ肩を小さく小さくすぼめ、
「ごめ…なさい……僕、調子に乗って……んっ、んくっ………」
涙を引き戻そうとするかのように、何度もしゃくり上げた。ライアンは小さな溜め息をついて涙ごと抱き締め、
「そうじゃない。いや……言葉が足りなかったな。俺が言いたかったのは、クリフト達のような穏やかな口づけではもう我慢できないということだ。俺がしたいのは……」
この段階でも、まだライアンはためらっていた。いや、臆していたというべきかもしれない。これまで周到に隠してきた生臭い欲望をさらけ出した時、それでもホイミンは自分を受け入れてくれるだろうか。
純真無垢で穢れを知らないホイミンにとって、ライアンが求めている身体と身体の交わりは未知の恐怖そのものに違いない。何より忘れてならないのは、ホイミンは以前、人間の男たちに襲われそうになっているのだ。
その時の恐怖や苦痛は、心に深い傷痕を残しているだろう。それを再び抉るようなことになるかもしれぬ。
しかし、それでも。
「俺がしたいのは、もっと激しく熱い愛の行為だ。身体と身体を深く繋ぎ合わせてひとつになることで生まれる凄まじい快楽に、我を忘れてのめり込む。しかしそれは、慣れないホイミンにとっては恐ろしく苦しい行為かもしれん。それをお前に強要することは―――」
「でも、ライアン様はそれをしたいのでしょう？ 僕はへいきです。全て受け入れます」
涙の残滓が蒸発するほどの強い眼差しを向け、ホイミンははっきりと告げた。そして、「しかし…」とまだ煮え切らぬ態度を見せるライアンに晴れやかな笑みを見せて、
「僕の心も身体も、何もかも全てとっくにライアン様のものなんです。どうか、ライアン様のしたいことをしてください。それが、僕のしあわせなんです」
「は、は……参った。本当に、お前には敵わん」
ここに及んでようやく、ライアンはホイミンの強さを思い知った。結局自分は、己の弱さをホイミンに投影していただけなのだ。
ホイミンが怖がるから手が出せないというのは皮相的な理屈で、実際はただ自分が怯えていたに過ぎなかった。
「お前の気持ち、しかと受け止めた。よく聞きなさい。お前の全ては俺のものだ。誰にも渡さん。しかしそれだけじゃない。俺の全てもホイミンのものだ。それを決して忘れるな。いいね？」
「ライアン様……ほんとに？」
「ああ。誓おう」
ライアンは厳かな低音で告げると、ホイミンのヴェールをめくって口づけを落とした。望み通りの優しいキッスをもらえたホイミンは、うっとりと目を閉じて余韻に微睡んでいる。
彼は、知らない。この口づけが、愛の行為の始まりであることを。
ライアンはヴェールを取り外し、傍らの長椅子にふわりと掛けた。そしてホイミンの身体を抱き上げ、そのまま寝台の端に腰を下ろす。
ホイミンは足をぱたぱたさせてはしゃぎ、ライアンの胸にぎゅぅぅと抱き着いて楽しげに笑った。
これまでのライアンだったら、その天真爛漫な仕草や表情に臆して欲望を抑えてしまっただろう。しかしもはや、ホイミンの無邪気さや愛らしさは性欲の高まりに冷水を浴びせるものではなく、むしろ欲望を煽る即効的な媚薬だった。
「ライアン……さま？」
ホイミンはぽわんと口を開けて、自分の胸を見下ろした。背後から回されたライアンの手が、夜着のボタンをぷちぷちと外し始めたからだ。
ライアンの膝の上に背中を預ける姿勢で座っていたホイミンは、後ろを振り返ってもう一度「ライアン様？」と訊ねる。それに対しライアンは淡い笑みで応えつつも手は止めず、胸のボタンを全て外した。
そして夜着を滑り落とすと、優美なラインを誇る肩から胸までが露わになった。 皙くすべらかな素肌に誘われ、肩から二の腕に手のひらを這わせる。しっとりとして吸い付くような極上の質感に、ライアンはあらゆる感覚の高揚を覚えた。
手だけではもう我慢できず、唇を寄せて首筋を舐め回す。するとホイミンは「はぅ…ん」と喘いで腰をかすかに揺らした。
胸に視線を落とすと、小さな突起がいじらしく尖っているのが見える。雪原に桜の蕾を落としたようなそれにライアンは迷う間もなく手を伸ばし、親指と人差し指で挟んでクリクリッとひねるようにして捏ねた。
ホイミンは「ひゃぁん」と先刻より驚きの色合いが濃い声を上げ、もぞもぞと身体全体を動かしてライアンの手から逃れようとした。しかし、
「嫌か？ ん？」
耳に口を押し付けてねっとりと訊ねると、ホイミンはぷるんと首を振って抵抗をやめた。ライアンの手はさらに勢いづき、かすかに隆起した乳暈ごと揉み込む。するとホイミンは小さく身じろいで、唇をきゅっと噛み締めた。
ライアンは胸を愛撫していた指を唇へ移動させ、
「ホイミン、唇を緩めなさい。そんな風に噛み締めてはいかん。傷ついてしまう」
そして、素直に緩んだ唇に自分のそれを重ねた。舌でこじ開ける必要もなく、軽く吸っただけでとろりと綻ぶ。ライアンはすかさず舌を滑り込ませて口内をまさぐり、ホイミンのふっくらとした甘い舌を捕えて軽く吸い上げた。
ふぅん、ふぅんと甘ったれた鼻息をこぼしつつ、積極的に舌を差し出すホイミンが可愛くてならない。これまで経験したことのない愛撫や深いキスに、怯えや戸惑いを感じていることは容易に想像できる。にもかかわらず、全てを委ねようとしてくれているのだ。
濡れた舌同士が奏でる淫らな水音が、夜の静寂に生々しい艶を添える。ライアンは左手でホイミンの項を支え、空いた右手で再び胸をまさぐる。
口づけによる興奮が伝播したのか、指先に触れる突起は先刻よりずっと硬く、力を入れてつまんだ指を押し戻すほどの弾力性があった。
飽くことのない口づけにも、やがて終わりは来た。ライアンはとろとろと唾液を注ぎ込み、ゆっくりと唇を離した。喉を鳴らして飲み干したホイミンは、もっとちょうだいとねだるように濡れた舌を閃かせつつ、とろんとした危うい眼差しを向ける。
開きかけの蕾が、花弁の隙間から蜜を覗かせるかのごとき媚態に、ライアンの背筋はぞくりと震えた。皮膚の下で、血が煮えたぎるのが分かる。甘い前戯の時間は、ここまでだった。
「ホイミン、どうしても嫌だったり怖かったりしたら、我慢せずはっきりそう言いなさい。分かったね？」
ライアンは荒い呼吸を抑えてなるべく冷静な声でそう言うと、ホイミンの下着に指を掛けてするすると脱がせた。
実際に嫌と言われた時、本当に途中でやめることができるのか自信はなかった。こんな形だけの優しさを見せようとする己の卑怯さを噛み締めつつ、ライアンは寝着の裾をまくり上げ、ホイミンの愛らしい性器をひんやりとした夜気にさらした。
第38話
「ああ……ホイミンも男の子だったんだな」
寝着の下からちょこんと現れた薄桃色のものに、ライアンは思わず目を細めてそう言った。するとホイミンはぷくぅと膨れて、
「当たり前です！ 僕はれっきとしたオスですっ」
オスのプライドが疼いたのか、ほんの少し尖った声で返すホイミンを、ライアンは「分かった分かった」と苦笑混じりに宥める。
おそらくホイミンは、ライアンの言葉の真意に気付いていないだろう。露わになった性器は、まだマシュマロのようなふわふわした質感をとどめてはいたものの、微妙に角度を変えていたのだ。深い口づけや前戯がもたらした快感に、きちんと反応していた。
ライアンはそこにぬっと手を伸ばし、大きな手のひらに包み込むようにして握った。そして力を入れたり緩めたりしながら巧みに刺激を与える。この場所を触られるのは初めてではなかったけれど、前回よりずっと優しい手の動きにホイミンの下腹部はきゅん、となった。
「あ、あの、ライアン様……」
ライアンの意図が分からず、振り向いておどおどした視線を向ける。ライアンはまだ穏やかな声で「心配しないでいい」と言って、震えるまぶたの上にちゅっとキスを落とした。
たったそれだけで、身体の強張りを呆気なく解いてとろんと委ねてしまうホイミンが、可愛くてたまらない。１ミリの瑕もない全幅の信頼を寄せられ、それに応えてやらねばという使命感が湧く。
しかしその陰で、信頼を裏切るような行為を、いやいやと泣き叫ぶホイミンの柔らかい身体を責め抜いてその奥に埒を明けるという激しいまぐわいを求める嗜虐の欲望が、息を殺して潜んでいる。そんな己の危うさに、ライアンは疾うに気付いていた。
「あっ、ライアンさまぁ……なんか、ヘンですぅ……おなかが……」
「うん？ お腹がどうしたんだ？」
「お腹が、なんかむじゅむじゅしますぅ……」
感覚に一番近い言葉を選んだのだろうが、舌足らずな口調と相俟ってやけに可愛い。ライアンはもっと『むじゅむじゅ』させてやりたくて、握ったまま上下に滑らせた。
下方へ動かすと、薄い包皮が剥けてつるんとした先端が露わになった。握った手からわずかに飛び出したそれは愛らしいピンク色で、ちっちゃな裂け目から今まさに蜜珠が生まれようとしていた。
ライアンはその蜜珠を押し潰すように親指の腹でぐりぐりと揉む。するとホイミンは「きゃふっ」と鳴いて、腰を淫らに揺らめかせた。
「どうした？ そんな声を出して」
意地悪く声をたわめて訊ねると、ホイミンはすんすんと鼻を鳴らした挙げ句「なんでもありません」と答えた。どうやら、自分が感じているものが嫌らしくて恥ずかしいものだと気付き始めたようだ。
ライアンは、自然と口許が綻ぶのを感じた。羞恥に悶えるホイミンを、ぜひとも堪能したいと。
「そうか、分かった。驚いたぞ、あんなおかしな声を出して」
「は、はい……ごめんなさ……ひゃ、ぁん……っ」
今度は、ぴちぴちに膨れた宝冠部をくにくにと指で揉んだ。ホイミンは見事に反応し、折り曲げた脚をびくびくっと震わせて甘えた悲鳴を上げた。
「ほら、またヘンな声を出した」
ライアンが咎めるように指摘すると、ホイミンはついにすすり泣きを始めた。
「ごめっ、ごめんなさぁ…い……ぼく、ぼくぅ………ぅ、ぁん、あんっ」
涙に一瞬だけ躊躇したライアンだったが、すぐに愛撫を再開した。中途半端はいけない。いずれこの涙を悦楽の涙に導くのだと己に言い聞かせて。
ライアンは空いた手をホイミンの胸に回し、ぷつりと勃ち上がった突起を手のひらでこすった。さらに、まるで乳房が存在するかのように下から揉み上げ、盛り上がった乳輪をきつく挟む。と同時に、性器を嬲っていた手を奥へ進めた。
ホイミンの蜜でたっぷり濡れた指に、潤滑油は必要なかった。まずは中指の腹で、まだ固い窄まりをかすめるように撫でる。ホイミンはぴくっと身じろいだが、弄ばれている乳首へまだ意識が向いたままだった。
しかしライアンの中指が、収縮する襞を掻き分け第一関節まで潜り込むと、さすがに驚きを隠さず、
「ラ…イアンさま？ 何をしてるの？」
怯えの色濃い問い掛けに、ライアンは無言を貫く。その代わり、指にくっと力を入れて根元ぎりぎりまで一気に埋め込んだ。ホイミンはあまりの驚きにひゅっと息を吸い込み、呆然と目を見開く。が、次の瞬間、
「だめぇっ……そ、そんなとこに、ゆびなんて入れちゃ………っ」
悲愴な声で訴え、身体を揺すって抵抗しようとする。ライアンはすかさず腰を拘束したが、抵抗を封じる最も効果的な方法は違うことを知っていた。それを探り当てるため、ホイミンの中に埋め込んだ指を揺り動かす。そして、それは見つかった。
「ゆび、やだあ………あ、ひっ、ひぃぃ……」
腕の中で、ホイミンの腰が二度、三度と跳ねた。ライアンは耳元で「いい子だ、ホイミン」と甘くほろ苦い囁きを繰り返しながら、指先に触れるかすかな膨らみに刺激を与え続けた。
「あっ、はぁん、あっ、やっ」
苦しげな呼吸は次第に糖度を増し、蜜のような喘ぎに変わっていった。
「あっ、あふん、ふぅん、んっ……」
ライアンは真っ赤に逆上せた耳たぶに歯を立て、中の窪みをとろりと舐め、
「なんだ？ その声は。もしかして、気持ちいいのか？」
「ち、ちがうもん、きもちよくなんかないもん！」
違う、と言って首を振るたび、指を包み込むむっちりした粘膜がきゅうっと収縮する。思わず微苦笑が漏れるほど、身体は正直だった。
「そうか。ならこれはどうだ？」
ライアンは慎重に指を増やし、中でばらばらに波打たせて狭い蜜壺を広げていった。指先だけでなく、骨太な関節も内壁をこすり、そのたびにホイミンは嬌声を上げて下肢をぶるぶる震わせた。そのあられもない姿に、ライアンの獣性がむくり、むくりと頭をもたげる。しかし、
「も、やあ……っ、あ、ああん、あんっ」
本格的に泣き出したホイミンに、さらに嗜虐の欲望が湧き上がったが、今回は労わる気持ちの方が勝った。
「悪かった。ホイミンがあんまり可愛いから苛めてしまった」
「ふ、ふぇぇ……」
「気持ちよくて当然なんだ。だから我慢しなくていい」
ライアンは諭すようにそう言ってさらに指を増やし、もうすぐここが呑み込むことになるものの大きさを予め教える。いざという時恐れをなして、萎縮してしまわないように。
「きもちいいの……ヘンじゃないの？」
「ああ、変じゃないよ」
ホイミンは、うっすら汗のにじむ滑らかな下腹をひくひく痙攣させながら、
「どして……ここにこんなことするの？」
「嫌か？」
「だって、だって……」
排泄孔であるという印象が強すぎて、困惑が拭えないようだ。ライアンはなおも内壁をとろかすように指を揺り動かしながら、
「ひとつになるには、ホイミンのここを使わねばならないんだ。ホイミンは初めてでまだ慣れないから、準備が必要なんだよ」
「そう…なんだ……」
衝撃の事実に目を見開いたのも束の間、ホイミンはこくんと頷き、
「それなら、いいですぅ……」
納得したと言わんばかりの静かな呟きを漏らし、濡れた睫毛をたわませてじっと見上げてくる。健気さに官能の艶が混ざったその眼差しをまともに食らったライアンは、弱々しく首を振り、
「ああ、ホイミン。俺ももう……限界だ」
「ライアン、さま？」
まだ十分とは言えないかもしれないが、これ以上下半身の疼きを放置していたら気が触れてしまう。今にも下着を破りそうなほど膨張したものは、疼きを通り越してずきずき痛み出していた。
後ろから抱き締めたホイミンの腰とかすかに触れ合っただけで、ビクビクといかにも野卑な動きを見せる。
ライアンはぬちゅっと音をたてて指を引き抜き、身にまとっているものを素早く脱ぎ捨てた。そしてホイミンの身体を反転させ、寝台の上で向かい合う。
濃密な前戯で骨まで溶けてしまったホイミンの身体を、ライアンは両手でしっかり支えつつ膝の上に乗せようとしたのだが―――
「ライアン様！ た、たいへんですっ、腫れてます！」
ホイミンは我に返ったように叫び、ライアンの股間を心配そうに見つめる。視線の先にあるのは―――
「こんな大きく腫れて、しかも真っ赤になってます！ 今すぐ治して差し上げますっ」
暗がりの中でもはっきり分かるほど赤黒く膨れ、ぎらぎらと天井を睨むライアンの逸物に、手をかざして治癒呪文をかけようとするホイミン。ライアンは慌てて制止する。
「ちょ、ちょっと待て！ これは違う、これで正常なんだっ」
「うそだもん！ こんな、こんなに腫れて……痛いでしょう？」
「大丈夫だからホイミはやめてくれ。その代わり……」
ライアンはわずかな躊躇の挙げ句、
「お前の手で優しく撫でてくれないか？」
ホイミンは一瞬きょとんとしたものの、すぐにふわんと頷いて手を伸ばした。そして、こわごわ握り、
「ほんとに……痛くない？」
「ああ、とても……気持ちいい」
思わず本音が口から出る。ようやくホイミンも信じたのか、さっきライアンにされたように上下へ滑らせる。
「ぅっ……く、ぅ……」
腰全体が持ち上がるような快感に、呻きが漏れてしまう。ホイミンは一瞬びくっとしたが、呻きの源泉が苦痛なのか快楽なのか判断できたようだ。扱く手は止めず、さらに先端を円を描くように撫でる。
「くっ……そ、だめだ、これでは……」
暴発の危機を察したライアンは、乱暴にホイミンの身体を抱き寄せて膝の上に乗せた。
第39話
膝立ちになり、ライアンの腰をまたぐような姿勢を強制されたホイミンは、戸惑いを見せながらも大人しく従った。
「いい子だ。そのまま俺の肩に掴まりなさい」
口調こそ余裕ぶっているが、声の芯には隠しきれぬ欲望の燠火が不穏な音をたててくすぶっているのを、ライアンは痛いほど自覚していた。
「は、はい……」
ホイミンはまたしても従順に頷き、柔らかな手のひらをライアンの肩にそっと乗せた。そして少し考えるようなそぶりを見せてから、甘えるようなスローな動きで胸をすり寄せてきた。
思いがけない積極的な行為にライアンは軽い驚きを覚えたが、胸と胸を合わせたホイミンからほぅっと安堵の色濃い溜め息がこぼれるのを見て悟った。この振る舞いに性的な含蓄はなく、ただ二人の間を隔てる距離を埋めたかっただけなのだと。
それでも、ライアンの“腫れた”股間に遠慮したのか、腰は不自然に引いたままだった。ホイミンらしい気遣いに微笑を漏らしつつ、ライアンはほっそりとしたウエストに腕を回して抱き寄せた。
「ふぁっ……ん……」
鼓膜をとろかすような甘い喘ぎは、自然と触れ合った性器から生じる甘美なおののきの表れだった。快感を快感として受け止めることにまだ抵抗があるのか、ホイミンは身体の芯からこみ上げる微熱ごと喘ぎを閉じ込めるようにきゅっと唇を噛んだ。
「こら、また噛んでる。駄目だと言っただろう？」
ライアンはそう言って、頑なになったホイミンの唇をあやすように舌先でなぞった。わずかにほころんだ隙を見計らって、ついばむようなキスを贈る。そうしながら腰を上下に揺らすと、ぴたりと抱き合った二つのものがくちゅくちゅ音を立て始めた。
「あっ、はぁ、ん……」
軽く触れ合わせた唇の隙間からこぼれる吐息にすら、ほのかな甘みを感じる。ライアンはそれを夢中で吸い上げながら、淫らがましい抱擁を続けるものをまとめて握り込んだ。そしてグリグリこすり合わせるようにして揉むと、ホイミンは自ら腰を振って悩ましげに悶えた。
「やっ、ぁ……なんかヘン、ヘンですぅ……」
「どう…した？」
「からだ……ひりひりするの。胸とか、指先とか、背中とか……」
身体中を這い回る快感という名の微電流に困惑を隠せない様子で、ホイミンは拙い言葉で訴える。そうしながらも、無意識のまま気怠げに腰が揺れている。
こうした計算のない媚態こそ男を煽る手管なのだが、もちろんホイミンはそんなこと知る由もない。ただ、ライアンが勝手に煽られてしまうだけで。
「変ではないよ。それでいいんだ。さあ、ホイミン、力を抜きなさい。体重は俺に預けていい。分かったな？」
ふわんと頷いたホイミンは、ライアンの首に腕を巻き付けて言われた通りに力を抜いた。くたりとなった身体は絶妙の曲線を描き、ライアンの硬く隆起した胸にぴったり密着した。
ライアンは背中に腕を回し、薄桃色の丘の谷間、淡い影を落とすその部分に濡れた指を滑らせた。さっき丹念にほぐしたからか、さほど抵抗なくつるりと吸い込まれてゆく。
「んっ、ぅぅ……」
ホイミンは異物感に眉をしかめながらも、ひとつになるため必要な準備だというライアンの諭しが頭に残っているのか、黙って耐えていた。
とはいえ、ホイミンは“ひとつになる”のが具体的にどういう行為なのかきちんと理解してはいまい。どんな身体的な痛みを、精神的な怖れを伴うものなのか。それを思うと、腹の底から鉛のような罪悪感がこみ上げてくる。
自分は、ホイミンのほとんど盲目的な愛情と信頼を踏み台にして、己の欲望を満足させようとしているだけではないだろうかと。しかし、もう後戻りはできない。
「ホイミン、頼むから、泣かないでくれ……」
「ライアン…さま……？」
長い睫毛を瞬かせ、官能に妖しくけぶる飴色の瞳で懇願の真意を伺うように見上げてくるホイミン。そのあどけなさと艶やかさが混在した眼差しをまともに食らい、ライアンは恥ずかしげもなく喉を鳴らした。
そして、指でできる限界まで後ろを広げると、そこに自身のぬめった尖端を押し当てた。その瞬間ざわっと背中が総毛立ち、最終的に訪れるであろう快楽の凄まじさを先験的に感じた。
「ぇっ……？」
初めは何をされているのか分からずきょとんとしていたホイミンだったが、すぐにその顔は苦悶に歪んだ。
「あ……ぃっ、ぃ………」
『痛い』と言おうとしたに違いない。しかし唇は言葉を押し込めるようにきつく閉ざされた。痛いとか嫌だとか、今のこの行為を否定するようなことは決して言うまいとするホイミンの気持ちがその表情から伝わって、ライアンは愛しさのあまり叫び出しそうになった。
「ラ…イアンさまぁぁ………」
ホイミンは首にしがみついたまま、咽ぶようにライアンの名を呼ぶ。それに応え、ライアンはいったん挿入を止めて顔じゅうに優しい口づけの雨を降らせた。すると、苦しいはずなのにホイミンはとろりと表情を緩めて受け入れた。
「済まない、ホイミン。苦しいだろう？」
この期に及んで謝罪なぞ口にする自分に黒々しい嫌悪が湧くが、どうしようもなかった。柔らかく綻んだホイミンの唇を軽く吸い、
「ひとつになるには、お前にひどい負担をかけることになる。だから俺は……これを望むと同時に怖れていたのだ」
己の女々しさをさらけ出したライアンの頬を、ホイミンは温かな手のひらで撫でた。
「だいじょうぶですぅ……ちっとも痛くないし、それに、苦しくもないです」
「ホイミン……」
「苦しいのは、ライアン様の方でしょう？ こんなにたくさん汗をかいて、ほら、ここもこんなに……」
そう言ってライアンの眉間に触れ、深く刻まれた縦皺をなぞった。
「僕はだいじょうぶです。だから、ライアン様のしたいようにしてください。それが僕のしあわせでもあるんです」
ホイミンは分かっていたのだ。ライアンがすでに“限界”にあることを。
「いい……のか？」
「はい」
ライアンは熱っぽくざらついた声で「分かった」と答えた。それは、紛れもなく獣の声だった。次の瞬間───
「ぅっ、ぐぅ……」
ホイミンの中に半分ほど収まっていたものを、一気に根元まで沈めた。
「ひっ、ぃぃぃ………あ、ああああーーーーっ」
ホイミンは背中を大胆に反らせ、ライアンのものを深く深く咥え込んだままびくんびくんと跳ねた。その後も下肢の悶えは収まらず、ライアンの腰を両の太ももできつく挟み小刻みに震えた。
「ああ……すごい。なんだこの…いやらしい締め付けは……」
ライアンのものをねっとりとしゃぶるように蠕動する粘膜は熱く柔軟で、軽く腰を揺らすだけで吸盤のように吸い付いてくる。
「あっ、だめぇ……動いちゃ……あ、ああんっ」
動いちゃだめと言いながら、自分の腰がまるで滞留する温気を攪拌するようにうねうね動いていることに、気づいているのかいないのか。いずれにせよ、わずかに汗の浮いた白く艶めく腰の、なんと淫らなことか。
「動くなと言って自分が動いてるじゃないか。ん？」
耳元で囁きながらホイミンの身体を上下に揺すると、ぬるっ、ぬるっと粘膜同士がこすれ合って火花を伴った恍惚が湧き上がる。ふと視線を落とすと、さっきは萎えかけていた桃色のペニスがしっかり主張しているのが目に入った。
腰を突き上げながらそれを軽く扱いてやると、「あんっ、ああん」と鼓膜もとろけるような甘い甘い嬌声を上げる。先端からとろとろと溢れ出した愛液は、射精の先触れめいてかすかに濁っている。中は柔らかくうねって、そこ自体が意思を持っているかのような複雑な動きでライアンを狂喜させた。
何もかもがたまらない。ライアンは心の中でひそかに白旗を挙げつつ、ホイミンを快楽の極みへ導く場所を見つけようと深く突き入れたもので奥を探った。
ホイミンの尻が潰れて平らになるほど強く押し付け、そのまま腰全体をゆったりと回す。時折トプントプンともたつくような音が奥から漏れ聞こえ、ひどく淫らな気分にさせられた。さらに、
「ライアン様が……おなかの中でびくびくってしてますぅ……」
へその辺りを自分で撫でて、恥ずかしそうに報告するホイミン。自分の言葉の淫らさには、もちろん気付いていないだろう。いや、淫らなだけではない。
「なんか、うれしいです。おなかの中に、もうひとつだいじな心臓があるみたいで……」
こんなことを言われて、喜ばない男がいるだろうか。愛しさを募らせない男がいるだろうか。ライアンは燃え上がる想いそのままの激しさで唇を塞ぎ、口腔内をとろとろと舐めながら腰を上下左右に大きく揺らした。
「んふっ、ぅっ、ぅぅん」
唇を塞がれているため、鼻からぎこちない喘ぎを漏らしていたホイミンが、突然びくんと身体を揺らした。ライアンは口づけをほどき、
「どうした？」
「わ、わかんない……でも、おしりの中が急に……あ、熱くなって……」
どうやら決定的な快感を呼ぶポイントをかすめたようだ。ライアンは両手を回してホイミンの尻を掴み、柔らかな肉に五指が沈む感覚に酔いながらもゆったりと上下に揺らした。と同時に、自身の腰も緩やかな律動で突き上げる。
穏やかな抽挿だったが、だからこそ濡れた粘膜同士がこすれ合う感触がより一層生々しさを帯び、官能を高めた。
「あ……ああああん、ライアンさまぁぁ……きもちいい………」
「よしよし、いい子だホイミン。それでいい。もっと、もっと気持ちよくなりなさい」
「で、でもっ、でも…………きゃぁん！」
角度を付けてずん、と突き刺すと、喉を反らせ胸を突き出して愛らしい悲鳴を上げた。視界でふるんと揺れる紅い乳首に軽く歯を立てると、蜜壷が痙攣しつつきゅっきゅっと締め付けてくる。見ればホイミンの腰も、自ら絶頂への道を探すかのように妖しくうねっていた。
「くそ、もうだめだ……もたん……」
本当はもう少しこの快楽の浅瀬で戯れるような行為を続け、ホイミンの不安や強張りを溶かしてやりたかった。しかしこれ以上はもう―――
「あっ、や、やんっ、ひ、ぃ……」
これまでとは打って変わっての激しい揺さぶりに、ホイミンは悲鳴すら上げられずただ翻弄されるばかり。時折びくびくっと下肢が引きつり、ライアンの硬い腹筋に挟まれ悶える性器から半濁の粘液が溢れる。
「もぉ……やっ…ぁ……わかんない、こわいよぉ………」
涙を振りまきながらいやいやと首を振るホイミンを、ライアンはもはや宥めることもできない。血が煮えたぎるような灼熱の快感に心身とも支配され、ただこの愛しく甘美な身体を獣の流儀で味わう。そして、
「ふあっ……あああああ……ライアンさまぁぁ………っ」
「………っ」
ホイミンの中でそれが瞬間的に膨張し、そして弾けた。放出は長く激しく、己の勢いに引きずられライアンの腰はがくがくと小刻みに動いた。ホイミンの中に収まりきらず圧し出された生温かいものが、ライアンの股間をしとどに濡らす。が、もちろんライアンの身体を濡らしたのは自身の精だけではない。
「はぅ……ぅ……ふっ……ぅん………」
腰をゆらゆらと揺らめかせて、初めての射精の余韻に浸るホイミン。行為の間たらたらとこぼれていたものとは比較にならぬほど濃厚な液体が、ライアンの胸や腹を慎ましげに滴っていた。そのほのかな温かみに、思わず口元が綻んでしまう。
「ホイミンもちゃんと達したのだな。よかった」
しかしそんなライアンとは対照的に、ホイミンは我に返ると同時に肩をすぼめて泣き出した。
「ごめ、なさいっ、ぼく、ぼくぅ……」
「どうした、何を謝っているのだ」
「ぼくっ、お、お漏らしして、しかもライアン様に……ぇっ、ぇぇっ………」
その言葉でホイミンの大きな誤解を察したライアンは慌てて、
「いや、違うっ。これはお前が思っているようなものではないぞ。これは、そのっ……」
勢い込んで説明しようとしたが、言葉が続かない。これはもう、言葉で説明するよりも―――
「ホイミン、これが何なのか、どういう時に出てくるものなのか、今夜ひと晩かけてじっくり教えてやる。いいな？」
目をこしこしこすりながら頷くホイミンの身体を、ライアンはそっとシーツの上に押し倒して脚を抱え上げ、まだ入れたままの自身でとろける内奥を再び抉り始めた。
二人の初めての夜は、長い夜になりそうだった。
第40話
「……ねえ、ソロ。ちょっと二人に探り入れてみてよ」
「何をだ？ マーニャ」
「ゆうべヤッたかどうかに決まってるでしょ」
「そっ、そんなこと僕が聞けるわけないだろっ」
サントハイム城内の中庭に広いテーブルが用意され、招待客の中でもごく親しい者たちが朝食を楽しんでいた。朝の清々しい空気や木々の間を抜ける涼風の中での食事は格別で、みな晴れやかな笑顔でテーブルに付いていた。
が、その中でマーニャとソロだけは額を突き合わせ、密談よろしくこそこそ会話を交わしている。
「なんでよ、別にいいじゃない。ソロにだったら、あの男も正直に話すわよ」
「断るっ。そういうプライベートなことは……」
「まぁったく、勇者様はおカタイのね」
そんな爽やかな朝には似つかわしくない会話を続ける二人の向かい側では、爽やかな朝も赤面するような光景が繰り広げられていた。
「そら、ホイミン。お前の大好きなくるみ入りパンだぞ。……おお、これではちょっと大きいな。小さくちぎってやろう」
「ありがとうございますぅ………あ〜ん、あむっ、ふむぅっ……」
「うまいか？」
「はい、おいひいですぅ」
「そうかそうか。おや、口の周りにパンくずが付いてしまった。今、綺麗にしてやるからな。少しじっとして」
「はぁ〜〜い…………っ、くしゅん！」
「ん？ 寒いのか？ 確かに風がちょっと冷たいな。さ、俺の懐に入りなさい」
「でも、ライアン様のお胸に入ったらごはんが食べられません」
「この中で食べればいいだろう？」
「そんな、お行儀が悪いです」
「構わない。それより、風邪などひいたら大変だ」
ライアンはホイミンの身体を抱き上げ、大きく広げた襟元にそっと潜り込ませた。そして薄桃色のぷにぷにした頭を優しく撫で、
「どうだ？ 寒くないか？」
「はいっ、とっても温かくてしあわせですぅ」
「そうかそうか。でも確かにこのままでは食事ができんな。俺が食べさせてやろう」
ライアンは自分の食事そっちのけで、ホイミンのためにパンを小さくちぎったりスープに息を吹きかけて冷ましたり。そしてホイミンが「おいしい」と言うたびに、目尻を下げて喜んだ。
騎士団長の威厳も何もあったもんじゃない。もし部下の団員らがこの光景を見たら、団長は妖しい魔法をかけられてしまったに違いないと、王立呪文研究所に駆け込むだろう。
いや、それは強ち間違いでもない。『恋は魔法』などという手垢のついたテーゼを信じるなら、の話だが。
「……ちょっと、どうにかしてよあの二人。ったくやってられないわ」
テーブルの上にだらしなく肘をつき、がぶがぶリンゴをかじるマーニャ。かなりやさぐれている。ソロは苦笑いとともに、そんなマーニャを宥める。
「まあまあ。いいじゃないか、幸せそうで」
「ホイミンちゃんが幸せなのは嬉しいけど、あの男のにやけづらがムカつくのよ。騎士の誇りとやらは一体どこへ行っちゃったのかしら。そもそも、あたしが背中を押してあげたお陰でこうしてラブラブになれたのよっ」
マーニャの愚痴モードが収まりそうになかったので、ソロはもう一度「まあまあ」と宥め、
「確かに、クリフトとアリーナよりずっと新婚夫婦ぽいな」
「でしょ？ あれは絶対初夜済みよ。あ、そうだ。ミネア、あんたの水晶玉に聞いてみてよ。あの二人、昨夜はどうだったのか」
占い師のミネアは、いついかなる時も水晶玉を手放さない。今も膝の上に乗せている。ミネアはちらと視線を落としてからマーニャに向かい、
「水晶玉は言っております。野暮な詮索はするな、と」
ソロは肩を震わせて笑い、マーニャは不満げに口を尖らせた。
また近いうちに必ず逢おう、と約束を交わし、それぞれがサントハイムから故郷へ帰っていった。
一日かけてのんびりバトランド王国への帰途を辿ったライアンとホイミンは、家に着くなり「やっぱり我が家が一番だ」と微笑みを交わし、その夜は疲れた身体をお互いに癒し合うかのように抱き合って眠った。
そして翌日。ライアンはバトランドの代表として参列した結婚式の報告をするため、国王に拝謁した。
「ライアンです。昨夜、サントハイムより無事帰国いたしました」
「おお、ライアン。ご苦労だったな。で、どうだった。あのじゃじゃ馬姫の花嫁姿は」
ライアンは苦笑とともに顔を上げ、
「非常に美しく且つ清楚な……ウェディングドレスでした」
その答えに、ぷっと吹き出す国王。すると、両脇に控えている寵姫から同時に肘でつつかれた。
「陛下、レディに対して失礼ですわ」
「女性にとって結婚式は、最も神聖なイベントなんです。ライアン様も、冗談はたいがいになさいませ」
いや、お二人ともアリーナの本性を知らないからそんなことが言えるのだ、と思ったが口には出さず、「失礼いたしました」と殊勝な態度で頭を下げた。
「ところでライアン、お前の留守中に色々聞いたぞ。大変だったらしいな」
「は？ 何のことでございましょう」
「しらばっくれなくともよい。お前の家に家政婦として無理やり入り込んで、ホイミンを追い出そうとした女性がいたそうだな」
なぜそれを知っているのかとライアンが訝れば、美貌の国王はにやりと笑い、
「私の情報網を甘く見るな。特にこういったゴシップ系には強いぞ」
おおかた、噂好きの女官や寵姫らの話を聞きつけたのだろう。人の口に戸は立てられぬ。ライアンは小さく首を振って国王をまっすぐ見上げ、
「どんな噂を耳にされたのかは存じませんが、ホイミンを追い出そうとしたなどという事実はありません。確かに、魔物に対しどのような態度を取っていいか困惑はしていたと思います。けれど私は、彼女はいつか必ずホイミンのよき友人になってくれると信じております」
ライアンの言葉に黙って耳を傾けていたバトランド王は、やがて重々しく頷き、
「そうか。つまらぬ噂を信じてしまったな。相済まなかった」
こういった潔さも、バトランド王の大いなる美徳のひとつだった。しかし、
「まあ、こんな噂が立ってしまうのも、お前が独り者だからだと思わんか？ それでな、お前に似合いそうな選りすぐりの美女を数人、結婚相手の候補として用意しておいた。もちろん、ホイミンに対する理解もある優しく聡明な女性ばかりだ。男ばかりの騎士団にいては、女性と出会う機会もなかろう。どうだ、一人ずつ会ってみては」
ライアンは思わず溜め息をついた。一見、女気のないライアンを心配しているように聞こえるが実は、面白がっているのだ。間違いない。こういうところが玉にキズなのだ。
「お心遣いはありがたいですが、私は、その……」
「な、なんだ。まさか心に決めている女性がいるのかっ？ ずるいぞ、ライアン。私に会わせないつもりかっ」
ずるいぞ、って……。まったくこのお方は聡明なのか幼いのか、未だによく分からない、などと独りごちても仕方ない。いずれにせよ、国王にここまで言われては適当に誤魔化すこともできまい。ライアンは腹を括った。
「仰る通りでございます。私には、生涯を共に過ごすと決めた者がおります」
「お、おお……なんという……お前の口からそんな言葉を聞く日が訪れようとは……」
ひどく感動している様子の国王を前に、ライアンは深呼吸し、
「ぜひ、陛下にも会っていただきたいと存じます。ただし、その際はお人払いをお願い致したい」
「人払いだと？」
「左様でございます。陛下に対し、私ごときがこのようなことを申し上げるのは分不相応と承知の上です」
「ふむ……」
国王は考えるそぶりを見せたが、それはただのポーズだったようだ。すぐに「相分かった」と応じ、
「お前が何の考えもなくそのようなことを申すとは思えん。いいだろう、全てお前の望むようにするがいい。そうすれば、お前の可愛いフィアンセに会わせてくれるのだな？」
「い、いえっ、フィアンセというわけでは、そのっ……」
額に汗を浮かべてあわあわするライアンを、バトランド王は楽しげに見つめた。その両脇で寵姫らは、羨望の眼差しを隠そうとせず、
「陛下だけ、いいなあ……」
「私もライアン様の恋人に会ってみたかった……」
もう、疾うに会っているのだが。
第41話
まさかここまで、徹底してくれるとは思っていなかった。馬車で跳ね橋を渡ると、そこにいるはずの門番の姿もなかった。ライアンはバトランド王の配慮に感謝しつつ、ホイミンの手を取って馬車を降りた。
姿が人の目に触れないよう、念のため頭からフード付きマントをすっぽり被せていたのだが、必要なかったようだ。
「さ、こっちだ。足元に気をつけて」
手を取って誘導すると、フードの陰から飴色の瞳がくるんと見上げてきた。
「はいっ、ライアン様」
初めて人間の姿で王に拝謁することの重大さが分かっているのかいないのか、ホイミンはいつもと変わらぬ無邪気な声で返事をする。緊張しているのは俺だけのようだな、とライアンは苦笑を浮かべたが、きゅっと手を握り返された時、ホイミンの無邪気さは信頼の証なのだと気づいた。
ライアンが傍にいてくれるのだから、何を怖がる必要もない、心配する必要もない。ただその導きに全てを委ねればいいのだと、ホイミンは心の底からそう思っているのだ。そんな全幅の信頼は、ライアンにとって喜びであると同時に脅威でもあった。
───まったく、お前には敵わんな
盲目的な信頼は、己の行動を律する枷にもなる。信頼を裏切るようなことは絶対にできないと。
自然と背筋が伸びてしまう自分に、ライアンは面映いものを感じつつ、ホイミンの手を力強く握った。
今回の面会はいつもの謁見の間ではなく、私的なサロンで行われることになっていた。中庭に面した広いテラスのあるその小部屋は、国王のプライベートな空間で、ライアンも足を踏み入れたことのない王宮の奥処にあった。
この部屋を指定された時、国王は自分たちに対し親愛の情を示そうとしているのだと察し、ライアンは胸を熱くした。
と同時に、不安が湧き上がるのも事実だった。果たしてバトランド王は、これから打ち明けることを信じてくれるのだろうか。たちの悪い冗談だと、一笑に付されることはないだろうか……。
「陛下、失礼いたします。ライアンです」
肩書きは名乗らなかった。今夜は近衛騎士団長としてではなく、一人の人間として、さらに不遜を承知の上で言うなら王の友人として参上したのだから。
「おお、よく来たな。さ、入りなさい」
許可を得て扉を開けると、隠し切れぬ好奇心を顔いっぱいに張り付けたバトランド王が、笑顔で手招きしていた。その隣には、古文書研究所の所長ラウルがいた。
もちろん、予めライアンが呼んでいたのだ。古書しか愛せない変人ではあるが、信頼できる人物であることは間違いない。ホイミンの上司でもあることだし、事実を知っておいてもらった方がいいと考えたのだ。
「陛下、このたびは私の不躾な願いを聞き入れてくださり、まこと感謝の念に堪えません。しかもこのような───」
「ああ、もうよい、もうよい。堅っ苦しい挨拶は後でいくらでも聞いてやる。早くその、お前の後ろに控えている可愛い恋人を紹介してくれっ」
身を乗り出してせかす国王の隣では、ラウルが興味ないと言わんばかりの無表情で酒をすすっている。そんな対照的な二人を目の前にして、ライアンはいったん深呼吸をした。そして背後を振り返り、
「ホイミン、こちらへ来なさい」
ライアンの言葉に、二人は怪訝な表情を見せた。が、ライアンは構わず外套を脱がせ、腰に手を添えてそっと前に押し出し、「二人に挨拶をしなさい」と耳打ちする。ホイミンはにっこり微笑み、
「王様、ラウル所長、こんばんは。ホイミンですぅ」
「……………」
まずは、予想通りの無反応。ライアンはこみ上げる苦い笑いを抑え、
「陛下、驚かせて申し訳ありません。しかしこれはたちの悪い冗談でも、誤魔化しでもありません。こちらの者は、紛れもなくあのホイミンです。そして、私が生涯を共にすると決めた伴侶です」
国王の眉間に、深い縦皺が刻まれた。ふざけるな、私をからかう気か───そんな叱責の言葉を覚悟したライアンだったが、意外なところから意外な援護射撃が出た。
「そうか、それはよかった。ホイミン、幸せになるんだぞ」
ラウルはこれ以上ないほど真摯な祝福を贈り、彼にひそかな憧れを抱いている女性ならその場で昇天しそうな微笑を浮かべた。
「はいっ、ありがとございますぅ」
ホイミンがぺこりとお辞儀すると、ラウルは手にしていたグラスを軽く持ち上げて『乾杯』の仕草を見せ、一気に飲み干した。バトランド王は眉間の皺はそのまま、神妙な口調で、
「ラウル、お前は信じるのか？」
「信じますよ。だいたい、この真面目だけが取り柄の根っからの武人が、こんな洒落た嘘をつくはずがない。いやそれ以前に、剣術と盗賊と国家防衛のことでいっぱいの頭では思い付くことすらできないでしょう」
「う、ううむ……」
二人のやり取りを、ライアンは憮然と聞き流す。一体俺は、褒められているのか貶されているのか、と。
「それに、姿形は違えど、声も喋り方も、邪気のない振る舞いも、ホイミンそのものではありませんか。以上のような“論理的思考”により私は信じますが、陛下はいかがですか？」
「う、ううむ……」
さっきから唸りっぱなしの国王に、何を思ったかホイミンがぱたぱたと近づいた。そしてじっと見上げ、
「僕、ババ抜きで王様に負けたことがありません。あと、王様のお胸に入ってご本を読んでもらったことがありました。ライアン様が僕のこと好きって言ってくれました、と報告したら、よかったなホイミンと言って喜んでくださいました。それから……」
「相分かった。お前は間違いなく、あのホイミンだ」
ライアンも知らない国王とホイミンだけの会話や出来事を次々と披露されて、ようやくバトランド王の眉間から皺が消えた。それを見てライアンはほっと息をつく。だが、これで終わりではない。きちんと説明しなければなるまい。
「信じてくださってありがとうございます。もう少し、私の話を聞いていただけますか？ ホイミンが夜の間だけ人間化するようになったそのいきさつについてです」
「もちろんだ、聞かせてくれ。ささ、二人とも突っ立っていないで、ソファで寛ぎなさい。今宵は二人とも、私の友人として招いたのだからな」
ライアンは礼を述べ、ホイミンを促してソファに腰掛けた。そして、
「全ての始まりは、あの旅にありました。勇者を捜し、地獄の帝王を倒すための長い旅に」
そんな前置きとともに、ライアンは語り始めた。旅の途中、ホイミンに何度も救われたこと。その我が身を顧みぬ崇高な行いが創造神デミウルゴスの御心に適い、人間になれたこと。
しかしデスピサロとの闘いに巻き込むわけにはいかないとの判断から、ホイミンを自分の故郷であるジルベルトの村に向かわせた。全てが終わった後、そこで再会するはずだったのだが───
「帰郷後、俺が目にしたのは、ホイミンの……亡骸でした」
その瞬間、国王はもちろん、普段表情の変化を容易に覚らせないラウルも目を剥いて驚きを露わにした。二人とも言葉を発しなかったのは、ライアンの話を黙って聞こうという配慮からではなく、ただ単純に絶句したからだ。その余りに惨い事実に。
ライアンは続けて、怒りと哀しみに我を失いかけたこと、すんでのところで勇者の言葉に引き戻されたことを話した。
「もしソロがいてくれなかったら、俺は第二のデスピサロとなっていたでしょう。愛しい者を不条理な暴力で奪われ、ただ憎悪ばかりを魂の糧としたおぞましい生物兵器に」
淡々とした語り口に当時のライアンの慟哭を聞いた二人は、その内なる声に押されるように項垂れた。
「ライアン様……」
驚きを露わにしたのは、ホイミンも同様だった。自分が死んだ後、そんなことが起きていたなんて……
するとライアンは、そんなホイミンの想いを察したのか、優しく目を細めて頷いてみせた。大丈夫だ、お前が不安がる必要はないんだよ、と言わんばかりに。そして話を続ける。
「それからすぐサントハイムへ向かい、クリフトにホイミンを託しました。彼の超蘇生呪文ザオリクはホイミンの彷徨える魂を身体に引き戻し、こうして元気に蘇ることができたのです。その時―――」
昼間はホイミスライム、夜は人間という一見“不完全”な状態で蘇ったが、どちらもホイミンなのだからこれこそが“完全”なのだ、自分はどちらのホイミンも等しく愛していると結び、ライアンは二人の反応を待った。やがて、重く濃厚な沈黙を経て、
「……すぐに公安部隊をジルベルトに派遣して、犯人を捕縛する」
怒りに歪んだ声で告げる国王を、ライアンはそっと制した。
「お待ちください、陛下。それはなりません」
「何故だ！ れっきとした殺人ではないか！ ライアンよ、お前は憎くないのか？ ホイミンをそのような……酷い目に遭わせた者どもを」
「憎いです。今でもあいつらの顔はしっかり脳裏に灼き付いております。ふとした機会に遭遇しようものなら……理性と意志を総動員して殺意を抑えねばならないでしょう」
感情の高揚を抑えた平坦な声には、怒りと憎悪が波打っていた。それを間近で聞いたホイミンは、鼓膜がじりじり灼けるような痛みに思わず耳を押さえ、
「だめっ、だめですライアン様！ そんな、そんな怖いこと言わないでください。ぼく、ぼくぅ……」
震えつつも必死にすがりつく。そんなホイミンの肩を優しく抱き締め、ライアンは「怖いことを言って済まなかったな」と謝った。そして、まっすぐ国王を見つめる。国王は強張った肩をすとんと落とし、声を和らげて、
「私も済まなかったな、ホイミン。つい興奮して声を荒げてしまった」
するとホイミンは、潤んだ目をこすって涙の膜を払い、澄んだ眼差しを一人一人に向けた。
「僕は今、皆さんのお力に支えられて、こうしてしあわせに生きています。これ以上、何も望むことはありません。僕のために誰かが傷つき、怒り、哀しむなんて耐えられない。争いごとはもういやです」
「ホイミンの言う通りだ。憎悪の連鎖は、誰かが断ち切らねばならない。さもなくばそれは永遠に続き、復讐の果てに第二、第三のデスピサロを生み出すだろう」
ラウルの予言めいた言葉は、ライアンの心に重く響いた。憎悪の克服は容易ではないだろうが、いつか必ず成し遂げることができる。ホイミンさえ傍にいてくれれば。
「本当に、ホイミンには学ぶところが多い。これからも変わらず、私の良き友人として話相手になってほしい」
国王の言葉にホイミンは「もちろんです」と返してにっこり笑った。するとラウルがすかさず異議を申し立てる。
「しかし陛下、ホイミンは我が古文書研究所の大事なスタッフです。大した用事もないのにしょっちゅう王宮へ呼び出されては困りますね」
「あんな黴臭い研究所に閉じ込められては、ホイミンが可哀想だろうが」
「陛下のババ抜きの相手を延々させられる方がずっと可哀想です」
「なんだと、お前はババ抜きをバカにするのか。あれは心理的な駆け引きを必要とする高度な―――」
他愛もない言い合いを始めた二人を、おろおろしつつ見守る。そんなホイミンに、ライアンはそっと耳打ちした。
「気にしなくていい。二人とも楽しんでいるのだから。それより、ホイミンは大人気だな。ちょっと妬けるぞ」
するとホイミンは、甘えるように腰をすり寄せ、
「僕はライアン様だけのものです」
思わず抱き締めてしまいそうになり、ライアンは両手を握り締めて衝動を抑え込んだのだった。
第42話（最終話）
「ふわあぁぁぁ、楽しかったですねえ」
「そうか。それならよかった」
「はいっ。でも、王様ちょっとかわいそうでしたね。ババ抜き何回やっても勝てなくて」
バトランド王の提案、というかゴリ押しで、あれから大ババ抜き大会となり、四人による熱戦が繰り広げられた。
しかし何度やってもビリは国王。最後には涙目で、「私はババに愛された男なのだ」と意味不明な負け惜しみを呟く始末。このままでは夜通し付き合う羽目になると思い、ライアンは何とか理由を付けて辞去したのだった。
あふ…と大きなあくびをして目をこしこしこするホイミンに、ライアンは優しく声をたわめ、
「遅くなってしまったな。眠いだろう？ 寝てもかまわんぞ。着いたら起こしてやる」
しかしホイミンはぴっと背筋を伸ばして、
「このくらいの夜更かし、だいじょうぶですっ。僕ももう大人だもん」
そして不自然に目をぎょろりと剥いてみせた。たぶん、“眠くない”のアピールのつもりだろう。ライアンは笑いをこらえ、「分かった分かった」と言って優しく頭を撫でた。するとホイミンはぽぉっと頬を赤らめ、ちょっとわざとらしいあくびをすると、
「やっぱり眠いかも、ですぅ……」
控え目な甘えが混じった声でそう言って、ライアンの胸にそっともたれかかった。ホイミンの望みを察したライアンは外套の前を広げ、ホイミンの身体をふわりと包み込んだ。
「どうだ？ 苦しくないか？」
「はぁい。とっても気持ちいいですぅ」
すでに眠りの途上にあるようなふわふわした声で答えると、ホイミンは目を閉じた。うっとりと微睡むその表情はあどけなくもあり、艶めかしくもある。ライアンは込み上げる愛しさを反芻しつつ、夜道を急ぐ馬車の揺れに身を任せたのだった。
帰宅すると手早く風呂を済ませ、就寝の仕度を終えた。そしていざ寝台へ、という段になって、急にホイミンがもじもじし始めた。ライアンは眉根を寄せ、
「どうした？ ホイミン。トイレなら寝る前に行っておきなさい」
「ち、違います！ あの、ライアン様……聞いてもいいですか？」
「ん？ なんだ改まって」
「え、えと……」
飴色の瞳がせわしなく動いている。どうやら頭の中で必死に言葉を探しているようだ。ややあって、
「こ、この前のあれ……あれをしてもらいたい時には、なんて言ってお願いすればいいんですか？」
ホイミンの言わんとすることは、もちろんすぐに分かった。ライアンは瞬きも忘れ、かちんと固まったままうろたえる。
「な、お前を何をいったい……」
しかしホイミンは構わず、羞恥に潤んだ瞳で見上げ、
「おしりに……入れてください、って言えばいいの……？」
「…………」
直截的な表現は得てして男の欲望を冷ましてしまうものだが、計算や媚態を知らぬホイミンの口から出たそれは、無邪気であるがゆえにひどく淫らだった。
「ライアン様っ？！」
いきなりベッドの端にどすんと座り込んだライアンに驚きを隠さず、ホイミンはぱたぱたと駆け寄った。ライアンはその腰をぐいと抱き寄せ、
「お前のしてほしいこと、言葉ではなく態度で示してみなさい」
「態度で……」
ホイミンは少し考え込んでいたが、やがて考えがまとまったのか自分に向かってうんうんと頷き、もぞもぞと寝着を脱ぎ出した。
「ホ、ホイミンっ」
態度で示せとは言ったものの、ホイミンのことだからせいぜいぴったり抱きついて、その先をせがむ程度だろうと思っていたライアンは、予想だにしなかった展開にひたすら慌てた。
「ライアン様……」
下着まで全て脱ぎ捨て生まれたままの姿を視界に晒したホイミンは、今度はライアンの胸元に手を伸ばし、頬を染めながらもボタンをぷちぷちと外していった。そして露わになった精悍な褐色の胸に、そっと唇を寄せる。
ふわっと柔らかく、ほのかに温かい極上の感触に加え、綿毛のような吐息がかかり、ライアンはたまらず喉を鳴らした。
「ライアン様のお胸……どきどきします……」
胸に唇を押し当てたままうっとりと呟くホイミンの愛らしさによろめきそうになりながら、ライアンはわざとぶっきらぼうに応じた。
「いつもここに入っているではないか。ここでよだれを垂らして寝ていたこともあったぞ」
するとホイミンは、長い睫毛の向こうから熱っぽい眼差しを向け、
「はい。何も考えずこのお胸に身を任せていられたなんて、自分でも信じられません。こんな……逞しくてきれいなお胸に」
そう言って、もう一度唇を押し当てた。今度は唇伝いに温もりを写し取るように。秘儀めいたその仕草は、控え目ながらも淫靡だった。
「……ホイミン、お前のしたいことはそれなのか？」
言いながらライアンは、心の中で舌打ちした。なんて声をしてるんだ、俺は。生臭い飢えでみっともなくかすれた声が、鼓膜をざらりと撫でる。
「ちがい…ますぅ……僕がしてほしいのは……」
ホイミンは一瞬ためらいを見せたものの、すぐにそこへ手を伸ばした。ライアンの大きく隆起した股間へ。そして、文字通り“腫れ物”に触るような手つきで前を広げると、勢いよくはね出たものの巨きさや存在感に驚いたのかびくっと身じろいだ。ライアンは思わず笑みをこぼし、
「これが怖いか？」
ホイミンはぷるんと首を振って「こわくないです」と即答を返し、
「えと……これをお尻に……入れてください………」
今にも消え入りそうな懇願が、どれほど男心を揺さぶるかもちろん本人は分かっていないだろう。分かっていないからこそ煽られる、分かっていないからこそ酔わされる。ライアンは鳩尾にともった熱渦に動かされるまま、ホイミンの身体を押し倒し上から押さえつけた。
「途中で泣いてもやめんぞ」
無慈悲な宣告に、ホイミンは怯えと悦びの混ざった絶妙の微笑みを返した。そして、自ら脚を大きく広げる。その大胆な行為は、普段のホイミンが見せる奥床しさと対照的で、艶めかしさが余計に際立った。
心掻き乱されたライアンは、たった今視界に晒されたばかりの秘めやかな場所に顔をうずめ、これから自分が暴き貫き淫らに咲かせる初心な蕾にぬるりと舌を這わせた。
「はぅっ……ふぅん………」
鼻にかかる喘ぎの甘い響きや、舌に張り付く襞の蠢動を楽しみながら、その部分を丹念にとろかしてゆく。そして下ごしらえの最終段階として指を挿れようとした時だった。すーすーと愛らしい寝息が耳に届いた。まさかと思いつつ身体を起こすと───
「……ここで寝るか、お前はっ」
確かに城を出た頃から眠そうにはしていたが、そもそも誘ったのはお前の方ではないかっ、と喉の奥で叫んでも後の祭り。いや、ここまで来れば構わず突き進んでもいいのだが、この安心しきった天使の寝顔はある意味無敵だった。宣告通り泣いてもやめないつもりだったのに、これで一気に戦意喪失してしまった。
「仕方あるまい………………はあ〜〜」
最後のため息にオスの悲哀を乗せて、ライアンはがっくり肩を落とした。そして、せめて肌の温もりを味わおうとホイミンの隣に横たわり、四肢を伸ばしてその柔らかな身体を絡め取った。
触れ合った部分がとろけるような極上の抱き心地に身悶えしていると、腕の中のホイミンがふにふにぐずった挙げ句、
「ライアンさまぁ……もっとぉ……もっといっぱいして………」
無邪気なおねだりで、ライアンの煩悶に油を注ぐ。そして夢の中で望みが叶えられたのか、ふふっとくすぐったそうに笑ってぴったり胸を押し付けてきた。
「ぅっ……」
これはいったいどんな拷問なのだっ、とライアンは腹の底で吼え、こうなったらもう夢の中ではなく実際に望みを叶えてやろうか、とホイミンのほの温かい谷間に手を伸ばしかけたが、やはり小賢しい理性がまさってしまった。
ライアンは伸ばした手で細い腰を抱き、半ばやけっぱちにぎゅっと目を閉じた。視覚を封じた分、ほかの感覚が鋭敏になったのか、規則正しい寝息や胸にかかる綿毛のような吐息、髪から漂う甘い果実のような香りなど、ホイミンの安らかな眠りがもたらす細部がより一層深く沁み込んでくる。
「ホイミン、いい子だ。お休み……」
明日の朝になれば、薄桃色のぷにぷにした身体に戻ったホイミンが、ぴょんぴょん跳ねて元気な笑顔を見せてくれるだろう。それを想像しただけで、思わず笑みがこぼれてしまう。ライアンは、今、自分がこれ以上ないほど幸福であることを実感した。
『憎悪の連鎖は、誰かが断ち切らねばならない───』
先刻のラウルの言葉が脳裏を巡る。
『───さもなくばそれは永遠に続き、復讐の果てに第二、第三のデスピサロを生み出すだろう』
不条理な暴力に愛する者を奪われ、憎悪の炎に魂を焼き尽くされた青年、ピサロ。その慟哭から目を逸らさず、人間と魔物の平和共存めざして前進する。
容易な道ではなかろうが、自分はひとりではない。腕の中の愛しい存在、ホイミンさえいてくれれば、どんな困難も乗り越えられるだろう。
「傍にいてくれ。これからも、ずっと、ずっと……」
ライアンの切なる願いが眠りの国に届いたのか、ホイミンは口許を綻ばせて小さく頷いた───
「……ついに完成したぞ。新しい『進化の秘法』。これで再び大陸が暗黒と絶望に覆われ、今度こそ我ら魔物が人間どもの支配者になるのだ」
「素晴らしいです、イビルプリースト様。して、今度の標的は……？」
「それは、もう決まっている。前回のピサロは、精神力体力ともに不十分だった。それゆえ秘法の副作用が強く出てしまい、進化が完成するのに時間がかかった。
しかし、同じ過ちは繰り返さぬ。今度は精神も身体も屈強でありながら、繊細な感情を持ち、ピサロのように魔物を深く愛した男を秘法の贄とする」
「そんな男がいるのですか？」
「いる。その男はバトランド王国の王宮騎士であり、勇者とともにデスピサロを倒したほどの力を持つ。しかし彼は魔物を愛しており、それを一度人間に殺され、憎悪から闇に堕ちかけたことがあるのだ。つまり───」
「その魔物を利用して、その男を第二のデスピサロ、すなわち人間への憎悪を糧とした生物兵器にする、と」
「その通り。今度こそ進化を完成させ、地獄の帝王を復活させるのだ。はは、楽しみだな。誇り高き騎士が、憎悪と絶望に壊れ狂ってゆくのが───」
（Fin）
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