続・傍にいさせて
※諸注意※
このお話は、ブログで連載していたドラゴンクエスト IVの二次創作『傍にいさせて』の続編です。ライアン×ホイミンで、傾向はあまあま、ちょっと切なく。
前作にはなかった性描写も含まれますので、苦手な方はご注意ください。
なお、同作品はゲーム制作者様および販売会社様とは一切関係ありません。予めご了承ください。
第1話
僕は今、とっても幸せ。
なのに何故だろう、時々不安で胸がくるしくなることがある。
言葉にできないもやもやがゆっくり広がって、僕の心を呑み込んでしまう。
そんな時僕は、呪文のように同じ言葉を繰り返す。
傍にいさせて、傍にいさせて……
たぶん、僕の“本能”は知っているのだ。
この幸せが続くはずはないと。
いつか終わりが来るのだと。
だって僕は魔物なのだから。
姿かたちは人間になっても、本質は変わらないのだから。
だからせめて“その時”が来るまで、
傍にいさせて―――
「結婚式のしょうたいじょう……？」
ライアンの手の中にある白い紙を上からぐいんと覗き込んで、ホイミンはちょんと首を傾げた。その薄桃色の頭をライアンは手のひらで優しく撫でて、
「ああ。誰と誰の結婚式だと思う？」
「んと…えと……」
「アリーナとクリフトだ。あの暴れ馬も、いよいよ年貢の納め時というわけだ」
そう言って、楽しげに微笑うライアン。もちろん、“暴れ馬”とはアリーナのことだ。サントハイム王の一人娘。蝶よ花よと育てられたお姫さまは、その愛らしく可憐な容姿とは裏腹に超一流の武闘家だった。
部屋の壁を蹴飛ばして、できた穴からこっそり城を抜け出したという武勇伝の持ち主。地獄の帝王を倒すため、勇者ソロやライアン達と行動を共にしたことは、もはや言うまでもないだろう。
そしてクリフトは、そんなアリーナの忠実な供として付き従い、そのハイレベルな蘇生呪文とライアンに勝るとも劣らぬ剣技で、彼女のピンチを幾度となく救った。もちろん救われたのはアリーナだけではない。他ならぬホイミンも、人間からの暴力で命を落としたところを彼の呪文に救われたのだ。
「ふわあああ……アリーナ姫さまとクリフトさまが……」
「あのお姫さまを操縦できる男は、クリフト以外にはいないだろうからな。それに、アリーナと結婚するということは、ゆくゆくはサントハイム王国を統治する王になるということだ。クリフトならきっと、愛と義をもって民を統べる名君になるだろう」
人間と魔物という境界に囚われることなく、生とし生ける者へ平等な愛を注ぐことのできるクリフトこそ真の神官であると、ライアンは常々思っていた。
「楽しみだな、ホイミン。久しぶりに、みんなに会えるぞ」
穏やかに凪いだ瞳の奥に、厳粛な使命感を宿した孤独な勇者、ソロ。長い黒髪と輝く黒瞳という共通項を持ちながら、情熱的な踊り子と知性的な占い師という真逆の個性を発揮する姉妹、マーニャとミネア。みんな、元気にしているだろうか。
しかしライアンの言葉に、ホイミンは戸惑いを隠さず、
「え、でも…僕は……」
「ん？ なんだ？」
「僕が行ったりしたら、迷惑じゃ……」
するとライアンは、封筒の中から招待状を取り出した。サントハイム王国の堂々たる紋章が捺された美しいカードを広げ、
「ほら、見なさい。ここに“ホイミン殿”とちゃんと書いてあるぞ。お前は立派な招待客だ」
「う…わああああ、ほんとだぁ……」
小さな目をきらきらさせて、重厚な字体で記された自分の名前に見入るホイミン。ライアンはその頭をわしわしと撫でて、
「王族の結婚式だからな。きちんと正装して参列せねばなるまい。ホイミン、お前にも一着、誂えてやろう」
「ほんとですか？！ やったあ、ドレス、ドレスですぅ」
「ド、ドレス……」
どんな凝ったデザインのドレスを着せてもてるてる坊主にしかならないだろうなと思いつつ、ライアンは嬉しそうにテーブルの上でぴょんぴょん跳ねるホイミンを見守った。
「ライアン様ぁ、結婚式はいつですか？」
「うん？ まだもう少し先だ。その前には、我がバトランド国の建国祭があるぞ」
「けんこくさい？」
「そうだな、バトランド国の誕生日みたいなものだ。この日はみんな、学校も仕事も休んで国の繁栄を祝うんだよ」
ホイミンは「やったあ」と叫んでくるっと一回転し、
「じゃあ、ライアン様もお休みなんですね。僕、バースデーケーキを焼きますぅ。それで、一緒にバトランドのお誕生日をお祝いしましょう」
「あ、いや……」
ライアンは済まなそうに眉根を寄せて口ごもり、
「俺はその日、王宮務めがあるのだ。近衛騎士団長として、軍事パレードの先導を務めねばならん」
「え、それじゃ……」
「済まんな、ホイミン」
ライアンは謝罪すると、しょぼんと項垂れてしまったホイミンを抱き上げて膝の上に乗せ、あやすように揺らしながら、
「誕生日といえば、俺の誕生日ももうすぐなんだよ」
ライアンの言葉に、ホイミンはすぐさま反応した。
「ライアン様のお誕生日？！」
「ああ。ホイミン、バースデーケーキ焼いてくれるか？」
「は、はいっ、もちろんです！」
途端に元気を取り戻すホイミン。薄桃色の身体を使命感で紅く火照らせて何度も頷くと、幸せそうに触手をくねらせてライアンの膝にじゃれついたのだった。
第2話
バトランド王国建国祭当日。どこまでも青く澄んだ空には色とりどりの風船が上がり、乾いた祝砲の音が朝から鳴り響いた。国全体を覆うお祭りムードに感化されたのか、ホイミンもそわそわと落ち着かない様子で朝ご飯の仕度をしていた。その時、
「ホイミン、おはよう」
「あ、おはようございま―――」
いつもの挨拶を途中で呑み込んで、ホイミンは小さな目を瞠った。が、すぐにぱたぱたと瞬きする。こちらへゆっくり近づいてくるライアンが、あまりに眩しかったから。
今日の晴れやかな舞台に相応しく、ライアンは正装していた。ほとんど黒に近い深い紺色の立襟や、金の房飾りのついた肩章が、ライアンの精悍な身体をより一層逞しく見せている。
二列に並んだ金のボタンや左胸の勲章が、朝日を受けてきらきら輝く。拍車つきの長靴も、すらりと伸びる脚によく似合っていた。
「ライアン様…かっこいいですぅ……」
ホイミンは思わずうっとり見入ってしまう。ライアンは照れ隠しなのかふいと横を向き、
「まったく、まだ寝惚けているのか？」
そう言って、赤い顔のまま食卓に着く。ホイミンはまだ見愡れていたが、自分の為すべきことを思い出して慌てて朝食の仕度を続けた。
「パレードは昼からだ。その後、式典と晩餐会に出席せねばならん。帰りは遅くなるだろうから、先に休んでいなさい。分かったね？」
ライアンの言葉に、ホイミンはコーヒーを注ぎながらぷるんと首を振り、
「ヤですぅ。起きて待ってます」
「こら。良い子は夜更かししては駄目だ。ちゃんと食事をして風呂に入って、いつもの時間に就寝するんだぞ。分かったな？」
ライアンはさっきより少し強い口調でたしなめると、ホイミンが用意した朝食を素早く平らげ、「では行ってくる」と言い置いて家を出ていった。ホイミンはぷくぅと膨れ、「ぜったい起きてるもん」と呟きながら遠ざかる優美な背中を見送った。
「わわ、たいへん！ パレードが始まっちゃう」
ホイミンはあたふたと仕度すると、慌てて家を飛び出した。ライアンが出ていった後、こまごました家事をこなしていたらあっという間に時間が経っていた。
ホイミンは、王立の古文書研究所で書籍の整理や書誌の編纂などを手伝う仕事をしていたが、最近は人手不足もあって頼りにされるようになり、ほぼ毎日出勤（？）していたのだ。そのため、こういう休日を利用して部屋の掃除や洗濯などをするようにしていた。
パレードが行われる王宮前の大通りには、すでにたくさんの見物人が集まっていた。ホイミンは辺りを見回し、パレードが見える場所を何とか探そうとしたが、そういった場所には人がいてとても割り込める雰囲気ではなかった。
「ど、どうしよ〜〜、えいっ、ええいっ！」
ホイミンは掛け声も勇ましくぴょんぴょん飛び跳ねたが、もともとの身体が小さいため焼け石に水。前方に群がる見物人の頭を超えることは不可能だった。
それでもホイミンは諦めない。近衛騎士団長としてのライアンの英姿をたとえわずかでもこの目に刻むのだと、必死に飛び跳ねていたその時、いきなり身体がふわりと持ち上がった。
「あ、あれ？ えと……」
不思議そうに目をぱちくりして、空中で触手をうねうねさせるホイミン。その耳に、聞き慣れた声が届いた。
「パレードが見たいのか？」
「ラウル所長！」
ホイミンを抱き上げてくれたのは、王立古文書研究所の若き所長、ラウルだった。
彼はもともと、ライアンと同じく王宮騎士団の団員で、剣技、膂力ともに優れた騎士だった。しかしある時、『騎士などただの人殺しだ』と言い放ち、退団して古文書研究所で研究員として働き始めた。それからわずか数年で、その該博な知識と深甚なる知性が認められ、所長に抜擢されたのだ。
またラウルは、銀糸のごとき髪と貴石のような瞳を持つ白皙の美青年で、騎士団に所属していた当時からライアンと女性の人気を二分していた。
にもかかわらず本人は女嫌いを公言しており、『恋人は古書』『女の肌より羊皮紙の方が心地いい』などという数々の名言（？）を残していた。つまりは変人、ということだ。
しかしこの変人は何故かホイミンのことを気に入っており、研究所に出入りを許可したのみならず、書籍の整理など自分のサポートまでさせるほどだった。ホイミンが研究所で正式に働くようになったのも、彼の勧めがあったからだった。
「所長もパレードを見に来たのですか？」
「いや。国威発揚の軍事パレードなんて悪趣味なものに興味はない。せっかくの休みだから家で本を読もうと思ったのだが、騒々しくてかなわん。街を出て森にでも行こうかと思っていたところだ」
せっかくの休みだから読書、という発想がラウルらしくて、ホイミンは思わず目を細めた。仕事場でもいつも大量の書物に囲まれているけれど、休みの日に読む本はまた違うのだろう。主食とデザートのようなものだろうか。
「ライアン様が、パレードの先頭なんですぅ。今朝、ぴかぴかのお洋服を着てお城に行ったんですよ」
誇らしげにそう言って、ぐいんと胸を張るホイミンに、ラウルは苦笑混じりで頷き、
「なるほど。ホイミンが見たいのはパレードではなくライアンの晴れ姿か」
そしてホイミンを抱いたまま、通り沿いに群がる見物客の中にするりと身体を滑り込ませた。すいすいと人を掻き分け、あっという間に前方へ。
最前列に陣取っていた女性たちに割り込みを見咎められ、当然ながら「割り込まないでよ！」と怒声を浴びせられた。しかしラウルは悪魔も惑いそうなほどの美しい笑みを浮かべ、
「友人がパレードの先導を務めているもので。お優しいご婦人がた、ご容赦くださいませんか？」
女性たちは赤い顔でラウルをぼおっと見上げ、やがてふわふわと頷いて場所を空けた。ラウルは「ありがとう」と返してちゃっかり最前列につくと、ホイミンを肩の上に乗せてやった。
「どうだ？ ホイミン。見えるか？」
「は、はいっ！ とっってもよく見えますぅ」
ホイミンは嬉しさのあまり肩の上でぴょんぴょん跳ねたが、すぐにぴたりと止まって触手を真直ぐ整列させ、
「ラウル所長、ありがとうございます！」
深々と頭を下げた。ラウルは手をひらひらさせて「礼には及ばんよ」と返すと、ホイミンの頭をわしわし撫でた。やがて華々しいファンファーレが鳴り響き、城の重厚な外門がゆっくり開いた。その向こうから現れたのは―――
「ふわぁぁぁ……」
パレードを率いたライアンの凛々しい横顔が、ホイミンの体温を一気に上昇させた。
第3話
馬にまたがり、背筋を伸ばし、じっと前方を見据えるライアンは、巨匠の鑿が生み出した彫像のごとく美しく、見物客たちはみな芸術作品を鑑賞するように見入った。
もちろん、彼がただ美しいだけの男ではないことを、ひとたび剣を振るえばどんな強大な魔物も盗賊もことごとくひれ伏すほどの実力を兼ね備えた騎士であることを、知らぬ者はいない。
その剣技と正義を愛する騎士精神を携え、光の勇者ソロとともに地獄の帝王を倒し、大陸に平和をもたらしたバトランド随一の英雄であることも。
強さと優しさ、剛と柔を併せ持つ騎士ライアンは今、輝ける近衛騎士団の長として隊列を率いていた。門を出てそのまま見物客が群がる大通りに入ると、ゆっくりと通りを行進する。
「おお、馬子にも衣装だな」
誰にともなくラウルが呟いたが、ホイミンの耳にはもはや届かなかった。馬上のライアンに、全ての神経が注がれていたから。
ホイミンは触手を胸の前できゅっと組み、小さな目をうるうるさせてライアンに見入る。ライアンは手綱を巧みに操って同じ歩調を保ちながら、ゆっくりとホイミンのいる方へ近づいてきた。
―――ライアン様、気付いてくれるかなあ
ホイミンはどきどきしつつ、タイミングを計った。近くに来たら、ライアンの名を呼んでみるつもりだったのだ。しかし、
「きゃあああ、ライアン様ぁ〜〜〜」
「やぁぁん、かっこいい！ ライアン様っ」
ホイミンの周囲で甲高い喚声が沸き上がり、思わずくらくらしてしまう。興奮した女性特有のキンキン声を初めてまともに浴びたホイミンは、その破壊力の凄さに呆然とする。と同時に、ライアンが女性の視線と声援を独り占めしている現状に、驚きを超えた衝撃を覚えた。
そうしている間に、気付けばライアンはすでにホイミンの目の前まで進んでいた。慌てて息を吸い込み、周りの声援に負けないよう声を張り上げてライアンの名を叫んだ。
「ライアンさまぁっ」
しかしライアンはホイミンの方を見ようともせず、真直ぐ前を見据えたまま呆気なく通り過ぎてしまった。
「ライアン様……」
ライアンの耳には届かなかったのかもしれない。何せこれだけの人が押し寄せて、声援を送っているのだから。ホイミンは自分にそう言い聞かせたものの、ライアンの視界に全く入らなかったという現実から受けるショックを和らげることは難しかった。
「ホイミン、どうする？ パレードを追い掛けるか？」
ラウルの声ではっと我に返ったホイミンは、ぷるぷると頭を振って「パレード見れたから十分ですぅ」と答えた。これ以上ラウルに迷惑を掛けるわけにはいかない。
「そうか。ならば私の家に寄るといい。エンドール産の旨いお茶をご馳走しよう」
ラウルはそう言って、ホイミンを肩に乗せたままくるりと踵を返した。その時、
「ほら、見てよ。あのホイミスライムよ、きっと」
「ああ、あれ？ ライアン様の家に居座ってるっていう魔物」
「魔物のくせに図々しいっていうか、身の程知らずっていうか」
「ほんとよねぇ。ライアン様の幸せを邪魔してることに気付いてないのかしら」
背後から、悪意に満ちた囁きが聞こえた。陰口と呼ぶにはあからさまだったから、おそらくホイミンに聞こえるように言ったのだろう。ホイミンはあまりの衝撃に全身を硬直させ、どくんどくんと激しく脈打つ自分の心臓の音に聞き入った。
すると何を思ったか、ラウルは声のした方を振り向いた。そこには４人の若い女性が固まって顔を寄せ合っていたが、さすがにいきなり振り向かれて驚いた様子だった。ラウルは一拍おいて、
「やはり女は魔物だ。しかし同じ魔物なら、賢くて心の美しいホイミスライムを選ぶ。ライアンの選択は正しい」
怒りも蔑みもない、まるで目の前にある事実をそのまま説明するかのような平坦な口調で言い置いた。
しかし、その無感情こそ彼女らにとって最大の侮辱に他ならなかった。キッと視線を尖らせ、肩の上のホイミンを睨み付ける。そう、当然ながら怒りは全てホイミンに注がれる結果となった。
彼女らの攻撃的な眼差しを一身に浴びたホイミンは、怖くて震え上がる。そんなホイミンの怯えを悟ったラウルは再びくるりと背中を向け、さっさと歩き出した。そしてホイミンの頭を撫で、
「……済まなかった。ついカッとなってしまった」
とても“ついカッとなった”挙げ句の反応とは思えなかったが、おそらくあれがラウルにとって最大限の“感情的な行為”なのだろう。研究所内でラウルと過ごすことが最近は多かったが、彼が声を荒らげて感情を露わにするところを見たことは一度もなかった。
ホイミンはぷるんと頭を振って「いいんですぅ」と力なく答えると、
「あの、ラウル所長。僕、今日はこのままおうちに帰ります」
「……そうか。分かった。お茶はまた今度、だな」
「はいっ」
ホイミンは今できる限りの元気な声を出すと、ラウルの肩からぴょんと飛び下りて礼儀正しく一礼し、とぼとぼと帰っていった。
第4話
『魔物のくせに図々しい』
『身の程知らず』
『ライアン様の幸せを邪魔して』―――
忘れようと努力すればするほど、あの恐ろしい言葉たちがよりリアルなより攻撃的な響きをもって、ホイミンの鼓膜を内側から震わせた。
これまでも、多くの人間たちから悪意や害意を浴びせられてきた。そう、ライアンと出遭うまでは、外に出て人間と遭遇するのが怖くてずっと地下迷路に潜んでいたのだ。だからあの程度の悪口に落ち込むはずもない。
しかしホイミンは分かっていた。さっきの女性たちが自分に向けていた憎悪は、これまで人間から受けてきた悪意とは質が異なるということを。
人間にとって自分は、あくまで一匹の魔物でしかなかった。人間対魔物という大きな対立構造の中に否応なく呑み込まれてしまうがゆえの、人間からの憎悪だったのだ。
対して彼女らの憎悪は、ホイミンという個体に向かっていた。理由は明白。ライアンの傍にいるからだ。彼女たちはきっと、ライアンに好意を持っているのだろう。恋愛に関して鈍感なホイミンでも、そのくらいは分かる。
強くて優しくてかっこいい憧れのライアンと、“魔物のくせに”一緒に住んでいるホイミンが憎いと思ってしまうのは当然なのかもしれない。でも―――
「でも……お傍にいたいだもん……僕、ぼくぅ………」
行き過ぎた望みだというのは嫌というほど分かっている。今日のパレードでも、自分とライアンの間に厳然とそびえる壁の存在を思い知らされた。夜の間だけ人間の姿になれたからといって、それにどんな意味が、価値があるというのか。
そういえば、自分は一度ちゃんと人間になれたはず。なのに死んで蘇った時には、ホイミスライムに戻っていた。
このことについて深く考えてみたことはなかったが、どうしてもう一度人間として蘇ることができなかったのか、半分魔物、半分人間などという中途半端な状態に留まっているのか、不思議といえば不思議だった。
全ての生命を司る創造神デミウルゴスの気紛れなのだろうか。それとも……
「あっ、血の臭い……」
答えの出ない問いをぐるぐると巡らせていたホイミンの嗅覚が、かすかな血臭を捉えた。風の動きを読みながら臭いを辿ってゆくと、森の入口に人が倒れているのが見えた。ホイミンは駆け付けて素早く様子を窺う。
怪我人は若い男性で、胸から腹にかけて深い傷を負っているようだった。両手で胸を押さえて苦しげに呻いている。
ホイミンは迷わず触手を翳し、ベホイミを唱えた。男性の身体は一瞬柔らかな光に包まれ、光が滅えると同時に弾かれたように顔を上げた。
「お前……ホイミスライムか？」
長く艶やかな黒髪に、月のない闇夜を思わせる黒瞳が印象的な、美貌の青年だった。ただし、左目は黒い眼帯で覆われていた。そのせいなのか分からないが、秘密めいた翳を背負っているようにも見えた。ホイミンはぐいんと頷いて、
「お怪我は大丈夫ですか？」
男性はようやく驚きが消化できたのか、「あ、ああ」と惚けた口調で返して、
「今のはベホイミだな。お前がかけてくれたのか？」
「はい、そうです。もう一回かけましょうか？」
「いや、大丈夫だ。全快している。痛みも不快感もない」
ホイミンは「よかったぁ」と声を上げ、にっこり微笑んだ。すると男性は不思議そうに見返し、
「魔物なのに、人間の怪我を治すのか？」
問いの意味が分からずホイミンは瞬きを繰り返すばかりだったが、やがてかくんと項垂れて、
「魔物なんかに助けられるのはお嫌でしたか？ ごめんなさい……」
『魔物の力など借りたくはない』と毅然と言い放ち、そのまま息を引き取った少女のことが思い出されたのだ。ホイミンは申し訳なさそうに目を伏せ、男性に背を向け去ろうとした。が、
「待て。そんなつもりで言ったんじゃない。ただ純粋に驚いただけだ。いや、しかし……順序が逆だったな。まずは礼を言うべきだった。済まない。そして、ありがとう。お陰で助かった」
男性の誠意を汲み取ったホイミンは、再び笑顔を浮かべ「どういたしましてですぅ」と答えた。男性は笑みこそ返さなかったものの、親しげな口調で名を名乗った。
「俺の名はサイラス。南国パデキアの出身だ」
「僕はホイミン。今はバトランドの城下町に住んでます」
「ホイミンか。なかなかの使い手だな。ベホイミが使えるホイミスライムなんて初めてだ」
「えへ。そんなあ」
褒められて悪い気はしない。ホイミンはもじもじしつつサイラスを見上げて、
「さっきの怪我、どうしたのですか？ まさか盗賊に……」
もし盗賊が出たのなら、すぐライアンに知らせねばならない。王宮周辺の警備は騎士団の長であるライアンの最重要任務なのだ。しかしサイラスは「いや、」と否定し、
「盗賊じゃない。仲間にやられた。嘗ての仲間にな」
「仲間……？」
「ああ。仲間というより同じ種族と言った方がいいか。呪われた竜族、ダークドラゴン。昔は俺も、お前と同じ魔物だったんだよ」
サイラスはそう言って、陰気に嗤った。
第5話
「魔物だった？ まさか……」
サイラスの告白は、ホイミンの心を大きく揺さぶった。人間への変容を遂げた魔物が自分以外に存在していてもおかしくはない。しかしこうして目の当たりにすると、やはり驚かずにはいられなかった。
「それじゃ、あなたも……」
「あなた“も”？」
ホイミンの惚けた呟きに不審を覚えたサイラスは、眉根を寄せて聞き返した。ホイミンは慌てて首を振って誤魔化し、
「人間に無私の愛情を捧げた魔物は、デミウルゴス様の恩寵により人間になれると聞いたことがあります。サイラスさんは闇に棲むダークドラゴンでありながら、人を愛し人に愛されたのですね？ すごいですぅ」
ダークドラゴンはその名の通り、光を忌み闇を支配するドラゴン。黒い鱗に覆われ、鋭い鉤爪を持ち、口から腐蝕の炎を吐く。元来、竜族は聖なる領域に棲むと言われるが、唯一の例外が彼ら、ダークドラゴン。いわば、竜族の異端児だった。
しかしそんな闇の魔物でも、人を愛することができるのだ。ホイミンは心強い味方を得たような気持ちになった。大丈夫、人間と魔物はいつかきっと解り合うことができる。真の平和共存を実現することができる。
「僕も人間が大好きなんです！ だから僕も、人間と魔物の間にある壁をなくせるよう、一生懸命―――」
「残念だがホイミン、それは無理だ。人間と魔物が解り合うことは決してできない。人間は必ず俺たちを裏切る」
希望に満ちたホイミンの言葉を遮って、サイラスは厳粛な声で断言した。ホイミンは先刻以上の驚きに呑み込まれ、呆然とサイラスを見上げる。
「ど…してそんな……」
ようよう訊ねるホイミンを、サイラスは冷ややかに見返し、
「これは忠告だ。ホイミン、人間を信用するな。いずれ痛い目に遭うぞ」
ホイミンはぶんぶんと頭を振って、必死に反論した。
「どうしてそんなこと言うんですか！ あ、あなたは人を愛し人に尽くし、そして人間になりたいと強く望んだからこそ、そうやって人間になることができたのでしょう？ なのになんで―――」
「お前の言う通り、俺は人を愛し、人に尽くし、そして捨てられた」
「捨てられ……た？」
サイラスは頷きを返すと、ホイミンの身体を抱き上げて膝の上に乗せた。そして、
「つまらない話を聞かせてやろう。人間の少女に惚れてしまった、ある間抜けな魔物の話だ。その魔物は森の中で迷子になった少女と偶然出遭った。しかし少女は幼い頃に事故で視力を失っていたから、相手が魔物だと分からず人間だと思い込んだ。魔物はほんの気紛れから少女を森の出口まで導いてやり、そしてまた逢う約束を交わした」
ホイミンは黙って耳を傾ける。頭の中に、盲目の少女とダークドラゴンの出遭いを描きながら。
「少女は目が見えないせいで家族からは疎まれ、友だちもいなかった。魔物は彼女の話し相手になり、毎日のように森で会って共に過ごした。もちろん、決して触れ合うことはできなかったが、彼女は話ができるだけで十分満足していた。それまでは誰からも相手にされず、闇と孤独の世界に閉じ込められていたのだからな」
「淋しかったでしょうね……」
人間が怖くて、暗い地下迷路に長い間引きこもっていたホイミンには、少女の淋しさが理解できた。話し相手ができた嬉しさも。
「そうして月日は流れ、魔物は少女に深い愛情を覚えるようになった。何とかして彼女に光を取り戻してやりたい。幸せにしてやりたい。その一心で盲を治す方法を探したが、皮肉なことにその方法は魔物自身の中にあった」
ホイミンははっと息を呑んだ。彼の言う“方法”に心当たりがあったからだ。
「ドラゴンの目……」
「ああ、そうだ。さすが治癒系のスペシャリスト、ホイミスライムだな。俺はそれまで、癒しなどということに全く興味がなかったから知らなかったのだが、ドラゴンの眼球には光を失った目を蘇らせる霊力が宿っているんだ。しかしそれを知った俺は迷った。もし彼女の目が見えるようになったら、俺の本当の姿を、禍々しいダークドラゴンとしての姿を彼女の視界に晒すことになると、今さらながら気付いたからだ」
語りの一人称が“魔物”から“俺”に変わっていた。話すうちに、彼の中で生の感情がふつふつと湧き上がってきたのだろう。
「それでも、俺の迷いは続かなかった。ただ彼女の幸せを願う思いから、俺は自分の眼球を自ら抉り出し、闇の呪術師のもとに持ち込んで霊薬を作らせた。そしてそれを彼女に飲ませたんだ」
「では……あなたの左目は……」
サイラスは頷いて、黒い眼帯を外してみせた。しっかり閉じられた瞼の上には、鋭い鉤爪で裂かれたような深い傷痕が残っている。この奥にはぽっかりと、黒い洞があるだけなのだろう。
「自分で自分の目を抉り出すのは、さすがに簡単じゃなかった。何度も試みるうちに、こんな傷を付けてしまった」
サイラスはさらりと言ったが、その言葉にホイミンは思わず震えた。もし自分がサイラスだったら同じことができるだろうか。
「霊薬の効果は覿面で、彼女の目は光を取り戻した。そしてそれと同時に、奇蹟が起きた。そう、彼女のために自らを犠牲にした行いにより、俺は創造神デミウルゴスの恩寵を受け、こうして人間になることができたんだ」
「すごい…すごいですぅ……」
感動に瞳を潤ませるホイミンだったが、サイラスは冷めていた。ちらと肩をすくめ、
「確かにその時は喜んだ。闇の眷族である俺が、神に感謝を捧げた。これで彼女の前に堂々と姿を現わすことができる。彼女を抱き締めることができる、と。俺はさっそく彼女に逢いに行った。そして……全てを告白したんだ」
「全てを？」
「ああ。元はダークドラゴンと呼ばれる魔物だったことも含めて、これまでの経緯を全て、余すところなく伝えた。正体を明かすことに迷いがなかったと言えば嘘になるが、彼女の目が見えないのをいいことに、これまでずっと騙し続けていたことへの罪悪感の方が大きかった。それに、彼女ならきっと受け入れてくれるという確信があった。長い間かけて積み上げてきた二人の信頼関係が、こんなことで揺らぎはしない、と。しかし、」
ホイミンは無意識のうちにそっと俯いた。この先は聞きたくない、そんな切実な思いが小さな身体を駆け巡る。しかし、ちゃんと聞き届けねばならぬことも分かっていた。
「しかし、全てを打ち明けた俺を見る彼女の目に真っ先に浮かんだのは、紛れもない嫌悪だった―――」
その瞬間、胸を走った鈍い痛みに耐えるため、ホイミンはきゅっと目を閉じた。
第6話
「彼女は敵意を剥き出しにして、俺に詰め寄った。魔物の力を借りて目を治したなんてことが家族や村人たちに知られたら、大変なことになる。何故こんなことをしたのかと。俺は彼女の剣幕に戸惑いつつも、正直に答えた。お前を愛しているからだ、と。すると彼女は顔を歪め、嘲るようにこう言った。“魔物のくせに”」
「いやぁぁ……」
ホイミンはたまらず悲嘆の声を上げた。『魔物のくせに』―――先刻、女性たちに浴びせられたのと同じ言葉、同じ侮蔑。結局、人間の魔物に対する認識は共通しているのだろうか。通奏低音のように、人間の意識の底辺に変わらず流れ続けているのだろうか。
「俺は彼女の豹変についてゆけず、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。けれど今なら分かる。彼女は変わったのではない。他の人間たちのように魔物に対する嫌悪や蔑みを持ってはいたが、俺が気付けなかっただけだ。
彼女の優しさや親密な態度は、俺が人間だという大前提の上に成り立っていた。なのに俺は、自分の全てを受け入れてもらえたと都合のいい錯覚に溺れてしまった。それだけのことだ」
サイラスは自らの愚かさへの嘲笑を込めて言い置いた。そして、膝の上でぷるぷる震えるホイミンを優しく撫でた。お前が震える必要はないんだぞ、と宥めるように。
「そうして、彼女は俺の前から去っていった。それだけじゃない。村の実力者に俺の存在を知らせて、森から追い払おうとした。村は大規模な討伐隊を森に送り、俺を捕えて殺そうとした。
もちろんあんな奴らに殺られる俺じゃない。遠慮なく反撃させてもらったが、もうあの森にはいられない。俺は長い間過ごした森に別れを告げ、行く当てもなく大陸を彷徨った。俺の“裏切り”はすでに同種族には知られていたから、行く先々で敵意を浴びた。さっきも仲間の襲撃を受けて酷い目に遭ったが、お前の呪文で助けられたというわけだ」
サイラスはふぅっと息を吐き、
「これが、俺が経験したことの全てだ。ホイミン、これで分かっただろう？ 魔物と人間の平和共存なんてただのお伽噺だ。光の勇者たちが地獄の帝王、デスピサロを倒したことで、目立った衝突は減ったかもしれない。けどな、お互いに対する不信感は少しも変わってない。魔物は下等な生き物だという意識は、相変わらず人間の中にある。あらためて意識するまでもない、生まれながらの深層意識として持っている。それを突き崩すのは、たとえ勇者でも不可能なのだ」
サイラスの冷静な諭しに、ホイミンは必死に反論した。
「でもっ、そうじゃない人もいます！ ライアン様はっ―――」
「ライアン？ 騎士ライアンか？」
「は、はい。そうです。知っているのですか？」
サイラスは含蓄ある眼差しを向け、
「当然だ。一定レベル以上の魔物で、その名を知らない者はいない。地獄の帝王を倒した勇者一行の、影の指導者。嘗てはその首に、賞金がかけられていたほどだ」
ホイミンはびくぅんと飛び上がって、サイラスの膝の上から下りた。そしてこわごわ見上げる。サイラスはくくっと低く笑って、
「心配するな。昔の話だ。今は奴を殺したって何の得にもならん。それより、バトランドの騎士ライアンには魔物が力を貸していたという噂を聞いたことがあるが、まさかその魔物が……ホイミンなのか？」
ホイミンは正直に答えるべきか迷った末、こくんと頷いた。サイラスは「そうか……」と深い感慨を噛み締めつつ、中空に視線を彷徨わせた。が、すぐにホイミンに向かい、
「お前が人間を信じたいと思う気持ちも解る。けどな、ホイミン。人は人、魔物は魔物。その境界線を見失ってはいけない。そうなった時に傷付くのは、間違いなくお前の方だ。想いが純粋な分だけ、反動も大きい」
いつものホイミンなら、『それでも僕はライアン様を信じます』と反論しただろう。しかし今日の華やかなパレード、そして女性たちの陰口が、ホイミンを弱気にしていた。
先導を務める馬上のライアン、輝かしき近衛騎士団長は、一介の魔物に過ぎない自分には手の届かない存在であると思い知らされたばかりなのだ。
それに、サイラスが心からホイミンのことを案じてくれていることも分かっていた。ホイミンはぺこりと頭を下げると、「そろそろおうちに帰ります…」と力なく言い置いた。サイラスもそれ以上は何も言わず、立ち上がって「またな、ホイミン」と屈託ない言葉を返した。
「あの……これからどうするのですか？」
ホイミンの問いに、サイラスは「さあて」と返し、
「旅を続けるつもりだったが、ちょっと気が変わった。暫くバトランドの周辺をうろついてみようと思う」
「また……会えますか？」
自分の口から出てきた言葉に、ホイミンは少なからず驚いた。サイラスはホイミンの頭を撫で、
「ああ、会えるさ。きっとな」
そう言って微笑んだ瞳の奥で優しく揺らめく輝きを、ホイミンは心の中に刻み込んだ。
第7話
家に帰ったホイミンは、自分だけのためにあらためて料理をする気にもなれず、昨日の残り物のスープにパンの欠片をひたして簡単な夕食を済ませた。そしてライアンの言い付け通り一人で入浴し、夜着に着替えてベッドに入ったが、眠ることはせず窓に頬杖をついてライアンの帰宅を待った。
こうして夜空を眺めていると、今日の出来事が次々と浮かんでくる。正装したライアンの優美な姿、華やかなパレード、黄色い声援、女性たちからの敵意、そして人間化したサイラスの孤独―――
「どうして僕はあの時……ライアン様を信じますって言えなかったんだろう……」
人と魔物の境界線を超えることはできないと、自分の経験を引き合いにして諭したサイラスの言葉には、確かに説得力があった。しかしホイミンにだって、これまでライアンと築いてきた絆という強力な証がある。それをサイラスに示せばきっと、理解してくれたはずなのに。
「僕はライアン様を信じます。信じますぅ……」
まるで言葉にすがるように、ホイミンは何度も繰り返した。こうしていないと、不安と淋しさで内側から崩れてしまいそうだったから。やがて―――
「あっ、ライアン様っ」
家の前に、王宮専用の豪奢な馬車が止まった。中から下りたライアンに御者は丁寧なお辞儀をすると、再び手綱を操って帰っていった。それを窓から見届けたホイミンは、ぱたぱたと階下へ駆け下りて、帰宅したライアンに抱き着いて迎えた。
「お帰りなさいっ、ライアン様！」
人間の姿になったホイミンの身体を抱きとめたライアンは、わずかに眉根を寄せ、
「こら。遅くなるから寝ていなさいと言ったはずだぞ」
小言を言いながらも、ホイミンの背中をあやすようにぽんぽん撫で叩く。その優しい仕草、甘やかな温もりを全身で受け止めたホイミンは、張り詰めていた神経が一気に緩むのを感じた。
と同時に、不安の膨張を抑えていた心の堰が切れる。ライアンの胸にぎゅっとしがみついたまま、ホイミンは肩を上下させて嗚咽を漏らした。
「ぅっ、ぇっ、ぇぇっ……」
当然ながらライアンは驚いて、あたふたと抱擁を解く。そして俯いたままえぐえぐとしゃくり上げるホイミンの顔を覗き込み、
「どうした、ホイミン。何かあったのか？ ん？」
昼間、自分のいない間に人間に虐められやしないか。ライアンはそれを最も案じていた。
バトランド国では、国王が魔物との友好宣言を発布し、魔物に対する一方的な虐待を禁じていた。しかし、長い時間をかけて固定化した魔物に対する敵対意識や嫌悪、侮蔑などの感情がそう簡単に変わるとは思えない。隠然たる差別の犠牲に、ホイミンがいつなってもおかしくないとライアンは考えていた。
今のところ、そういった被害に苦しんでいる様子はなかった。国王は言うまでもなく、その側近たちやラウルを初めとする古文書研究所の研究員、商店の店員などはみな、ホイミンを大事にしてくれている。
しかしだからこそ、注意が必要だった。バトランドの人間はみな優しくていい人ばかりだと思い込んでいるホイミンの純真さが、却って仇になる場合もあるからだ。
人間になったホイミンに淫らなことをさせようとして抵抗され、従わせるため暴力をふるううちに殺してしまったのはジルベルト村の人間だということを、忘れてはならない。そこも国の中心部から離れてはいるが、バトランド領なのだ。
そんなライアンの不安まで汲み取ることはできなかったが、心配してくれていることはホイミンももちろん分かった。きゅっと涙を拭ってライアンを見上げ、
「もう大丈夫ですぅ……」
濡れた瞳の奥にはまだ哀しみが煌いていたが、それでもホイミンは無理に笑顔を作ってみせた。するとライアンは黙って腕を広げてすっぽりと抱き込み、
「どんな些細なことでもいい。話してご覧」
ライアンの優しい促しをはね付けることは、ホイミンにはできなかった。
「僕……不安で。今日のパレードで見たライアン様はすごく立派で格好よくて……。こんな方のお傍に、僕みたいな魔物がいてもいいのかと……」
「今さら何を言ってるんだ。お前は俺の相棒だろう？」
「でもっ……パレードの時、一生懸命ライアン様のお名前を呼んだのに、気付いてもくれなかったし……」
恨みがましい声でもごもごと不満をぶつけるホイミンに、ライアンは困ったような笑顔を向け、
「ちゃんと気付いていたぞ。ラウルと一緒にいただろう？」
「じゃあ、なんでこっちを向いて下さらなかったんですかっ？」
ホイミンがぷくっと頬を膨らませて問い詰めると、ライアンはふいと横を向いて、
「照れるだろうが」
ホイミンはぱたぱたと瞬きして、ライアンの横顔を見つめた。薄闇の中でも、かすかに頬が赤らんでいるのが分かる。
「ああいう華やかな場は苦手なんだ。にこやかに笑顔を振りまけるような精神構造は持っていない。しかし、それでお前に淋しい思いをさせたのなら謝ろう。ホイミン、済まなかったな」
最後はきちんとホイミンの方を向いて、目を見て謝ってくれた。ホイミンは膨れていた頬をぺしょっとへこませて、ライアンに抱き着いた。
「じゃあ、これからもお傍にいていいんですね？」
「もちろんだ」
ライアンの温かな胸の中で、ホイミンはほぅっと安堵の息をついた。そしてそろそろと顔を上げて視線を重ね、
「ライアン様、あの、あのね……今日……」
今日、僕と同じように魔物から人間になったサイラスって人に遭ったんです―――続くはずの言葉を、ホイミンは喉の奥に押し戻した。彼のことを話せば必然的に、愛した人間からの裏切りについても話さねばならない。
人間と魔物が解り合い、平和共存できる世界を望んでいるライアンがそれを聞いたら、きっと心を痛めるだろう。
「どうした？ ホイミン」
訝しげに問うライアンに、ホイミンは“何でもないです”と返して誤魔化そうとした。が、それに先んじてお腹がくるくると鳴り、ライアンの微笑を誘った。
「なんだ、腹が減っているのか？」
ホイミンは赤くなって頷き、
「はい〜。一人だと食欲が湧かなくて……」
ライアンは「仕方のないやつだ」と言いながら、持ち帰った包みをごそごそと開ける。そして中身をテーブルの上に並べてみせた。
「そら、今夜のパーティーで出た料理だ。少しずつ詰めてもらったから、食べなさい」
「う…わああああ〜〜〜。すごぉぉい、豪華ですぅ……」
瞳をきらきらさせて、色とりどりのごちそうに見入るホイミン。ライアンはその頭をふわふわと撫でると、キッチンからフォークを一本持ってきた。ホイミンはそれを受け取ったが、ちょんと首を傾げて、
「ライアン様は？ 食べないのですか？」
「うん？ 俺はパーティーで食べてきた」
「そ…ですか……」
淋しそうに項垂れるホイミンにちらと一瞥を送り、ライアンは少し慌てた口調で、
「うん、そういや少し腹が減ったな。ホイミン、一緒に食べようか」
俺もつくづく甘いな、と独りごちながらも、ぱあっと顔を輝かせて「はいっ」と元気いっぱい返すホイミンを見るとつい笑顔がこぼれてしまう。
「ほおおお〜〜、このほうれん草のタルトおいしいですぅ〜〜。はい、ライアン様もどうぞ」
ホイミンはにっこり笑って、フォークに刺さったタルトをライアンの口許に運ぶ。ライアンは少し照れながらも、素直に口を開けてかぶりついた。
その時、フォークを握っているホイミンの手がひどく荒れていくことに気付き、口の中のものを急いで呑み込んで、
「ホイミン、ずいぶん手が荒れているな。痛くないのか？」
意外な指摘にホイミンは驚きを隠さず、大きく瞬きした。が、すぐに微笑みを返し、
「今日、溜まってた洗濯物をまとめてゴシゴシしたからだと思います。大丈夫ですぅ」
「そうか……」
明るく屈託のないホイミンの言葉にも、ライアンは心配そうな表情を崩さない。そっと手を取って荒れた甲や指先を撫でると、黙って唇を押し付けたのだった。
第8話
その翌日。ライアンは勤務の合間に一人の下士官をこっそり呼び出した。騎士団長じきじきの呼び出しということで緊張気味の部下に対し、ライアンは苦笑を浮かべて、
「緊張するな。大した話ではない。確かお前だったな。以前、俺に家政婦は必要ないかと訊ねてくれたのは」
「あ、はいっ。私です」
「そうか。一度断ったのに済まないが、どうだろう、今からでも頼めないだろうか」
昨夜、ホイミンの荒れた手を見たライアンは、迷った末に家政婦を雇うことに決めた。古文書研究所で働いているホイミンに、家事を全て押し付けている現状に心苦しさを感じながらも、家政婦を頼むことをずっと躊躇していたのだ。
しかし昨夜のことで決心がついた。これ以上ホイミンに負担を強いるわけにはいかない。荒れた手の痛々しさが瞼裏（まなうら）に灼き付いていた。
ライアンの申し出に下士官、フレデリックは驚きの表情を見せたが、すぐににこやかな笑みを浮かべて大きく頷き、
「もちろん大丈夫です！ 実はその…家政婦を希望しているのは私の妹、ルチアなのです」
「妹？ お前の？」
ライアンの反応をどのように受け止めたのか、フレデリックは慌てて付け加える。
「いえっ、妹とはいえ私とは全く似ておりません！ 兄の私が言うのも何ですが、器量は抜群で気立てもいい。料理、洗濯、掃除など家事全般の腕前も申し分なく―――」
「器量は関係ないだろう」
怪訝な顔つきで口を挟むライアンに、フレデリックは「あっ、そうですね」と答えて取り繕うように笑ってみせた。ライアンは笑みを返さず、ただ頷いた。そして、
「お前の妹ということは、まだ独身だろう。いくら家政婦とはいえ、未婚の若い女性を家に呼び付けるのは気がひけるな」
一転して消極的な反応を見せるライアンに、フレデリックは今にも飛びつきそうな勢いで、
「お、お待ちくださいっ。妹は大陸に平和をもたらしたライアン隊長を大変尊敬しておりまして、何か自分でもお役に立てるようなことはないかと常々申しております。私が以前、家政婦のお話を致しましたのも、そういった妹の気持ちを汲んでのことでした」
「なるほど……しかし……」
「それに、隊長が一緒に暮らしているホイミンさんに対する理解もあります。いえ、ホイミンさんに対してだけではありません。これからは魔物とも手を取り合って平和を築いていかねばと……」
ライアンはぱっと顔を上げた。そしてゆったりと頷き、
「そうか。それを聞いて安心した。若い女性の中には、魔物を毛嫌いしている者が多いという調査結果が出たばかりだからな」
家政婦を頼むに当たって、ライアンが一番心配していたのはそこだった。自分の見ていないところでホイミンが虐められるようなことがあるかもしれないと。しかし他ならぬ部下がここまで言うのだから、信頼していいだろう。
「分かった。ではお願いしよう。取り敢えずは週に三日ほどでいい。昼前ごろに来てもらい、陽が落ちる前には帰すようにする」
「多少遅くなっても大丈夫ですよ。家までの道は人通りも多いですし、危険なことは―――」
「いや、そうはいかん。とにかく陽が落ちるより前には帰ってもらわねば」
ライアンが帰る時間にこだわっているのは、彼女の身を案じてのことではない。もちろんその気持ちが皆無なわけではないが、何より夜になって人間化したホイミンの姿を目撃されないようにするためだった。
「承知いたしました。ではさっそく明日からでも」
「ああ、そうだな。済まんが明日は少し早めに来てもらうようにしてくれ。俺が家を出る前に、彼女とホイミンを引き合わせたい」
「分かりました。そのように伝えます。ふつつかな妹ではありますが、何とぞよろしくお願いいたします」
神妙な口調でそう言って深々と頭を下げる下士官に、ライアンは苦い笑いを浮かべ、
「まるで嫁に出すみたいだな」
その瞬間、彼の口元を勝ち誇ったような笑みがかすめたが、ライアンが気付くことはなかった。
「や、やった。やったぞ。これで隊長がルチアを見初めたら……」
ライアンと別れたフレデリックは、その場でひそかにガッツポーズした。妹がライアンに恋心を抱いていると知った彼は、何とかして二人を近づけようとその方法について思いを巡らせていたところだった。
もちろん、妹の恋を成就させてやりたいという親心もあったが、二人が結ばれることで自分が受ける恩恵の方がやはり魅力的だった。騎士団長と親戚になれるのだ。今後の出世に影響がないと考える方がおかしい。
以前、家政婦の申し出をしたが断られてしまい、他に二人を親しくさせる方法はないかと考えていた矢先、何とライアンの方から頼んできた。
「俺にもツキが回ってきたぞ。よし、帰ったらさっそくルチアに教えてやらねば」
込み上げる笑みを抑えつつ、自分に待っているバラ色の未来に思いを馳せたのだった。
朝、ちょっとだけ寝坊したホイミンが慌ててキッチンに駆け込むと、そこに見知らぬ若い女性がいて、ライアンと楽しげに話していた。ホイミンの姿を認めると、ライアンは手招きして、
「紹介しよう。彼女は俺の部下の妹、ルチアさんだ。今日から家政婦としてここに通ってくれることになった」
「え……かせいふ……？」
「ああ。お前も最近は古文書研究所の仕事で忙しいだろうと思ってな。これまで家事を全て任せきりにしていて悪かったな」
突然の話に驚きを隠せず、呆然と立ち尽くすホイミン。するとルチアはにっこり笑って、
「よろしくね、ホイミンちゃん」
しかしホイミンは、すぐに笑顔と挨拶を返すことができなかった。礼儀正しいホイミンには珍しいことだが、それも仕方あるまい。彼女、ルチアは建国祭のパレードを見ていたホイミンに対し、憎悪と侮蔑むき出しで『魔物のくせに』と言い放った女性だったのだ。
「どうした？ ホイミン。ちゃんと挨拶しなさい」
ライアンにやんわり窘められ、ホイミンは今にも消え入りそうな声で何とか「よろしくお願いします…」とだけ返した。するとルチアは笑みを深め、
「ホイミンちゃんは人見知りさんなのね。これから仲良くしましょうね」
そう言って右手を差し出してきた。ホイミンはびくっと飛び上がり、差し出された手をこわごわ眺めた。見かねたライアンが間に入り、
「さっきも言ったが、彼女は俺の部下の妹だ。魔物に対する偏見もなく、人間と魔物との平和共存を願っている心優しい女性だ。だからそんなに怯える必要はないぞ」
「は、はい……」
ライアンが信頼を寄せている部下の妹なのだろう。建国祭での出来事を告げ口するような真似が、ホイミンにできるはずもなかった。
「あらためて、ホイミンちゃん。仲良くしましょうね。あなたはなぁんにも心配する必要ないのよ。わかった？」
ルチアは明るい声でそう言うと、おそるおそる差し出されたホイミンの触手を、ぎゅっと握り返したのだった。
第9話
「よし、紹介はここまでだ。そろそろ朝食にしよう」
ライアンの言葉にホイミンは飛び上がり、身体をくりんくりんと回して慌てふためく。
「ご、ごめんなさい！ すぐに朝ごはんの仕度しますっ」
仕事と家事の疲れが溜まっていたのか、規則正しいホイミンには珍しく今朝は寝坊してしまったのだ。急いでキッチンに駆け込もうとするホイミンを、ライアンはやんわり制して、
「大丈夫だ。朝食は彼女が用意してくれた」
「え……そんな……」
「これから、彼女が来てくれる日の朝食は作ってもらうことにした。その分、ゆっくり眠れるだろう？」
「あ、は、はい……」
ライアンが、ホイミンの負担が少しでも軽くなるよう考えてくれたことは分かっている。それでもやはり、ライアンのために朝ごはんを作るという大事なお務めを奪われた淋しさを否定することはできなかった。もちろんライアンには、そんな本心を伝えるつもりはないが。
「ありがと…ございます……」
「いや、礼には及ばん。それよりも、これまで家事をお前一人に押し付けて本当に済まなかった。かと言って、俺が引き受けるのも時間的に難しいからな。もっと早く家政婦を頼めばよかった。彼女には週に3回ほど通ってもらって、洗濯や掃除をしてもらう」
「そ…ですか……分かりました……」
ホイミンのあまりの消沈ぶりにライアンは不審を覚えたが、他人に対する警戒心の表れなのだろうと納得した。いずれ、ルチアが魔物との共存に理解のある心優しい女性だということが分かれば、ホイミンも打ち解けてくれるに違いない、と。
「それじゃ、さっそく食事にしようか」
「はい。ではコーヒーをお淹れしますね」
ルチアは勝手知ったるといった風にキッチンに入り、湯を沸かした。が、
「あっ、コーヒーは僕がやります！」
ライアンはよく、『ホイミンの淹れてくれるコーヒーは美味いな』と言ってくれる。ホイミンの密かな自慢だった。せめてこれぐらいは、仕事に行く前のライアンにしてあげたい。しかし、
「いえ、大丈夫よ。ほら、ホイミンちゃんはそこに座ってて」
言葉こそ穏やかだったが、その声にはホイミンの訴えをはね付ける容赦ない強さがあった。それでもホイミンも負けずにてきぱきとカップを用意し、
「ライアン様はちょっと濃い目がお好きなんです。だから僕がやります」
「そういった微妙な調節は、女性の方が上手いのよ。さ、せっかくの朝食が冷めてしまうわ」
ルチアは一歩も引かず、ホイミンの前を遮ってやかんに手を伸ばす。ホイミンも負けじと触手を伸ばして取っ手を掴み、自分の方へ引き寄せようとした。その時、
「熱っ……」
突然ルチアが手を押さえ、顔をしかめた。ライアンは驚いて駆け寄り、
「大丈夫か！ 火傷したのか？」
「い、いえ、大丈夫です。ちょっと触っただけですから……」
ルチアは手を押さえたまま、苦しげに微笑う。ライアンは眉を逆立て、
「ホイミン！ 危ないだろう、気をつけなさい！」
「ご、ごめんなさ…い……」
身体を小さくすぼめてカタカタ震えるホイミン。するとルチアはすがるようにライアンを見上げ、
「ライアン様、ホイミンちゃんを叱らないでください。ライアン様のために何かしたいという気持ちが、ちょっと空回りしただけなのですから」
そんなルチアの優しさに、ライアンは感じ入ったように頷き、口調を和らげて、
「ホイミン、お前は余計なことをしないで彼女に任せておけばいいんだ。分かったな？ さ、早くホイミをかけて治してあげなさい」
ホイミンはまだ震えていたが、頷いてルチアの手に触手を翳そうとした。しかしなぜかルチアはそっと手を引き、
「大丈夫です。後で簡単に薬草を塗っておきますから。ホイミンちゃんも気にしないでね。それより、食事を済ませましょう」
そう言ってくるりと後ろを向き、火傷した手を隠すようにしてコーヒーを淹れた。
「うん、この煮込みは旨いな。わざわざ家で作って持ってきてくれたのか？」
ライアンの言葉にルチアはほんのり頬を染めて淑やかに頷き、
「はい。ぜひライアン様に食べていただきたくて……」
「そうか。うちの妹は料理上手だと、あいつが自慢するわけだな」
「まあ。兄がそんなことを？ 嫌だわ、恥ずかしい」
和やかな会話を続ける二人の傍らで、ホイミンは沈んだ表情のままパンを齧っていた。会話に割り込む勇気もない。朝の食事風景。その中で自分は、明らかに異質な邪魔者だった。
「ホイミン、ほら。この煮込みを食べてみなさい。旨いぞ。肉が入っていないから、お前も食べられるだろう？」
「いいですぅ……あんまりお腹空いてないので……」
項垂れたままパサパサのパンを機械的に口に運ぶホイミンが心配になったのか、ライアンは眉をたわめてホイミンの身体を抱き上げ、
「どうした？ どこか具合が悪いのか？」
額に手を当てて熱がないか確かめようとした。しかしよく分からなかったのか、自分の額を押し当ててもう一度確かめる。そして「ふむ」と唸り、
「熱はないようだな。仕事と家事で疲労が溜まっているのだろう。少し横になっていなさい。ラウルには、俺から伝えておこう」
「だ、だいじょうぶですぅ……」
「いいや、駄目だ。食欲がないし、顔色もよくない。さ、寝室へ行くぞ」
ライアンはホイミンを大事そうに抱きかかえたまま立ち上がり、部屋を出ていった。ルチアが作ってきた美味しい煮込み料理を残して。その後ろ姿を、ルチアは双眸に険しい光を宿したまま黙って見送ったのだった。
第10話
「よしよし、では大人しく休んでいるのだぞ」
ホイミンをベッドまで運んだライアンは、薄い毛布を掛けて上から優しく撫でると、「では行ってくる」と言い置いて部屋を出ていった。それから暫くして扉が音もなく開き、ルチアが部屋に入ってきた。
何か言われるのではないかと思わず身構えたホイミンに、ルチアはにっこり微笑みかけ、
「具合はどう？ ホイミンちゃん」
「あ、はい。もう大丈夫です……」
「そう。それならよかった。でもライアン様の言う通り、暫く休んでないとだめよ」
そう言ってベッドの縁に浅く腰掛け、部屋の中をぐるりと見回した。
「ここは……ホイミンちゃんの寝室？」
「はい、そうです」
「すごいわね。この大きなベッドといい、クローゼットといい……。まるで人間同然なのね」
そしてルチアはほぅっと溜め息をつき、
「ホイミンちゃんは優しいのね。この前の建国祭の時、私が酷いこと言ったのにライアン様にそれを告げ口しないでくれた。ありがとう」
「そ、そんな……告げ口なんてこと僕は……」
困惑するホイミンに、ルチアはうっすら目を細め、
「そうよね。ホイミンちゃんはそんなことする子じゃ元々ないのよね。ほんと、あの時の私はどうかしてた。ライアン様の凛々しいお姿を見ていたら、あの方といつも一緒にいるホイミンちゃんが無性に羨ましくなってしまって……。それでつい、あんなことを。許してね」
ホイミンはぴょんと起き上がり、小さな目を輝かせてルチアを見つめた。魔物の自分に対し、真摯な態度で謝ってくれたことが、嬉しくてならなかったのだ。ぐいんと大きく頷き、
「もちろんです！」
「ああ、よかった。それじゃ、私たち仲良くなれるかしら？」
「はいっ、仲良くしましょう、ルチアさん」
二人は笑顔で握手を交わした。すると、その親密な空気の余韻をにじませつつ、ルチアが親しげな口調で、
「それでね、ホイミンちゃん。実は私……ライアン様を愛してるの」
「えっ……」
唐突な告白に戸惑うホイミンを措いて、ルチアは続ける。
「いずれ、ライアン様と夫婦になれたら、って思ってる。今はまだ、あの方にそんな気持ちかけらもないことは分かってる。だからこれから、私の想いが伝わるよう頑張るつもり。ホイミンちゃん、応援してくれるわよね？」
「あ、あの……ぼく……」
「ね？」
邪気のない笑顔で念押しされたホイミンに、何と答えることができただろう。『それはできません。僕もライアン様を愛しているから』―――堂々とそう答えられたら、どんなに幸せだったろう。
しかしホイミンは分かっていた。魔物の自分には、ルチアの言うような“愛”は手の届かないものであることを。
これまでずっと、努めて頭の中から排除してきたことがあった。自分の未来について。『これからもずーっとライアン様のお傍におります』―――そんな誓いの言葉をホイミンは幾度となく口にしたが、それは自分を欺くためでもあった。そう、本能は知っているのだ。それが不可能であることを。
そして今、ルチアの告白によって、ホイミンは現実に対峙せざるを得なくなった。ライアンはいずれ結婚して家庭を持つ。相手がルチアでなくとも、それは近い将来必ず訪れる現実だ。
ライアンのことだからきっと、結婚したからといってホイミンを追い出すようなことはしないだろう。魔物との同居に理解のある女性を選び、これまで通り大事にしてくれるに違いない。
しかしそんなライアンの優しさに甘えてはいけないことを、ホイミンはちゃんと理解していた。ライアンが結婚した時、それが自分の去るべき時であると。
「……はい、ルチアさん。がんばってください。応援……してます」
「ほんと？ ありがとう！ ああよかった。やっぱりホイミンちゃんは優しい子ね」
嬉しそうなルチアの顔を見上げながら、ホイミンは必死に涙をこらえる。そして胸の奥で呟いた。ライアン様、“その時”が来るまで、もう少しだけ傍にいさせてください、と。
第11話
勤務地からの帰宅途中、ライアンは城下町の商店に寄ってホイミンの大好物、くるみ入りパンを買った。ホイミンの体調が優れないことを何気なく口にすると、商店のおかみさんは心配そうに眉根を寄せ、「お見舞いよ」と言ってパンを1つおまけしてくれた。
帰り際に掛けられた「早く元気になって、また顔を見せてね」という言葉には、本物の親愛がこもっていた。ホイミンが商店街の人たちに愛されていることを実感したライアンは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「きっとホイミンも喜ぶぞ」
くるみ入りパンを食べる時のホイミンは本当に幸せそうで、見ているライアンの頬まで緩んでしまう。小さくちぎったかけらを時には触手で、時には指先で掴み、にこにこ笑いながら口の中に入れる。そして口をもくもく動かして味わうのだが、大きなくるみの実が入っていた時は、ぱあっと顔を輝かせるのだ。
その表情の変化が可愛くて、楽しくて、ライアンはつい自分の食事も忘れて見入ってしまう。するとホイミンは必ず、自分が食べるはずのパンを分けてくれた。ライアンが食べたがっているのだと思って。
そんなことをつらつら考えていると、ついライアンの歩みも速まってしまう。早く家に帰って、ホイミンのために夕食の仕度をしてやらねば。ホイミンのことだからきっと、体調が良くないのに無理をしてキッチンに立とうとするだろう。
ホイミンのそういう健気さ、一生懸命さを愛しく思う反面、時々切なくなるのも事実だった。
嘗て一緒に旅をしていた頃ホイミンは、ライアンの傷を癒すのが自分の唯一の存在理由だとばかりに、必死にそれを遂行した。自分が怪我をし血を流しているにもかかわらず、残った魔力全てをライアンの傷を癒すことに使い切ってしまったこともしばしばだった。
そして今、ホイミンは、ライアンのために家事をするのが自分の存在理由だと思い込んでいるのだろう。
そうじゃない、そうじゃないんだと、ライアンは声を大にして言いたかった。お前が傍にいてくれるだけでいい。薄桃色のぷにぷにした身体で元気にぴょんぴょん跳ねる、ホイミスライムとしてのホイミン。大きな瞳をくるんと見開いて、華奢な腕でぎゅっと抱きついて「お帰りなさい、ライアン様ぁ」と出迎えてくれる、人間のホイミン。
姿形は違えど、そんなホイミンが傍にいてくれることがどれだけ自分の支えになっているか。
では、ホイミンにはっきりそう伝えればいいではないかと、頭の隅で冷静な声が囁く。それは確かにそうなのだが、ただ傍にいてくれるだけでいいと言っただけでは、恐らくホイミンは納得しないだろう。きっとその“理由”を欲しがるはずだ。
“理由”、そんなもの分かりきっているではないかと、またしてもあの冷静な声が囁く。自分自身から目を逸らさず、真っ直ぐ心の中を覗き込んでみればいい。そこで絶えることなく燃え続ける甘美な炎。その存在を認めた時、理由は自然と言葉になってホイミンに伝えられるはずだ。
しかし騎士の習い性ともいえる自己抑制や、感情を表てに出すことに対する怯えが、ライアンを押し留めていた。
ライアンは、自分という人間の性質をよく解っていた。嘗て人間への激しい憎悪から闇の領域に踏み出しそうになったように、ひとたび感情に嵌めた枷が外れれば、制御不能の波濤に自我が呑み込まれてしまう。
それは、憎悪など負の感情だけに当てはまることではない。愛も同じ。理性の蓋を外し愛情の表出を自分に許してしまったが最後、それは加速度的に膨張し、愛情を超えた執着、独占欲として対象を縛り付けてしまうのではないか。
そんな怖れから、ライアンは自分の中で確実に醸成されつつあるあの甘美な感情を、見えない鎧でひたすら抑え込んでいたのだ。
甘美な感情に付随する、原始的な欲望も同様に。
「ただいま、ホイミン。今帰った―――」
いつもの帰宅の挨拶を、ライアンは途中で呑み込んだ。笑顔で「お帰りなさい」と言いつつ駆け寄ってきたルチアに、できる限り声を穏やかにたわめて、
「ルチアさん、仕事は夕方4時までという契約だったはずだが」
ルチアはにっこり笑って頷き、
「はい、分かっておりますわ。でも体調のよくないホイミンちゃんに夕食を作らせるのは可哀想だと思いまして」
どうやら善意でしてくれたことのようだ。とはいえ、これを受け入れてしまうわけにはいかない。日没とほぼ同時に、ホイミンは人間の姿に変わってしまうのだから。
「気持ちは大変有り難いのだが、契約は守ってもらわねば。それに、遅くなったら家人が心配する。さ、途中まで送っていくから、早く帰りなさい」
「契約だなんて。そんなよそよそしい言葉使わないでください。私は仕事だからというより、ライアン様のお役に立ちたいから家政婦をお引き受けしたのです。もちろん、お給金は決められた分だけでけっこうです。私の気持ち……受け止めてくださいませんか？」
切なげに眉をたわめ、すがるような上目遣いで訴えるルチア。しかしライアンは決然と首を振り、
「駄目だ。そういうことなら、この話はなかったことにさせてもらう」
思い掛けぬライアンの厳しい対応に、ルチアは驚きを隠せない。ライアンは少し言葉を和らげ、
「済まないが、こちらにも色々と事情があるのだ。それに、若い娘さんを遅くまで引き留めておくのは倫理的にも問題があろう。貴女の優しさの上に胡坐をかくような真似はしたくない。解っていただけるだろうか」
「はい……承知いたしました」
「そうか。ならば送っていこう。さ、仕度をなさい」
しかしルチアは「けっこうです」と断り、さっさと仕度をすると帰っていった。その荒々しい歩みに、これまで彼女が見せていた楚々たる女性らしさとは対極のものを見たライアンは、やれやれと肩を竦めた。そして素早くホイミンの寝室へ。
「ホイミン、俺だ。帰ったぞ」
「ライアン…様……？」
「ああ。彼女には帰ってもらった。だから安心しなさい」
ライアンの言葉を受けて、扉が内側からそろそろと開けられた。隙間からちょんと顔を覗かせたホイミンは、かなり疲れているように見えた。それも、身体的な疲労ではなく、精神的な消耗が感じられた。
ライアンは素早く室内に身体を滑り込ませ、
「もう大丈夫だ。ホイミン、不安だったろう」
「は、はい……。あのひと、日没になっても帰る気配がなくて……」
「体調のよくないお前に代わって、夕食を作ろうとしてくれたようだ。しかし、契約は守ってくれるよう少し強く言っておいた。だから―――」
「ごめんなさい、ライアン様……」
ホイミンからの唐突な謝罪に面食らったライアンは、眉根を寄せつつ「何を謝る必要があるのだ」と訊ねた。対してホイミンは俯いたまま、
「僕が……魔物になったり人間になったりするから、色々迷惑かけてしまって。ライアン様も、ほんとはめんどくさいなあって思ってるんでしょう？」
「何を言ってるんだ、お前は……」
「こんな……夜の間だけ人間になれたからって、どんな意味があるの？ いっそのこと魔物に戻ってしまった方がどんなにか―――」
「ホイミン！ いいかげんにしろ！」
あまりに後ろ向きな泣き言を繰り返すホイミンに、ライアンは思わず声を荒らげた。しかし、ホイミンの肩がびくっと震えるのを見て、慌てて態度を和らげた。
「大声を出してすまなかった。しかしな、俺の心情を勝手に決め付けるのはやめてくれ。俺は面倒だとか迷惑だなんて思ったことは一度もない。そして、魔物だろうが人間だろうが関係ない。お前が傍にいてくれるだけでいい。それが俺の本心だ」
ライアンの言葉が嘘だとは思わない。けれど、それに甘えてはいけないことを、いつかは訪れる別れを覚悟せねばならないことを、ホイミンの魔物としての本能は知っている。
「ありがとございますぅ……ライアン様、だいすき……」
大きな瞳に涙をいっぱい溜めて微笑むホイミン。その愛らしさ、いじらしさに、ライアンはたまらず華奢な身体を抱き締めた。
「ホイミン、俺も………っ、」
続く言葉を呑み込んで、ライアンはそっと口づけを落とした。
第12話
「なんだ？ ルチア。もう帰ってきたのか。もっと遅くまでいないと、隊長と親しくなれないだろう？」
兄の不満げな言葉に、帰宅したルチアは勢いよく噛み付いた。
「仕方ないでしょ！ 契約は守ってもらわねば困る、すぐ帰れの一点張りで。挙げ句の果てには、契約を守らないならこの話はなかったことにさせてもらう、ですって」
ルチアの剣幕に、兄のフレデリックは苦笑を浮かべ「まあまあ」と宥める。
「嫁入り前の若い女性を雇うことに、ライアン隊長はかなり躊躇してたからな。つい神経質になってしまうんだろう」
「それだけじゃないわ。何よあのホイミンとかいう魔物！ 専用の寝室までもらってるのよ。おまけに、ちょっと私がライアン様と親しく話してたら、気を引くため具合の悪い振りとかしちゃって。ライアン様もライアン様だわ。あんな魔物に振り回されて」
フレデリックはさらに苦笑を深め、
「でもまあ、その魔物が同居しているお陰で、これまで隊長にはなかなか女性が近づけなかったんだ。そいつをうまく手なずけさえすれば、隊長狙いの女性たちの中でお前はかなり優位に立てる。だろう？」
「そんなこと、兄さんに言われなくても分かってるわ。とにかくライアン様の信頼を得るのが大事。そうすればきっと、契約なんて関係なく夜遅くまでいることを認めてくれるはず」
「そうだな。でないと意味がないもんな。隊長が帰宅するのと入れ違いでお前が帰るのなら、本当にただの家政婦になっちまう。誘惑も何もできやしない」
兄の呑気な言葉に、ルチアはキッと視線を尖らせ、
「兄さんだってあたしにライアン様と結婚してほしいんでしょ？！ だったらちゃんと協力してよ！」
「わ、わかったわかった。もちろんだよ。何でも言ってくれ」
終始妹に押され気味のフレデリックは、顔に卑屈な笑みを張り付けたままこそこそと自室に戻った。その背中を冷ややかに見送ったルチアはカリッと音を立てて爪を噛み、
「焦っちゃだめ。少しずつ外堀を埋めていくのよ、ルチア……」
言葉とは裏腹の険しい表情で、自分に言い聞かせたのだった。
翌朝、いつもより少し早めに起床したホイミンは、張り切ってキッチンに立った。今日はルチアが来ない日だったから、ライアンのために朝食を作ってあげられるのだ。
右のフライパンではチーズ入りオムレツを焼き、左のフライパンではウインナーを転がす。文字通り触手フル回転だった。
「おはよう、ホイミン。ずいぶん早いな。身体は大丈夫なのか？」
キッチンに顔を出したライアンは、心配そうに眉をたわめて訊ねる。しかしホイミンは巧みに触手を操りつつ頭だけくりんと向いて、
「はいっ、もうぜんぜん大丈夫です！ ライアン様は座っててくださいね。すぐできますから」
そう言ってにっこり笑うホイミンは、心底幸せそうだった。ライアンは思わず顔を曇らせた。昨日とは打って変わって生き生きとした表情のホイミンを見ていると、家政婦を雇ったのは間違いだったかもしれないと思えてきたのだ。
「ライアン様のお好きなチーズオムレツですぅ」
黄金色のオムレツと、絶妙の焼き色が付いたウインナーが載せられた大きな皿が、ライアンの前に置かれた。ライアンは「いただきます」と言ってからオムレツにフォークを入れた。中からとろりと溢れるチーズをからめて口に運び、
「うん、うまい。塩加減もちょうどいい」
その時のホイミンの喜びようといったら。小さな目をキラキラ輝かせ、触手をくねらせて感情を全身で表現する。が、すぐにキッチンに戻り、カップに淹れたてコーヒーを注いで出した。ライアンはそれを一口飲み、
「うん、やっぱりホイミンの淹れてくれたコーヒーは旨いな」
「ルチアさんが淹れたのよりも……？」
おずおずと、遠慮がちに訊ねるホイミン。彼がこういう訊き方をするのは珍しかったが、その問いが不安や怯えを反映したものであることを見抜けぬライアンではなかった。大仰に頷いて、
「ああ。昨日、彼女が淹れたものよりずっと旨い。これからも頼んだぞ。ホイミンが淹れてくれたコーヒーを飲まないと、一日が始まった気がしない」
「は、はいっ！」
ほとんど涙目で頷くホイミンを、ライアンはそっと抱き上げて膝の上に乗せ、
「ほら、お前も食べなさい。俺が買ってきたくるみパン、昨日はほとんど食べなかったじゃないか」
そう言ってパンをちぎり、ホイミンの口元へ。ホイミンはぽおっと頬を赤らめつつも、ぱくりとかぶりついた。
「旨いか？」
「ふぁい、おいひぃですぅ。でも……」
「でも？」
ホイミンは口の中のパンをこくんと呑み込み、
「ちょっとしょっぱいですぅ」
ライアンは笑って、ホイミンの目尻から伝う涙を拭ってやった。
第13話
「おはようございますぅ〜〜」
古文書研究所のホイミン専用扉からちょんと顔を出すと、忙しく動いていた研究員たちが一斉に駆け寄ってきた。
「ホイミン！ もう大丈夫なのか？」
「寝込んでいたそうじゃないか。心配したぞ」
「所長にこき使われてたからなあ。もっと休んでてもいいんだぞ」
集まった研究員たちはホイミンへの同情を口々に言い合って、うんうんと頷く。するとその背後からすーっと人影が近づいた。
「誰がこき使っただと？」
人影は、他ならぬ研究所所長のラウルだった。切れ長の目をさらに細め、威圧感たっぷりの低音で問い質す。研究員たちは一様に跳び上がって、愛想笑いをしながら各々の持ち場に戻っていった。それを冷ややかに見送ると、ラウルは一転して声を和らげ、
「体調はどうなんだ。もう少し休んでいてもよかったんだぞ」
するとホイミンは机の上でぴしっと触手を整列させ、
「もう大丈夫です！ 元気いっぱいです！」
ラウルは二、三度大きく瞬きしたが、やがて口元をかすかに緩め、
「そうか。それならいい。ホイミン、これからも頼んだぞ」
「はいっ」
新たに芽生えた使命感で身体を火照らせるホイミン。そのぷにぷにした頭を、ラウルはたおやかな指先で優しく撫でた。
彼の指がこんな愛情のこもった動きを見せるのは、古書のページをめくる時くらいだろう。もし相手が女性だったら、これだけで昇天してしまってもおかしくはない。
もちろん、女嫌いを公言しているラウルがそんなことをするはずもないのだが。
「あ、それからあの……ラウル所長。お願いがあるのですが……」
言いにくそうに口ごもるホイミンだったが、やがて思い切ったように顔を上げて、
「来週、一日だけお休みをもらってもいいでしょうか。昨日も休ませてもらったのに申し訳ないのですが……」
「うん？ 構わんが何か用事があるのか？」
「はい！ ライアン様のお誕生日なんです！」
小さな目をきらきらさせ、全身をほんのり赤く染めて答える。対してラウルは気のない口調で、
「それはそれは。めでたいことだ」
もちろん、ホイミンにラウルの皮肉は通じない。力いっぱいぐいんと頷いて、
「はいっ、だいじなだいじな日なんです。だから僕、朝から準備しようと思って。ごちそう作って、テーブルにたくさんお花を飾って、それからバースデーケーキも！」
すっかり自分の世界に入ってしまったホイミンは、触手を胸の前で組んで視線をうっとりと彷徨わせ、
「リキュールをたっぷり染み込ませた大人のチョコレートケーキ。間にガナッシュクリームとフルーツコンポートを挟んで、上には木いちごを飾って、それでホワイトチョコレートでライアン様のお名前を書いて……」
「……旨そうだな」
ラウルの呟きに、ホイミンははっと我に返った。見れば、ラウルはふいとそっぽを向いている。ホイミンはちょんと首を傾げて暫し見つめていたが、やがてにこっと笑い、
「じゃあ、ラウル所長にも今度作ってきますね！」
「私の誕生日はまだまだ先だぞ」
「んと……そしたらバースデーケーキじゃないケーキを作ってきます。それで、研究所のみなさんと一緒に食べましょう」
ラウルは眉間に浅い皺を寄せ、
「いや、私が全部食べる」
見かけによらず子供っぽいことを言うラウルに、ホイミンはくすくす笑いつつ、
「分かりました。では所長のために作ってきます。それで、あの……」
ラウルは淡い笑みとともにホイミンの頭を撫で、
「来週の休みについては了解した。頑張りすぎてまた倒れないようにな。まったく、あの男は幸せ者だ」
その言葉に皮肉の陰翳はなかった。自ら好んで孤独を選び、古書の世界に耽溺しているように見えるラウルの意外な一面を垣間見たような気がして、ホイミンの小さな胸はかすかに軋んだのだった。
そして、ついにその日がやって来た。ライアンの誕生日。ホイミンは朝から気合漲っていた。簡単にごちそうの下ごしらえをしてからケーキ作成に取り掛かり、そしてプレゼントの花を摘みに行く。頭の中で今日の予定をおさらいしただけで、うきうきして自然と身体が跳ねてしまう。
しかも今日は、ルチアが家政婦に来ない日だったのだ。だから何も気を遣うことなく、思い通りにキッチンを使って準備ができる。
「ライアン様ぁ、今日は約束通り早めに帰ってきてくださいねっ」
「ああ、分かった分かった。ちゃんと約束は守るから安心しなさい」
ライアンは苦笑混じりに答えて、興奮気味のホイミンを優しく撫でた。ライアンを驚かせるため、ホイミンはケーキのこともプレゼントのことも黙っていた。今日が誕生日だということも、忘れたふりをしていたのだ。
もちろんそんなホイミンの思惑はライアンに筒抜けだったが、ホイミンをがっかりさせないため、何も気付いていないように振る舞っていたのだ。
「それじゃ、行ってくるよ、ホイミン」
ライアンの背中を見送ったホイミンは、すぐ家の中に戻ってエプロンを着けると、気合十分で『バースデープロジェクト』に取り掛かったのだった。
「ああ、フレデリック。すまんが今日は早めに帰らせてもらう。報告と点呼を代わりに頼みたいのだがいいか？」
「は、はい、もちろんです。でも珍しいですね、隊長が早退されるなんて。どこか具合でも……」
心配そうに眉をたわめるフレデリックに、ライアンは口ごもりつつも、
「い、いや。今日はな、その……俺の誕生日なのだ。どうやら、ホイミンがお祝いをしてくれるらしい。早く帰ってきてくれとうるさくてな」
そう言って肩を竦めてみせるが、嬉しさは隠しきれないようだ。
「誕生日……ですか？ 隊長の？」
「ああ」
「そ、それはおめでとうございます」
ライアンが「ありがとう」と返すより先に、フレデリックは「ちょっと用事を思い出しましたので」と断っていきなり駆け出した。
「早くルチアに教えてやらないとっ。隊長の好意を得る絶好の機会じゃないか……」
第14話
「ふおおおお〜〜〜〜っ」
らしくない雄叫びを上げつつ触手フル回転のホイミン。何をしているのかといえば、卵を泡立てているのだ。この時ばかりは、魔物でよかったと思った。疲れたら次々と触手を変えて、泡立てることができるからだ。
「えっと、角が立つくらい固くなったら薄力粉とココアを混ぜて……」
手順は完璧に頭の中に入っていた。粉を投入してさっくり混ぜ合わせ、溶かしたバターをとろりと注いで再び混ぜる。そして型に流し込んで、オーブンに入れた。
「よしっ、次はガナッシュですぅ」
チョコレートを湯せんにかけて溶かし、生クリームを冷やしながら軽く泡立てる。溶けたチョコレートに少しずつ流し込んで混ぜ合わせ、最後にリキュールを多めに加える。そうしているうちに、スポンジが焼き上がった。
「どうか失敗してませんように」
ホイミンの祈りがケーキの神様に通じたのか、型から取り出したスポンジはふっくら見事な出来栄えだった。触手をくねらせて暫し喜びのダンスを踊った後、スポンジを切って間にガナッシュと予め作っておいたフルーツコンポートを挟み、全体に仕上げのチョコレート生クリームを塗る。そしてライアンの好物である木いちごを飾ると、いよいよ最後の大仕事となった。
ホイミンは数回深呼吸を繰り返し、溶かしたホワイトチョコレートの入った袋をぎゅっと掴む。そしてケーキの上部に『Happy Birthday』と書いた。
「や、やったぁ、きれいに書けました！ あとはお名前を……」
ホイミンは迷った。どう書くべきだろうか。やがて全身を真っ赤にしつつ書いたのは――
『Dear Ryan』
「きゃーっ、ど、どうしよどうしよ。“愛しいライアン”だなんて……」
自分で自分の大胆な行為に慌てふためいたものの、すぐにパニックは収まった。この『Dear』に込められた深い想いに、ライアンが気付くはずはない。挨拶や呼びかけの延長くらいにしか受け止めないだろうと分かったからだ。でも、それでも……
「いいんですぅ……これが僕の気持ちなんだから……」
ホイミンは出来上がったケーキを丁寧にラッピングすると、溜め息ひとつで気持ちを切り替えた。素早くエプロンを脱いで戸締りを確認し、外に出る。行く先は、バトランド城の北に広がる森だった。その奥深くにひっそり咲くという水晶花、別名ガーディアン・リリーを摘むためだ。
これは非常に珍しい花で、ある特定の樹に寄生する。その名の通り、白く透き通った花弁が特徴だった。別名が表すように、押し花にして持っているとお守りや護符としての効果があると言われている。ホイミンは、この花をライアンへのバースデープレゼントにするつもりだった。
花の咲いている場所はだいたい目星がついていた。そこを目指して森の中を急いでいると、得も言われぬ甘い香りが漂ってきた。間違いない、水晶花はもうすぐそこだ。
「あ、あった！ うわあああ、きれい……」
薄暗い森の中で、そこだけほの白く輝いている。ホイミンはゆっくりと近づいて、この神秘の花をしばし観賞した。が、ゆっくりしている時間はないと思い出し、花を摘むため枝によじ登った。そして目いっぱい触手を伸ばしたのだが、花まではまだ少し距離があった。
「えいっ、ええいっ！」
ぴょんぴょん飛び跳ねたが、やはり届かない。急がないと、ライアンが城から帰ってきてしまう。焦れば焦るほど花は遠のき、ホイミンの息も上がってゆく。その時、
「ホイミン？ そこにいるのはホイミンじゃないか」
いきなり声を掛けられて驚いたホイミンは、「ひやっ」と悲鳴を上げて枝から落ちた。
「だ、大丈夫かっ」
駆け寄って抱き上げてくれたのは、サイラスだった。元はダークドラゴンと呼ばれる闇の魔物だったが、デミウルゴスの恩寵により人間になることができた。しかし愛した少女の裏切りに遭い、傷ついた心を抱え放浪を続けていたところ、ホイミンに出遭ったのだ。
「あ、サイラスさん……」
「ああ。悪かったな、いきなり声を掛けて。怪我はないか？」
ホイミンはサイラスの手の中でぴょんと起き上がって、
「はい、大丈夫ですぅ」
「そうか。それならよかった。ところで何をしていたんだ？ こんな森の奥で……」
ホイミンは頭上を指し、
「あの花を摘もうと思って……。でもなかなか届かなくて」
「花？ ああ、水晶花か。お守りにでもするのか？」
「はいっ、今日はライアン様のお誕生日なんです。だからあの花をプレゼントしようと思って」
サイラスは一瞬、痛ましげに目を細めた。ホイミンの健気さ、一途さに嘗ての自分の姿を重ね合わせ、哀れみを覚えたのかもしれない。どんなに人間のために尽くしても、愛情を注いでも、いずれ裏切られる。それがサイラスが経験から得た『真理』なのだ。
しかしサイラスは何も言わず、水晶花が咲いている樹の枝に登った。そして花に向かって手を伸ばす。ホイミンは思わず「あっ」と声を上げた。サイラスは花を摘んでくれるつもりなのだろうと思ったからだ。しかし、
「うん、この距離なら届くな。よし」
サイラスはそう言って、ホイミンの身体を抱き上げた。そして花に向かって目いっぱい腕を伸ばす。そのお陰で、目指す花はホイミンのすぐ目の前に。驚くホイミンに、サイラスは笑って、
「ライアンのために、自分の手で摘みたいのだろう？」
「は、はいっ」
サイラスの思いやりに胸を熱くしながらも、ホイミンは花に触手を伸ばした。そしてなるべく茎を傷めないよう丁寧に摘んでゆく。
「サイラスさん、ありがとうございます。お陰でこんなにたくさん取れましたぁ」
「そうか、よかったな、ホイミン」
そう言ってふわりと笑うサイラスの右目は、悠久の星空を集めたかのように深く優しく、その柔らかな眼差しはホイミンの記憶の最良の部分に刻み込まれた。
闇の魔物という出自など関係ない、サイラスの魂の輝きを垣間見たような気がして、ホイミンは嬉しいと同時に切なくなった。元は魔物というだけで、なぜこの人が裏切りと孤独に苦しまねばならないのか……
「ホイミン、お前なんだか甘い匂いがするな」
サイラスの言葉でモノローグの世界から帰ってきたホイミンは、触手に鼻を近づけてくんくん嗅いだ。確かに、甘いクリームの匂いがする。
「さっきまで、バースデーケーキを作ってたんですぅ。たぶんそのせいだと思います」
「ケーキか。ホイミンが作った焼きたてケーキ、さぞ美味いんだろうな」
そう言って、羨ましそうに目を細めるサイラス。ホイミンは瞳を輝かせ、
「今度、サイラスさんのために焼いてきます！」
「え？ いや、そんなつもりで言ったんじゃない」
「いいんです。このお花のお礼です。どんなケーキが好きですか？」
サイラスはふいと横を向いた挙げ句、小さな声で答えた。
「……アップルパイ」
かすかに赤らんだ頬を見上げつつ、ホイミンは「了解ですっ」と元気いっぱい答えたのだった。
第15話
サイラスの協力のお陰で無事水晶花を摘むことができたホイミンは、意気揚々と家路に着いた。森を抜け、歩き慣れた道を辿り、我が家が見え始めた時だった。いきなり玄関の扉が開いて、中からルチアが出てきたのだ。
「ど、どうして……だって今日は……」
今日はルチアが家政婦に来ない日のはず。驚きのあまり歩みが止まってしまったホイミンの元に、当のルチアは笑顔全開で駆け付け、
「まあ、綺麗なお花。ちょうどよかったわ。テーブルがちょっと淋しいなと思ってたの。これを飾ればばっちりね」
そう言ってホイミンの手から有無を言わせず花を抜き取ると、さっさと歩き出す。ホイミンは慌てて追いかけ、
「ま、待ってください、その花は僕がライアン様に―――」
「ええ、もちろん分かってるわ。ライアン様のお誕生日だから摘んできたんでしょ？ 大丈夫、私が綺麗に飾ってあげるから」
ホイミンの必死の訴えを聞き流して、ルチアは家の中に入っていった。ホイミンも急いで後に続くと、さらなる驚きが待っていた。テーブルの上に、ホイミンが作ったはずのバースデーケーキが置かれていたのだ。さらに色とりどりのご馳走が並べられていたが、それも全て、ホイミンが途中まで下ごしらえしていたものだった。
すると、奥の部屋からライアンが出てきた。ほんの少し不機嫌そうな顔をしている。
「ホイミン、一体どこに行っていたんだ。ルチアさんが全部、用意してくれたんだぞ」
「あ、あの僕、花を……」
ホイミンはうろたえ、小声で弁解する。しかしライアンには届かなかったのか、
「まあいい。せっかくの料理が冷めてしまうからな。ほら、このケーキも彼女が作ってきてくれたんだぞ。見事なものだ」
「えっ……」
ホイミンは言葉を失い、のろのろとルチアを見上げた。するとルチアはぱんと手を叩いて、
「あ、そうそう、ケーキナイフがどこにあるか分からなくて。ホイミンちゃん、教えてくれる？」
そう言ってホイミンをキッチンに呼び出した。そして扉を閉めると、ホイミンに向かって手を合わせ、
「ホイミンちゃん、お願い。あのケーキ、私が作ったことにしてもらえないかしら」
「そ、そんな……あれは僕がライアン様のために一生懸命……」
ホイミンの弱々しい抵抗など意に介さず、ルチアは“お願い”を続ける。
「私、今日がライアン様の誕生日だって知らなかったの。さっき、兄が教えてくれて慌てて駆け付けたから、プレゼントも用意してなくて。お願い」
ホイミンは今度は、態度で表した。はっきりと首を振る。するとルチアはすっと目を逸らし、
「そう……この前私の恋を応援してくれると言ったのは、嘘だったってことね。やっぱり人間と魔物の間で交わした約束なんて、この程度のものなんだわ。信じた私がバカだったのね」
ルチアの非難めいた言葉に、ホイミンの抵抗は一気に弱まった。小さく首を振り、
「嘘じゃ……ありません。僕は―――」
「だったら、私のお願いを聞き入れてくれるわよね？ 私はホイミンちゃんと違って、いつもライアン様の傍にいられるわけではないの。だからこういう数少ない機会を逃すわけにはいかないのよ」
ホイミンは俯いて黙り込んでしまう。その小さな胸の奥で、どれほどの葛藤が渦巻いているかルチアに分かるはずもなかった。やがて、
「分かり……ました。約束は守らないといけないもの」
項垂れたまま弱々しい声で答えるホイミン。その憔悴しきった姿に、普通の感覚を持つ者なら誰でも心を痛めるはずだ。しかしルチアはころころと笑い、
「ありがと。やっぱりホイミンちゃんは優しい子ね。私たち、いいお友達になれるわ」
楽しげにそう言って、さっさとライアンのいる部屋へ戻っていった。ホイミンはしばしその場に佇んでいたが、濡れた目尻を触手でぐいと拭い、自分に言い聞かせた。いいんだ、ルチアさんが何と言ったって、自分があのケーキを作ったという事実は変わらない。ライアン様が美味しいと言って食べてくれればそれでいいんだから―――
そして心を落ち着けると、ホイミンは部屋に戻った。テーブルには、ホイミンが摘んできた水晶花が飾られていた。ルチアは満面の笑みで、ライアンの前に料理を並べている。
「このごちそうは、私とホイミンちゃんが一緒に作ったんですよ」
さすがに全て自分が用意したというのは気が引けるのか、或いは怪しまれると考えたのか、ルチアはそう言って「ねっ、ホイミンちゃん」と笑顔を向けた。ホイミンは必死に涙をこらえ、「はい…」と答えるのが精いっぱいだった。
「ホイミン、どうした？ 具合でも悪いのか？」
ホイミンの消沈ぶりを不審に思ったライアンが、心配そうに眉をたわめて手を伸ばそうとした。しかし、
「ささ、食事を始めましょう」
ルチアに遮られ、ライアンの手がホイミンに届くことはなかった。そのままバースデーの豪華な食事が始まったが、ルチア一人がはしゃぐばかり。せっかくの誕生日に暗い顔をしてはいけないと、ホイミンも明るく振る舞おうとするのだが、顔を上げると泣いてしまいそうで、結局俯いてぼそぼそとパンを口に運ぶだけだった。
「そろそろケーキを切りましょう」
ルチアは浮かれた調子でケーキナイフを取り出し、切り分けていった。一生懸命に書いた『Dear Ryan』の文字がバラバラになるのを見たホイミンは、哀しくて苦しくて、思わず目を逸らしてしまった。
「はい、どうぞ、ライアン様。お口に合うか分かりませんけど」
「いや、とても旨そうだ。では、頂くか」
ライアンはそう言って、ケーキを口に運んだ。そして「ほぅ」と溜め息をつき、
「これは旨い。甘すぎず、リキュールが効いていて上品な風味がする」
「本当に？ 嬉しいわ。頑張った甲斐がありました」
二人のやり取りを黙って聞いているホイミンの気持ちを、誰が想像できるだろう。今にも立ち上がって、『そのケーキは僕がライアン様のために作ったんです！』と叫びたかった。しかし、ルチアと交わした約束を反故にすれば、やっぱり魔物は信用できないと思われてしまう。ホイミンは必死に耐えた。しかし、
「そら、ホイミンも食べてみなさい。とても旨いぞ」
「……僕はいいです」
ホイミンには珍しい強張った口調に、ライアンは眉をひそめる。
「せっかくルチアさんが作ってきてくれたんだぞ。何を不貞腐れているんだ、お前は」
ライアンの言葉に、危ういバランスを何とか保っていたホイミンの心は崩れた。キッと視線を尖らせて目の前のケーキを睨み、
「いらないもん、こんなの！」
叫ぶと同時に、ケーキの載った皿を触手で強く払った。その勢いでケーキは皿から落ち、テーブルの上でぐしゃっと潰れてしまった。それを見たライアンは目を吊り上げ、
「ホイミン！ 何てことをするんだ！ ルチアさんに謝りなさい」
自分がとんでもないことをしてしまったと気付いたホイミンだったが、ライアンの怒りと剣幕に怯えてぶるぶる震えるばかり。するとルチアがそっと間に入り、
「ライアン様、ホイミンちゃんを叱らないでください。ライアン様のバースデーに、私みたいな家政婦が割り込んできたのが不愉快だったのでしょう。ごめんなさいね」
「何を言うんだ。貴女は悪くない。本当に申し訳ない。後できつく言って聞かせるから、どうか許してほしい」
ルチアは「もちろんです」と答えると、時計を見て「あっ」と声を上げた。
「ああ、もう帰らなければ。契約の時間になってしまいました。本当はもう少し一緒にいて、誕生日を祝って差し上げたかったのですけれど…。でも短い時間でしたが、お祝いのテーブルにつくことができて幸せでした。ライアン様……お誕生日、おめでとうございます」
ライアンはすっと立ち上がり、ルチアの傍に近づいて優しく微笑んだ。
「どうもありがとう、ルチアさん。途中まで送っていこう」
しかしルチアは楚々と首を振り、
「お気持ちだけでけっこうです。せっかくの料理が冷めてしまいますわ。では、私はこれで……」
淋しげな微笑みを残して帰っていった。それを見送ったライアンはくるりと振り向き、
「ホイミン、一体どうしたのだ。いつも礼儀正しいお前らしくもない」
俯いたまま何も言わないホイミンに、ライアンは溜め息をついて、
「とにかく、今度会った時彼女にきちんと謝りなさい。分かったね？」
するとホイミンは顔を上げ、涙の溜まった小さな目でライアンを一途に見据えて叫んだ。
「いやです！ 謝りませんっ」
初めてライアンに反抗したホイミンは、椅子からぴょんと飛び下りると、そのまま部屋に駆け込んでしまったのだった。
第16話
その夜。ベッドに突っ伏して泣いていたホイミンは、のそりと起き上がった。もうすぐライアンの誕生日が終わってしまうのに、「おめでとう」を伝えていないことに気付いたからだ。
ホイミンは部屋を出てひたひた足音を忍ばせ、ライアンの部屋の前に。そして静かに深呼吸すると、扉をノックした。扉はすぐに開き、柔らかな闇を背負ったライアンが現れた。
「ライアン様、今日はごめんなさい。せっかくのお誕生日だったのに……」
俯いたまま謝罪するホイミン。ライアンはその顎に手を掛けてそっと上を向かせ、
「俺は、お前が何の理由もなくあんなことをするとは到底思えない。ホイミン、一体何があったんだ。どんな些細なことでもいい。もし俺に言えずに抑え込んでいることがあるのなら、包み隠さず話してくれないか？」
厳しい叱責を覚悟していたホイミンは、ライアンの優しい促しに驚くと同時に哀しくなった。この優しさにすがることができたなら、どんなにか幸せだろう。しかしそれはできないと知っていた。
ルチアと交わした約束は守らねばならない。それに、今日のルチアはとても幸せそうだった。彼女は本当にライアンのことが好きなのだ。いずれライアンも彼女の気持ちに気付けば、二人は愛し合うことになるかもしれない。その可能性を潰すような真似を、魔物の自分ができるはずもなかった。
「ライアン様に隠してることなんて、何にもないです。今日は本当にごめんなさい。そして、お誕生日おめでとうございます……」
ホイミンはそう言ってライアンから一歩離れ、深々と一礼した。そしてくるりと後ろを向くと、自分の部屋に駆け戻っていった。ライアンは追いかけようとしたが思いとどまり、部屋に戻ってベッドの上にどさりと腰を下ろした。
「まったくあいつは……」
愛しさと苛立ちが交錯する呟きが、闇に溶けて消える。ホイミンが後ろを向くと同時に、その周囲で涙の雫がきらめくのをライアンは見ていた。追いかけて涙の理由を問い質したかったが、ホイミンが打ち明けてくれることはないだろうと思ってやめた。いや、怖かったのかもしれない。拒絶されるのが。
「ホイミン……やはり人間は信用できないのか？」
弱気な言葉を呟いて、ライアンはベッドに横たわった。安らかな眠りは、期待できそうになかった。
そんな二人とは対照的に、ルチアは浮かれていた。初めは、ライアンの誕生日という絶好の機会を逃してしまったと悔やんだが、蓋を開けてみれば首尾は上々。今日一日でライアンとの距離がかなり縮まったことを実感できた。
「なんだルチア。せっかくの誕生日なのに時間通りに帰ってきたのか」
不満げなフレデリックに勝ち誇った笑みを返し、
「バカね、兄さん。これでいいのよ。ライアン様はきっと、私に対する信頼を深めてくれたはず。勝負はここから」
頼もしい妹の言葉に、フレデリックは何度も頷いた。
「それでね、兄さん。お願いがあるの。今度の休日なんだけど、私、ライアン様とあの魔物を誘ってピクニックに行こうと思うの。それで、その時に……」
妹の頼みを快諾したフレデリックは、「お前も色々考えるなあ」と感心したのだった。
「ピクニック……ですか？」
「ああ。ルチアさんがお前も一緒に、三人で出かけようと誘ってくれたんだ。彼女が弁当を作ってきてくれるらしい」
「そう…ですか……」
どうやらライアンは乗り気のようだった。きっと、これを機会にルチアと仲直りしてほしいと思っているのだろう。本当は行きたくなかったけれど、断るわけにもいかなかった。
「分かりました。一緒に行きます……」
この時、ルチアが何を企んでいるのかライアンはもちろん、ホイミンが知るはずもなかった。
第17話
ピクニック日和の休日。ルチアは手作り弁当持参でライアンの家を訪れた。
「こんにちは。お弁当持ってピクニックなんて本当に久しぶりで、わくわくしてよく眠れませんでしたわ」
ルチアはそう言って、にっこり微笑む。ピクニックだというのに、なぜかルチアの化粧はいつもより濃かった。服装も、胸元の開いた露出度高めのものだった。もちろん、女性のファッションになど関心のないライアンが、そんなことを気にするはずもなかったが。
「今日は、私が小さい頃よく家族で行った森にご案内します。とても景色のいいところで、きっと気に入ってもらえると思います」
「それは楽しみだな。では、そろそろ出発しようか」
ライアンはそう言うと、ホイミンを抱き上げて懐の中に入れた。昔、一緒に冒険していた頃よくしていたように。
「ホイミン、苦しくないか？」
「は、はい。大丈夫ですぅ」
「よしよし」
ライアンの大きな手に頭を撫でられたホイミンは、バースデーの出来事以来落ち込み気味だった気持ちが、わずかながら浮上するのを感じた。ライアンの温もりと鼓動をじかに感じることができる自分は、なんて幸せ者だろう、と。ホイミンは、ライアンの胸に顔をぎゅぅぅと押し付け、
「ライアン様ぁ、ピクニック楽しみですね」
ホイミンの明るい声を久しぶりに聞いたライアンは、他の誰にも見せたことのない柔らかな笑みを向け、
「そうだな。一緒にのんびり過ごそう」
「はいっ」
二人のほのぼのしたやり取りに耳を傾けながら、ルチアは今日こそはと決意を新たにしたのだった。
「ずいぶん深くまで進んでいくんだな」
ライアンが言うように、ルチアの案内に従ってかなり森の奥深くまで来ていた。しかしルチアは平然と、
「はい。とっておきの場所がこの奥にあるんです。あと少しですわ」
ルチアの言葉は嘘ではなかった。やがて視界は開け、小高い丘に出た。見晴らしは最高で、頬を撫でる風は心地よい。
「これは素晴らしい。いい場所を教えてもらったな、ホイミン」
「はいっ。気持ちいいですぅ」
ライアンの懐中からぴょんと飛び出たホイミンは、すーはーと深呼吸してにっこり笑った。
「では、そろそろお昼にしましょうか」
ルチアは弁当の包みを広げ、さらに持参した葡萄酒を開けた。
「酒まで持ってきたのか。用意がいいな」
「ええ。外で飲むお酒はまた格別でございましょう？ 尤も、私は飲めないのですが」
ルチアはそう言ってグラスに注ぎ、ライアンに差し出した。羨ましげに眺めるホイミン。ライアンはすかさず、
「ホイミンは駄目だぞ。こんな森の奥で酔っ払ったら、手に負えんからな」
「うぅ〜〜、わかってますぅ」
ルチアはくすくす笑い、
「はい、ホイミンちゃんはこっち。葡萄のジュースね。一緒に飲みましょう」
ホイミンはお礼を言って受け取り、三人で和やかな食事となった。もしかしたら本当にルチアさんは仲直りがしたかったのかもしれない、ホイミンはそんな考えをくゆらせつつパンを頬張り、このひとときを楽しんだ。
やがてゆっくりと日が傾き始めた頃、満腹が睡魔を呼んだのかライアンが寝てしまった。ルチアは「あらあら」と笑い、
「お城での勤務でお疲れなのかもしれないわね。しばらく寝かせておいてあげましょう」
もちろん、ホイミンに異存はなかった。ライアンの傍にちょこんと座って、その寝顔を眺める。こうして無防備に眠るライアンには、逞しさと同時に少年のようなあどけなさもあり、ホイミンは新鮮なときめきを覚えた。いつまでもずっと眺めていたいと思ってしまう。できることなら、その胸に寄り添って……
「あ、そうだわ、ホイミンちゃん。お願いがあるのだけど」
一向に目覚める気配のないライアンの傍で、至福の時を過ごしていたホイミンに、ルチアが呼びかけた。
「あ、はい。何でしょうか」
「あのね、この森を少し奥に入った所に、『奇跡の泉』と呼ばれている場所があるの」
「『奇跡の泉』？」
「ええ。そこから湧く水を飲むと長生きできるっていう言い伝えがあるのよ。ぜひライアン様やホイミンちゃんにも飲んでもらいたいから、汲んできてもらえないかしら」
「ほわああ〜〜、長生きの水ですかぁ。すごいです〜〜」
ホイミンはぴょんっと立ち上がって、「行ってきます！」と元気に応じた。が、
「でも……場所分かるかなあ」
「あ、それは大丈夫。ここを少し行ったところに案内の看板が出てるから。それに従えば、あとは道なりに進むだけですぐ着くはずよ」
それなら、方向音痴気味のホイミンでも楽勝だ。ルチアから水を入れるための瓶を受け取ったホイミンは、意気揚々と森の奥へ入っていった。ルチアはその後ろ姿を笑顔で見送ったが、やがて見えなくなると真紅の唇をにぃっと吊り上げ、
「ばいばい、ホイミンちゃん」
第18話
森の中の一本道を進んでいくと、行く手のT字路に木製の看板が見えた。ホイミンがぱたぱたと近寄って見上げると、ルチアの行った通り『奇跡の泉』への道順を示す標識だった。矢印は左を差している。
「こっちですね」
もちろんホイミンは、何の疑いもなく矢印の指し示す通り進んでいった。ルチアの話によれば、あとはずっと道なりに行けば泉に着くはずだ。
そして暫く進んだところで、今度は道が三本に分かれた。しかし一番右の道に標識が立っていたから、ホイミンは迷うことなく進んでいったのだった。
「ん……ぅぅ………」
心では覚醒を望んでいるのに、身体がそれを許してくれない。重いものが上にのしかかって、意識を無理やり眠りの沼に沈めているかのような不快感。それでも時間が経つにつれて、その重しも徐々に軽くなってきた。
ライアンは何とかまぶたをこじ開け、大きく息をついた。こんなに後味の悪い眠りは珍しい。疲労の澱が全身に絡み付いて、起き上がるのにも難儀するほどだった。
「あら、お目覚めですか？」
ルチアの明るい呼びかけに、ライアンは「ああ」とだけ答えた。が、空の色で時間の経過を知り、慌てて謝罪する。
「いや、申し訳ない。せっかく誘ってくれたのにずっと眠ってしまうとは……」
しかしルチアは笑って手を振り、
「いいんですよ。日ごろの疲れが溜まっていたのでしょう。とても気持ちよさそうに眠っておいででしたわ」
「そ、そうか……」
実際は、ルチアの言うような心地よい眠りには程遠いものだったのだが。それにしても不思議だった。ゆうべはちゃんと眠ったはず。なのに、葡萄酒を飲んで暫くしたら急に睡魔が襲ってきたのだ。
そういえば、以前にもこれと似たことがあった。ホイミンとの旅の途中で寄った宿屋で、葡萄酒を飲んだ途端眠くなった。あの時は、酒に薬が盛られていたのだが、まさかルチアがそんなことをするはずがない。
きっと久々ののんびりした休日で、加えてずっと落ち込み気味だったホイミンも少し元気を取り戻してくれたということで、気が緩んだのだろう。そういえば……
「そういえば、ホイミンの姿が見えないのだが」
ライアンの言葉に、ルチアはにっこり笑って、
「森の奥に、飲めば長生きできる『奇跡の泉』があるんですの。ホイミンちゃんに、そこの水を汲んできてもらうようお願いしました。もうそろそろ帰ってくる頃かと」
ライアンはそっと眉をひそめ、
「森の奥？ あいつはけっこうな方向音痴だぞ。迷ったりしたら……」
「いいえ、それは大丈夫。この先に標識があって、そこから先は一本道ですから」
「そうか……」
それでもライアンの表情は優れない。日没が刻一刻と近づいている。もちろん、眠りこけてしまった自分が悪いのだが。
「このままホイミンを待っていたら、帰りが遅くなってしまう。俺が迎えに行ってこよう」
ライアンがそう言って腰を上げると、「私もご一緒しますわ」と言ってルチアも付いてきた。二人が暫く進むと、確かに『奇跡の泉』への案内板が立てられていた。矢印に従って右に曲がると、小さな泉が湧き出ている場所に突き当たった。間違いない、これが『奇跡の泉』だろう。
しかし、そのどこにもホイミンの姿はなかった。
「ホイミン！ どこだ、ホイミン！！」
ライアンは声を張り上げてホイミンの名を呼んだが、あの愛らしい薄桃色の身体が現れる気配はなかった。
「おかしいわ……一体どこへ行ってしまったのかしら……」
ルチアの不安げな呟きを聞きながら、ライアンは考えた。確かにこの単純な道で迷うはずはない。途中で何か不測の事態に遭遇して、道を逸れてしまったのか。
「俺はこの先をもう少し捜してみる。すまんが、貴女は一人で戻ってくれ。帰りが遅くなってしまう」
「いいえ！ ホイミンちゃんに頼んだ私にも責任があります。一緒に捜させてください。二人で捜した方が早く見つけられます」
ルチアが言うのも尤もだった。ライアンは「分かった」と応じ、二人で周辺を捜すことにした。
「ホイミン、どこだ！ 返事をしなさい！」
「ホイミンちゃんっ、どこ？ ホイミンちゃん！」
しかしホイミンの影すら掴めず、時間は無情にも過ぎてゆく。そして―――
「くそっ……日没か……」
ライアンは込み上げる焦燥を噛み砕き、月が現れた空を挑むように見上げた。
第19話
「ライアン様〜〜ライアン様ぁ〜〜」
さっきからずっと叫び続けていたせいか、喉が嗄れて弱々しい声しか出てこない。愛しい名前は、木々のざわめきに呆気なく掻き消されてしまう。
「んぇっ……ぇぇっ……ライアン様ぁ………」
必死に涙をこらえていたホイミンだったが、もう限界だった。日没を迎えた森は、日中は周到に隠していたその魔性を露わにして、孤独に震えるホイミンの心神を揺さぶる。もはや、どちらに進んでいいのかも分からない。四方には闇と、それ以上に黒いシルエットを見せる木々があるばかり。
唯一の救いは月が明るいことだったが、枝の隙間から辛うじて射し込む月明かりだけでは、ホイミンの視界も心も照らすことはできなかった。
「寒いですぅ〜〜」
ホイミンは自分の身体をぎゅっと抱き締めて、肌から浸透する冷気から身を守ろうとした。そう、日没を迎えると同時に人間化したホイミンは、当然ながら裸だったのだ。もちろん靴も履いていない。裸足のまま歩くことを余儀なくされ、足は小枝や石による無数の傷を負っていた。
疲労と寒さは容赦なく体力を削り取り、ついにホイミンは一歩も歩けなくなった。落ち葉の上に膝をつき、ゆるゆると目を閉じる。すると瞼裏（まなうら）に、大好きなライアンの笑顔が浮かんだ。こちらに向かって、優しく両手を広げている。
───ライアン……さま……
その後ろには、バトランド国王やラウル、古文書研究所の仲間、商店街の優しい人々、そして短い間だったがともに過ごした勇者たち一行の姿も。
「ぼく……ぼくぅ……」
みなの笑顔に勇気づけられたホイミンは、よろめきつつも立ち上がった。そしてすっと息を吸い込み、ありったけの力を振り絞って叫ぶ。
「ライアン様ぁっ、ライアン様ぁ！！」
ライアンはきっと自分を捜してくれている。諦めちゃいけない。ホイミンは自分にそう言い聞かせ、叫び続けた。その時、どこからかガサガサと落ち葉を踏む音が聞こえた。それは真っ直ぐ近づいてくる。やがて、暗がりの中から姿を現したのは───
「サイラスさんっ……」
さすがは闇の領域に棲むと言われるダークドラゴン。人間化してもなお、闇の中での存在感は圧倒的だった。サイラスは眉をひそめ、
「お前、なぜ俺の名を……」
不審感をそのまま言葉にする。それも当然だった。目の前の裸の美少年がホイミンだと分かるはずもない。しかし、
「あの、ぼく……」
「！……その声、まさかホイミンか？！」
ホイミンは迷った挙げ句、こくりと頷いた。サイラスは「信じられん…」と呟いたが、すぐに驚きを消化してホイミンに近づいた。そしてその頬にそっと触れ、
「身体が冷えているな。詳しい話は後回しだ。このままでは凍死してしまうぞ」
そう言って外套を脱ぎ、ホイミンの全身を包んだ。冷え切った身体に、サイラスの温もりがすぅっと浸透してゆく。ホイミンは思わず溜め息をついた。次の瞬間、
「ひゃっ」
いきなり身体を抱き上げられ、驚いて足をぱたぱたさせる。するとサイラスは「こら、じっとしてろ」と優しくたしなめ、そのまま歩き出した。
「あ、あの、サイラスさん。重くないですか？」
「大丈夫だ。それより危ないからしっかり掴まっていろ」
ホイミンは素直に頷いたもののどこに掴まってよいか分からず、仕方なくサイラスの首に腕を回してきゅっとしがみついた。
「よしよし、いい子だ。そのままでいろよ」
やがて前方に小さな小屋が見えた。
「あれが俺の塒だ」
サイラスはそう言って、ホイミンを抱いたまま扉を開けて中に入った。
同じ頃、ライアンは声を張り上げてホイミンを捜していた。しかしその痕跡すら掴めず、焦りばかりが募る。
するとルチアがおずおずと声を掛けた。
「あの、ライアン様。一度家に戻ってみてはいかがでしょうか」
「何だと？」
「ほら、ご覧ください。泉の向こうに道があるでしょう？ あれを真っ直ぐ進むと森を抜けることができるのです。もしかしたらホイミンちゃんは、迷ううちにあの道を進み、森を抜けたのかもしれません」
「それで、一人で家に帰ったというのか？」
ホイミンが勝手に帰る可能性は低いと思ったライアンだったが、ルチアは頷いて、
「はい。もう一度一人で森に入ってまた迷うより、家に戻った方が賢明だと考えるのではないでしょうか」
「確かに……」
「いったん戻って、万が一まだ戻っていなかったらまたあらためて捜しましょう」
まだ森の中にいるかもしれないと思うと胸がキリキリ痛むが、ルチアの言うことも説得力があった。ライアンは迷いを引きずったまま、
「……分かった。では急いで家に戻ってみよう。ルチアさん、貴女は帰った方がいい」
しかしルチアは毅然と首を振り、
「いいえ。ホイミンちゃんの姿を見るまでは私も安心できません。一緒に戻ります」
ここで彼女を説得している時間はなかった。ライアンは仕方なく了承し、ルチアを伴って家に戻ることにしたのだった。ホイミンが帰っていることを祈りつつ。
第20話
「さ、これを飲め。身体が温まるぞ」
サイラスが差し出したカップからは、白い湯気がたっていた。ホイミンは両手でそっと受け取り、口を尖らせてふうふう吹いた。サイラスは自分もカップを持って座り、必死に冷まそうとしているホイミンを興味深げに見つめた。
「熱いものが苦手なのか？」
「は、はい〜〜。ちゃんとふうふうして冷ましてから飲みなさいっていつもライアン様が―――」
途中で口を噤むホイミン。ライアンの名前を口にしたことで、淋しさが募ってしまったのだ。ぐいっと目をこすって自分を鼓舞すると、笑顔をこしらえてサイラスを見上げ、
「ここはサイラスさんのおうちなんですか？」
「ん？ まあな。以前は狩猟小屋だったんだろう。見つけた時はぼろ屋だったが、適当に手を入れて何とか住めるようにした。なかなか快適だぞ」
「そうですね。小さいけど、とってもあったかくて落ち着きますぅ」
そう言って笑顔を見せるホイミンを、なぜかサイラスは眉をひそめて見返した。そして手を伸ばしてホイミンの頬を撫で、
「無理して笑わなくていい。ホイミン、一体何があったんだ？ なぜこんな森の中を一人で彷徨っていたんだ？ いや、それより聞きたいのは、お前はなぜ夜の間しか人間になれないんだ？」
「ぼ、ぼく……」
ホイミンの瞳を、小さな無数の輝きが覆い始めた。それらはみるみるうちに凝結し、涙の結晶となって眦からほろりほろりと連なりこぼれ落ちる。無理して笑わなくていいと言われ、緊張の糸が途切れてしまったのだ。
指先で涙を受け止めたサイラスは、ふっと苦い溜め息をつき、
「すまない。つい詮索してしまった」
ホイミンは首を振って「いいんですぅ」と答えた。そして濡れた瞳の奥から一途な眼差しを向け、サイラスに全てを話した。
地獄の帝王を倒す旅の途中で、デミウルゴスの恩寵により人間になれたこと。しかしライアンと別れた後、ジルベルト村の住民から虐待を受けて一度死に、甦った時には昼間はホイミスライム、夜は人間という不完全な身体になっていたこと。
サイラスは一度も口を挟まず最後まで聞き届けた。が、表情は雄弁だった。憤激、苦悩、驚愕にその端整な顔が歪む。やがて重々しい口調で、
「ホイミン、お前はそんな目に遭ってもなお、人間を信じているというのか？」
ホイミンは「もちろんです」と即答を返し、
「ライアン様は、魔物である僕を信じて旅のお供を許してくれました。全ての魔物が悪いわけではないと言って。だから僕も―――」
「全ての人間が信用できないわけではない、ということか」
ホイミンは熱烈に頷いた。
「そうです！ なかでもライアン様はとてもお優しくて、僕のことを大事にしてくださいます。僕が人間に虐められていないか、いつも心配してくれて……」
「ならばホイミン、なぜお前は一人ぼっちで森を彷徨っていたんだ？ そんなに“大事な”お前を放って、ライアンは一体何をしているのだ」
サイラスの義憤がこもった問いかけに、ホイミンは答えることができない。しゅんと項垂れるホイミンに、サイラスはさらに畳み掛けた。
「それにもうひとつ。なぜお前は不完全な身体のままなのだ？」
「そ、それは……」
サイラスはホイミンの顎に手を掛けて、上を向かせた。そして視線を重ね、
「俺の考えを包み隠さず言おう。お前の身体が半分魔物、半分人間という不完全なまま甦ってしまったのは、お前のせいではない。お前のライアンに対する愛情、そして献身はデミウルゴスを動かすに十分値するものだと思う。つまり原因は、ライアンにあるのではないか？」
「どう…いうことですか……」
サイラスは一瞬、痛ましげに目を細めた。が、すぐに決然と言葉を続けた。
「ライアンの、お前に対する愛情が足りないのだ。俺にはそうとしか思えん」
ホイミンは何も言い返せず黙り込んだ。ここで沈黙するということは、サイラスの言葉を認めるのに等しいと分かっていたのだが。
やがてホイミンは、深い思索の痕跡が窺える神妙な声で返した。その言葉は、サイラスの心を大きく揺さぶった。
「そう……かもしれません。でもだからと言って、誰がライアン様を責められますか？ 魔物である僕をお傍に置いてくださって、あんなに優しくしてくれたライアン様に、もっと愛情をくださいなんて言えるはずがありません」
「ホイミン……お前は……」
「僕はこれで十分。もったいないくらいです。ずっとずっとお傍にいれないことくらい、僕にも分かっています。いつかはライアン様のもとを去る時が来る。せめてその時までは―――」
ホイミンの瞳から新たな涙がこぼれると同時に、唇が柔らかく温かな感触を受け止めた。ホイミンはぱちぱちと瞬きを繰り返して驚きを消化し、そしてぼぉっと赤くなった。
「サ、サイラスさんっ、あの……」
突然の口づけにあわあわするホイミンを、サイラスは有無を言わせず抱き締めた。
「お前のその一途さ、純粋さが……苦しい」
その声は、本物の苦悩で震えていた。ホイミンはどうしたらよいか迷いながらもおずおずと腕を回し、サイラスの背中をあやすように撫でたのだった。
第21話
「……驚かせてしまったな。すまない」
ホイミンを抱き締めたまま、サイラスは落ち着いた声で謝罪した。ホイミンは「大丈夫ですぅ」と答えると、顔を上げてサイラスの目をじっと見据え、
「あの、さっきはなんで僕にキ……キッスをしたのですか？」
ホイミンの問いの真剣さに、サイラスの口許はつい綻んでしまう。しかし答えをごまかすつもりはなかった。ホイミンを真直ぐ見返し、
「ホイミンを愛しいと思ったからだ。だからキスしたいと思った」
サイラスの答えに、ぽぉっと顔を赤らめるホイミン。その素直な反応が可愛くて、サイラスは考えるより早く再び唇を奪おうとした。顎に指を添えて顔を近づけたが、唇が触れ合う寸前でホイミンが「ひゃっ」と悲鳴を上げて横を向いた。
「もしかしてホイミン、キスは初めてなのか？」
サイラスの問いに、ホイミンはぷくっと頬を膨らませて反論した。
「初めてじゃありませんっ。ライアン様と―――」
「ライアン？ ライアンと経験済みなのかっ？」
「は、はい。たまーにですけど、ちゅってしてくれますぅ」
まさに嬉し恥ずかしといった感じでもじもじしつつ、ホイミンはライアンとのキスについて告白した。それを苦々しい顔付きで聞いていたサイラスは、ひと言「そうか…」と呟くと、ホイミンの身体をその場に押し倒して上から覆いかぶさった。
ホイミンはきょとんと目を見開いたまま、サイラスの顔をぽーっと見上げるばかり。対してサイラスは、ホイミンの身体をくるんでいた毛布をそっと剥いだ。そして露わになった滑らかな胸に顔を寄せ、
「ライアンはこういうことはしてくれたか？」
夜の静寂に秘めやかな波紋を投じるように、低い声で問い質す。そして目の前でかすかな隆起を見せる桜色の頂に、ぬるりと舌を這わせた。
「ひゃぅ…ン」
ホイミンは自分の口から出てきた甘い声に驚いた様子で、ぱたぱたと瞬きを繰り返した。が、すぐに慌てて身体を起こそうとする。
しかしサイラスに押さえられているせいで身動きがとれない。そうしている間に、サイラスは突起を唇で挟み込み、ころころと捏ねて弄び始めた。
「ゃっ……サイラスさ…ん……それ、やめてくださぁい………」
言葉とは裏腹に、初めはぷっくり柔らかかった肉の実は、唇のあわいで固くしこり始めていた。その素直な変化は、サイラスの内に潜む嗜虐の欲望を掘り起こすのに十分だった。
散々舐められて痛ましいほど敏感になった乳首にやんわり歯を立て、さらなる刺激を与えつつ、放置されたままのもうひとつの実に手を伸ばして指で揉むようにして潰した。
「やだぁ……いたいよぅ……ぇ、ぇぇっ………」
ホイミンはついに泣き出したが、『痛い』という言葉だけで自分の感情を表現できないことには、うっすらと気付いていた。痛みの彼方で妖しく瞬く熱い疼きのようなものの存在を、徐々にだが感じ始めていたのだ。
それに恐怖を覚えつつも、呑み込まれてみたいとも思う。そんな相反する感情のベクトルに囚われたホイミンは、泣きじゃくることしかできなかった。
ホイミンの恐慌を察したサイラスは取り敢えず愛撫を中断したが、神秘の雪原を想わせる胸に灯った紅い双実、充血した双つの乳首が呼吸に合わせてふるんふるんと揺れるさまに、ほとんど暴力的な情慾の滾りを覚えた。
しかしそれを何とか抑え、冷ややかな夜気を吸い込んで胸奥を冷ましてから口を開いた。
「さっきの質問の答え、まだ聞いてなかったな。今俺がしたようなことを、ライアンにされたことはあるのか？」
ホイミンはくすんくすんと鼻をすすり上げてから、何度も首を振った。サイラスは抑えきれぬ喜色を口許に滲ませて、
「そうか、ならばこれはどうだ？」
そう言って淡い影を落とす鎖骨の窪みを舐め、華奢な肩を甘咬みし、血管が透けてオパールのように暈然と輝く首筋に吸い付いた。
「あっ、やっ…あぁん……くすぐったいですぅ………」
鼓膜がとろけるような愛らしい抗議に耳を傾けつつ、サイラスは執拗に素肌を吸って首や胸に紅い小花を、所有の印を刻んでいった。
もちろんホイミンは、自分の身体に付けられたものが何を意味するのか分からない。ただくすぐったくて、たまにちりっとした痛みが走るのが嫌で、逃れようと腰をくねらせた。
すると、その動きで毛布がずれ落ちて、股間を飾る薄桃色の性器が露わになった。それを目にしたサイラスは、半ば本能的に手を伸ばし、まだふんわり柔らかな性器の根元をくにゅくにゅ扱き始めた。
一体何をされているのか分からず、ホイミンは四肢を硬直させて天井を見つめた。が、すぐに先刻痛みの彼方に感じたあの疼き、七色の妖しいアウラを湛えた熱渦に襲われ、喉を引きつらせて悲鳴を上げた。
「いっ……やぁぁぁ……こわい、こわいよぅぅ………」
しかしサイラスは構わず、それどころか―――
「怖いのは最初だけだ。すぐに気持ちよくなる。さあ、ホイミン……」
やんわり勃ち始めた幼茎を、つるりと口に含んで吸い上げた。
第22話
サイラスの口の中で、“それ”はとくとくと一途な鼓動を繰り返しつつ徐々に形を変えていった。いったん口を離して指先で優しくしごくと、くちゅっと秘めやかな蜜音とともに、包皮に覆われていた珊瑚色の先端が頭を出した。
所有者にふさわしいその愛らしい造形を観賞しつつ、サイラスはつるりと滑らかな部分に舌を這わせる。そのたびに手の中ですすり泣くようにぷるぷると震えるのが可愛くて健気で、サイラスは愛撫に没頭した。しかし、
「……さまぁ……ライアンさまぁぁ………」
涙に溺れて今にも消え入りそうな声が、ひたすらライアンの名を呼んでいる。
「ライアンさまぁ…ぇっ、ぇぇっ……ライアン、さまっ………」
ほかにすがるものがないと言わんばかりに、ライアンの名を繰り返すホイミン。今、自分の身に何が起きようとしているのか分からない、極度の不安と未知の恐怖の中で、ただライアンの名前と面影だけがホイミンの支えだったのだ。それが、サイラスには痛いほどよく分かった。
「悪かった、ホイミン……」
サイラスは謝罪の言葉とともにのそりと身体を起こし、軽く頭を振って延髄の辺りに溜まった情慾の粗熱を払った。そして毛布でホイミンの身体をくるんでやる。
「んぇっ……ふ、ぇ、ぇっ………」
ホイミンはころんと横になり、毛布に顔を押し付けて泣いた。ぐずぐずと鼻を鳴らし、肩を大きく揺らしてしゃくり上げる。
サイラスは宥めてあげようと何度か手を伸ばしたが、ホイミンに触れる前に引っ込めた。宥めるどころか余計に怯えさせてしまうと思ったからだ。だからただ黙って、ホイミンが落ち着くのを待った。
「サイラスさん……」
ようやく恐慌が鎮まったのか、ホイミンは毛布の中からおそるおそる顔を覗かせた。サイラスは「やれやれ」と肩を竦め、
「涙でどろどろだぞ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
柔らかい布で顔を拭き、最後に鼻に宛てがって、
「チンしろ。ほら、」
ホイミンは言われた通り洟をかんで、くすんとすすり上げた。それを見たサイラスはふわりと笑い、
「よしよし、いい子だ。身体も温まっただろうから、そろそろ帰った方がいい。家まで送っていってやるよ」
ホイミンの頭をぽんぽんと撫でると、手持ちの外套の中で一番暖かいものを選び着せてやった。そしてホイミンの身体を抱き上げ、小屋を出ようとした。が、いったん立ち止まり、ためらいを引きずりつつも口を開いた。
「さっきは……すまなかった。けれど、ひとつだけ信じてくれ。俺はお前を怖がらせようとか、泣かせようと思ってあんなことをしたわけではない」
言葉に込められたサイラスの誠実さは十分伝わった。だからこそホイミンは、訊ねずにはいられなかった。
「ではどうしてあんな……怖いことをしたのですか？」
サイラスは暫し考えた挙げ句、少し淋しそうに笑い、
「いずれ分かるさ。いずれ、な」
遠くに我が家が見えた時点で、ライアンは半ば諦めていた。家に明かりがともっている気配はなく、闇色の水底に沈んでいるような静寂に包まれていた。
それでもわずかな希望にすがり、真っ直ぐ家を目指す。先に帰宅したホイミンが、疲れて眠っている可能性だってないとはいえない。しかし、
「ホイミン、帰ったぞ！ ホイミン！！」
玄関の扉を開けて中に飛び込むと同時に、声を張り上げる。さらにホイミンの寝室や風呂場まで確認したが、やはり影すらなかった。
覚悟はしていたもののライアンの落胆は大きく、がくりと肩を落とす。しかし落ち込んでいるヒマはない。まだ森の中で一人、必死に恐怖と闘っているホイミンのことを思えば、ここでぐずぐずしているわけにはいかない。
「ライアン様？！ 一体どちらへ―――」
帰宅して息つく隙もなく外套を羽織って家を出ようとするライアンに、ルチアは慌てて呼びかけた。ライアンは強張った声で「もう一度森へ捜しに行ってくる」とだけ言い置くと、ルチアに背中を向けようとした。その時、
「ライアン様、待って！ お願い、行かないで……」
切実な訴えとともにルチアが抱き着き、潤んだ瞳でじっと見上げてきた。ライアンは眉根を寄せ、不審を露わにする。しかしルチアは臆することなく視線を重ね、
「いつか二人きりになれたら、お伝えしようと心に決めておりました。ライアン様、お慕いしております。私の全て、身も心も捧げてしまいたいほどに……」
濃厚で、且つ淫靡な含みのある愛の告白が、禁欲的な冷たさを湛えていた闇に溶け出す。夜はゆっくりと、その色彩を変えようとしていた。
「ライアン様……私の気持ち、受け止めてくださいませんか……？」
ルチアの甘い体臭と生温かい吐息が、ライアンの感覚を圧倒する。それを敏感に察知したのか、ルチアは濡れたように輝く官能的な唇を、ライアンの端整な唇にゆっくりと近づけていった―――
※後編に続く
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