傍にいさせて
※諸注意※
このお話は、ブログで連載していたドラゴンクエストIVの二次創作です。
ゲーム未経験の方でも、普通のファンタジーとして読めるかと思います。
ライアン×ホイミンで、傾向はあまあま、ちょっと切なく。当サイトの王道です（笑）
ゲーム経験者の方はお分かりかと思いますが、ゲーム中のライアンはピンクの鎧（！）を身にまとった、カイゼル髭のごついおじさん騎士です。が、↓のライアンはしなやかな身のこなしと黒髪黒瞳が印象的な、美貌の青年騎士です。申し訳ありませんが、脳内で変換しつつお読みくださいませ（汗）
ちなみに、ホイミンはそのまま。クラゲ形態のホイミスライムです。
また、お断りするまでもありませんが、当作品はゲーム制作者様および販売会社様とは一切関係ありません。ご了承くださいませ。
1.
薄暗く湿った迷路の奥で、僕はあの方に出遭った。銀色に閃く大剣を自在に操り、優雅な身のこなしで襲い掛かる魔物を次々と倒してゆく。迷路に充満する闇よりも黒い瞳は思わず惹き込まれそうなほど美しく、頬にかかる髪はさらさらと流れて霊妙な響きを奏でる。
でも、僕があの方に声を掛けたのは、そういった端整な外見に惹かれたからではない。これまで僕の前を通っていった騎士達はみな、濃厚な血臭を漂わせていた。つまり、必要以上の殺戮を行い、必要以上の血を浴びていたのだ。
けれどあの方は違った。その身体から漂うのは血の臭いではなく、騎士としての誇り。そして敵に対する慈悲。他の騎士達は自分が倒した魔物を足で蹴り回し、唾を吐いて嘲笑った。でもあの方は、魔物の死骸にそっと一礼して立ち去ったのだ。
僕は確信した。お仕えするならこの方しかいないと。濡れて滑る迷路を必死で追い駆け、そして自分の想いをぶつけたのだ。一緒に旅をさせてください、あなたのお手伝いをさせてください、と。
あの方は最初は驚いた。そして僕のことをまじまじと見つめ、「ホイミスライムか？」と訊ねた。僕は正直に頷いて、もう一度懇願した。あなたのお供をさせてください、と。
「俺と一緒に来て、どうするのだ？」
「あなたのために働きたいのです。そしていつか……人間になりたい」
「人間に？」
「はい。人に協力し人のために働いた魔物は、人間になれるという言い伝えがあるのです。僕は、人間が大好き。この地下迷路でずっと独りぼっちだった僕と、イムルの村の子供たちは友達になってくれたの。もう淋しくないよ、って。なのに………」
数日前からだろうか、子供たちがぱったりと来なくなってしまったのだ。噂によれば、村で子供の誘拐事件が多発しているという。迷路を訪れた騎士達も、その調査を行うのが目的だったようだ。
「聞けば、子供たちは魔物に誘拐されたとか。僕っ、あの子たちのために何かしたいんです。そしていずれは……人間と魔物の架け橋となって、平和に共存できる世界を作りたい！」
それが難しいことだとは分かっている。でも最初から諦めていたら何も変わらない。
「お願いします。今は簡単な回復系の呪文しか使えないけれど、もっと経験を積めばきっとお役に立てると思います。僕を連れて行ってください！」
するとあの方はふわりと目を細めて、僕の前に膝をついた。そして、
「人間と魔物が平和共存できる世界、か……。言うほど容易いことではないぞ」
「はい、分かっております」
「……そうか。もしかしたら俺も、そういった目的を探していたのかもしれない。目的がなければ、騎士などただの殺戮兵器に過ぎん」
そう言うと僕の方へすっと両手を伸ばし、
「共に行こう。呪文の全く使えぬ俺には、お前の力が必要だ。頼りにしているぞ」
僕は嬉しくて嬉しくて、ぴょんと跳ねて差し伸べられた手の上に乗った。するとあの方は僕を肩の上に乗せて、大きな手のひらで頭をふにふにと撫でてくれた。人間の体温を、ここまでじっくり感じることができたのは、初めてかもしれない。僕は感謝と喜びを込めて、騎士様の腕に触手をきゅ、と絡めた。
「まだ名前を聞いていなかったな」
「はい。僕はホイミスライムのホイミンです」
「ホイミンか。俺はライアン。バトランド王国の王宮騎士だ」
僕は喉の奥でその名を幾度も繰り返した。ライアン様、ライアン様………
「さあ、行くぞ。迷路の奥に、何か手がかりがあるはずだ。子供たちを助けるためのな」
「はいっ」
そして僕らは薄暗い迷路の奥へ揚々と進んでいった。
―――これが、ライアンとホイミンの出会いだった。
2.
「うわああああ………すごぉい、眩しいですぅ………」
ライアンの襟元からちょこんと頭だけ出したホイミンは、眩い日の光にぱちぱちと目を瞬かせた。ライアンは目線を落としてその頭を指先で撫で、
「外の世界は初めてなのか？」
「いえ、外に出たことはあります。でもこんな明るい日のあるうちに出たのは……二度目です」
さっきまで目をきらきらさせて周囲を見回していたのに、急に萎れてしまったホイミン。ライアンは心配そうに「どうした？」と訊ねる。
「あ、はい……あの、初めて外に出た時、人間に見つかって……それで………」
「苛められたんだな？」
「はい。魔物だ魔物だってすごく恐い顔して追い駆けられて、石とかたくさん投げられて……。だからそれ以来、外に出るのは暗くなってからにしているんです」
「………すまない、ホイミン」
ライアンに突然謝られて、ホイミンは飛び上がって驚いた。そして頭をぐいんと上へ向けてライアンを見上げ、
「ど、どうしてライアン様が謝るのですか？」
ライアンは切なげに眉をたわめて、
「人間の犯した過ちだからな。俺にも無関係とは言えん。それに俺も、これまで散々、無抵抗の魔物たちをこの手で………」
「ライアン様………」
ライアンの顔を覆う苦悩の翳を払いたくて、ホイミンは必死に触手を伸ばした。その想いを覚ったライアンは、差し伸べられた触手を指先に巻き付けてふわりと笑った。
「過去のことを悔やんでも仕方ないな。さあホイミン、今夜はイムルの村で宿をとり、明日の日の出と共に西の塔へ向かうぞ」
情報収集の結果、誘拐された子供たちは西の塔へ連れて行かれた可能性が浮上してきたのだ。しかし塔には長らく人が住んでおらず、魔物の巣となって久しい。夜は危険だと判断したライアンは、明日向かうことにしたのだ。
「ホイミン、済まんな。村に入るから、暫く顔を隠していてくれ」
「はぁい」
ホイミンはもぞもぞと身体をくねらせて、ライアンの懐の中に潜り込んだ。それを確認すると、ライアンはマント状の外套で身体を覆って村へ入っていった。
3.
イムルの宿屋で案内された部屋は広く豪華だった。もちろんライアンがこのような部屋を所望したのではない。彼が王宮騎士で子供たちの誘拐事件を捜査していると知った宿の主人が、特別な計らいで用意したのだ。誘拐事件の解決を村人たちがどれほど強く望んでいるか、改めて思い知った。
「余り広いと逆に落ち着かんな」
ライアンはそう言いながら外套を解き、襟元を大きく開けてやった。するともぞもぞ動いてホイミンの頭がひょっこり現れた。その頭をぽんぽんと撫で、
「苦しくなかったか？」
「はぁい。大丈夫です」
ライアンは笑顔で頷いて、ホイミンの身体をベッドの上にそっと置いた。ホイミンは見るもの全てが珍しい様子で、身体ごとくるんくるん回して辺りを熱心に観察している。その無邪気な仕草に、誘拐事件で張り詰めていたライアンの神経もゆるりとほぐされた。
「さて。明日は日の出と共に西の塔へ向かうぞ。ゆっくり風呂に浸かって、今夜は早めに休もう」
部屋には石造りの大きな風呂が備わっていた。浴槽には湯が張られ、白い湯気がゆらゆら立ちのぼっている。ライアンは服を脱ぐと、傍できょろきょろしているホイミンに手を差し伸べた。
「ホイミン、お前も入りなさい。疲れが取れるぞ」
しかしホイミンはぶんぶんと頭を振って、
「だ、だいじょうぶですぅ。ライアン様お一人でどうぞ」
「なんだ、遠慮は要らん。浴槽も広いし、二人で一緒に入れる」
そう言ってホイミンを抱き上げ、浴室へ入っていった。そして浴槽に身体を沈める。しかしホイミンはまだ、ライアンの手の中でじたばたしていた。
「ぼ、ぼくっ、部屋に戻ります！ ひえぇ〜」
その様子にライアンはそっと眉をひそめたが、「あ、」と声を上げ、
「まさかお前、水が苦手なのか？」
涙目で頷くホイミン。ライアンは心の中で、“やっぱりクラゲじゃないのか…”と呟く。そしてホイミンを胸に抱きとめ、
「足の先からそおっと湯に付いてみろ。俺がちゃんと支えているから沈むことはない」
こう言われては拒めない。ホイミンは覚悟を決めて、そろそろと触手を湯につけた。が、ビクッと震えて慌てて上げる。またつける、また上げる。それを数回繰り返すと、ようやく湯に慣れてきた。もう大丈夫だろうと判断したライアンは、ホイミンの身体を湯に浮かべてそっと手を離した。
「どうだ？ 恐くないだろう」
「は、はい〜。こわくありません」
ホイミンは触手を巧みに動かして、浴槽をふわふわと移動した。
「ふわぁぁぁ〜、きもちいいですぅ」
湯から頭だけをぽっかりと出して、ぷかぷか浮いているホイミンを眺めながら、ライアンは必死に笑いを噛み殺していた。
―――まんまクラゲだな、これは
するとホイミンはくるっとこちらを向いて、
「ライアン様、何が可笑しいのですか？」
「えっ？ いや、何でもない。何でもないぞ。クラゲにそっくりなんて断じて思っていないからなっ」
「当たり前ですっ。僕はクラゲではありません！ 誇り高きホイミスライムですっ」
「わ、分かっている」
ホイミンは暫しライアンを睨んでいたが、再び浴槽の中をぷかぷか泳ぎ始めた。ライアンは目を細めてそれを眺めていたが、突然ホイミンがぷくっと仰向けになった。慌てて近寄ると、普段は淡いピンク色の身体を真っ赤にしたホイミンが、「ほぇ〜」と情けない声を上げた。
「ど、どうした、ホイミン！」
「ほぇ〜〜、熱くてぼおっとしますぅ〜〜」
どうやらのぼせたらしい。ライアンはすぐに抱き上げると、ぬるま湯をかけて身体を冷まし、浴室から出てベッドに寝かせてやった。
「少し休んでいなさい。俺も身体を洗ってすぐに戻るから」
「はぁい」
ライアンは言葉通り急いで身体を流し、部屋へ戻った。そして夜着に着替えてベッドに潜り込む。
「ライアン様、僕もここに寝ていいのですか？」
「うん？ もちろんだ。ほら、こっちへ来なさい。夜は冷える」
ホイミンの身体を腕の中に収めて、毛布をかける。そして頭をうにうにと撫でて、「明日も頼んだぞ」と囁いた。ホイミンは触手をぺた、とライアンの胸に押し付けて、
「はいっ、がんばりますぅ〜」
やや眠気が勝った声で応じた。そして「おやすみなさぁい」と呟いて目を閉じたのだった。
「……おやすみ、ホイミン」
誰かにお休みの挨拶をするなんて何年ぶりだろう。そんな感慨をくゆらせながら、ライアンも目を閉じたのだった。
4.
「おいっ、しっかりしろ！」
魔物の棲む西の塔を地下へ進んでいたライアン達は、倒れている騎士を見つけた。慌てて駆け寄って抱き上げたが、辛うじて命が繋がっている瀕死の状態であることは、容易に見てとれた。
「ホイミン、呪文を頼む」
「は、はいっ」
しかし騎士はうっすら目を開け、首を振った。
「私のことはいい………早く先へ進め………」
「何を言っている！ 諦めるな」
「自分の……命の残量は分かる……。無駄に魔力を使うな。先へ行けっ……そして……子供たちを…………頼む」
騎士はライアンに全てを託すと、その場で事切れた。
「くっ………」
ライアンは素早く立ち上がると、騎士に背を向けて歩き出す。ホイミンも慌ててその後を追ったが、慰めの言葉など掛けられるはずがなかった。あの騎士を殺したのは、自分と同じ魔物なのだ。改めて、ライアンと自分の間に横たわる深淵を思い知らされる。
「ライアン様……ぼく………」
本当に、このまま一緒にいてもいいのだろうか。これから先、幾度となくこういった状況に遭遇するはずだ。そしてそのたびに、自分が人間の敵であることを思い知る。いずれはライアンも、魔物と行動を共にすることに不快や疑問を覚えるようになるかもしれない。
そんな重苦しい考えに囚われていたホイミンだったが、前を歩いていたライアンがいきなり立ち止まったのを見て、ぱたぱたとその傍に駆け寄った。
「どうされたのですか？ ライアン様―――」
「しっ。あそにいるのは……」
太い柱の陰に隠れて奥の部屋を覗くと、祭壇のようなものが見えた。その周囲には下級の魔物と、誘拐された子供たちの姿が。子供たちは何か術をかけられているのか、騒ぐこともなく魔物の言いなりになっている。
「祭壇の上にいるのは……人間か？」
ライアンの問いに、ホイミンははっきりと首を振った。
「いいえ、違います。あれは暗黒の神官です。元は人間で、神に仕える聖なる神官でしたが、闇に魂を売って魔物となったと言われています。その魔力は無限大。メラやギラなど火焔系の攻撃魔法の使い手です」
説明しながら、ホイミンは不安に押し潰されそうになる。自分のホイミごときでは、あの神官に太刀打ちできない。そしてその不安は、ライアンも同じだった。下級魔物なら問題はないが、呪文に対する耐性の低いこの身体で、奴を倒すことができるのか。
その時、神官の背後にもうひとつ入口があるのを見つけた。ライアンは頷いて、
「よし。いったん外の通路を回り、奴の背後を取る。そうすれば……」
しかし、ライアンの策はホイミンの小さな悲鳴で掻き消された。
「あれはっ………ププル………」
「どうした？ ホイミン」
ホイミンは、祭壇の前に並ばされた子供たちの中の一人を指し、
「あそこにいるププルは、僕の一番の友だちなんですっ。初めて恐がらず僕の傍に来てくれて、ずっと迷路の中で淋しかっただろ、でももう独りじゃないよ、って………」
「ホイミン……」
その時、暗黒神官が怪しげな呪文を唱え始めた。そして列の一番端にいる子供の上に手を翳すと、その身体が紫色の炎に包まれた。
「ぃゃぁぁぁぁっ………」
我を忘れて柱の陰から飛び出そうとするホイミンの身体を乱暴に掴み、そのまま襟元に押し込んだ。
「俺がいいと言うまで決して外に出るな。分かったな」
ライアンは険しい声で命じると、剣を振り翳し魔物の群れに正面から飛び込んでいった。
5.
「ぃゃぁぁぁ……」
ホイミンはライアンの懐深くにもぐり込んだまま、ただぶるぶる震えるばかりだった。激しく剣の交わる音や魔物の咆哮、断末魔の悲鳴に混じって、ライアンの低い呻きも聞こえる。彼が無傷でないことは明らかだったが、ホイミンは外に出て共に立ち向かうことができなかった。
いいと言うまで決して外に出るなと命令されてはいたけれど、自分がここに留まったままであるのは命令のせいではなく、ただ恐怖が身体を竦ませているからだと、ホイミンは自覚していた。
初めての強大な敵。初めての激しい戦闘。あなたのお手伝いがしたんですと言って付いてきたにもかかわらず、重要な場面で自分一人だけが安全な場所にいる。僕は一体何をしているんだ、早く外に出てライアン様のサポートをしなければと思いながらも、それとは裏腹に身体は動かない。ホイミンは自分の臆病さ、卑劣さを呪いつつ、ただライアンの勝利を祈った。そして―――
「ギャアアアアアッ」
耳をつんざく悲鳴。それは暗黒神官の上げたものだった。闘いの決着がついたことを察したホイミンは慌てて顔を出した。すると目の前に、大量の血を流して倒れる神官の姿が。まだ辛うじて息はあるようだったが、死が訪れるのは時間の問題だった。ライアンが勝利したのだ。
ライアンは、激しい戦闘の直後とは思えぬほど淡々とした口調で、「何故子供たちを攫ったのだ」と問う。対して闇の神官は、血に濡れた唇を歪めて嘲笑った。
「は、は……もう無駄だ、もう遅い………」
「何がだ」
「もう……誰にも止められぬ……地獄の……帝王は………」
ライアンははっと息を呑んだ。以前、バトランド城の古い書庫で、“地獄の帝王”と呼ばれる存在に関する古文書が発見されたのだ。しかしそれが何を指すのか分からず、現在も解読が続けられているという。
「地獄の帝王だと？」
「そうだ……人間への憎悪と進化の秘法……この二つにより……偉大な王が……」
神官は喉の奥でカカッと嗤い、
「帝王を倒すことのできる……唯一の存在……勇者は……まだ目覚めていない……どこかで……普通の子供として…………」
「まさか……」
ライアンはようやく察した。地獄の帝王を倒すと言われている勇者が、まだ目覚めぬうちに殺す。魔物たちが子供を攫ったのは、勇者の可能性のある子を今のうちに始末するためだったのだ。
「バトランド城の……近く……勇者の………光…………」
神官はぐるぐると喉を鳴らし、息絶えた。
「くそっ……何てことだ………」
張り詰めていた神経が一気に緩み、ライアンはがくりと膝をついた。と同時に魔物にやられた傷から鮮血が溢れる。
「ライアン様っ……今ホイミをかけますっ」
ホイミンは外に飛び出ると、そっと触手をかざした。しかしライアンは首を振り、
「俺はいい。それより子供たちの傷を治してやれ」
「で、でもっ」
「お前の大事な友だちなんだろう？ 魔法の炎に灼かれた子もいる。早く治してやれっ」
ホイミンは目に涙を浮かべて頷き、子供たちの方へ駆け寄った。そして持てる魔力の全てを注いでホイミをかけた。子供たちが回復したのを確かめたライアンは満足げに頷くと、その場に倒れ込んで意識を失ったのだった。
6.
―――俺を……呼ぶ声が聞こえる………
ライアン様……ライアンさまぁ……
―――誰だ？ 泣いて……いるのか？
ライアンさまぁ、死んじゃやだぁぁ………
―――ああ、そうか……俺はもう……独りじゃないんだ……俺のために……泣いてくれる者がいる………
ライアンさまぁ、ごめんなさぁい……ぼく、ぼくのせいでっ………
―――大丈夫だ、もう泣かなくていい。俺は死なない。俺はやるべきことを見つけたんだ。だからホイミン……これからも……一緒に………
「ぅっ………」
ゆっくり目を開けると、そこには見慣れた灰色の天井が。と思ったら突然、視界を薄桃色の物体に覆われた。
「ライアンさまぁぁ、ぅ、ぅぇっ、ぇぇっ………」
「ホ、ホイミン……くるしい………」
ホイミンのぷにぷにした身体に顔じゅうを覆われて、ライアンは呼吸ができずじたばたした。ようやく気付いたホイミンは慌ててぴょんと飛び下り、触手を目一杯伸ばしてライアンの首にすがり付いた。
ライアンは手を伸ばしてその頭をふわふわと撫でる。一気に涙腺が緩んだホイミンは小さな目から大きな涙の粒を溢れさせ、辺りを憚らず号泣した。
「ホイミン、俺は大丈夫だ。心配かけて済まなかったな」
「ふぇっ、ぇぇっ………」
ライアンは指先で涙を受け止め、頬を撫でてやる。その手の温かさに、ホイミンも徐々に落ち着きを取り戻していった。
「ここは……王宮内の救護室だな。一体誰が運んでくれたんだ？」
ホイミンはぷるんと頷いて、
「塔を出て王宮まで助けを呼びに行ったんです。魔力は全て使い果たしてしまったから、僕の力ではどうすることもできなくてっ……」
申し訳なさそうに項垂れるホイミン。その顎に手を掛けて上を向かせ、
「お前が……人を呼びに行ったのか？ ホイミン、恐かっただろう？ 魔物だと言われて苛められなかったか？」
自分はこんな大怪我をしているにもかかわらず、ホイミンの身を案じるライアン。するとそれまで部屋の隅にいた兵士が立ち上がり、ライアン達に近付いてきた。
「ライアン、無事で何よりだ。それにしても、その魔物がいきなり王宮に現れた時はさすがに驚いたぞ」
「ああ、それは当然だ」
「初めは追い払おうとした。しかしその者、ホイミンと言うのか？ その者が余りに必死に訴えるものでな。それに、誘拐されたはずの子供たちも一緒に付いてきて、説明してくれたのだ。それで我らも魔物の言うことを信じたのだ」
「そうだったのか……」
兵士はくるりと背中を向けると、
「子供たちは全員無事保護された。お前の手柄だ。ともかく、暫く身体を休めろ。回復を待って王からの召喚があるはずだ。将校への昇格は間違いないだろうな」
そう言って軽く手を上げると、部屋を出ていった。ライアンはふぅと息をつき、ホイミンに向かって手を差し伸べた。が、ホイミンは小さくちぢこまったまま震えている。
「どうした？ ホイミン」
「ライアン様……ごめんなさい……」
ライアンはそっと眉根を寄せて、「何故お前が謝るのだ」と問う。ホイミンはおそるおそる顔を上げ、
「ライアン様が神官と闘っている間、僕は……ただ怯えて隠れているばかりでっ……」
止まったはずの涙が再び溢れ出す。しかしそれは先刻とは異なる苦い涙だった。
「僕は何も……なぁんにもできなかった……ごめ…なさい……」
するとライアンは黙って手を伸ばしてホイミンの身体を引き寄せ、
「いいかホイミン、ただ闇雲に闘うのが本当の勇気ではない。お前は自分のできることを必死に遂行した。そのお陰で俺も子供たちも助かった。何を謝る必要がある？」
「ライアン様……」
「俺もお前もまだまだ未熟者だ。だから己れのできることを懸命にやる。そうすることで少しずつ成長してゆけばいい。分かったな？」
ホイミンは何度も頷いて、ライアンの身体にぴったり寄り添った。そして温もりを反芻しながら、自分に誓った。いつか必ずご恩返しをしよう。ライアンの命が危険に晒された時には、自分の命をなげうって助けるのだ、と。
「ライアン様……ずっと……おそばに………」
ライアンの安らかな寝息に耳を傾けながら、ホイミンもそっと目を閉じた。
7.
神官との闘いで負った怪我も完治し、いよいよ国王からの召喚がかかった。ライアンは正装し、揚々と王城に上がり国王に拝謁した。
「ライアン、このたびのお前の働きには感服した。イムルの子供らも無事生還し、村に平和が戻った。私からも礼を言う」
ライアンは頭を深く下げたまま、「もったいないお言葉です」と返す。そして王の許しを得て、ゆっくりと顔を上げた。
若きバトランド国王は国を統率する手腕に長け、軍事と政治の両面において才覚を発揮し国に繁栄をもたらした。しかも美貌の青年ということもあり、国民から絶大なる人気を得ていたのだ。
そんな完全無欠の王だったが、たったひとつ難点があった。彼は非常な女好きなのだ。現に今も、王座の両脇に美女を侍らせている。とはいえ、そんな人間臭いオープンなところも国民からすれば親しみが持てるようで、非難されるどころか却って人気に拍車をかけることになっていた。
「今回の働きにより、お前を近衛騎士団の長に任命する。もちろん、それだけでは足りん。ライアンよ、何か望みはないか？ 何でも叶えてやろう」
「望み、でございますか？」
「左様。何でも言ってみるがいい。金か？ 領地か？」
静かに首を振るライアンに、王は「ふむ」と神妙な相槌を返し、
「そうか、女か。よしよし。では選りすぐりの美女を―――」
「いえ、陛下。俺は女は―――」
王はぱちぱちと瞬きして「おお」と声を上げ、
「女に興味がないということは、男か。うむ、ならば私が相手をしてやろう。どうだ？ 私もお前なら―――」
「陛下っ！」
「冗談だ。本気にするな」
赤い顔をして拳を震わせるライアンを、愉しげに眺める王。両脇の美女もくすくす笑っている。
―――まったくこのお方は〜〜〜
ライアンは心の中で毒づいたが、落ち着けと自分に言い聞かせて何とか平静を保った。そして再び顔を上げ、
「陛下にお願いがあります。国を出るのをお許しください」
「ん？ どういうことだ、それは」
ライアンは重々しく頷いて、暗黒神官から聞いた話を伝えた。地獄の帝王の復活、進化の秘法、そして世界に残された唯一の光、勇者の存在………
「神官は死ぬ直前、“バトランドの近く、勇者の光”と言い残しました。恐らくこの大陸のどこかに勇者はいる。俺は勇者を探し出し、共に闘いたい。地獄の帝王と呼ばれる存在から世界を守りたいのです」
バトランド王は眉間に険しい皺を刻み、ライアンの話に黙って耳を傾けていた。が、やがて口を開き、
「私も感じていた。以前にも増して魔の瘴気が濃くなってきたと。これまで見たこともないような、凶暴な魔物も増え始めている。その影響なのかもしれんな」
「仰る通りです。以前は、人間と魔物はここまで憎み合っていなかった。小さないざこざはあったでしょうが、各々の領域を守りながら平和に暮らしていたはずです」
バトランド王はふっと息を吐くと、ライアンを正面から見据えた。
「ライアンよ、お前の気持ちは分かった。しかしたった一人で国を出るのは危険ではないか？ 森の中には、どんな恐ろしい魔物が潜んでいるか分からん」
「お言葉ですが陛下、俺は一人ではありません」
ライアンはそう言うと、襟元を大きく広げて中に手を入れた。そして取り出したのは―――
「ん？ なんだその魔物は。捕虜か？」
「いえ。俺の相棒です」
ホイミンは触手をぴっと整列させると、王に向かって深く頭を下げた。そして、
「ホイミンと申しますっ。ライアン様をお守りいたしますっ」
ライアンはその頭をふわふわと撫でて、
「これと一緒ですから、ご心配には及びません。改めて陛下、お許し願えますか？」
バトランド王はクラゲ形態の生き物を不思議そうに眺めていたが、やがて口許を綻ばせ、
「相分かった。ライアンよ、行くがいい。そして世界の痛みを止めてくるのだ」
そしてホイミンに視線を移し、
「ホイミンよ。ライアンを頼んだぞ」
「はいっ。お任せください！」
ホイミンは薄桃色の身体に使命感を漲らせ、勢いよくライアンの肩に乗った。ライアンは立ち上がると、王に向かって深く一礼して御前を去っていったのだった。
「ああ……行ってしまったか……」
王座からライアンを見送ったバトランド王は、力ない声でぽつりと呟いた。それに応え、隣にいる美女はふふっと笑い、
「本当は行かせたくなかったのでございましょう？ 淋しくなりますわね」
「ああ。あれをからかうのが楽しみだったのに」
するともう一人の美女は神妙な声で、
「でも心配ですわね。たった一人で……」
しかし王は、その言葉には首を振り、
「いや、大丈夫だ。あれには相棒がいる。ずっと孤独だったあの男が、初めて受け入れた相棒が。きっと目的を成し遂げて、帰ってきてくれるはずだ。私は信じている」
「左様でございますね、陛下」
王は頷いて、そっと目を閉じた。
―――ライアン、必ず帰ってくるのだぞ。必ず……
「よし、準備は整ったな。これから頼んだぞ、ホイミン」
「はいっ。全身全霊をかけてお守りいたしますっ」
身体中を赤く染めて決意を告げるホイミンを、ライアンは目を細めて見つめた。そして襟元を大きく開ける。ホイミンは飛び上がってその中に入り、頭だけをにゅっと出した。
「行くぞ、ホイミン」
これからどんな冒険が、どんな出会いが二人を待ち受けているのだろうか―――
8.
「山に囲まれし光の里、か……」
ライアンはぽつりと呟いて、延々と続く深い森を見上げた。城を発って何日が過ぎただろう。暦と無関係の生活を続けているせいで、時間の感覚が麻痺してきた。だからと言って、別に困ることはない。バトランド王からは、無期限で城での務めを免除されている。お前が納得するまで城には帰ってこなくていいと言って送り出されたのだ。
勇者に関する情報を収集するうちに、あるひとつの場所が浮上してきた。それは名もなき山奥の村。人々はそこを“山に囲まれし光の里”と呼んでいた。旅人が道に迷って行き倒れたが、村人によって救われたという話を、旅の途中で複数耳にした。回復し村を出た後、改めてお礼を言うためにその村を訪れようとしたが、二度と辿り着くことはできなかったというのも、共通したエピソードだった。
そして救われた旅人たちは口を揃えてこう言ったという。村人たちはみな親切だったが、何か重大な秘密を守って生活しているように見えた、と。
目的の場所に確実に近付いていることは、直感が教えてくれた。しかしあとひとつ、決め手に欠けているのも事実だった。一刻も早くその村を訪れ、勇者に会わなければと気ばかりが焦ってしまう。しかしそんな焦りや不安を解消してくれるのは、他ならぬホイミンの存在だった。
「よし、この辺りで少し休むか」
「はぁい」
木蔭に腰を下ろしてうんと伸びをすると、ホイミンがぴょんと肩に乗って触手でマッサージしてくれた。本当はくすぐったいだけなのだが、ライアンは「ああ、いい気持ちだ」と言って首をぐるぐる回した。
「ホイミン、お前も疲れただろう。どこかマッサージしてやろうか？」
「ええっ？ そんな。ライアン様にそんなことさせるなんて……」
「遠慮はするな。ほら、どこか凝っているところはないか？」
ホイミンは顔を赤らめてもじもじした挙句、ためらいつつも触手で指差した。
「じゃあ……えと、この辺りを……」
「よしよし」
ライアンは示された場所を指で圧して、「この辺か？」と訊ねた。が、ホイミンはぷるぷると首を振って、
「ちょっと違いますぅ。もう少し右にコリがあるはずです〜」
「うむ。もう少し右……」
ライアンは言われた通り右に移動してコリを探した。が、
―――どこもぷにぷにしているではないかっ。よく分からんぞ
「あ、そこ、そこですぅ〜。ふわあああ、気持ちいい……」
「そ、そうか」
本人が気持ちいいと言っているのだから、これでいいのだろう。ライアンは真剣な顔付きでホイミンのコリをほぐしてやった。ホイミンは頭をぐりんぐりん回して、
「ありがとうございます。お陰でますます身体が柔らかくなりましたぁ」
「そうか。それは良かった」
ライアンが微笑みを向けると、ホイミンも笑顔を返してライアンの膝の上に飛び乗った。そして暫く胸にすりすりしていたが、やがて顔を上げてじっと見上げ、
「ライアン様、僕はこれまでずっと人間になりたいと思っていました。その願いが無くなったわけではありませんが、でもこのままでもいいと思えるようになりました」
ホイミンの意外な言葉に、ライアンは大きく目を見開いて驚きを露わにした。
「人間に……なれなくてもいいというのか？」
「はい。このままライアン様のお傍にいることができるのなら、魔物のままで構いません。僕は十分幸せです。それに姿形ばかり人間になったからといって、僕が魔物であることに変わりはないのですから」
「そうか……」
ホイミンの言葉は、ライアンに深い感慨をもたらした。魔物だから不幸だ、人間より劣っていると思い込むのは、人間の勝手な決め付けに過ぎない。
「そうだな。俺にとっても、お前が人間だろうが魔物だろうが関係ない。ホイミンはホイミンだ。俺の相棒だ」
ライアンの言葉に、ホイミンは嬉しそうに頷いて触手をゆらゆらさせた。が、再び顔を上げて神妙な口調で、
「ね、ライアン様。地獄の帝王って何者なのでしょうか」
突然の問いにライアンはそっと眉根を寄せた。
「何者、というと？」
「はい。僕ら魔物は確かに人間とは相容れない存在ですが、人間を滅ぼしたいほど憎んでいるわけではありません」
「うむ」
「なのに地獄の帝王は、進化の秘法を使ってまで人間を殺そうとしている。僕は以前、聞いたことがあります。進化の秘法は使用者の身体だけでなく、魂も喰い尽くす禁忌の法であると」
「魂を喰い尽くす……だと？」
ホイミンは頷いて、苦しそうに顔を歪めて続けた。
「はい。進化の過程においては身体中を灼かれるような激痛に襲われ、魂は壊死してゆきます。そしてただ本能のままに血を求め、殺戮を繰り返すおぞましい生物兵器と化す。そんな化物になってまで人間を滅ぼしたいだなんて、何が彼を駆り立てているのか。何故そこまで人間を憎むのか……」
ホイミンの言う通りだった。ライアンはこれまで地獄の帝王を倒すことしか考えていなかった。しかし言われてみれば疑問は残る。ただこの世界を支配する力が欲しかっただけなのだろうか。それとももっと別の何かが……
その時、ライアンの耳が異質な振動を捉えた。がばと立ち上がって辺りを見回すと―――
「ライアン様っ、あそこ！」
遠くに火の手が上がり、黒煙がたちのぼるのが見えた。まさか―――
「行くぞ、ホイミン！」
空を赤く染める炎に不吉な予感を覚えながら、二人は炎に向かって走ったのだった。
9.
「ま…さか……ここに村があったのかっ？」
入り組んだ地形のため迂回を余儀なくされ、目指す場所に何とか到着したのは、火の手が上がるのを確認してから暫く経ってからだった。
「ひど…い……こんなっ………」
ホイミンはたまらず触手で顔を覆う。人々が平和に暮らしていた時の面影はもはやなく、廃墟と呼ぶに相応しい荒廃ぶりを晒していた。火はすでに収まっていたものの、あちこちから黒煙が立ちのぼり、独特の刺激臭が鼻をつく。
「くそっ」
ライアンは剣を携えると、ためらうことなく中へ駆け込もうとした。
「ライアン様っ、危険です！」
「構わん」
「いけません！ まだ魔物が潜んでいるかも―――」
必死に引き止めようとするホイミンの触手を乱暴に払い、
「村人を助けるのが先だろう！ 邪魔をするなっ」
ホイミンに対し初めて声を荒らげたライアンだったが、目の前で小さくちぢこまって震えるホイミンの姿を見て、ようやく我に返った。
「す、すまなかった、ホイミン。お前に苛立ちをぶつけてしまった」
まだ震えているホイミンに手を差し伸べ、
「警戒は怠らないようにする。さあ行くぞ」
ホイミンは小さく頷いて、ライアンの手に身を委ねた。言葉通り周囲に神経を張り巡らせながら、村の中を探索する。まずは一番手前の家に入ると、奥の部屋で二人倒れていた。
年配の夫婦だろうか、すでに息がないのは一目見ただけで分かった。どんな魔法の餌食になったのか、その皮膚は紫色に変色していた。そっと指先で触れると、さらさら音をたてて崩れ、ただの黒い灰と化してしまった。
「………っ、」
ライアンは歯をくいしばって耐える。そしてすぐさま立ち上がり、他の家に次々と飛び込んでいった。しかし状況はどこも同じ。生命の気配など微塵も感じられない。ある家では、若い夫婦が折り重なるようにして倒れていた。幼い子供を守ろうとしたのだろう、子供を庇うように母親がかぶさり、その上に父親がかぶさって倒れている。もちろん三人ともすでに息はなかった。
「村ごと……虐殺したのかッ」
ライアンは呻きとも叫びともつかぬ声を発して外に飛び出し、村の一番奥にある家へ駆け込んだ。まだ勇者らしき者は見つかっていない。最後の望みにすがって捜索を続けた。
「ライアン様！ あそこにっ……」
ホイミンが指した方には裏口があり、その向こうに人が倒れているのが見えた。ライアンはすぐさま駆け付け、その傍に跪く。倒れているのは16、7歳と思しき少年だった。四肢や胸から大量の血を流している。まさか彼が勇者なのか。すでに遅かったのか……
「ぅっ……」
諦めかけた時、少年が苦しげに呻いた。
「まだ息があるぞ！ おい、しっかりしろっ」
ライアンが手を伸ばそうとしたその時、少年の身体が白い霧のようなものに包まれた。そして霧が晴れた後に現れたのは、可憐な少女の姿だった。
「こ…れは一体……」
「恐らくモシャスの呪文です」
「モシャス、だと？」
ホイミンの指摘に眉根を寄せるライアン。ホイミンは早口で説明を継ぐ。
「はい。目の前にいる者の姿形のみならず、その能力までも写し取る呪文です。非常に高度な呪文で、魔力の消費も大きい。人間で使える者がいるなんて……」
果たしてこの少女は何者なのか。人間なのか魔物なのか。ライアンが迷っていると、少女はゆるゆると目を開けてライアンの姿を捉えた。
「あ……なた……は………」
「俺はライアンという。バトランド王国の王宮騎士だが、今は地獄の帝王を倒すため勇者を探している。一体、何があったのだ」
すると少女はふわりと微笑み、
「ライアン……さま……どうかあの方を、ソロ様を……お守り……くださ、い………」
「ソロ……それが勇者の名だな？」
「はい……奴らはとうとう……ここを嗅ぎ付けた。でも……ソロ様は生きております……よかった……お守りすることが……できて………」
ライアンは大きく目を見開いた。
「まさかお前……自分が身代わりになってっ………」
「はい。この日のために私は修行を積み……モシャスを修得したのです……ああ、これでもう、思い残すことは……」
少女は透明な涙を流し、満ち足りた笑顔を浮かべた。ライアンは「まだ諦めるな！」と叫び、ホイミンに目配せした。ホイミンは泣きながら頷いて、少女にホイミをかけようと触手を翳した。が―――
「やめて。私は人間です。魔物の力など借りたくはない」
死に瀕しているとは思えぬほど強い口調で拒絶すると、険しい眼差しをホイミンに据えたまま鮮血を吐いた。そしてがくりと項垂れて、二度と動くことはなかった。
「くそっ……魔物め！」
ライアンの叩き付けるような叫びに、ホイミンはびくんと身体を震わせた。それが自分に向けられた罵倒でないことは分かっている。しかしホイミンは、言葉に込められた魔物への怒り、憎しみを全身で受け止めずにはいられなかった。
10.
廃墟となった村を出た二人は、森の中で夜を迎えた。村を出て以来ライアンはずっと無言のままで、「今夜はここで野宿だ」と言って火をおこすと、再び口を閉ざしてしまった。
いつもならライアンの傍に寄り添って、その体温を感じながら眠りにつくホイミンだったが、今夜のライアンはそういった触れ合いを拒む張り詰めた空気の鎧をまとっていた。ホイミンは仕方なく、焚き火を挟んでライアンの正面に回り、時折ちらちらと視線を送っては濃厚な溜め息をついた。
ライアンは口だけでなく目も閉じていた。しかし眠っているわけではないのは、炎が消えないよう定期的に木をくべていることから分かる。彼はただ、ひたすら、自分の内面世界に沈み込んでいるのだ。そしてそこに、ホイミンの存在が入り込む余地はなかった。
―――ライアン様……これからもお傍にいていいのですか……？
ホイミンの切実な問いかけは、実際に口から出ることなく喉の奥で消えた。答えを聞くのが恐い、やはり魔物とは一緒に居れぬ、そう言って背中を向けられたら、自分はどうやって生きてゆけばいいのだろうか。もはやホイミンにとってライアンは、かけがえのない存在になっていたのだ。でも……
―――ライアン様は、僕のことをどう思っているのだろう……
ホイミンは顔を上げ、炎の向こうにいるライアンを見つめた。炎が揺れるたびに、ライアンの顔にかかった翳が妖しく蠢く。するとそれを見ていたホイミンの胸がとくんと鳴った。いつもと違う鼓動の響き。それが何に由来するのか分からぬホイミンは首を傾げたが、身体がふわふわと逆上せてゆくのははっきり自覚した。
「ちょっと……近くを歩いてきます……」
ホイミンはそう言って、森の中へ入っていった。逆上せた身体を冷ますため。そしてこれからのことを考えるため。
―――やっぱり……無理なのかもしれない。人間と魔物が一緒にいるのは……でも……
沈んだ独白は、前方から近付く粗野な足音に掻き消された。はっと顔を上げて確かめると、青白い炎をまとった死の騎士が二人、こちらに向かってくる。戦闘で死んだ騎士の魂が、現世への執着により蘇って屍体に乗り移り、魔物と化したものだ。近親憎悪なのか、騎士に対する怨みの感情が非常に強いという。
「お、人間かと思ったらホイミスライムじゃないか」
「へえ、こんなところで。珍しいな」
二人はホイミンを取り囲み、じろじろ眺め回す。ホイミンは怯えや不安を覚られぬよう笑顔を拵え、「こんばんは」と挨拶した。
「この先に人間の、それもかなり優れた騎士の匂いを感じて来てみたんだが、お前知らないか？」
ホイミンはちょんと首を傾げて、
「騎士、ですか？ いいえ、知りません」
「本当か？」
「もちろんです。それに、そんな強い騎士と遭遇して、僕ごときが無事でいられるはずがありません」
死の騎士は「それもそうだな」と納得し、「無駄足だったな」とぶつぶつ言いながら帰っていった。その青白い背中を見送ったホイミンはほっと安堵の息を吐くと、早足でライアンの許に戻った。
「ライアン様……」
ライアンは先刻と同じ姿勢で、目を閉じて黙想している。ホイミンは焚き火の横を通ってライアンの傍に近付き、その脚にそっと触手を乗せた。ライアンはふと目を開け、黒く澄んだ瞳に炎の翳を映してホイミンを見下ろした。
「どうした？ ホイミン」
「あの……僕……これからもお傍にいて―――」
意を決してライアンの本心を質そうとしたその時、背後から魔物が現れた。それは先刻出遭った死の騎士たちだった。
「ど、どうしてここにっ」
ホイミンの恐慌を愉しげに眺めて、
「はは、やっぱりな」
「魔物のくせに、やたら人間の匂いが強いと思ったんだ。後をつけてきて正解だったぜ」
彼らの身体を包む炎の色が、青から黒へ変化する。皮膚を灼かんばかりの殺気に、ホイミンは震え上がった。
「ホイミン、下がっていろ」
ライアンは立ち上がると、剣を抜いてゆっくりと構えた。
11.
「こ……いつ………強…え………」
「ちく…しょ……人間……ごときにっ………」
死の騎士は無念をにじませつつ吐き捨てると、そのまま動かなくなった。身体を覆っていた黒い炎は青く変じ、やがて徐々に弱まって完全に消えた。
「ライアン様ぁっ」
ホイミンは叫びながら駆け寄った。ライアンの圧倒的な勝利ではあったが、やはり無傷というわけにはいかなかった。その場に膝をついて、大きく肩を上下させる。
「ライアン様、今ホイミを……」
ライアンの左腕には血が滲んでいた。楯を装備する余裕がなかったため、身体を庇った際に負った傷だった。しかし、
「……ホイミン？ どうしたのだ」
ライアンの腕に触手を翳したまま、悲痛な顔付きで硬直するホイミン。一刻も早くライアンの傷を癒したいだろうに、呪文をかけようともしない。不審を覚えたライアンは、もう一度訊ねようと口を開いた。が、それに先んじてホイミンはくりんと上を向く。その目には涙がいっぱい溜まっていた。
「ライアン様……僕が、呪文をかけてもいいのですか？」
「ホイミン？ 何を言って―――」
「本当はお嫌なのではないですか？ 魔物の力を借りるなんて……」
廃墟と化した山奥の村で出会った誇り高き少女。ホイミンが傷を癒そうと触手を翳すと、毅然たる態度で拒絶した。
―――やめて。私は人間です。魔物の力など借りたくはない
「僕は魔物なんです………人間の敵、ライアン様の敵………そんな僕がっ………」
ホイミンの苦悩に満ちた訴えは、ライアンの抱擁によって遮られた。両手でぎゅっと抱き締め、ぷにぷにした頭に顔を押し付けて、
「すまなかった、ホイミン……」
「ラ、ライアン……さま？」
驚きと嬉しさと恥ずかしさが、ホイミンの小さな身体を駆け巡る。しかし一番勝っていたのは驚きだった。何故ライアンが謝るのか……
「俺は自分の感情を整理することばかりに没頭して、お前の苦しみを思い遣ろうともしなかった。お前は俺と同じように、いやそれ以上に苦しみ、悩んでいただろうに……」
「ライアン様……ぼくぅ………」
ライアンは抱擁の力を緩めてホイミンの顔を見つめた。そして目尻に溜まった涙をそっと拭ってやる。
「ホイミン、俺は今心から、お前と共に旅ができて良かったと思っている。お前がいてくれるから、俺は魔物に対する憎しみに心を食い荒らされずに済んでいるんだ」
「僕がいるから？」
ライアンは頷くと、ふと口を閉ざした。しかしためらいは僅かなものだった。ゆっくりと口を開き、
「俺の両親は、盗賊に殺されたんだ。俺がまだ幼い頃だ」
想像もしなかったライアンの過去に、ホイミンは返す言葉を失う。対してライアンは、まるでどこかの可哀想な子供の話をするかのように、淡々と続けた。
「バトランド王国の領内にある名もなき小さな村。そこで家族三人幸せに暮らしていた。父親は、城下町の商店に革の装備品を卸す仕事をしていた。その日は天気もよく、俺と母親は品物を運ぶ父に付いて、一緒に城下町まで行くことにした。しかしその途中、森の中で……盗賊に遭遇したのだ」
その続きは聞きたくない。しかし聞かねばならない。そうすることで、ライアンが抱える痛みを少しでも引き受けることができるのだとホイミンは信じた。
「売るはずだった品物を奴らは奪い、そして口封じのため何のためらいもなく俺たちに斬りつけた。親父は護身用の小さなナイフで応戦したがあっさり殺られ、母親は俺の上に覆いかぶさって守ろうとした。すると盗賊は鋼の剣を母の背中に何度も突き立てた。それでも母は決して俺の上からどこうとはしなかった」
廃墟となった山奥の村で見た凄惨な光景が蘇る。子供を守るため、最後までその身体で庇い続けた母親…。
「剣は母の身体を貫通していたから、その下にいる俺にも到達したと思ったのだろう、盗賊たちは俺の死を確かめることなく去っていった。俺は重傷を負ったものの何とか一命はとりとめ、王宮騎士に発見され助け出されたのだ」
「ライアンさま……ひとりぼっちに……んっ、く………」
手の中でぷるぷる震えるホイミンを優しく撫でて、
「俺を憐れに思った前国王が目を掛けて下さり、俺を王立の寄宿舎付き学校に入れてくれた。そしてそこで俺は、王宮騎士になるべく学業と武術の鍛錬に励んだ。俺の中にあるのは、憎しみだけだった。全てを奪った盗賊が、ただ憎かった。盗賊への復讐、そのためだけに俺は苦しい訓練に耐えたのだ。自分の心がどろどろと醜く爛れてゆくのを感じてはいたが、構うものかと半ば自棄になっていた。そんな時、すでに高齢で病床にあった前国王が俺を傍に呼んだのだ」
ここで初めてライアンは、感情らしきものを見せた。拳をぐっと握り、
「前王は俺の手を握り、言った。ライアンよ、憎しみで戦ってはならぬ。平和を愛する心で戦うのだ、と」
「ライアン様……」
「そうだ、ホイミン。もしお前が傍にいてくれなかったら、俺はきっと魔物に対する憎悪の感情に抗えず、前王の戒めも顧みず憎しみのまま剣を振るっていただろう。お前の存在が、俺を正しい道へ、光ある道へ導いてくれるのだ」
ホイミンは顔を上げてライアンを見つめた。もう震えてはいない。涙の向こうで、澄んだ小さな目がきらきら輝いている。
「だからホイミン、俯くな。己れを卑しむな。人間にもいい奴と悪い奴はいる。魔物だって同じだ。魔物である自分を堂々と肯定しなさい。分かったね」
涙をぽろぽろこぼしながら何度も頷くホイミンに、ライアンは明るい声で「さあ、回復呪文を頼む」と言った。ホイミンが触手を伸ばしてホイミをかけると、ライアンは心からの礼を述べた。
「ライアンさまぁ………ぇ、ぇぇっ………ふぇぇ………」
色んな感情が混ざり合って収拾がつかない。それに呼応するように涙も溢れてくる。ホイミンは次々と触手を変えて目を拭った。
「おお、便利だな。何度でも拭える」
ライアンは笑いながらそう言って、まだ目を拭っているホイミンを抱き上げた。そして懐を大きく開けて、
「さあ、夜が明けたら出発だ。それまでここで休んでいなさい」
ホイミンはするりと中に入ってライアンの首筋に顔をうずめると、くしゅくしゅ鼻をすすり上げてからそっと目を閉じたのだった。
12.
それからライアンとホイミンは、魔物の襲撃から一人難を逃れて旅に出たという勇者ソロの後を追った。
南に進むとブランカ王国が広がっており、王宮に参内して王に拝謁した。予想通り勇者もこの城を訪れたようで、王の話によれば彼は西のエンドールを目指すと言っていた。しかしエンドールにも勇者の姿はなく、いつもすんでのところで行き違いが起こるなど、歯痒い状態が続いた。
それでもライアンに焦りや苛立ちはなかった。着実に彼の後を追っていることは間違いなかったし、こうして旅を続けていることは無駄ではないと、全ての経験が自分たちを強くしていると確信できたから。特にホイミンの成長はめざましく、すでにホイミより上級のベホイミが使えるようになっていた。
レベルアップを受け、ライアンが笑いながら「ホイミンではなくベホイミンだな」と言うと、ホイミンは複雑な顔付きで「あんまり可愛くないですぅ」と答えて、ライアンのさらなる笑いを誘った。
こうして旅を続けるうちに、騎士ライアンの名は急速に大陸各地へ広まっていった。立ち寄った村で魔物にさらわれた子供を助けたり、山に棲み付いて生贄を強要する魔物を退治したりと、生半可な騎士では手に負えないような難題を次々と解決したからだろう。人々は口々にライアンの優れた剣技と騎士精神を称えた。
しかし、それはある弊害ももたらした。人間たちの間で評判になるということは、即ち、魔物たちの間では逆の現象が起きるということである。ライアンという名の騎士が、地獄の帝王を倒すため勇者ソロの仲間になろうとしているらしい。そんな噂が魔物たちの間で囁かれ、大いなる脅威となるのに時間はかからなかった。
勇者とはいえ、所詮はまだ少年。しかしれっきとした王宮騎士で、しかも一人で暗黒の神官を倒すほどの手練であるライアンが仲間になったら厄介なことになる。何としても二人が合流する前に始末せねばという焦りが、魔物たちの間に広がり始めていたのだ。
それでもライアンは、ホイミンの力を借りて様々な難局を切り抜けていった。やがて二人は、東の大陸の外れにある村を訪れることになった。
「すっかり日は落ちてしまったが……。何とか辿り着けてよかったな。久し振りに宿でゆっくりしよう」
「はいっ」
阿吽の呼吸で、ホイミンはライアンの懐中に潜り込む。ライアンはその上からマント状の外套を羽織って、村の入口に近付いた。すると入口付近に一人の女性が立っているのが見えた。女性はライアンに向かってにっこり笑い、
「旅の騎士様でございますね。こんな辺境の村へようこそ。私の家は宿を営んでおります。特別に広い部屋を用意させていただきますわ。いかがですか？」
ライアンは「ふむ」と唸って視線を落とし、懐中のホイミンに無言のまま問うた。これまでの道中、モシャスの呪文で人間に化けた魔物に幾度となく襲われた経験から、こうして向こうから接近してくる者は全て疑うようにしていたのだ。
ライアンの問いかけに、ホイミンは小さな声で答えた。
「大丈夫。この人は人間です。魔物の匂いはしません」
ライアンは頷くと、女性に向かって軽く一礼した。
「では、宿を頼む。見ての通り一人だからな。広い部屋は必要ないぞ。ただ、食事は部屋でとりたい。構わないか？」
「ええ、もちろんでございます。ささどうぞ」
村の中は思ったよりずっと広かった。住居のほかにも、商店や宿の類いも充実しているようだ。しかし何故か、村人の姿が見えなかった。日は落ちているとはいえ、まだ寝るには早い時間だ。
「ずいぶん静かだな。村人はどうしているのだ」
「家の中でございましょう。この村の夜は早いのです。人々は太陽の動きに従って生活しております。日が沈めば寝床に潜り込むといった次第で」
「そうか……」
しかし見れば、パブやカジノの類いもある。今は閉まっているが。ライアンは腑に落ちないものを感じながらも、女性の後についていった。彼女の宿は村の奥にあり、部屋数こそ多くないものの清潔でこじんまりしたいい宿だった。
部屋に通されたライアンは早速旅装を解き、ホイミンをベッドの上に乗せてやる。ホイミンはベッドのスプリングがお気に入りで、宿に泊まるとぽよんぽよん跳ねるのが楽しみだったのだ。
「おお〜、ここのスプリングはなかなかですぅ」
「そうか。それは良かった」
ライアンは笑いを噛み殺しながら、まだ跳ねているホイミンの頭を撫でてやる。そして、夕食までの時間を一緒に風呂に浸かってのんびり過ごした。ちなみに水嫌いだったホイミンも、今ではすっかりお風呂好き。のぼせないよう頭の上に冷やしたタオルを乗せてもらい、ライアンと一緒に湯船でぷかぷか浮いているのが幸せなひとときだった。
風呂から上がって部屋で寛いだ時間を愉しんでいると、扉が鳴った。ホイミンはすぐさま毛布の中に潜り込んで隠れる。それを確認したライアンが「どうぞ」と応えると、ゆるゆる開いて先ほどの女性が入ってきた。
「お夕食を持って参りました。お口に合うといいのですが」
「おお、すまんな」
女性はテーブルの上にナイフやフォークを並べて仕度を整えると、ガラス製のデキャンタを取り出した。中には深い赤紫色の液体が。
「裏の畑で収穫した葡萄から作ったワインです。うちの宿にお泊り下さった方へのサービスですので、よろしければご賞味くださいませ」
「ああ、ありがとう」
女性は軽く一礼すると出ていった。と同時にホイミンは毛布の中から飛び出し、ほかほか湯気をたてているスープやパンを、目を輝かせて覗き込む。
「おおお〜、おいしそうです〜〜」
「わかったわかった」
ライアンは笑いながらパンを小さくちぎり、スープにたっぷり浸す。それに息を吹きかけて十分に冷ましてやると、ホイミンに手渡した。触手でパンの欠片をしっかり掴んだホイミンは、少しずつかじりながら美味しそうに食べた。
「旨いか？」
小さな口をもくもく動かしながら、ホイミンはぐいんと頷いた。ライアンはさらにパンをちぎると、同じようにスープに浸す。
「ほら、もっと食べなさい」
そう言って別の触手に渡す。ホイミンは口の中のものを呑み込んで、
「ライアン様も食べてください。僕ばっかり食べてます」
「おお、そうだな」
ホイミンが一生懸命食べている姿を見るのが楽しくて、つい自分の食事を忘れてしまう。ライアンは温かなスープを口に運び、ハーブを添えて焼かれたチキンを頬張った。ちなみにホイミンは菜食で、肉は食べられない。
「旨そうな酒だな。どれ、味わってみるか」
ライアンはデキャンタの蓋を外し、中身をコップに注いだ。そして口に含んでゆっくりと味わう。
「ほう。いい渋味だな。これは旨い」
「ライアン様ぁ、僕も。僕も少しくださぁい」
しかしライアンは無視して自分だけ飲み続ける。ホイミンはライアンの膝にぴょんと飛び乗り、
「ライアン様ぁっ、僕も―――」
突然頬をぷにとつねられて、ホイミンは小さく声を上げた。そして恨めしげにライアンの顔を見上げる。対してライアンはちらと一瞥をくれて、
「ホイミン、もう忘れたのか？ この前の失態を」
「うっ……」
そう、以前ホイミンは、宿の夕食に出てきた酒をほんの少し飲ませてもらったのだ。が、
「たった三口ほど飲んだだけで真っ赤になってひっくり返り、逆立ちのまま部屋中を駆け回り、そのまま壁に激突して気を失ったのはどこの誰だ？」
「あ、あれはその……想定外の事故だったんですぅ」
ライアンは深い溜め息をついて、
「ひっくり返って触手をぴくぴくさせてるお前は、まるでイソギンチャクだったぞ。笑いをこらえるのに難儀した」
「ひどいですっ。僕はイソギンチャクじゃありません！ 誇り高き―――」
「ホイミスライムだろう？ 分かっている。ともかくお前に酒は飲ませられん」
むーっと膨れて不貞腐れるホイミン。その頭を大きな手のひらで撫でて、
「ほら、膨れてないで。酒は駄目だが、今度甘くて美味しい葡萄のジュースを買ってやろう。それで我慢しなさい。分かったね？」
「……はぁい」
この大きな手のひらと優しい言葉に、ホイミンは何より弱かった。あっという間に機嫌は直り、再び楽しい夕食を続けたのだった。
その夜、二人は早々に床に就いた。ライアンが急激な眠気を訴えたからだ。珍しいことではあったが、旅の疲れが溜まっているのだろう。ホイミンは特に不審を覚えることなく、いつものようにライアンの傍で眠った。
それから暫く経った頃だった。ホイミンが異変を察知したのは。ふと目を覚ますと、部屋の外に人の気配を感じた。そのまま様子を窺っていると、扉が外から開けられた。きちんと施錠していたはずなのに。
ホイミンは咄嗟にベッドから飛び下りて、家具の陰に隠れた。すると開いた扉の向こうから人影が。
「あれはっ……」
現れたのは、宿の女性と見知らぬ男性だった。二人は真っ直ぐ寝台に近付き、眠っているライアンを上から見下ろした。
「よく効いてるな。さすがは“魔界の雫”」
ホイミンは思わず息を呑む。“魔界の雫”とは、暗黒魔導師が相手を服従させるために使用する劇薬の名だ。
「そうね。勇名を馳せた名剣士も呆気ないものね。では、連れて行きましょうか」
女性はそう言うと、「ライアン、起きなさい」と命令した。するとそれに応えるかのようにライアンは薄目を開け、ゆっくりと起き上がった。女性は近付いてライアンの顔を撫で、
「いい男ねぇ。勿体ないけど、まあ仕方ないわね。村のためだわ」
「君はこういう男が好みなのか？」
「そうね。あんたみたいに生っ白い男よりずっと好みだわ。さ、ライアン。私に付いて来なさい」
するとライアンは小さく頷いて、二人の後について部屋を出ていった。震えながら様子を窺っていたホイミンだったが、
―――ど、どうしよう。きっとさっきのお酒に薬が入ってたんだ。ライアン様がっ……
慌てて物陰から飛び出すと、ライアンの剣を担いで後を追った。
13.
“魔界の雫”により意志を奪われたライアンを連れた一行は、迷うことなく森の中へ入っていった。頭上に輝く満月のお陰で夜の森とは思えぬほど周囲は明るく、ホイミンも難なく後を追うことができた。
―――どうして……。あの人達は間違いなく人間。なのに何故、人間を魔物から守るために闘っているライアン様にあんな真似をっ……
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐる巡る。そうしながらもホイミンは、ライアンの剣を担いで見つからないよう彼らの後を追った。
―――まさか……人間が魔物と通じているなんてことが……
ホイミンの疑念は、すぐさま確信に変わった。森を抜けた荒涼たる岩場で彼らを待っていたのは……
「暗黒の騎士……」
暗黒の騎士は、以前ライアンたちを襲った死の騎士と同じ種族の魔物。現世への強い執着を抱えたまま戦闘で命を落とした騎士の魂が屍体に乗り移り、魔物化したものが死の騎士であるが、それがより多くの殺戮を繰り返すことでレベルアップし、暗黒の騎士となる。
彼らは自ら暗黒魔導師の手先となることで剣術だけではなく魔法も修得し、着々と力を付けてきたのだ。
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
「あ、あの、薬が効くのが遅くて……」
暗黒の騎士は、たったひと睨みで弁解する女性を黙らせた。眼球があるべき場所には、黒い虚がぽっかり空いているばかり。なのに女は「ひっ」と悲鳴を上げ、「申し訳ありません」と震える声で謝った。
「ふん、まあいい。確かにこの男だ、間違いない」
暗黒の騎士はゆっくり近付いて、ライアンの身体を舐めるように観察した。
「やはり相当の手練だな。エビルプリースト様の危惧も頷ける。しかし、生きとし生けるものの魂を壊死させる霊薬“魔界の雫”にかかれば呆気ないものだ」
そう言って、カカッ、と乾いた嗤笑を漏らした。その不気味な響きに怯えつつも、女は「あの…」とおそるおそる声を掛ける。
「あの……これで村の水源にかけられた魔法を解いてもらえるのですね？」
暗黒の騎士は不愉快そうに声を低め、
「私は約束は守る。たとえ相手が人間でも。これでも昔は誇り高き騎士だったのでな。この男のように」
そう言ってすらりと剣を抜くと、ライアンを連れてきた男女を何のためらいもなく斬った。二人は何が起きたのか分からぬ様子で、きょとんと目を見開いたまま血飛沫を上げて倒れた。しかし即死には到らなかったのか、四肢をびくつかせて苦痛を訴える。
ホイミンの迷いは一瞬だった。彼らのライアンに対する行いは許せないけれど、目の前で血を流して苦しんでいる人を見殺しになんてできない。すぐさま飛び出して、二人にベホイミをかけた。全快には到らなかったが、出血も止んで呼吸も安らかになった。
「お前、何者だ」
予期せぬ闖入者に、暗黒の騎士は僅かに動揺を見せた。しかし現れたのがホイミスライムだと判ると、一転して馬鹿にしたように口許を歪め、
「こんなところで何をしている。しかも人間の傷を癒すなど………ははぁ、そうか。お前だな。噂は耳にしたことがあるぞ。騎士ライアンに手を貸している魔物がいるらしい、とな。まさかホイミスライムだったとは」
そう言って剣を掲げたままゆっくりと近付いてくる。対してホイミンも、ライアンの剣をしっかり掴んで刃先を向けた。
「ほぅ。それはこの男の剣だな。それでどうする。お前ごときが扱える剣ではないだろう」
「う、うるさいです！」
敵うはずがないというのは分かっている。しかし自分に今できるのは、こうして身体の震えを抑えて剣を向け続け、ライアンに呼びかけることだけだ。
「ライアン様っ、目を覚ましてください！ ライアン様！！」
しかしライアンは微動だにせず、濁った瞳を中空に据えるのみ。
「無駄だ。この男の魂はもはや私のもの。私の声以外は聞き入れん。おお、そうだ」
暗黒の騎士は何かを思い付いたのか、愉しげに声を上げた。そして剣を素早く振る。すると一陣の風が巻き起こってホイミンの身体を襲った。ホイミンは悲鳴を上げて、掴んでいたライアンの剣を落とした。
「ライアン、その剣を取れ。お前の剣だ」
暗黒の騎士の命令に小さく頷くと、ライアンは落ちた剣を拾い上げた。
「それで、目の前のホイミスライムを嬲り殺せ。ひと息に殺るんじゃないぞ。そいつは我々を裏切り、人間に寝返った。その罪に相応しい苦痛を与えてやるのだ」
ライアンは再び頷いて、ホイミンに向かって剣を振り下ろす。その動きに僅かな迷いもなかった。
「きゃああっ」
ライアンの刃先は確実にホイミンの身体を掠めた。血が飛び散り、と同時に斬り落とされた数本の触手が地面の上でのたうつ。
「ライアン……さまっ………」
ホイミンは自らに回復呪文をかけようとしたが、思い留まった。ライアンに何かあった時のために、魔力は温存しておかねばならぬ。
「ライアン様っ……目を、目を覚まし……………ひぃぃっ」
二度目の攻撃が、容赦なくホイミンの身体を裂いた。斜めに斬られたホイミンは、血塗れで激痛に襲われながらも、ライアンに呼びかけ続けた。
「ライアン様、ホイミンですぅ………ずっと、ずっといっしょに旅をしてきた………」
すでに半分以上の触手を失ったホイミンは動くこともできず、血の滴る剣を掲げるライアンをただ見上げるしかできない。
「これからも……いっしょです……ずっと……おそばにおります………」
死に対する恐怖はなかった。それよりも、辛い過去を背負いながらも人間のために、平和のために闘っているにもかかわらず、人間に裏切られたライアンが可哀想で仕方なかった。
「ぅっ………ぐふっ………」
非情にも、ライアンの剣がホイミンの身体を切り刻む。できればこの難局を共に乗り切り、これからもずっと傍にいたかった。しかしホイミンは覚った。もう駄目だ。恐らく自分はもうすぐ死ぬだろう。
「ライアンさま……いままで……ありがとうございま…した………」
ホイミンは心からの感謝を込めて呟くと、そっと目を閉じた。その時、剣を振り上げたライアンの動きがぴたりと止まった。一瞬の静寂。次の瞬間、ライアンの剣は己れの左腕を深く斬り付けた。低く呻いてその場に膝をつく。
「ライアン、何をしているっ！ もういい、さっさとそのホイミスライムを殺せ！」
異変を察した暗黒の騎士が鋭く叫ぶと、それに応じてライアンはゆっくり立ち上がった。双眸に激しい怒りの焔を宿して。
「貴様……許さん」
その怒りはそのまま闘志へと変じ、暗黒の騎士へ真っ直ぐ向かう。そう、“魔界の雫”とて、魂の全てを操れるわけではない。並の人間であれば、本来持っている意志力が弱いため薬効に負けてしまう。しかし強靭な精神力と澄んだ魂の持ち主であれば、克服することは不可能ではないのだ。
ライアンは自らの身体を傷付けることで心神にショックを与え、その瞬間に生じた空隙を突いて心を引き戻したのだ。
「ま、魔界の雫を追儺したというのかッ」
暗黒の騎士は悲鳴にも似た叫びを上げたが、さすがにすぐ状況を把握して剣を構えた。元は優秀な剣士だったのだろう、最初は互角かと思われたが、闘神と化したライアンに敵うはずもなく、最後は首を飛ばされ塵となった。
暗黒の騎士を倒したライアンはすぐさまホイミンの許に駆け付け、血塗れの身体をそおっと抱き上げる。
「ホイミンっ、しっかりしろ！」
「ラ…イアンさま……よか…た……もとに……もどっ…て………」
ライアンは頷きを返し、
「まだ魔力は残っているな？ 早く回復呪文をかけるんだ」
ホイミンは僅かに残った触手を伸ばして、ライアンの傷にかざした。
「ば、馬鹿者！ 俺はいい！ 自分に―――」
しかしホイミンはライアンの傷を綺麗に治すと、満足そうに微笑んでふわりと目を閉じたのだった。
14.
「開けろ！ ここを開けてくれ！ 怪我人がいるんだっ」
ぴったり閉ざされた扉を、ライアンは声を張り上げて必死に叩く。血に塗れぐったりしたホイミンを抱いたまま。
自ら致命的な重傷を負ったにもかかわらず、ホイミンは残りの魔力全てをライアンの傷を癒すことに使い、そのまま意識を失った。しかも、ホイミンにこの傷を負わせたのはライアンなのだ。“魔界の雫”で意志を奪われていたとはいえ、自らの手で、自らの剣でホイミンを傷付けた。もしこのまま目を開けることがなかったらと思うと、心が引きちぎられそうになる。
「頼む、頼む！ 開けてくれ！！ 薬草と宿を貸してくれっ」
森を抜けて村に戻ったライアンは、民家や宿屋の扉を叩いて回った。中に人がいるのは分かっている。みな魔物を恐れて、夜になると扉も窓も締め切ってしまうのだろう。
「この村を苦しめていた魔物はもういない。俺が倒した。だから頼む、ここを―――」
ライアンの叫びが届いたのか、中から扉がそっと開けられた。年配の夫婦が顔を覗かせ、おそるおそるライアンの顔を見上げる。
「頼む、宿と薬草を貸してくれ。こいつが酷い怪我をしているんだ」
しかし、ライアンの手の中でぐったりしているホイミンを見た夫婦は途端に顔を歪めて、
「じょ、冗談じゃない！ そいつは魔物じゃないか！ 早く帰ってくれ」
「こいつは魔物だが、俺は人間だ！ それに、こいつはこの村を苦しめていた魔物と闘って、この傷を負ったんだ。お前たちを救ったんだぞ！」
ライアンの訴えも、夫婦の心を動かすことはできなかった。嫌悪も露わにホイミンを睨んで、
「うちのベッドを魔物の血で汚すなんて冗談じゃない。さ、帰ってくれ」
「なん……だと……貴様………」
ライアンは思わず腰の剣に手を掛ける。ほんの一瞬だが、目の前の人間たちに明確な殺意を覚えた。ライアンの“本気”を覚った夫婦は「ひぃっ」と悲鳴を上げてガタガタ震え出す。それを見てようやく理性を取り戻したライアンは扉を乱暴に閉めると、別の家の扉を叩いた。
「頼む、助けてくれ、頼む……」
しかしどの家も扉をぴったり閉ざしたまま、応じようともしない。手の中のホイミンはまだ辛うじて息があるが、薄桃色の身体はすでに蒼白くなっており、体温も著しく低下していた。一刻を争う状態であるのは間違いない。
「何故だ、何故っ………」
傷付き苦しんでいる者に手を差し伸べる、それこそ人間に生来備わっているはずの優しさ、他者への思い遣りではないのか。ホイミンはこれまで、自分を含め多くの人間を癒してくれた。なのに人間は傷付いたホイミンに対し、冷たい拒絶を投げ付ける。ホイミンが魔物だから、ただそれだけの理由で………
「人間など……人間など………」
人間に対する憎悪が渦巻くのを、ライアンははっきりと自覚した。気付けば腰の剣に手を伸ばし、柄をしっかり握っていた。
傷付いた者に対しぴったり閉ざされた扉は、自分さえ無事ならばいい、自分の村さえ平和ならばいいという利己主義の象徴だった。
「お前たちは……魔物以下だッ………」
ライアンは低くうなり、剣を振り上げて扉を叩き斬ろうとした。その時、
「騎士様、騎士様。早くこちらへ」
辺りを憚る小さな声でライアンを呼ぶ者が。その声に失いかけていた我を取り戻したラインは、剣から手を離して声のした方を振り向いた。そこにいたのは若い女性。木の陰からそっと手招きしている。
「私の家へお越しください。父は医者をしております。お役に立てるかと」
ライアンは頷いて素早く駆け寄り、彼女の後についていった。村の外れにある家は診療所を兼ねているのか広く、かなり立派な造りだった。しかしもちろん、扉も窓もぴったり閉ざされている。
「こちらからどうぞ。私は父に事情を話して参ります」
「頼む」
短い言葉に詰まったライアンの想いを受け止めた彼女は、「すぐ戻ります」と言い残して奥の部屋に消えた。そして言葉通りすぐに戻ってくると、診療室へライアンを案内した。室内にはすでに彼女の父がいて、薬や包帯を用意している。ライアンを見るなり小さく頷いて、
「そこに寝かせなさい」
ライアンは白い診察台に傷付いたホイミンをそおっと寝かせ、治療の邪魔をしないよう下がった。医師はまず傷の具合を診ると、険しく眉根を寄せた。ライアンの心拍数が激しく上昇する。具合はどうなんだ、助かるのかと胸倉を掴んで問い質したい衝動を抑え、静かに治療を見守った。
明るい場所で改めて見ると、傷の酷さがよく分かる。致命傷を避けて苦痛を引き伸ばすよう、幾度も執拗に切り刻まれた様子が。
「くっ………」
ライアンは自責の念に耐え切れず、頭を抱え込んだ。無傷でいる自分をこれほど怨めしいと思ったことはない。代われるものなら代わってやりたい。もう一度あの無邪気な笑顔が見られるなら―――
「しっかりしなさい。治療は終わったぞ」
医師に声を掛けられ、ライアンは慌てて顔を上げた。診察台の上で、小さな身体に包帯を巻かれたホイミンが横たわっている。ライアンは傷に障らないよう声を低め、
「具合はどうなんだ。まさかこのまま目を開けないなんて……」
ライアンの切実な問いに、医師は正直に「分からない」と答えた。
「儂も魔物の治療は初めてだからな。しかしできることはやった。あとはこの子の気力次第だ」
ライアンはゆっくり近付いて、ホイミンの身体を両手で包み込んだ。包帯のざらざらした感触と、微かな鼓動を感じる。見れば触手の多くは失われ、ほんの数本が残っているだけだった。果たしてもう一度生えてくるのだろうか。もしこのままだったら、ホイミンはもはや歩くこともままならないだろう。もちろんそれでも―――
「ホイミン、ずっと一緒だからな……」
自分がホイミンの足になればいい。そしてこれからも一緒に旅をし、一緒に冒険を続け、勇者を探し―――
「ぅっ………ぅ、ぅぅっ………」
ホイミンの上に覆いかぶさって嗚咽を漏らすライアンの肩をそっと叩き、
「さあ、娘が部屋を用意している。そこで休みなさい。体温が著しく低下しているから、なるべく冷やさないよう、君の身体で温めてあげなさい。分かったね？」
ライアンは医師の言葉に無言で頷くと、ホイミンを大事そうに抱えて診察室を後にしたのだった。
15.
案内された部屋に入ると、寝台が整えられ柔らかそうな毛布が敷かれていた。
「これならば傷に障らないはずです」
娘の言葉に頷いて、ライアンは抱いていたホイミンの身体をそっと寝かせた。そして自分もその隣に横たわって、医師に言われた通り自らの体温を分け与えようとする。すると娘は「騎士様」と声を掛け、
「お疲れでございましょう。こちらに温かいお飲み物を用意いたしました。ぜひ―――」
しかしライアンは、娘の申し出を苛立たしげに遮って、
「この子が一人で苦しんでいるというのに、俺ばかりが寛げるはずないだろう！」
娘は僅かに蒼褪めて、「申し訳ございません」と震えながら頭を下げた。ライアンもばつが悪そうに首を振り、
「い、いや。済まなかった。つい…。お前たちには感謝している。もし声を掛けてくれなかったら、ホイミンの傷を診てくれなかったら、今ごろは……」
それを考えると恐ろしい。もし誰も救いの手を差し伸べず、そのせいでホイミンが手の中で息を引き取るようなことになっていたらと思うと、まず湧き上がるのは自分への恐怖だった。
怒りと悲しみ、そして扉を閉ざし続けた村人への憎悪に魂は支配され、本能と感情のまま剣を振り回していたに違いない。人を殺めていた可能性もないとは言えない。
ライアンは娘が運んできた温かい飲み物に口を付けると、「ありがとう」と心からの礼を述べた。娘は楚々と首を振り、部屋を辞そうとしたが、何か言い足りないことがあるのかぴたりと足を止めた。そして濃厚なためらいを引きずったまま口を開いた。
「騎士様、どうかあなたを騙した女性をお許し下さい。彼女は先ごろ亡くなった村長の娘で、村のためを思ってあのようなことを…」
ライアンはすぐには返答せず、黙って続きを促した。娘は小さく頷いて、
「ひと月ほど前からでしょうか、近くの森に魔物が棲み付き、近付く村人に狼藉を働いておりました。それだけではなく、村の水源に腐蝕の魔法をかけてしまったのです。飲み水や生活用水はもちろん、そこから畑へ水を引いておりましたので、村にとっては死活問題でした」
娘はライアンの厳しい眼差しに臆することなく、正面から見据えて言葉を続ける。
「そこに、張本人である魔物から取引の提示がなされたのです。もうじきここを訪れる騎士を騙して自分に引き渡せば、水源の魔法を解いてやるぞ、と。反対した村人は、私の父も含め僅かでした。では他に村を救う妙案があるのかと詰め寄られ、了承するしかなかったのでございます。とはいえ、もちろん私たちも同罪ですが…」
「魔物と取引を行うなど愚の骨頂。近くのガーデンブルグ城へ使いを送って支援を要請するなど、いくらでも手立てはあったはずだ」
ライアンの指摘には、娘も頷くより他なかった。
「仰る通りでございます。昔からこの村には、権力の手を借りることに対する拒絶反応がありました。独立、自衛の精神に誇りを持ってきた。しかし今回はそれが裏目に出てしまったのです」
「その精神をとやかく言うつもりはない。しかしな、気高き精神も村人あってのものではないのか？ 独立、自衛を守り抜くために村が犠牲を払うようなことになれば、本末転倒だ。娘よ、今すぐ数人を引き連れて森を抜けた岩場へ向かいなさい。そこに俺を騙した女とその連れの男が倒れているはずだ」
娘は喉の奥で悲鳴を上げ、ライアンを見上げる。ライアンは頷いて、
「魔物に斬られたのだ。しかしこのホイミンが回復呪文をかけてくれたお陰で、命は取り留めた。すぐに助けに行ってあげなさい。気を付けてな」
涙を浮かべて礼を言う娘に、ライアンは苦しげに首を振って、
「礼ならホイミンに。この子が救ったのだ」
娘は胸の前で両手を組み、ホイミンに向かって深々と一礼した。そして早足で部屋を出ていった。ライアンは深く息を吐くと、ホイミンの隣に身体を潜り込ませた。大きく腕を回してホイミンの身体を包み込む。耳を澄ますと微かな呼吸の音が聞こえてくるが、目覚める気配は感じられない。ライアンは注ぎ込む月明かりより優しい声で、
「ホイミン、聞こえるか？ いや、聞こえなくてもいい。お前の魂には届いているはずだ。お前には本当に色々なことを教えられた。人間対魔物の二項対立は超えられるということや、憎しみではなく愛や平和のために闘うことの尊さ。そして自分を犠牲にして人に尽くすという姿勢を」
ライアンはいったん口を閉ざすと、ホイミンにゆっくり顔を近付けた。薬草の匂いがつんと鼻をつく。そして包帯が巻かれていない僅かな部分、あのぷにぷにした柔らかな肌にそっと唇を押し付けた。
「頼む、ホイミン。目を開けてくれ。もう一度戻ってきてくれ。お前がいなければ、俺は道を誤ってしまう。お前の優しさ、寛容さ、大らかな愛を身近に感じていなければ、俺の心は闇に引きずり込まれてしまう……」
ライアンの瞳から、透明な涙がすーっと流れた。ライアンはハッと息を呑み、己れの頬を拭う。
「まだ……泣けたのか、俺は………」
くっと喉を鳴らして嗚咽を押し込めると、くぐもった声でホイミンの名を呼び続けたのだった。
16.
その翌日も、ホイミンが目覚めることはなかった。ライアンは用意された食事にも手を付けず、ベッドの中で抱き締めて己れの体温を与え続けた。娘の父親も診療の合間を縫ってホイミンの容態を診てくれたが、眉間の皺は深くなるばかりだった。
包帯を取り替える時に見たホイミンの身体は未だ青白く、薄桃色でみずみずしい嘗ての面影はなかった。しかしライアンは決して絶望せず、包帯の交換が終わると再び無言のまま腕の中に収めた。そんなライアンの様子を、娘も娘の父親も苦しげに見守るしかできなかった。
そして、ホイミンが昏睡状態に陥って二度目の夜が訪れたのだった―――
「ふわあああ、すごぉい、きれいですぅ〜」
ホイミンは思わず感嘆の声を上げ、辺りをきょろきょろ見回す。見たこともない場所だったが何故か不安や戸惑いはなく、周囲に咲き乱れる花々にうっとりと見入った。その時、
『ホイミン、ホイミン……』
自分の名を呼ぶ声が。ホイミンは身体をくりんくりんと回して声のする方角を確かめると、そちらへ向かって歩き出した。
『ホイミン、ここですよ』
「あっ」
ホイミンはぴょんと飛び跳ねて、駆け出した。
「ホワイトドラゴン様！」
間違いない、あそこで自分を呼んでいるのは、全ての魔物の頂点に立つと言われる神聖なるホワイトドラゴンだった。ホイミンは驚きと喜びに駆り立てられるように走る。しかし、
『それ以上近付いてはいけません、ホイミン』
ホワイトドラゴンは金色の瞳を輝かせ、そっと首を振った。慌てて立ち止まったホイミンは、思わず足下を確かめる。その先には黒い深淵が口を開けていたのだ。ホワイトドラゴンは優しく声を撓め、
『そう、それ以上近付いたら、戻れなくなってしまいますよ。お前の大好きな騎士の許に』
ホイミンは途端に蒼褪めて、必死に首を振る。
「や、やですぅ〜。ライアン様と離れるのは……」
ホワイトドラゴンは分かっていると言わんばかりに頷いて、
『ホイミン、お前は本当によく頑張りましたね。お前の行い、全て天空から見させてもらいましたよ』
「ぼ、ぼく……」
『お前は魔物でありながら人間に癒しの手を翳し、そして自分の命を顧みることなく全ての魔力を注いで騎士ライアンの傷を治した。そのせいで瀕死の重傷を負ってしまったのです』
ホイミンは「ぁっ」と小さな声を上げた。思い出したのだ。暗黒の騎士、操られたライアン、そして、そして………
「ぼくぅ……もしかして……死んじゃったの？」
触手で顔を覆い、かたかたと震えるホイミンに、ホワイトドラゴンは父のように力強く、母のように慈愛を込めて語った。
『いいえ、死んではおりません。私がお前に伝えたいことがあったから、ここまで来てもらったのです。ホイミン、よくお聞きなさい。今、世界は憎しみによって二つに引き裂かれようとしています。即ち、人間と魔物に。人は魔物を蔑み、魔物は人を憎む。どちらも元を辿れば創造神デミウルゴス様から生まれた、血肉を分けた兄弟だというのに』
ホイミンはもう震えていなかった。悲壮なまでに真剣な表情で、ホワイトドラゴンの言葉に聞き入る。
『このままでは、世界は荒廃の一途を辿るばかり。たとえ蘇りつつある地獄の帝王を倒しても、第二、第三の闇の使者が現れ再び世界を混乱させるでしょう。でも私にはどうすることもできない。そう絶望しかけていた時、人間のために必死に働くお前を見つけたのです』
ホワイトドラゴンはそっと翼を伸ばし、ホイミンの頬をふうわりと優しく撫でた。
『私がどれほど嬉しかったか！ 混沌とした闇に射した、微かな光明。その光は徐々に輝きを増し、騎士ライアンの心まで包み込んでしまったのです』
「ライアン様の……」
『そうです。誰にも心を開かなかった孤高の騎士、ライアン。彼はお前と出会ったことで少しずつ変わってゆきました。心を覆っていた厚い氷が融け、彼本来の優しさや豊かな感情が自然に溢れるようになった。今、彼は怪我を負ったお前のために泣き、その身体を必死に温めているのですよ』
ホイミンの小さな目が、みるみるうちに涙で溢れてゆく。
「ライアン様が……僕のために泣いてるの？ 僕のために………っ、く…………」
『そうです。そして自分を責めている。自分せいでこんな目に遭わせてしまった、と』
次から次と触手を変えて涙を拭っていたホイミンは、弾かれたように顔を上げてホワイトドラゴンを見つめ、
「違うもん！ ライアン様のせいじゃない！ ただ僕は、子供たちを助けるため西の塔へ行った時、何もできなかった。暗黒魔導師と闘って傷付いたライアン様に、何も……だから、だから今度こそは、って………」
顔を真っ赤にして必死に訴えるホイミンに、ホワイトドラゴンは温かな眼差しを返し、
『ホイミンは、ライアンを愛しているのですね？』
ホイミンは何を言われているのかすぐに理解できず、きょとんと目を見開く。が、次の瞬間ぼっと点火して、「ち、ちちちちちちがいます！」と豪快にどもった。ホワイトドラゴンは艶っぽい流し目を送り、
『あら、違うの？ では愛していないのですね』
そう言われると、返答に困ってしまう。ホイミンは触手全体をもじもじくねらせて、
「あ、愛していないわけではないですぅ……」
『まあ、では愛しているのね？ 恥ずかしがることはありませんよ。素晴らしいではありませんか。堂々と胸を張って、ライアンへ愛情を注ぎなさい。もう一度訊きます。ホイミンは、ライアンを愛しているのですね？』
ホイミンはもはや触手の先まで真っ赤に染まりながらも、「愛しています」とはっきり答えた。ホワイトドラゴンは満足げに頷いて、
『分かりました。ではホイミン、お前の望みを叶えてあげましょう』
「僕の望み？」
『ええ。デミウルゴス様の許可は得ております。お前は何も心配せず、そのままライアンの許に帰りなさい。そしてこれまで通り、ライアンのために、人と魔物のために働くのです。いいですね？』
ホワイトドラゴンの言う“望み”が何を指しているのかよく分からなかったが、それでもホイミンは「はいっ」と元気いっぱい頷いた。この先何があっても、ライアンのために、人と魔物のために働くという強い意志に変わりはない。
「ホワイトドラゴン様、ありがとうございます。僕、がんばります！」
ホイミンはくるんと身体を反転させると、意気揚々と触手をくねらせて来た道を戻っていったのだった。
17.
「ん……ふぇぇ………」
目を閉じているのに何だか眩しい。その明るさに導かれるようにゆるゆると目を開けると、光の洪水が流れ込んできた。
「ふわぁぁ……まぶしいですぅ………」
こうして陽の光を浴びるのは、ずいぶん久し振りのような気がする。ホイミンはこしこしと目をこすっては、大きな瞬きを繰り返した。が、顔の前に翳したものを見て思わず瞬きを止めた。
「ほえ？ これって………」
触手の先が五本に分かれている。試しに動かしてみると、全て自分の思い通りに動かすことができた。ホイミンは首を傾げつつ、隣に寝ているライアンの顔を覗き込んだ。眉間に微かな皺を寄せ、どことなく憔悴しているように見える。ホイミンは、ホワイトドラゴンの言葉を思い出した。
―――ライアン様……僕のために泣いてくれたのですね。心配してくれたのですね
嬉しさと申し訳なさと切なさが入り乱れて、額の奥がツンとなる。ホイミンは鼻をくすんとすすり上げて、ライアンを起こそうとすり寄った。すると、柔らかくうねる金糸のようなものがふわりと流れ落ちた。何だろうと思い引っ張ってみると、
「痛っ」
ホイミンは思わず声を上げて頭をさする。そしてようやく気付いた。この亜麻色とも呼ぶべき淡い金色の糸が、自分の頭から生えていることに。
慌てて起き上がり、窓に映った自身の姿に呆然と見入る。もちろん俄かには信じ難く、ベッドの上で両手を動かしたり腰を揺らしたり、怪しいダンスを踊ってその通りに動くことを確かめてようやく、“これ”が自分の身体であることを認識した。
「僕の望みって、もしかして………」
そう、確かにホワイトドラゴンは約束してくれた。お前の望みを叶えてあげましょう、と。
「ぼく……ぼくぅ………」
ホイミンは驚きと喜びに弾かれるように、ライアンに飛び付いた。
「ライアン様っ、ライアン様ぁ！」
精神的な疲労のゆえか、ライアンの眠りは深かった。眉根を寄せて、低く呻く。
「ぅ………ん……ホイ……ミン………」
ホイミンはさらにライアンの肩を揺さぶって、ぎゅっと抱き付き、
「ライアン様ぁ、僕、人間になれましたぁ」
「んん……にん…げん……？」
ようやく重い瞼をこじ開けたライアンは、一拍おいてからひゅっと息を吸い込み、
「う、うわあああああっ、な、なななななななんだ、誰だお前はっ！」
大声で叫んで、自分に抱き付いている裸の人間の肩をわたわたと押し戻す。が、
「ライアン様！ 僕です、ホイミンですぅ」
「ホ、ホイミン…だと？」
「はいっ。僕ぅ、人間になれましたぁ〜」
「な、なにぃ？！」
その時、部屋の扉が外から叩かれた。
「騎士様？ どうなさったのですか？」
心配した娘が様子を窺いに来たのだろう。
「い、いや。何でもない。驚かせて済まなかった」
ライアンは何とか平静を装って無難な返事を返すと、改めてホイミンと名乗る少年に向き直った。
ベッドの上にぺたんと座り込んでいるその姿を言い表すのに最も相応しい表現は、砂糖菓子のような、という言葉かもしれない。緩やかにうねる淡い金色の髪、雪原のような肌、くるんと大きく見開いた琥珀色の瞳。丸い頬は、魔物の頃の肌色と同じ薄桃色。ぷにぷにした質感までよく似ていた。
その愛らしい細部の全てが煌く朝日を浴びて、暈然と輝いている。光の中でまろやかに蕩けた輪郭は、見る者の五感に甘い錯覚を抱かせた。ライアンは彼らしい無骨な仕草でごしごしと目をこすり、そしてこくんと喉を鳴らした。
「まさか……いやしかし………」
信じられないと思う反面、その姿には深く納得もできた。目の前の少年には、魔物の時から変わらぬホイミン生来の特性、愛すべき稟質が具現化されていたから。
ほわんとした愛らしさ、柔らかさ。見ているだけで心が丸くなり、口許が綻んで、知らぬ間に癒されてゆく。目の前でちょんと首を傾げ、ぱたぱたと無邪気に瞬きしつつこちらを一心に見つめる美少年には、その全てが備わっていたのだ。それでもやはり、ライアンは問わずにはいられない。
「お前……本当にホイミンなのか？」
ホイミンは大きく瞬きしてからふわりと笑い、
「はい。本当にホイミンですぅ。人間になれましたぁ」
―――こ、この間延びした話し方は確かにホイミンに違いない。ということは……
「お前、傷は？ 酷い重傷を負っていたのだぞ」
途端にホイミンは顔を苦しげにしかめて、
「ライアン様、いっぱいいっぱい心配かけてごめんなさい……。でももうだいじょうぶですっ。全然、どこも痛くありません。だから―――」
ホイミンの言葉が終わらぬうちに、ぐいと強く腕を引かれた。ホイミンは「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げ、ライアンの胸の中に倒れ込む。その些か乱暴な振る舞いにはしかし、ライアンの深い愛情が詰め込まれていた。
「よかった………ホイミン……よかっ…た………」
「ライアン様ぁ……」
ホイミンはそろそろと手を伸ばし、ライアンの背中に回してきゅっとしがみ付いた。耳許で繰り返されるライアンの声は掠れ、震えている。彼のこんな声を聞いたのは初めてだった。
「ライアン様、ごめんなさい……心配かけてごめんなさぁい………」
いつ如何なる時にも、どんな苦境にあっても自らを厳しく律し、雄々しく剣を翳して困難に立ち向かってゆくライアン。それが今、まるでホイミンにすがるように抱き付いて喉を震わせている。
こんなに心配してくれたんだと思うと、嬉しさより寧ろ申し訳ない思いに支配される。ホイミンは何度も何度も謝っては、ライアンの背中をあやすように撫でた。
「ホイミン……もう二度とあんな危ない真似はするな。自分の命を粗末にするな。分かったな？」
ホイミンは胸に顔を押し付けたまま頷いて、ゆっくり顔を上げた。そしてライアンと目が合うと、これまでしていたようにほわんと笑った。するとライアンは大きく目を見開き、次の瞬間ホイミンの身体をぐいと押し戻した。見ればライアンの首から上が赤く染まっている。
「ライアン……さま？ どうされたのですか？ お顔が―――」
「な、なんでもないっ。お前はここで大人しくしていろ。俺が何か着るものを借りてきてやるから。分かったな」
ホイミンはぱあっと顔を輝かせ、
「ふわぁい、お洋服着れるんですね。うれしいですぅ〜」
喜びの表現なのか、ベッドの上でぽよんぽよんと跳ねる。その動きに合わせてふるふると揺れる股間のモノに思わず目が行ってしまい、ライアンはそんな自分の頬を張りたい衝動に駆られた。
「と、とにかく大人しくしてるんだぞ」
「はぁ〜い」
そしてライアンは部屋を出たが、扉を閉めると同時にその場にへたり込んでしまった。
18.
―――ちょっと待てちょっと待てちょぉっと待てぃっ！
ライアンは頭を抱えてへたり込んだまま、幾度も自分に言い聞かせた。
―――あれが……ホイミンだと？
壁に手を付いてのろのろと立ち上がり、はぁっと大きく息を吐く。そして頭をブンブンと振った。
―――いや、疑っているのではない。確かにあれはホイミンだ。俺には分かる。それに、願いが叶ったのだから喜ばしいことには間違いない。しかし……
ライアンの独白は続く。壁に向かい合ってもたれたまま、ぶつぶつと呟く。
―――しかし、人間になるといってもクラゲに手足が生えたくらいの感じだと思っていたが……まさかあんな可愛い………
「か、可愛いっ？！ 何を言ってるんだ俺はっ」
自分のモノローグに突っ込むライアン。正気に返れとばかりに壁に頭をゴンゴン打ち付け、よろめきつつも家人を探しに行った。廊下の突き当たりにある部屋に人の気配を感じ、軽いノックをしてから扉を開けた。
「済まない、ちょっと頼みがあるんだが……」
すると娘は「まあ」と言って大きく目を見開き、
「騎士様、そのおでこはどうなさったのですか？ どこかにぶつけたとか」
「あ、ああ、いや。何でもない。大丈夫だ。それより、ホイミンが目を覚ましたのだ。怪我もすっかり良くなった。礼を言う」
「本当ですか？ ああ、よかった……」
娘は笑顔を輝かせ、衒いない喜びを表した。ライアンはもう一度礼を述べると、
「それでだな、その……頼みなんだが、服を貸してくれないか？」
「服、でございますか？」
「ああ。サイズはその……ちょうどお前と同じくらいか。簡単な普段着で構わないのだが」
娘は不思議そうに首を傾げたものの、深く詮索することなく頷いて奥の部屋から持ってきた。
「よろしければ、そのままお持ち下さい。それから、お食事はどうしますか？」
「いや、余り長居してもお前たちに迷惑がかかる。仕度が整い次第、村を出るつもりだ。本当に世話になったな」
娘は楚々と首を振り、
「お世話になったのは私たちの方です。騎士様が魔物を退治して下さったお陰で、水源にかけられた呪いも解けました。村人たちの笑顔を見たのは、本当に久し振りでございます。ありがとうございました」
ライアンはふと目を細めて小さく頷くと、服を抱えてホイミンの許に急いだ。
「落ち着け。あれはホイミンだ、あれはホイミンだ………」
部屋の前まで来たライアンはいったん立ち止まり、すーはーと深呼吸して自分の頬をパン、と張った。そして扉に手を掛けて開けながら、
「ホイミン、服をもらってき…………！！！！」
室内に入ったライアンは、余りの光景にどさりと服を落として髪を逆立てる。全裸のホイミンが大きな姿見の前に立って、自分の身体をまじまじと観察していたのだ。
「あ、ライアン様ぁ。お帰りなさい〜」
ライアンの方を振り向いて、にっこり笑うホイミン。対してライアンは額に翳を落として、
「ホイミン〜〜〜お前は一体何をしているんだっ」
「身体を見ていたんですぅ。すごいですねぇ。ライアン様とおんなじ〜。ほら、ここも同じです」
そう言って股間でふるふる揺れる愛らしい飾りを指差す。そしてえへっと笑って、
「でも、ライアン様のよりずぅっとちっちゃいですけど」
ライアンは脱力感に耐えながら落とした服を拾い上げ、それをホイミンに押し付けた。
「さっさとこれを着ろ」
ぶっきらぼうに命令すると、くるりと背中を向けてしまった。ホイミンは渡された服を覚束ない手付きで広げ、何とか着ようとした。しかし、
「あ、あれ〜？ この穴に触手を通して……えと、えと………」
服を着るなんて初めての体験。どこに頭を通すのか、ボタンをどうやって留めるのかも分からない。結局、ぐしゃぐしゃの布を身体に巻き付けたような状態で半泣きに。ライアンはがっくりと肩を落とし、なるべく身体を見ないよう注意しながら手伝った。
「ほら、ここに頭を入れて……そうだ、そして右手がここ。ああ違う、ボタンがずれている。ほら、貸してみなさい」
「ふぇぇ〜〜、難しいですぅ……」
服と悪戦苦闘すること二十分。ようやくちゃんと着用することができた。ホイミンは嬉しさとくすぐったさで頬を赤く染め、くるくると回っては姿見に映して見入った。
「ライアン様ぁ、お洋服ってあったかいんですね〜」
「うん？ それはそうだ。裸でいるよりずっと温かい」
「そうですね。でも……ライアン様のお胸の中の方がずっと温かかったですぅ」
ホイミンはそう言って、微かな憂いの翳りを帯びた微笑みを浮かべた。ライアンは黙って近付くと、一瞬ためらった後ホイミンの身体に腕を回して抱き締めた。ホイミンはトクトクと早まる鼓動を意識しながら、ライアンの胸に顔をうずめ、
「ライアン様……温かいです………」
「……そうか」
「もう……お胸の中には入れなくなっちゃったけど、でも………」
両腕をそろそろと伸ばしてライアンの腰に巻き付けた。そしてきゅっと力を込める。
「こうしていれば、ライアン様の温かさを感じることができます」
「ああ……そうだな」
ホイミンはふふっとくすぐったそうに笑って、
「何だかヘンな感じですぅ。こうしてライアン様の背中に触手を巻き付けることができるなんて」
「ホイミン、これはもう触手ではない。手や腕と呼ぶものだ」
「そ、そか……」
ホイミンはゆっくりと抱擁を解いて、ライアンの顔を眩しそうに見上げた。が、驚いたようにくるんと目を見開いて、
「ライアン様っ、おでこに血がにじんでます！」
「ん？ あ、ああ、いや。その。大丈夫だ」
「ぶつけたのですか？ すぐに治して差し上げます」
ホイミンはあたふたと手を翳して、ホイミの呪文を唱えた。ライアンの傷は綺麗に消えた。
「ライアン様、痛くないですか？」
「ああ。大丈夫だ。ありがとう」
「よかったぁ……」
ほっと息をついて、ふにゃりと笑うホイミン。その笑顔の愛らしさに引き寄せられるようにライアンは手を伸ばし、薄桃色の丸い頬を手のひらで包み込んだ。変身前と同じ感触、同じ質感に思わず目を細める。
「ライアン……さま………」
珊瑚色のぷっくりした唇が、たどたどしくライアンの名を紡ぐ。その造形と心地よい響きに酔ったライアンは、意志が命ずる間もなくゆっくりと顔を近付けた。その時―――
「騎士様、出立は何時ごろでしょうか？」
部屋の外から娘に声を掛けられて我に返ったライアンは、「うわぁっ」と声を上げてホイミンの身体を押し返した。その勢いに圧されてホイミンはよろめき、ベッドの上にぽすんと座り込んだ。そのままの姿勢で首を傾げ、
「ライアン様？ どうされたのですか？」
「なななななななんでもないッ！ そ、それより早く仕度をしなさい。旅の再開だ」
今にも音を立てて炎を吹き上げそうなほど赤くなったライアンを不思議そうに見つめていたホイミンだったが、やがて「はいっ」と元気いっぱい頷いて、再び始まる旅に思いを馳せたのだった。
19.
娘とその父親に見送られて村を出たライアン達は、砂漠の近くにあるアラン王国を目指した。国王への拝謁前にまず城下町を訪れ、軽く腹ごしらえしてから町を散策することにした。
「すごぉぉ〜い。広くて賑やかな町ですねえ」
興奮で頬を火照らせ、辺りをきょろきょろ見回すホイミン。危ないからちゃんと前を見て歩きなさいと注意しようとしたライアンだったが、口に出すことなく呑み込んで、代わりにホイミンの手をそっと掴んだ。
「人が多い。迷子になったら大変だ。俺の手をしっかり掴んでいるのだぞ」
これまで幾度も町や村を訪れたが、ホイミンはいつもライアンの懐の中に隠れて外の様子を窺うことができなかったのだ。見るもの全てが珍しく、また輝いて見えるのも当然だろう。そんな思い遣りから、ライアンはきょろきょろするなと注意するのではなく、手を引いてやることにしたのだ。
「は、はいっ。しっかり掴んでますぅ」
ホイミンはきゅっと握り返すと、「ライアン様の手、温かいですね」と言ってはにかむように笑った。ライアンはそっぽを向いて軽く咳払いしたが、やがて顔を背けたまま「お前の手も温かいぞ」とぽつりと返した。
確かにホイミンの言う通り、かなり大規模で豊かな町だった。アラン王国は、西の砂漠を越えてきた隊商を優遇することで取引を拡大させ、質の高い武具や珍しい宝石、薬剤などを大量に買い入れた。そして東の大陸と通商条約を締結してそれらを売りさばく。つまり物流の重要拠点として発展を遂げてきたのだ。
しかし経済発展には、人心や風俗の荒廃が付きもの。ライアンは目的もなく町を散策しながらも、感覚を研ぎ澄ませて町や人の様子を観察した。
一般の商店に混じってカジノや居酒屋、いかがわしい舞台小屋などが点在している。恐らく夜になれば、町の様相はがらりと変わるに違いない。今は買い物客や家族連れ、若い夫婦などで賑わっているが、日が落ちれば傍若無人な酔漢やひとときの快楽を求める男たちがうろつき回るのだろう。
夜は外出しない方が賢明だなとライアンは呟いた。国王への拝謁を終えたら早めに宿に戻った方がいいだろう。
「ライアン様ぁ、見て見て。あの看板面白いですねえ。うわ、果物がたくさん。ほぇ〜、綺麗なドレスが飾ってありますぅ」
無邪気にはしゃぐホイミンを優しく見つめながら、まだまだ子供だなと呟く。しかしライアンは、その呟きの中に作為的なものが含まれているのをちゃんと感じ取っていた。ホイミンはまだ子供なんだと自分に言い聞かせることで、胸の奥で高まりつつある“危険な”感情を抑えんとする理性の働きを。
もちろん理性は絶対ではないから、時として感情や本能に呑み込まれてしまうこともあるのだが。
「あの……これあげるっ」
突然子供の声がして、二人は思わず足を止めた。見ると幼い男の子が頬を染め、小さな小さなブーケをホイミンに向かって差し出していた。
「え、あの……それを僕に？」
「うん！ あげる」
ホイミンは戸惑いも露わにライアンの顔を見上げた。ライアンは笑顔で頷きを返す。
「あ、あの……。ありがとう、坊や」
ホイミンがブーケを受け取ってにっこり微笑むと、男の子は近付いてきた時よりさらに頬を赤くして逃げるように去っていった。ホイミンは手の中で揺れる可憐な花々を見つめて、
「ライアン様ぁ、お花もらっちゃいました〜〜」
「ああ。良かったな、ホイミン」
「はいっ」
嬉しそうに頷くホイミンを眺めながら、ライアンは胸の奥が温かく潤ってゆくのを感じた。ホイミンの愛らしさ、優しさ、無邪気さに、同じく純粋な心を持つ子供が惹き付けられるのはよく分かる。イムルの村でも、子供たちは魔物であるホイミンを恐れることなく受け入れた。やはり外見が魔物だろうが人間だろうが、ホイミンの稟質に変わりはないということだろう。
花を大事そうに抱えるホイミンに、ライアンは優しく声を撓めて、
「せっかくだから、髪に挿してみたらどうだ？」
ホイミンは驚いたようにぱたぱたと瞬きしたが、すぐに大きく頷いた。そして爪先立って背伸びすると―――
「うんしょ、うんしょ……」
手を伸ばしてブーケを髪に挿した。但し、ライアンの。ライアンは額に翳を落とし、
「ホイミン〜〜、誰が俺の髪に花を挿せと言った……」
「え？ だ、だってライアン様が……」
ライアンはがっくりと肩を落とし、すぐに花を取り外した。そして無骨な指でそおっとつまみ、ホイミンの髪に挿してやる。亜麻色の柔らかな髪に、淡い桃色の小花がよく映える。
「ほら、よく似合う。可愛いぞ」
そう言ってふわりと笑ったライアンだったが、次の瞬間はたと我に返り、文字通り顔から火を吹いた。
―――ななな、なにをやっているんだ俺はッ。似合うだと？ 可愛いだと？ ま、まるで恋人同士ではないかっ
自分の行動が信じられず、さらに恥ずかしさも加わって、プチパニック状態のライアン。ホイミンに背中を向けたまますーはーと深呼吸して、
―――そ、そうだ。クラゲだ。クラゲが頭に花を挿していると思えばいいんだ。は、ははっ、クラゲが花だぞ。滑稽ではないか。何をうろたえる必要があるのだ
無駄な足掻きと言えなくもないが、ともかく自己暗示をかけて何とか落ち着きを取り戻し、ゆっくりホイミンの方へ向き直った。
「ライアン様？」
花で髪を飾り、ちょんと首を傾げてライアンを見上げるホイミン。その愛らしさといったら。自己暗示も虚しく、再びライアンの心拍数は急上昇。
「ライアン様、あの、お顔が赤いですぅ。だいじょうぶですか？」
「あ、ああ。大丈夫だ。そろそろ城へ行くぞ」
「はぁい」
朗らかな返事と共に手を伸ばし、ライアンの手にそっと触れた。ライアンは一瞬ためらったが、ぎゅっと握り返して城下町を後にしたのだった。
20.
「バトランド王国騎士、ライアン。よく来てくれた。そなたの武勲は余も耳にしておる」
アラン国国王は親愛込めてそう言うと、ライアンに顔を上げるよう命じた。ライアンは頷いてゆるりと顔を上げ、
「勿体ないお言葉でございます。謁見を快く許可して下さり、まこと光栄に存じます」
「はは、堅苦しい挨拶はここまでにしよう。バトランド王は元気か？」
「はい。それはもう……元気過ぎるほどで」
ライアンの返答が気に入ったのか、王は大口を開けて笑った。
「そうかそうか。つまり相変わらずの女好きということだな。英雄色を好むとはよく言ったものだ。亡き前王は堅物だったからな。その反動かもしれん」
「反動が少々大き過ぎるかと」
「はは、確かに。しかしそれ以外に関しては、前王の才覚を受け継いだようだな。王国の平和と繁栄に尽くす賢王の令名は、我が国まで届いておる。立派なものだ」
自国の王が褒められて、悪い気はしない。ライアンは深く頭を下げ、礼を述べた。王は「うむ」と応えてから口調を引き締め、
「ところでライアン。貴殿は勇者の一行と合流すべく、彼らの後を追っているらしいな」
「左様でございます。聞けば、彼らは貴国にも滞在していたと」
「ああ、間違いない。つい数日前まで滞在していたようだ。南西の大陸に向かうと言っていたらしい。恐らくコナンベリーから船に乗るつもりだろう」
王の言葉で、勇者との距離が少しずつ縮まっていることが実感できた。ライアンは頭の中に素早く地図を広げる。コナンベリーの港町へ行くには、西の砂漠を越える必要がある。できれば砂漠での野宿は控えたい。それほど広くはないはずだから急げば一日で越えられるだろうが、ホイミンの体力がもつだろうか……
ライアンの憂慮を察したのか、アラン国王は言葉を続けた。
「そう、コナンベリーを訪れるには、砂漠を越えねばならん。とはいえ、今の季節は砂嵐もほとんど発生しない。それほど難儀なことではないだろう。しかし備えあれば憂いなし。ライアンよ、我が国原産のロバを一頭、貴殿に贈ろう。人間に従順で体は頑丈。とても優秀なロバだ。きっと役に立つはず」
王の心遣いに、ライアンは丁寧な礼を述べた。すると王は、礼には及ばぬとばかりに首を振り、
「その代わり、余の頼みを聞いてはくれぬか。南西の大陸にあるキングレオ城。そこを訪れて、余の親書を国王に手渡して欲しいのだ」
「もちろん構いませんが……」
ライアンの不審を察した王は、眉間に深い皺を刻んで頷きを返す。
「うむ。実はな、数カ月前からキングレオ城の様子がおかしいという報告が、方々から寄せられているのだ」
「それについては、私も耳にしたことがあります。王座を城の奥深くに隠し、城内への扉を固く閉ざして誰も受け入れないとか。しかも、民に対し重税を課して、反抗する者は悉く投獄していると」
ライアンの言葉に、王は眉間の皺をさらに深めて悲しげな声で、
「キングレオの国王とは余も古い付き合いで、実に聡明且つ寛容な素晴らしいお方だ。とても噂を信じる気になれんが、さすがに無視もできなくなってきた。彼の国で何か良くないことが起きているかもしれん。余からの親書を持参しているとなれば、追い返すこともできんだろう。ライアンよ、できれば国王や城の様子などを報告して欲しい」
「承知いたしました。王のご心痛も尤もかと。お任せ下さい」
アラン王は頼もしげにライアンを見つめ、「頼んだぞ」と言葉を掛けた。
王への謁見を終えたライアンは、控えの間にいるホイミンを迎えに行った。護衛の兵士に軽く一礼して室内を覗くと、豪奢な家具や装飾に恐縮しているのか、長椅子の端にちょんと座ったホイミンが落ち着かない様子で固まっていた。
「ホイミン、待たせたな」
ライアンの姿を認めたホイミンは途端に顔をぱぁっと輝かせて、椅子から飛び下りた。
「ライアン様ぁ！」
ぱたぱたと愛らしい足音を立てて駆け寄り、そのままの勢いでライアンに抱き付く。そして胸に顔を押し付けて、嬉しそうにすりすりした。近くにいる兵士が息を呑むのが伝わってくる。ライアンは慌てて肩に手を掛け、ホイミンの身体を押しのけた。
もっとくっついていたいのに、身体を無理やり引き剥がされたホイミンは手を伸ばしたままきょとんと見上げる。するとライアンは額に淡い翳を落とし、
「むやみに抱き付くな。子供ではないのだぞ」
「え？ で、でも……」
これまでも、一人で偵察に行っていたライアンが帰ってきた時などにはその胸に飛びついて、触手をぺたぺたくっつけて頬をむにむに押し付けて、“おかえりなさい”の意思表示をしていた。なのに―――
「ホイミン、いつまでもぼーっとしているな。行くぞ」
「は、はい……」
さっさと背中を向けて先を行くライアン。手を繋いでくれようともしない。その後をホイミンはとぼとぼと従いて行くしかなかった。
城から出ると、外はすでに黄昏の逢魔が時だった。今夜の宿はすでに決めてあったから、ライアンは迷うことなく真直ぐ向かう。ホイミンも慌てて背中を追い掛ける。しかしどこからか聞こえてくる声に思わず立ち止まり、耳を傾けた。
「悩める者、迷える者は私のところへおいでなさい。信じるべき道、正しい道を教えてしんぜよう。私は大陸一の占い師。私に読めぬ未来はないのだよ ―――」
声の主を探そうと辺りをきょろきょろすると、人だかりが見えた。その多くが若い女性で、みな手を突き出している。どうやら手相占いのようだ。ホイミンは迷う間もなくその人だかりに混じり、みなと同じように手を突き出した。するとその中心にいた老婆は、数多差し出された手の中から何故かホイミンの手を選び、大きな虫眼鏡で手相をじっと見て、
「おお、お前さんの悩みは人間関係だね。大事な人との関係がぎくしゃくしている」
ぴたりと当てられたホイミンは驚きと共に大きく頷いて、
「は、はいっ。でもどうしたらいいか分からなくて……」
「ふむ…。ぎくしゃくし始めたのは最近のようだね。しかも原因はお前さんの大きな変化にある」
ホイミンは息を呑んだ。そう、その通りだ。ライアンの態度が変化したのは、ホイミンが人間になってからなのは疑いようのない事実だった。
そういえばライアンは、人間になったことを余り喜んでくれなかったように思う。無骨な優しさに変わりはないけれど、でも微笑みかけてくれることは少なくなった。代わりに目を逸らすことが多くなった。
では、もう一度魔物に戻ればいいのだろうか。そうすればまた、温かい胸の中にすっぽり入って、顔をすりすりこすり付けて、ぎゅっと抱き締めてもらえるのだろうか……
「ぼくぅ……どうすれば……」
その時、ホイミンの名を呼ぶ声が後方から聞こえてきた。その声は明らかに尖って、苛立っていた。ホイミンはびくんと肩を揺らして、差し出していた手を引っ込める。すると占い師はホイミンの耳に顔を近づけ、
「どうすればいいか教えて欲しいのなら、今夜またここにおいで。あたしが教えてやるよ」
「ほ、ほんとに？」
「ああ、本当だ。さ、もう行きなさい」
ホイミンは頷きを返すと、あたふたとその場を離れた。そして自分を探しているライアンに向かって走って戻る。
「ライアン様、ごめんなさ―――」
ホイミンの謝罪は、ライアンの怒声で遮られた。
「この馬鹿者！ 一人で勝手にうろつくなと言っただろう！」
「ご、ごめんなさい……」
蒼くなってちぢこまるホイミンを見てようやく、ライアンは剥き出しの怒りをぶつけてしまったことを反省した。それでも、自分の言い付けを守らなかったホイミンへの苛立ちは収まらない。
それも仕方ないことかもしれない。日が落ちて夕闇に染まり始めた頃から、ライアンの予想通り素性の知れぬ男たちが街中をうろつき始めていたのだ。そして彼らはみな一様にホイミンに目を留め、舐めるようにその全身を眺めては下卑た嗤いを浮かべた。彼らがちょっとその気になれば、ホイミンを騙してどこかに連れ込むことなど容易いだろう。
もちろんホイミンは、そんなライアンの不安など理解できない。それは分かっている。だからこそ余計に苛立ちが募るのだ。ライアンはくるりと背中を向けて、
「今夜の宿はこの先だ。行くぞ」
「は、はい」
もう一度手を繋いでください、とはどうしても言えないホイミンだった。
21.
宿に到着した二人は、真っ直ぐカウンターに向かった。そこには人の良さそうな丸顔の親爺が座っていて、はちきれんばかりの笑顔で迎えた。
「バトランドから来たセヴランという。二名で予約していたはずだが」
騎士ライアンの名は大陸に広く知れ渡っており、魔物から命を狙われていることは前回の事件で証明済みだった。だから用心のため、こういった場所では偽名を使うことにしたのだ。
「セヴラン様でございますね？ 承っております。ええと……」
親爺は帳簿をめくりながらちらと視線を上げ、ライアンの傍に立つホイミンを見つめた。そしてやや声のトーンを落として、
「ええと、ツインのお部屋で承っておりますが、その、ダブルベッドのお部屋の方がよろしかったでしょうか。今からでも変更は―――」
ライアンは思いっ切り髪を逆立てて、
「要らん！ 余計な気を回すな！」
「し、失礼いたしました」
ライアンの剣幕に親爺は大きくのけぞって、何度も頭を下げた。そしてあたふたと鍵を渡すと、早口で部屋の簡単な説明をして奥に引っ込んでしまった。
「ねえ、ライアン様ぁ。ついんとだぶるべっどってどう違うのですか？」
廊下を歩きながら、ホイミンが首を傾げつつ訊ねる。しかしライアンはふいと顔を背けて、
「下らんことだ。お前が知る必要はない」
「そう、ですか……」
ああまただ。これまでならこういった質問に対し、きちんと答えてくれた。人間の世界のことに無知なホイミンが、好奇心の赴くまま色々な質問を浴びせても、そのひとつひとつに面倒がらず丁寧に応じてくれたのだ。なのに今は―――
―――やっぱり……ライアン様は変わってしまった……。でも、僕のせい？ 僕が人間になったから………
ホイミンは暗い念を払うようにぷるぷると頭を振り、そして宿泊する部屋に入った。いつもの癖でベッドの上に飛び乗り、ぽよんぽよんと跳ねてスプリングの具合を確かめる。
「おおお〜、このスプリングはちょっと硬めですね。でもなかなかの跳ね返りですぅ」
そしてベッドから飛び下りると、今度は風呂を覗きに行った。ぴかぴかに磨かれた石造りの浴室は、見ているだけでも気持ちいい。
「ライアン様ぁ、お風呂もとっても広いです〜」
「うむ」
ライアンは神妙な返事を返すと、旅装を解いた。同じように、慣れない手付きでもそもそと外套を脱ぐホイミンを見つめ、
「食事までまだ少し時間がある。ホイミン、先に風呂に入ってきなさい」
ホイミンはきょとんとした表情でライアンを見返し、
「先に？」
「ああ。遠慮は要らん。俺はその後に入る」
ホイミンはふるんと首を振った。そしてにっこり笑い、
「ライアン様と一緒に入ります。一緒がいいですぅ」
「駄目だ」
即座に拒絶され、ホイミンは驚きを隠せない。
「……え？ な、なんで………」
丸い笑顔がみるみるうちにしぼんでゆく。ライアンは一瞬、苦しそうに眉根を寄せた。が、すぐに厳しい表情になって、
「さっきも言っただろう。もう子供ではないのだ。風呂ぐらい一人で入りなさい」
「や、やだ！」
ライアンの命令に、初めて真正面から首を振ったホイミン。顔を真っ赤にして涙目で睨み、
「子供じゃなかったら、一緒にお風呂入っちゃいけないの？ 僕ぅ、ライアン様のお背中流してあげたいんだもん！ それから、一緒にお湯に浸かってぱしゃぱしゃしたいんだもん！」
必死の形相で訴えるホイミンに、ライアンは無情にも背中を向けて、
「俺は一人でゆっくり浸かりたいのだ。これまでは、身体が小さく湯に慣れていないお前一人では危ないからと思って一緒に入っていた。しかしもう一人で大丈夫だろう。これからは別々だ。分かったな」
そして「お前が嫌なら俺が先に入ってくる」と言い残して、さっさと風呂場へ行ってしまった。バタン、と大きな音と共に閉められた扉は、ホイミンにとっては二人の間を隔てる大きな壁そのものだった。
「ぅっ……ぅぇ、ぇっ………」
ホイミンは床にぺたんと座り込み、辺りを憚らず泣きじゃくった。二人の間にある壁。それは人間と魔物という乗り越えがたい差異として、以前から存在していたはず。これまでもその壁に悩み、苦しむことはあったけれど、そのたびにライアンと話し合うことで苦しさを解消することができた。
そして今、ホイミンは人間になれた。大きな壁は取り払われた……はずだった。なのに以前にも増してライアンが遠い存在に感じられてしまう。この不安、戸惑いをどうやって伝えれば良いのかも分からない。まるで、先の見えない隘路に迷い込んでしまったかのようだ。
「ライアン様ぁ……」
もうすぐライアンが風呂から戻ってくる。それまでには涙を止めておかねばならない。こんなことでべそべそ泣いていたことが知られたら、また子供じゃないのだぞと怒られてしまう。
ホイミンは涙を止めるべく、ライアンとの楽しかった思い出を頭の中の宝箱から引っ張り出した。ライアンの胸の中。世界一安全で安らげる場所から、ホイミンは色々なものを、色々な景色を見た。宿屋ではいつも膝の上。お風呂の時は必ず冷やしたタオルを頭の上に乗せてくれて、湯船にぷかぷか浮かぶホイミンを優しく目を細めて見つめてくれて……
「ふぇぇ……なみだが……とまらないよぉ………」
泣き止むために楽しいことを考えたはずなのに、余計に涙が溢れてくる。ホイミンは仕方なくベッドの中に潜り込んで、うたた寝するふりをしたのだった。
「……ホイミン、眠ってしまったのか？」
風呂から上がったライアンは、ベッドの中にいるホイミンを布団の上からぽんぽんと叩いた。するともぞもぞと動いて、
「は…い……ちょっとうとうとしてましたぁ……」
「そうか。疲れているようだな。さ、風呂に入ってきなさい。そして今日は早めに床に就こう」
ホイミンはのっそりと起き上がると、眠たそうに目をこしこしこすった。そして「お風呂入ってきますぅ…」とかすれた声で告げると、とぼとぼと部屋から出ていった。その目尻に涙の痕が残っているのを、ライアンは見逃さなかった。
「ずっと……泣いていたのか………」
ライアンはベッドの上にどさりと座り込んで肩を落とし、大きな溜め息をついた。ホイミンに対する自分の態度が変わってしまったことは、嫌というほど自覚している。それによってホイミンが不安や淋しさを感じていることも。きちんと説明してやらねばと分かっているのだが、どんな言葉が的確なのか分からない。だいいち、自分自身の変化すらちゃんと理解できない情態なのだ。
「ホイミン、済まない。もう少し時間をくれ……」
これまで自分の信じる道を真っ直ぐ進んできたライアンの、初めての迷いだった。
大した会話もなく夕食を済ませた二人は、明日の簡単な打ち合わせをして床に就いた。これまでのように一緒のベッドで寝たいという願いを呑み込んで、ホイミンは旅に出てから初めて一人で寝た。ライアンの口から拒絶の言葉を聞くのが恐かったから。
暗闇は苦手ではなかった。ずっと地下迷路にいた自分にとって、光の眩しさの方が脅威だった。それに、夜はいつもライアンの胸の中で安らかな夢に憩えたから。
しかし不安に苛まれる一人寝の夜は、ホイミンにとって長く苦しい時間だった。何も考えず眠ろうと焦れば焦るほど、余計な思念が浮かんで神経を逆撫でするのだ。もしかして、このままずっとこのよそよしい状態で旅を続けることになるのだろうか。もう以前のように、ぎゅっと抱き締めてくれることはないのだろうか………
「そんなの……やですぅ………」
暗い思念を振り払うように頭を振った拍子に、ある言葉を思い出した。
どうすればいいか教えて欲しいのなら、今夜またここにおいで
「占い師のおばあさん………そうだっ」
ホイミンはそっと耳を澄まし、ライアンの規則正しい寝息を確認する。大丈夫、熟睡しているようだ。そおっとベッドから下りて外套を羽織ると、そのまま夜の街へ飛び出していったのだった。
22.
「う、うわぁぁ……。夜なのに眩しいですぅ……」
宿屋を抜け出したホイミンは、初めて見る華やかな夜の街に驚きを隠せず、大きく瞬きして辺りを見回した。店先にはランプが灯り、路上に並べられたテーブルやカウンターでは若い男たちが旨そうにグラスを傾けている。中には、派手な格好の女性を連れて、その腰に腕を回している者もいた。
もちろんホイミンの目的はそのような場所ではなかったから、物珍しげに眺めるだけだった。しかし、
「お嬢ちゃん、可愛いね。お兄さんたちと一緒に飲まないかい？」
男に声を掛けられ、ホイミンは思わず辺りを見回す。そして他に誰もいないのを確認して初めて、彼が自分に声を掛けたのだと認識した。
「ほんとに可愛いなあ。旅の途中かい？」
男はテーブルから離れ、ホイミンの方に寄ってきた。ホイミンは慌てて首を振り、
「あ、あの……僕は……」
「僕？ おやおや、男の子だったのか。こりゃあいい。お兄さんが奢ってあげるよ」
腕を掴まれそうになって、ホイミンは慌てて飛びのいた。
「ぼ、ぼくっ、行くところがありますので！」
そして外套を頭から被り、一目散に逃げ出した。
―――な、なんだろう……なんでこんなに恐いんだろう。ただ、親切に声を掛けてくれただけなのに……
これまで人間に苛められたことはあったけれど、それとはまた別種の恐怖だった。ホイミンは、一人で宿屋を抜け出したことを後悔し始めていた。しかしあの占い師に会って助言をもらうのだと自分に言い聞かせ、夜の街を急いだ。
そしてようやく、彼女を見つけた。昼間と同じ場所、大きな樹の根元に座り込んで、炯々たる眼光を夜の街に向けている。それがホイミンの姿を捉えると、僅かに口許を緩めて微笑んだ。
「昼間の子だね。よく来た。さあ、ここにお座り」
「は、はい」
ホイミンは粗末な木の椅子に腰掛け、あたふたと手を差し出す。しかし老婆は笑って、
「もう手相は必要ないよ。昼間に見せてもらったからね。あれで十分だ」
そう言ってホイミンの方にぐっと身を乗り出し、下からじっと見上げた。
「大事な人との関係がぎくしゃくしている、それを何とかしたいというのがお前さんの悩みだったね？」
せかせかと頷くホイミンに、老婆は鋭い視線を向けて、
「その前に、ひとつ聞いておきたい。お前さんの一番の願いは何だい？」
「一番の…願い？」
「そう。これだけは譲れない、他の何を失っても構わないからこれさえ叶えばいいという願いだ」
「それは……」
いい加減な答えは許されないと、二人の間に通う空気の質感で理解した。ホイミンはふっと息を吐いて頭の中をクリアにする。そして出てきた答えは……
「ライアン様の……お傍にいること。傍にいさせて欲しい……それだけです」
「ふむ。では今現在、その願いは叶っているかい？」
「は、はい。叶っています」
「そうかい。ではお前さんは、それ以上に何を望もうっていうんだい？」
ホイミンは「ぁっ」と声を上げたまま、固まってしまう。そう、いつの間にか自分は、ライアンから多くを望むようになっていた。優しくして欲しい、ぎゅっと抱き締めて欲しい、一緒にお風呂に入って欲しい……
ホイミンの反省に気付いたのか、老婆は幾分声を和らげて、
「ずっと一緒にいれば、ちょっとしたすれ違いが起きるのは当然だ。そのたびに落ち込んでいたらきりがないよ。大丈夫、お前さんたちはもっと深いところでちゃんと繋がっているから。何より大事なのは、相手を信じることだ。分かったね？」
ホイミンは何度も頷いて、くすんと鼻をすすり上げた。
「さ、もうお行き。真っ直ぐ宿に帰るんだよ」
「はいっ。あの、おばあさん……ありがとう」
「元気でな、ホイミン」
ホイミンはすっくと立ち上がると、外套を被り直して帰っていった。その後ろ姿を眺めながら、老婆は誰にともなく語りかける。
「あれでよろしかったですか？ ホワイトドラゴン様」
すると背後にある大きな樹の陰から、腰まで届く金髪が美しい女性が姿を現した。美しいだけでなく、凛とした気品や思わず跪きたくなるような聖性をまとっている。
「ええ、あれで十分です。あの子ならちゃんと理解できたはず。あと、問題はライアンね。全く、情けないんだから」
どうやら本気で憤っているようだ。占い師、もとい、ナイトドラゴンは苦笑を浮かべ、
「あの男、ホイミンの変化だけでなく、自身の変化にも戸惑っているようですね」
「ええ。多少の戸惑いは仕方ないとは思います。ホイミンがあんな愛らしい美少年になって、私も驚いたぐらいですから。よほどデミウルゴス様のお気に召したのね。でも、」
ホワイトドラゴンは眉間に淡い皺を寄せる。美しいだけに、余計に凄みがあった。
「そろそろ受け止めてあげてもいい頃合でしょうに。禁欲的な騎士精神もほどほどにしないと」
「他の男性に持っていかれてしまいますね」
「そうよ。さっさと床入りしてしまえばいいのに。まったく」
「と、床入り……」
ホワイトドラゴンの繰言には、ホイミンへの愛情がたっぷり詰まっていた。
23.
「ぅ……ん………」
夢かうつつか、遠くから人の話し声が聞こえる。何を言っているのかは分からない。ただ話の合間に男たちの下卑た笑い声や若い女性の哄笑が聞こえ、酷く苛立った気分になる。ライアンは眉根を寄せて寝返りを打ったが、その拍子に目が開いてしまった。
「夢ではなかったようだな……」
話し声は宿の外から聞こえてくる。どうやらすぐ近くに居酒屋があるようだ。ゆっくりと起き上がって軽く頭を振る。そしてテーブルを挟んだ隣のベッドで寝ているホイミンの様子を窺った。しかし、
「ホイミン…？」
布団は大きく盛り上がっているが、中に人の気配はなかった。ライアンは慌ててベッドから下り、布団をはねのけた。そして空のベッドを呆然と見下ろす。
「ホイミンっ」
念のためトイレや風呂場を確認したが、のっぺりとした闇に覆われているだけ。ライアンは豪快に舌打ちすると、素早く着替えて夜の街に飛び出していった。
「え、えと……こっちから行こうかな……」
宿に戻るため急いでいたホイミンだったが、遠回りを余儀なくされていた。大きな通りにはテーブルや椅子が出され、男たちがグラス片手に大騒ぎしていた。先刻男に声を掛けられた時の何とも言えぬ不快感がまだ胸の奥でくすぶっており、そこを通るのが恐かったのだ。仕方なく細い路地に入って迂回し、また同じような居酒屋や立ち呑みバーに出くわして迂回する、それの繰り返しだった。
そうしてようやく宿に近付いてきた頃だった。背の高い植え込みの蔭で一人の男がうずくまっているのが見えた。背中を丸めて、とても苦しそうだった。ホイミンは迷った挙句そろそろと近付いて、背後から声をかけた。
「あの……だいじょうぶですか？」
しかし男は答えられる状態ではないのか、荒い呼吸を繰り返すのみ。顔を覗き込むと、薄闇でも判るほど蒼褪めていた。
ホイミンは背中をさすりながら、男に分からないようホイミの呪文をかけた。すると男は弾かれたように顔を上げ、ホイミンの方を振り向いた。ホイミンは笑顔をこしらえて、
「あの、気分はいかがですか？」
「……あんたが助けてくれたのか？」
「い、いえ……僕はただ背中をさすって差し上げただけです」
男はいきなり立ち上がってホイミンの腕を掴み、
「いや、助かった。飲んでいたら急に気分が悪くなってな。すきっ腹に飲んだから吐こうにも吐くものもねえし。あんたにお礼しなくちゃな。ほら、あそこの店でご馳走しよう」
ホイミンはぷるぷると首を振って、「けっこうです」と断る。しかし男は腕を離そうとせず、ぐいぐい引っ張っては「お礼がしたいんだよ」と繰り返す。ホイミンはほとんど涙目で首を振り続けたが、業を煮やした男に強く引き寄せられた拍子に足がもつれ、男の胸に倒れ込んだ。
「おおっと。ずいぶん積極的だな」
男は粘ついた声で囁くと、ホイミンの身体を両腕で拘束した。
「やっ、やだ！ 離してっ」
じたばた暴れるホイミンを濁った眼で見下ろし、口許に淫蕩な笑みを浮かべる。そして次の瞬間、ホイミンの身体を植え込みの蔭に押し倒した。
「ひゃぁっ……何する―――」
「うるせえ。人がせっかくお礼をしてやろうってのに。大人しくしてろ」
何で、何でこんなことをされるのだろう。僕はもう魔物じゃない、人間になれたのに。どうして魔物の時みたいに苛められるの？ どうしてこんな暴力を振るうの？ ただ治癒の呪文をかけてあげただけなのに―――
切実な疑問が、ホイミンの頭の中を駆け巡る。しかし答えは出て来ず、呆然としている間に男の手によって着物が裂かれた。
「ゃっ………やだぁっ、ライアン様ぁ！！」
喉を嗄らしてライアンの名を呼んだ瞬間、闇が応えるかのように震えた。そして暗い路地の奥から、生々しい怒りを全身に宿したライアンが現れた。剣は差していなかったが、その形相だけで男の戦意を喪失させるのに十分だった。
「すっ、すいませんでしたーーーっ」
四つん這いのまま逃げ出した男にはもはや一瞥もくれず、ぺたんと座り込んで啜り泣きを繰り返すホイミンを睨み付け、
「お前は何をやってるんだッ！ 一人で抜け出して夜遊びか？！」
敵にすら浴びせたことのない激しい怒声。ホイミンはかたかた震えながらも、必死に舌を動かした。
「ぼ、ぼく……うらないの……おばあさんにそうだんを………」
「占い、だとっ？」
まだ怒りの収まらぬライアンは、語気も荒く問う。ホイミンはびくんと跳ね上がって肩をすぼめ、
「昼間に会った……おばあさん………なやみごとがあったらそうだんにおいで、って……だから、ぼくぅ………」
「悩み事だと？ お前にどんな悩みがあるというのだ。望み通り人間になれて、何が不満だと―――」
「だってライアン様がっ……」
叫んでしまってから、そんな自分に驚くホイミン。多くを求めてはいけないとさっき反省したばかりなのに、これまで抑え込んできた言葉が次々と喉の奥から這い上がってくる。ライアンはすっと目を細め、
「何だ、俺がどうしたのだ。言いたいことがあるのなら言ってみなさい」
ホイミンはうぐうぐと喉を鳴らした挙句、ついに言葉を吐き出した。
「僕が人間になってから、ライアン様は変わってしまいました。前みたいに笑いかけてもくれない、ぎゅっとしてもくれない。一緒にお風呂も……一緒に寝るのも駄目って……」
豪快に鼻をすすり上げ、むせながらも言葉を続ける。
「僕ぅ……人間にならなければよかった……魔物のままでいれば……そしたらライアン様にぎゅっとしてもらえたのに、嫌われずに済んだのにっ………ぇっ、ぇぇっ………」
「ホイミン……」
「魔物に……戻りたいよぉ………」
「ホイミンっ」
叫ぶと同時に腰を屈め、ホイミンの身体を強く抱き締める。
「そんな……こと言わないでくれ……頼む………」
人間のために働いていつかは人間になりたいんですぅ―――出会ったばかりの頃そう言って瞳を輝かせていたホイミンが、魔物に戻りたいと泣いている。それも、自分のせいで………
「悪かった……ホイミン、俺が悪かった………」
耳許をくすぐるライアンの謝罪は、苦しげに掠れていた。心から自分を責めているのだ。
「俺の態度がお前を苦しめてしまった。自分でも気付いてはいたが、どうしたらよいか分からなかったのだ」
ホイミンはそろそろと顔を上げ、涙を透かしてライアンを見つめ、
「ライアン様……僕のこと嫌いになったんじゃないの……？」
「誰がお前を嫌うものか。人間になれて良かったと、本心からそう思っている。お前は俺の相棒だ。お前の幸せは俺の幸せ、お前の喜びは俺の喜びなんだ」
真剣な表情でライアンの言葉に耳を傾けていたホイミンだったが、次第に顔がへにゃりと崩れていった。そして、
「ぅっ……ぅぅ……うわぁぁぁぁーーーーん……ぁぁーーーーん………」
ライアンに嫌われていなかったと分かり、これまで抑え込んでいたものが一気に溢れ出た。涙と共に。
大きな口を開けてわあわあ泣き続けるホイミンを、ライアンはいつまでも抱き締め続けた。
「いいか、ホイミン。これからも風呂には一緒に入らないぞ。しかしそれはお前が嫌いになったからではない。本来風呂というものは、一人で入るものなのだ。分かったな？」
ライアンは宿に戻ると、ホイミンが納得するまで懇々と言い聞かせた。
「わ、わかりましたぁ。お風呂は一人で入ります。でも、あの、あの……」
「ん？ なんだ、言ってみなさい」
「一緒に寝るのは駄目ですか？」
思わずうっと詰まるライアン。もちろん駄目だと言おうとしたが、
「……駄目なんですね………魔物の時はずっと一緒だったのに………」
「い、いや、ホイミン……」
「ふぇっ、ぇぇっ………やっぱり………魔物の方が良かっ―――」
「ああーーーーっ、分かった！ 分かったから！ ほら、一緒に寝るぞ！」
半ばヤケ気味に叫んでどさりとベッドに横たわり、ホイミンに向かって両手を差し伸べる。ホイミンはぱあっと顔を輝かせて、腕の中に飛び込んだ。そして胸に顔を押し付けて、
「なんだか……こうして一緒に寝るの久しぶりのような気がしますぅ〜〜」
「ああ、そうだな……」
布団をかけ、ホイミンの身体に腕を回して背中を優しく撫でてやる。ホイミンは暫し嬉しそうに笑っていたが、やがてくぅくぅとあどけない寝息をたてて、幸せな眠りに沈み込んでいったのだった。
翌朝。宿を出ると約束通り国王からロバが届けられていた。ホイミンは頬を赤く染めて喜び、恐がることなくたてがみを撫でては「かわいい〜」と言って飛び跳ねた。そして、
「ライアン様ぁ、この子に名前を付けてあげなくちゃ」
「ん？ そうだな……」
「じゃあ……えと……ライミンてゆうのはどうですか？」
「…………」
ライアンの反応が芳しくないのを見て、ホイミンは別の名前を考える。
「じゃあ……えと………」
「ホイアンか？」
「わっ、すごい！ どうして分かったんですか？」
「はは……勘だ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返すホイミンの頭を撫で、
「名前は道中ゆっくり考えればいい。さあ、今日は砂漠を越えるぞ。そしてコナンベリーの港町を目指す」
「はいっ」
勇者一行との出会いは、もう間近に迫っていた。
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