＜6＞
「うわ、お洒落なビル……」
顔見せ当日。夏野は『M＋』の本社兼結城のアトリエとなっているビルに向かった。
まるでブランドショップのような洗練された外観に、思わず圧倒されてしまう。手持ちの服で一番マシなものを着てきたが、ファッションの最先端にいる人たちにとっては雑巾レベルに変わりない。
とはいえ、ここで躊躇していても始まらない。夏野は覚悟を決めて中に入り、指定されたフロアに上がった。
エレベーターを降りると、そこは取り澄ました外観から想像できない混沌と喧騒の世界。電話口で怒鳴るように指示を出している男性もいれば、半分以上が灰になった煙草を指に挟んだままパソコンの画面を睨んでいる女性もいる。
「あ、あの……僕……」
ちゃんと挨拶するべきなのか、仕事の邪魔をせず大人しくしているべきなのか判断がつかず、夏野はおろおろするばかり。しかしそこに、助け舟が現れた。
「ああ、夏野君。待ってたよ。こっちこっち」
結城が、三日前と変わらぬ柔らかな笑顔で声を掛けてくれた。夏野は安堵を噛み締めつつぺこりと頭を下げる。
「びっくりしただろ？ メディア向けの発表会が目前だからね。来年はデビューコレクションも控えてるし」
「は、はい。なんか殺気立ってるというか……」
「はは、その通り。でもみんないい人だから安心して」
まるで他人事だが、そもそもこれは結城が立ち上げたブランド。なのに結城本人に切羽詰った様子は見られない。
たぶん、有名ブランドの御曹司という恵まれた境遇のせいだろう。ガツガツしなくても成功が約束されている人間特有の、おっとりとした穏やかさが感じられる。
「あの部屋で待っててくれるかな」
結城に指示された部屋は、打ち合わせなどに使われるミーティングルームだった。夏野が入室すると、すでに数人の女性が座っていた。みな透明感溢れる美人で、座っていても絵になる。モデルに違いない。
彼女らは夏野の顔を見ると、怪訝そうに眉をひそめた。それも当然だろう。どう見てもカメラマンやデザイナーではないし、かといってモデルのはずはない。Ｍ＋はレディースブランドなのだから。しかし詮索するようはことはなく、中断された雑談を再開した。
「ね、さっきの話ホントなの？ メイクを逢沢鷹志が担当するって」
「そうよ。さっきマネージャーが確認してくれたの」
「やった！ 超ラッキー」
「逢沢鷹志ってそんな凄いの？」
「あなた知らないの？！ 名だたる女優、モデル、セレブ、アーティストが彼を指名するほどなのよ」
最も業界通らしき一人はそう言って、次々と名前を挙げていった。夏野が全く知らない名前もあれば、聞いたことがある名前もある。夏野はこっそり耳を傾けながら、たか兄ちゃんてそんな凄い人だったんだ……と今さらながらの感慨を噛み締めた。
外国で活躍しているということは春菜から聞いて知っていたが、こうして他人の口から聞くと一層重みが増す。
──―なのに、僕みたいな平均以下のど素人にメイクすることになるなんて。きっと不愉快に思ってるだろうな……。
なるべく考えまいとするのだが、ますます萎縮する心をどうすることもできず、夏野は一番隅の席で小さく小さくちぢこまっていた。
やがて、複数の足音とともに扉が開き、結城を含めスタッフたちが入ってきた。鷹志もいる。夏野は反射的に俯き、膝の上に置いた自分の手をひたすら見つめた。
「みなさんお忙しいところ、わざわざ時間を作っていただいて恐縮です。今日は簡単な顔見せで、撮影は明日からになります。まずはスタッフを紹介します。僕がチーフデザイナーでブランドオーナーの結城です。で、僕の隣から、ディレクターの笠原さん、マーチャンダイザーの瀬尾（せのお）さん、ブランドプレスの三井さん、カメラマンの竹井さん、フィッターの森さん、メイクの逢沢さん」
きゃあ、と押し殺した歓声が上がった。結城はいたずらっぽく笑い、「人気者だねえ」と茶化す。そして今度はモデルたちに自己紹介を促した。
言われてもいないのに一人一人立ち上がり、自慢のスタイルを披露しつつ名前や所属エージェンシー、そして仕事に対する意気込みなどを明るい声で答えた。
いよいよ夏野の番になった。夏野はおそるおそる立ち上がり、瀕死の蚊が鳴くような声で「聖夏野です」と何とか名前を言った。と同時に、モデルたちの間に不穏なさざ波が広がった。それも無理ないだろう。この不恰好な眼鏡をかけた怪しい少年が自分と同じモデルだなんて……。
空気が濁り始めたのを敏感に察した夏野は、早く自己紹介を終わらせねばと焦った。しかし所属エージェンシーなんてないし、こういう場で意気込みをはきはき喋れるならもっと違った人生を歩んでいたはずだ。そこで仕方なく、
「じゅっ、十九歳、男ですっ」
夏野、必死のアプローチ。すると「ぶはっ」と豪快に吹き出す音が聞こえた。口を押さえて「くくく…」と笑いをこらえているのは結城だ。が、すぐに「ごめんごめん」と取り繕い、
「夏野君には、僕が無理やりお願いしたんだ。皆さんとの契約は、デビューコレクションが終了するまで。それまでは夏野君がメインのイメージモデルとなるから。頼んだよ」
「は、はい！」
夏野は反射的に跳び上がって、その勢いでぴょこんとお辞儀した。しかしモデルたちの反応が怖くて顔を上げられない。この雑巾眼鏡がメイン？！ ふざけないで、やってられないわ──そんな罵詈雑言を覚悟したのだが、
「聖さん、これからよろしくお願いします。一緒に頑張りましょうね」
思いがけぬ優しい言葉に驚いて、夏野は弾かれたように顔を上げた。さっきまで胡乱な目で夏野のことを見ていたモデルたちはみな、優しい笑顔を浮かべている。
「何か分からないことがあったら、遠慮なく聞いてね」
「あ、ありがとうございます」
外見が美しいひとは心も美しいんだ、夏野はそんな感慨にしみじみと浸った。今後の撮影に対する不安がひとつ解消され、安堵からほっと息をついた。
「それじゃ、今日は簡単な打ち合わせをして解散だ。撮影は明日から。頼んだよ」
口調こそ柔らかだが、結城の声には本格的なスタートに向けた気合いが感じられた。夏野の背筋も自ずと伸びる。そして打ち合わせ終了後、夏野は湿布薬のお礼を言うため結城を追いかけた。
「あの、結城先生。先日はお薬をありがとうございました」
しかし結城は首を傾げ、
「薬？ ごめんね、何のことかな」
「あの、膝に貼る湿布薬をわざわざ買ってくださって……」
「いや、それは僕じゃないよ」
「え？」
てっきり結城だと思い込んでいた。違うとしたら、一体誰が……。
「怪我したのかい？ あっ、もしかして、撮影所で僕とぶつかったせいで──」
「ち、違うんです。先生とぶつかる前に、派手に転んでしまって…………あ」
確か、転んで膝を打ったことは鷹志にも言った。ということはまさか……。
「たか兄ちゃん？」
夏野は「失礼しました」と結城に頭を下げ、鷹志を捜した。しかし鷹志はすでに帰ってしまったようで、確かめることができなかった。
「たか兄ちゃん、ありがと」
夏野は勝手に決めつけている自分に呆れつつ、心の奥から温かいものが込み上げるのを感じた。
撮影初日の翌日。入り時間のきっかり十五分前に到着した夏野は、控え室をこっそり覗いた。鷹志と二人で話せるかもしれないと思ったのだ。しかし、
「逢沢センセにメイクしてもらえるなんて、すっごく幸せですぅ」
「ずっと憧れてたんですよぉ」
「この前オスカー獲った映画のプレスジャンケットで、メイク担当されたんですよね。すごーい」
すでにモデルは全員到着しており、鷹志を取り囲んで熱い視線を浴びせていた。鷹志は「ああ」とか「まあ」とか明らかに気のない返事をしながら、メイク道具のチェックやメンテナンスをしている。言うまでもなく、その輪に割り込んで湿布薬のお礼を言う度胸は夏野にはなかった。
「お、おはようございます……」
業界風挨拶がまだ口に馴染んでおらず、つい声が小さくなってしまう。そしてこそこそと荷物の置き場を探した。
「あ、聖さん。おはようございまーす」
夏野とは対照的な明るい声が、控え室に響き渡る。夏野はもう一度、今度は頑張って声を張って「おはようございます」と応じた。しかしすでにモデルたちは夏野の方を見てもいず、鷹志に必死に話しかけていた。
夏野は溜め息が漏れそうになったが、唇を結んでぷるんと頭を振った。とにかく今は仕事に集中すること。頑張ればきっと鷹志も認めてくれる。夏野は今日のスケジュールに目を通し、自分が着る服をチェックした。
──―うわあ、淡いグリーンが綺麗。翡翠みたい。こっちはルチルクォーツだ。
Ｍ＋の“Ｍ”はMineralの“Ｍ”。だから夏野も心おきなく鉱物にたとえることができた。オーディションで夏野が来た方解石のワンピースよりデザインの前衛度は抑え気味だったが、肩が外側に突き出したシャープな袖や、金属的な光沢を見せるスカートなど、ブランドコンセプトはきっちり表現されている。
──―僕に……着こなせるかな。
夏野の胸を、鉛色の不安がよぎった。
夏野の不安は的中した。鷹志の魔法で溜め息が漏れるほどの美少女に変身を遂げ、翡翠のワンピースを着たまではよかったのだが、撮影は順調には程遠い有様だった。
「夏野君、頭の中を空っぽにして。睨むんじゃなくて、視線を固定するだけでいいんだ」
結城の指示は音声としては入ってくるのだが、頭の中で明確なイメージを結ぶことなく消えてしまう。夏野は焦り、何とかOKをもらえるよう頑張った。しかしその頑張りが、結城の求めるものから余計に遠ざけてしまっていることに夏野は気づけなかった。
「君は人形なんだ。意志のない無機質な人形。肌は陶器で瞳は硝子。分かるかい？ “よく見られよう”とか“頑張っていると思われよう”なんて色気は捨てなさい」
分かる、けど、そのためにどうすればいいのか分からない。夏野は自分の不甲斐なさに泣きたくなった。他のモデルにも迷惑をかけてしまうし、何より鷹志を苛々させてしまう。
「さ、もう一回。目線はこっち、口元に力を入れない……いや、そうじゃない」
どうしよう、どうしよう──―焦りと緊張がない交ぜになって全身を駆け巡る。そのせいなのか、あるいは昨夜から何も食べていないからなのか、足元がふらつき始めた。
ずっと立ち詰めで、おまけにライトが熱くて息苦しい。ポージングも笑顔も必要ないから自分にもできると思ったけれど、今になって「こいつには無理だ」と言った鷹志の正しさが身に沁みた。でも、
─―─頑張るんだ。ここで弱音を吐いたらまた、いつもの自分に逆戻りだ。
夏野は自分に言い聞かせながら、結城の指示を必死に追った。そうするうちに視界は霞み、星がちかちか瞬き、次の瞬間視界がゆらりと左に流れた。
「あ、危ない！」
結城の切迫した声に続いて聞こえたのは、鷹志の鋭い声。
「夏野ッ」
あ、倒れる、そう思った時にはすでに遅かった。足に力が入らず、そのまま身体が斜め前に傾いた。が、床に倒れ込むことはなかった。気がつけば鷹志の腕に抱きかかえられ、そっと床の上に横たえられた。
「お前っ、顔が真っ青じゃねえか。なんでこんな無理したんだ！」
「ごめ…なさい……」
夏野はただ謝るしかできない。鷹志を苛々させないよう頑張ろうと思ったのに、一日目からこのザマだ。そんな自分が情けなくて、惨めで……。
「本当だ。ライティングのせいで気がつかなかったよ。夏野君、悪かったね」
心配そうに覗き込む結城にも謝ろうとしたが、それより先にお腹がくるくると鳴った。結城はおや、という顔をして、
「夏野君、お腹空いてるのかい？」
「あ、あの、実は緊張でゆうべから何も喉を通らなくて……」
「ははっ、なるほど。オッケー。軽食を用意させるから、控え室で休んでいるといい。逢沢君、いいかな」
鷹志は憮然としたまま頷き、夏野をひょいと抱き上げた。その動作があまりに自然で堂々としていたので、夏野は恥ずかしさより安心感を覚え、鷹志の胸にきゅっとしがみついた。
小さい頃、遊びに行こうとする鷹志と姉を追いかけて転んだ夏野を、ほんとに鈍くせえなと言いつつおぶってくれた、そんな記憶が甘い郷愁とともに蘇る。
「ほら、少し横になってろ」
物置になっていたソファを片付けて、即席のベッドを作ってくれた。夏野は服がしわにならないよう慎重に横になる。
「結城さんは、体調管理にだけは注意しろと言ったはずだ」
いきなりの厳しい言葉に、甘い記憶はパッと散った。現実に戻った夏野は、視線を落としたまま「すみませんでした」と謝る。
「無理して我を押し通すのと頑張るのは違う。契約した以上、お前の身体はお前だけのものじゃないんだからな」
「……はい、分かりました」
やはり下を向いたまま答えると、尖った靴音が近づいてきた。続いて苛立ちを隠さぬ声で、
「夏野、お前いい加減に俺を見──」
「やあ、夏野君。具合はどうかな」
鷹志が言い終える前に、結城が部屋に入ってきた。そしてトレーを夏野の前に置き、
「はい。サンドイッチとミネストローネスープ。ちゃんと食べないとダメだよ。モデルはけっこう体力要るんだから」
言ってる内容自体はそう変わらないのに、鷹志の厳しい言葉とは正反対の優しい響きが耳をくすぐる。夏野はゆっくり身体を起こし、やや緊張のほぐれた声で「ご迷惑をおかけしました」と謝罪した。すると結城は手を振り、
「いや、別に迷惑じゃないさ。体調が戻ったらまた撮影すればいいだけのことだ」
「いえ、倒れたことだけじゃなくて……。結城先生の指示通りにできなくて、不甲斐ないっていうか」
自責の言葉を、結城はからりと笑い飛ばす。
「最初からいきなりこちらの要求通りにできる子なんてそういないよ」
「でも、他のモデルさんたちは順調に進んでいるようですし」
「ああ、まあ正直に言うと、彼女らは添え物だから。夏野君がステーキなら、彼女たちは付け合わせの野菜みたいなもの。野菜も一応調理はするけれど、全体の評価を決めるのはメインとなるステーキの味や出来映えだ。どうしても要求するものが多くなってしまう。分かる？」
「はい、とてもよく分かります」
「はは、ステーキにたとえたのがよかったかな。だから、他の子はできてるのに……なんて自分を責める必要はない。いいね？」
「はい」
「お、いい返事だ。よしよし。それじゃ、逢沢君……あ、あれ？」
いつの間にか、鷹志はいなくなっていた。
「なんだ、黙って出ていくなんて冷たいなあ」
「僕のせいです。怒らせてしまったから」
「ん？ いや、怒ってるというより心配してるって感じだな。この前、君がモデルになるのを反対した時と同じだ。よほど、君のことが大事なんだろうね」
夏野はたっぷり数秒間絶句してから、ぶるんと大きく首を振った。
「そんなわけないです。僕は逢沢先生にとって……見てると苛々するだけの存在なんですから」
「うわ、それはまた卑屈だね」
「でも、事実だからしょうがないです」
結城は「ふむ」とうなって首をひねり、
「こんなに素直で可愛くて真面目な子に、苛々するはずないと思うけどなあ」
「そ、それは、結城先生の心が広いからだと思います」
「はは。お褒めにあずかり光栄だ。僕はそろそろ現場に戻るよ。これを食べて、しばらく休んでていいから。じゃね」
「はい。あ、あの、結城先生。ありがとうございました」
膝の上に両手を揃えて深々とお辞儀すると、結城は一瞬だが驚いたように目を見開いた。やがて照れ臭そうに笑うと、軽く手を振って部屋を後にした。
―──結城先生、優しいなあ……。
しみじみとした呟きとは裏腹に、身体は抱き上げられた時の鷹志の温もりを自然と追っていた。
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