＜22＞
水晶の柱がそびえる透明の森に、無機質な輝きをまとった鉱石の人形が次々と現れる。方解石、蛍石、薔薇石英、アクアマリン、ラピスラズリ。光の粒子をまき散らしながら淡々と歩く姿は美しいが、どこか近寄りがたい冷ややかさを秘めている。
そう、彼女らは人形でも、誰かに所有されるための人形ではないのだ。所有者を必要としない人形、高貴な水晶姫、すなわち普遍の客体―――
光に吸い込まれるようにしてステージに出た夏野は、話題の美少女モデルNATSUの姿を捉えようと一斉にたかれた無数のフラッシュに、一瞬だが足が竦んだ。しかし一歩踏み出すと、家でずっと練習していたモデルウォーキングが身体に染みついていたのか、次の二歩、三歩がすんなり出た。
そうして気づけば、ランウェイの先端でフラッシュの洪水を浴びながらターンしていた。あとは行きと同じテンポでバックステージに戻るだけ。
「夏野君、よかったよ。その調子で」
迎えてくれた結城がすかさず声を掛けてくれたが、お礼を言う間もなく次の服に着替える。フィッターやドレッサーと呼ばれるスタッフに手伝ってもらい、素早く且つ慎重に衣装を替えるのだ。
夏野だけではなく、戻ってきたモデルも次々と着替えるのだから、バックステージはスタッフが走り回る戦争状態だった。下着姿でうろつくモデルもいて夏野は目のやり場に困ったが、男性スタッフも平然としていたから、これで普通なのだろう。華やかな世界の苛酷な裏側を、夏野は今さら学んだような気がした。
狂騒状態のバックステージとは対照的に、ショーは順調に進んでいた。時折拍手も湧き上がり、結城の作り上げた世界に観客たちが惹き込まれているのがありありと窺える。
夏野はすでに四着の披露を終えて、残すはあと一着だった。手際よく着替えを終えると、鷹志がメイク道具を持って近づいてきた。
「最終チェックだ。簡単に直すぞ」
直しはあっという間に終わった。夏野が「ありがとう」とお礼を言うと、鷹志はいつも鋭い輝きを帯びている切れ長の目をふっと和らげて微笑った。そして、
「これで最後だな。頑張れよ。客席から見てるぞ」
重過ぎない激励の言葉を残して去っていった。微笑みの温かな余韻に浸りながら後ろ姿を見送っていた夏野だったが、はたと気づいた。そう、最後。これで最後なのだ。鷹志にメイクしてもらうのは。
夏野はショーが終わった後、結城に専属モデルの話を断ると決めていた。だから、これが正真正銘最後の変身となる。そんな分かりきったことを、今の今まで意識せずにいたなんて。
夏野はあらためて、鏡に映った自分を見つめた。この姿に未練があるわけではない。正直今でも違和感はあるし、恥ずかしい。でもこの姿には、夏野を綺麗にしてやろうという鷹志の思いが結実しているのだ。
それが私的な感情ではなく、メイクアップアーティストとしてのプロ意識だということは分かっているが、それでも嬉しかった。夏野なんか、とバカにせず真剣に向き合ってくれただけで十分だった。
──たか兄ちゃん。ほんとにありがとう。
夏野はじわじわと込み上げる熱いものを必死に抑えつつ、出番待ちの列に並ぼうとした。その時、
「えーっ、逢沢センセ、ニューヨークに戻っちゃうの？！ うそぉ」
いきなり耳に飛び込んできた言葉に、夏野の動きは止まった。頭の中が真っ白になり、思考も感情も飛び散った空っぽの頭蓋に、モデルたちの会話が虚しく響く。
「ほんとよ。さっきメイクアシスタントの子に聞いたんだから。このデビューコレクションが終わったら、すぐニューヨークに発つんだって」
「じゃあもうメイクしてもらえないんだ。すごいショック」
「しょうがないよ。売れっ子なんだから。狭い日本でちまちま仕事してるより、やっぱり本場ニューヨークで脚光を浴びたいだろうし」
夏野は無意識のうちに頭を振っていた。信じられない、信じたくない。でも誰かが言っていたように、彼は売れっ子のメイクアップアーティストなのだ。
今回は結城の求めに応じて一時的に戻ってきただけで、仕事が終わればより活躍できる海外に戻るのは当然のこと。ずっと日本にいると、夏野が勝手に思い込んでいただけだ。
「夏野君、ほら並んで。もうすぐ出番だ」
ディレクターの指示にふわふわと頷いて、夏野はステージ脇の列に並ぶ。もちろん、頭の中はショーではなく鷹志のことでいっぱいだった。まだショックから立ち直れず、足元がふらついている。
──たか兄ちゃんが……ニューヨークに行ってしまう……。
突きつけられた鉄の現実に、心がついていかない。それでも出番は容赦なく近づいてくる。そして夏野はついに最後のランウェイへ。白い光の弾ける水晶の森に一歩踏み出すと同時に、夏野の脳裏をたくさんの思い出が猛スピードで駆け抜けた。
それは、この数カ月であらためて知った鷹志の優しさの証でもあった。厳しい言葉や態度の奥にある、相手を真摯に思い遣る気持ち。それは魔法のように、萎縮していた夏野の心を融かしていった。
俯くな、前を向け。卑屈になるな。お前はダメな奴じゃない──その力強い言葉に背中を押され、自分は今こうして華やかな舞台に立っている。
たとえモデルをやめても、鷹志がニューヨークに戻ってしまっても、鷹志がかけてくれた魔法はいつまでも夏野の中に残って、子供の頃に植えつけられた劣等感を少しずつ削ぎ落としてくれるだろう。
もうすぐ鷹志は遠くへ行ってしまう。別れの哀しみはもちろんあったが、それにもまして夏野の心に溢れたのは、鷹志に対する感謝の気持ちだった。
ありがとう、あなたに再会できてよかった。短い間だったけど共に過ごせてよかった。叱ってもらえてよかった。メイクしてもらえてよかった──だから、お礼の気持ちを今ここで伝えます。
──たか兄ちゃん、ありがとう。大好き！
舞台の中央で、夏野は笑った。何年ぶりの笑顔だろう。それは、この客席のどこかで見ているはずの鷹志に送る感謝のメッセージだった。
無数のフラッシュがたかれ、視界がハレーションを起こす。しかし夏野は動揺せず、美しいターンで方向転換した。そしてバックステージに戻ると、真っ直ぐ結城の元へ。
あそこで笑顔を見せることが、ブランドイメージに反することだともちろん承知していた。夏野は深く頭を下げ、
「結城先生、申し訳あり──」
謝罪の言葉を遮ったのは、息を切らせて駆け込んできた鷹志だった。
「結城さんっ、待ってくれ！ あれは夏野が悪いんじゃない。俺が笑顔を見せろだの何だのうるさく言ったからこいつは──」
「違う！ 僕はたか兄ちゃんにありがとうって伝えたかったんだ。たか兄ちゃんのお陰で、あんなにたくさんの人の前で笑えるようになったって。これで……最後だからっ……」
「最後？ 何が最後なんだよ」
不審げに眉根を寄せる鷹志に、夏野は涙をこらえつつ訴えた。
「僕知ってるもん。このショーが終わったら、たか兄ちゃんはニューヨークに帰っちゃうって。だから、だから僕っ……」
言葉にしたことで別離の現実感がより鮮やかになり、夏野の胸に迫ってきた。抑え込んでいたはずの哀しみが一気に膨張し、瞳から透明な液体となって溢れ出た。
「ちょっ…待て！ 夏野っ、俺は……」
鷹志はうろたえつつも、夏野を宥めようとする。その様子を見ていた結城は「やれやれ」とぼやき、鷹志と夏野の背中を押した。
「ほら、二人で話してくるといい。あそこのメイクルームなら誰もいないよ。これからフィナーレだから、僕はステージに出なくちゃならない。あ、夏野君には辞退してもらおう。ステージで勝手なことしたから、ペナルティを科さないとね」
夏野はくすんと鼻を鳴らして、結城を見上げた。結城は言葉とは裏腹に、とても優しい表情をしている。
「結城せんせ……ありがと…ございます……」
ぐずぐずの涙声でお礼を言う夏野の頬をさらりと撫でると、結城は拍手と歓声に沸き返るランウェイに颯爽と出て行った。
「……夏野、こっち来い」
鷹志は夏野の腕を引いてメイクルームに入り、仕切り用のカーテンを閉めた。そしてあらためて夏野に向かい合い、
「俺がニューヨークに行くって、誰に聞いた」
「だ、誰って……モデルの子たちが話してたもん。売れっ子なんだから当然だって」
答えながら新たな涙を実らせる夏野を前に、鷹志は深い溜め息をつき、
「確かに行くけどな。新しい化粧品ブランドのプロモーションイベントに呼ばれただけだから、一週間で帰ってくるぞ」
「……へっ？ いっしゅう…かん？」
「おう。勝手に早とちりしやがって。何がこれで最後、だよ」
夏野はしばし呆然としていたが、やがてぼっと音がしそうな勢いで発火した。恥ずかしくて恥ずかしくて、でも嬉しくて、感情がうまく整理できない。
「じ、じゃあたか兄ちゃんはずっと日本にいる？」
期待を込めて夏野は訊ねたが、鷹志はなぜか口ごもって顔を背けた。
「たか兄ちゃん？ やっぱり向こうへ行っちゃうの……？」
「……ああ、そのつもりだった。このデビューコレクションが終わったら、結城さんとの契約は更新せずニューヨークかパリにでも行こうと。でないと、またいつ不用意な言葉でお前を傷つけてしまうかもしれない。いや、新たな傷を付けなくても、俺がいるだけでお前は六年前の言葉を思い出し、いつまでたっても笑顔を取り戻せなくなってしまう。だから離れるべきだと思った」
あいつはオレ様のくせに臆病なところがあるから──春菜の言った意味が分かるような気がした。鷹志は、また夏野を傷つけてしまうのではないかと怖れていたのだ。しかし、鷹志が夏野から離れようとした理由はそれだけではなかった。
「それに、結城さんと仲良くやっているお前を見たくなかった」
そう言う鷹志の顔は、かすかに赤くなっている。訳が分からず首を傾げる夏野に、鷹志はちらと含蓄ある視線を送り、
「お前は結城さんに惚れてると思ってた。あの人は俺と違って優しいし、俺と違って紳士だし、俺と違ってお前を傷つけたり──」
夏野はたまらず抱き着いて、言葉を遮った。すると頭上から、ふっと甘い吐息が降ってきた。
「だから驚いたぞ。いきなりキスされた時は」
夏野は「ひえっ」と叫んで弾かれたように飛びのき、深く深く頭を下げた。
「ごめんなさいっ。あんなことして。ほ、ほんとはすぐにでも消毒液を持ってお詫びに行きたかったんだけどっ……」
頭を下げたまま必死に謝罪すると、一拍おいて爆笑が響き渡った。
「しょ、消毒液って……ははははっ、お前はほんっとに……ああ、腹痛え」
「な、なんで笑うんだよっ。僕にキスなんかされて、きっと気持ち悪がってるって思ったから──」
今度は鷹志が言葉を遮る番だった。腕を掴んで抱き寄せられる。夏野の華奢な身体は、鷹志の広い胸にすっぽり収まった。
抱き上げられたことはあったけれど、こんな風に隙間もないほどぴったり密着したことはない。じわじわ伝わる体温が、媚薬のように夏野を酔わせた。
「夏野、さっきの笑顔は最高だった。もう一度、俺だけに見せてくれないか？」
いつの間にか、新たな涙が溢れていた。でもそれは、これまで流したどんな涙より温かく甘かった。
夏野はこくんと頷いて顔を上げ、ぐしゃぐしゃに濡れた顔で笑ってみせる。鷹志は「ひでえ顔」と苦笑したが、「これはこれで可愛いな」と言って夏野の唇に軽いキスを落とした。
「……！！」
突然のキスに恐慌状態に陥った夏野は、口をぱくぱくさせて鷹志を見上げた。すると鷹志は不敵に笑い、
「この前のお返しだ」
ということは、あのキスは嫌じゃなかったのだろうか。消毒液は必要なかったのだろうか。そう思うと嬉しくて、夏野は真っ赤な顔でもじもじしつつ鷹志の頬に“お返しのお返し”をした。次の瞬間、
「ああ、くそっ。我慢できねえ」
鷹志は切実な叫びとともに夏野の腰を抱き、荒々しく唇を塞いだ。構える余裕もなく無防備なまま受け入れた夏野だったが、驚きが悦びと陶酔に変わるのに時間はかからなかった。おそるおそる舌を差し出すと、待ち構えていたかのように搦め捕られ、吸い上げられる。
「ん、んっ、ふぅん……」
フィナーレを迎えたステージから届く歓声を遠くに聞きながら、二人は吐息を混ぜ合わせるような熱烈な口づけに没頭し続けたのだった。
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