＜13＞
「うわあ、お城みたい。すごい、ここに泊まるんだ」
ヨーロッパのお城かディズニーランドを想わせるホテルの外観にテンション急上昇の夏野とは対照的に、鷹志は渋い顔つきで何やらぶつぶつ言っている。
「なんでこんなホテルしかねえんだよっ。ったく……」
どうやらホテルが気に入らないようだが、夏野にはその理由が分からない。こんなに豪華で、ピンク色の照明に綺麗にライトアップされた素敵なホテルなのに。
「たか兄ちゃん、早く入ろうよ」
鷹志の手を掴んでぐいぐい引っ張る夏野を、鷹志は豪快な舌打ちとともに睨み、
「はしゃぐな。大人しくしてろ」
「はーい……」
迫力たっぷりに凄まれて、夏野はしゅんとしおれる。しかし中に入ると鷹志の言いつけも忘れ、再びテンションアップ。それは部屋に入るとさらに上昇した。
「うわあ、大きいベッド。童話に出てくるお姫様のベッドみたいだね。お風呂も広いよ」
「ああ分かった分かった。さっさと浴槽に湯を張ってこい」
鷹志はもう諦めたのか、さっきみたいに静かにしろとは言わない。ただ呆れたように指示する。夏野は言われた通り浴槽に湯を張り、アメニティをチェックして部屋に戻る。そしてようやく、重大なことに気づいた。
「ね、たか兄ちゃん。この部屋、ベッドひとつしかないよ」
「ああ？ 当たり前だろ」
何が当たり前なのか分からないが、きっとツインルームが空いてなかったのだろうと思い、夏野は納得して頷いた。そしてベッドの端に浅く腰掛けている鷹志の隣にぽすんと座る。
「な、なんだよいきなり」
なぜかうろたえる鷹志を、夏野はじっと見上げ、
「すごく久しぶりだね。こうして一緒の部屋に泊まるの」
幼い頃は、何度か鷹志の家に泊まったことがあった。けれどいつからか、俺んちに泊まっていけよ、と言ってくれなくなった。だから久しぶりのお泊りは懐かしくて、ちょっとくすぐったくて、そして嬉しい。
けれど鷹志は「そうだったけな」と素っ気ない言葉を残して、洗面所へ行ってしまった。このホテルに来てから、鷹志の態度が微妙におかしい。いつも以上に無愛想で、何となく避けられているような気もする。
けれど夏野は頭をぶんぶん振って、気にしすぎだと自分に言い聞かせた。それに、鷹志は自分を捜してくれた上、病院にまで連れて行ってくれたのだ。これで態度が無愛想だなんて言ったら、バチが当たるというものだ。
「夏野、風呂が沸いたから先に入れ。洗面所にクレンジングがあるから、ちゃんとメイクを落としてから入るんだぞ」
ほら、やっぱりこういうところは優しい。夏野は「はい！」と浮かれた声で返事をして、バスルームへ向かった。
「ああ……ここまで天然のお子様だとは思っていなかった」
鷹志は心底から湧く感慨とともに、深い溜め息をついた。周辺にはこのホテルしかないようだから今夜はここに泊まるけどいいか？ と、さしもの鷹志も遠慮がちに提案したのだが、
「うわあ、お城みたい、ときたか。ったく」
たぶん、いや間違いなく、このホテルが巷間で何と総称されている場所なのか夏野は気づいていない。もちろん気づかせるつもりは毛頭なく、“お城みたいな可愛いホテル”ということにしておこうと決めていた。
そんなことより気になるのは、結城の夏野に対する態度だ。
初めは、物珍しいだけだろうと思っていた。結城が長い間身を置いてきた業界は、男も女もギラギラ、ガツガツして過剰な自意識を振りまき、隙あらば他人を蹴落として自分を売り込もうという人間ばかり。
そうしなければ生き残れない苛酷な生存競争が日常だから仕方ないのだが、そんな極彩色の世界に慣れた目に、純粋で控え目な夏野はまさに谷間の百合のごとく澄んだ輝きを放って見えてもおかしくはない。
つまり結城が夏野のことをことさら気にかけ特別扱いするのは、これまで出会ったことのない人種に対する興味のゆえだと思っていた。
しかし、結城は夏野を叱った。隣にいた鷹志にも、電話越しの叱責の声が聞こえた。正直、結城のあんな声を聞いたのは初めてだった。
ニューヨークで一緒に仕事した三カ月の間、彼が声を荒げる姿を見たことは一度もない。何かと楯突く現地スタッフにも、思い通りに動かないモデルにも、ジャパニーズブランドがニューヨークで成功するはずないと鼻先で笑うエディターにも、紳士的に且つ粘り強く対応した。とても自分にはできない芸当だと、鷹志は感心したものだ。
そんな恐ろしく沸点の高い結城が、夏野を本気で叱ったのだ。それが何を意味するのか、鷹志には分かるような気がする。
結城の紳士的で穏やかな言動は、この業界で足元をすくわれぬため身に着けた方便、処世術だ。その強固な仮面が、ほんの一瞬だが吹き飛んだのだ。原動力となったのは、夏野を想う気持ち……。
「だから、何だっつうんだ」
俺には関係ねえと続けて、鷹志は勢いよく立ち上がった。そして室内をぐるりと見回す。
「やっぱりこれしかないか。しょうがねえな」
鷹志はぶつぶつ言いながらソファを移動させ、簡易ベッドをこしらえた。室内は暖かいし、着ているダウンジャケットを布団代わりに掛ければ、十分眠れるだろう。
鷹志は即席ベッドにどさりを腰を下ろし、先刻までの思考の残滓を振り落とすようにぶるっと頭を振った。その時、
「たか兄ちゃぁぁん……」
バスルームから、いかにも救いを求めるような夏野の声が。鷹志は眉間にざっくり皺を刻みつつ、声のした方に向かった。そしてすりガラス越しに声を掛ける。
「どうしたんだよ、一体」
「ひぇぇぇ、何これぇ……」
ひええ、とかうわあ、とか言うばかりで、ちっとも要領を得ない。鷹志はチッと豪快に舌打ちして、浴室の扉を小さく開けた。
目の焦点をわざとぼかして中を覗いたが、そんな己の無意識の行動にはたと気づき顔をしかめる。夏野の裸なんて見たところで別にどうってことないじゃないか、と。
そんな心の声に促され、鷹志はあらためて中を覗いた。今度はちゃんと焦点を合わせて。夏野は床に座り込んでいたが、その全身はぬらぬらと卑猥極まりない光沢を帯びていた。
「お前っ……何やってんだ！」
「ボディソープがヘンだよぉ。ぬるぬるして、ちっとも泡が出ないよ」
鷹志はその場に座り込みそうになったが、何とか気を取り直して教えた。
「それはボディソープじゃねえっ」
「違うの？ じゃあこれは何？」
「な、何でもいいだろっ。ボディソープはそっちの白いポンプだ。一度湯で身体を流してから洗い直せっ」
鷹志は早口で叩きつけると、素早く扉を閉めてバスルームを出た。湯気のお陰で細部までは見えなかったが、薔薇色に上気した肌がローションにまみれてぬるぬる光っているのは、かなり扇情的な光景だった。いや、率直に言ってひどく淫らだった。
おまけに、困ったように眉根を寄せた表情は妙に悩ましげで、すがるような眼差しは保護欲をそそる。白い湯気の中でも大きな黒瞳はひときわ存在感を放ち、浴室の照明を跳ね返してきらきら輝いていた。
「くそ、嘘だろ。あれは夏野だぞ。夏野相手に……」
口から漏れる言葉とは裏腹に、鷹志は欲情している自分を認めざるを得なかった。
身体に付着したぬるぬるを何とか綺麗に落とし、あらためてボディソープを付けて洗った。
「はああ……びっくりした」
それにしてもあのぬるぬるは一体何なんだろう。夏野は首をひねりつつも浴室を出て水気を拭い、バスローブを広げた。
「おお、これがバスローブかあ」
テレビや映画で見たことはあるが、実際身に着けるのは初めて。ちょっとセレブになった気分だ。丈が短くてお尻が見えそうなのが気になるが、こういうタイプのもあるのだろうと思いそのまま部屋に戻った。
「たか兄ちゃん、上がったよ。さっきはごめんね」
「ん、ああ。ちゃんと洗い流したか？」
応えながら顔を上げた鷹志は、夏野を見てぎょっとしたように目を見開いた。
「なんだよその格好は！」
「え？ これってお風呂上りに着るやつだよね」
夏野はきょとんとして訊ねると、鷹志は「まあ、そうだけど…」とトーンダウンした。そして素早く立ち上がると、「風呂入ってくる」と言って夏野の方を全く見ずに行ってしまった。
部屋に一人残された夏野は、まずナイトウェアに着替えた。用意されているのはピンクとブルー。そのうちピンクはひらひらしたいわゆるネグリジェというやつだ。自分に似合うとは到底思わないが、鷹志にこれを着せるわけにもいかないだろうという犠牲的精神により選んだ。
それからベッドを整える。ここで鷹志と枕を並べて眠るのかと思うと、嬉しいような恥ずかしいような感慨が湧き上がる。
それは想定内だったが、ひとつ思いもよらぬ感情、というか感覚が生まれて夏野を困惑させた。
「なんか、お腹の奥が……熱い」
下腹部が熱くてむずむずする。この変化をどう扱ってよいのか分からず、夏野は途方に暮れたが、悩んでいても仕方ないと思いテレビで気を紛らわせることにした。
「東京と同じ番組やってるかなあ」
リモコンを探して電源を入れると、数秒のタイムラグを経て画面がついた。しかし、
「何だろこれ。ドラマかな」
光降り注ぐ白いベッドの上に、可愛いワンピースを着た少女が座っている。と思ったら、いきなり男性がフレームインして──
「……な、なななにこれっ」
目を剥いて叫ぶ夏野には構わず（当然だが）、画面上ではいきなり下半身を露出させた男性が、股間のものを少女の顔面に押しつけた。そして舐めろだの咥えろだの、とんでもない命令をしている。少女は従順に口を開き──―
「夏野ッ、お前なに見てんだ！」
ボディソープの香りをまとった鷹志が、テレビの前に仁王立ちして夏野を睨みつける。半ばパニック状態の夏野は涙目で、必死に“無実”を主張する。
「お、お願いランキングやってるかなって思って電源入れたら、いきなり始まってっ。ドラマかと思ったら……」
「ああ、もういい。とにかくお前はさっさと寝ろ。もうどこもいじるな」
「ふわぁい」
夏野は肩を落としてようよう返事をすると、もそもそと布団の中に入った。もちろん、鷹志が入る場所を空けるため端に寄ったのだが、
「たか兄ちゃん、こっち来ないの？」
鷹志はなぜかソファに寝転がり、着ていたダウンジャケットを身体に掛けて目を閉じた。夏野のもっともな問いかけに、鷹志は目を閉じたまま素っ気なく答える。
「お前、寝相悪ぃだろ。ガキの頃よく蹴飛ばされた」
「も、もう大丈夫だよ。それにこのベッドおっきいし。そんなとこで寝たら、風邪ひいちゃうよ」
「ひかねえよ。いいからさっさと寝ろ」
「でも……」
なおも食い下がろうとする夏野に業を煮やしたのか、鷹志は目を開けて威嚇するような鋭い一瞥を投げつけ、
「うだうだうるせえ。俺は早く眠りたいんだ。明日、午後イチで仕事入ってんだよ」
夏野は布団を蹴って起き上がった。そしてベッドの上で身を乗り出し、
「じゃあ、僕がそっちで寝るっ。僕の方が身体小さいし、それにこんなことになったのは僕のせいで──」
「いい加減にしろ！ そういう我を張るな。ったくお前はいつもいつも……」
尖った声、イラついた口調、全身からにじみ出る拒絶感。その全てを、夏野はかつて経験していた。あの言葉とともに。
『夏野を見てると苛々するんだよ』
ああ、やっぱりそうなんだ。僕はたか兄ちゃんを苛々させる存在でしかないんだ。何を言っても何をやっても駄目。だったらいっそのこと、目の前からいなくなってしまった方がいいのではないか。そうすれば、たか兄ちゃんもせいせいするんだ―――
「夏野っ？！ おい、どうしたんだよいきなり」
名を呼ばれて我に返れば、鷹志が目の前にひざまずいて下から顔を覗き込んでいた。その心配そうな表情を見て初めて、夏野は自分が泣いていることに気づいた。
「僕、ぼくっ……昔から、たか兄ちゃんのこと苛々させるばっかりで……」
ぽたぽたと垂れる涙が、ナイトウェアのピンク地に不恰好な水玉模様を作る。夏野は肩をひくひくさせながらしゃくり上げ、
「ごめ…なさい……僕みたいなのはもう……い、いなくなった方が……」
「なッ、なにをバカなこと言ってんだお前は！ そうやって自分のことを駄目だと思い込むなって、何度も言っただろうが」
「でも！ でもたか兄ちゃんは僕を見てると苛々するって」
「ああ？ んなこと言ってねえだろ」
「言ったよ！ たか兄ちゃんがニューヨークに行く前。お姉ちゃんと話してるの聞いちゃったんだ。夏野を見てると苛々するんだよ、って。すごく怖い声で……っく、ぅ、ぅぅっ……僕、かなしくて、ショックで、どうしていいかわかんなくて……」
夏野は耐えられず、手で顔を覆って泣いた。指の隙間から涙とともに漏れ出るのは、ずっと抑え込んでいた心からの嘆き。
「僕の味方はたか兄ちゃんだけだった。夏野は駄目な子じゃないって、要らない子じゃないって言ってくれるのたか兄ちゃんだけだった。だからあれを聞いた時、かなしくて、かなしくて、かなしくて、心が……死んじゃった」
言葉にしてから、夏野は納得した。ああ、そうか。僕の心はあの時死んでしまったんだ。だから何をしても何を見ても楽しくないし、感動もしない。そんな壊死した心を持つ者が、笑えるはずがない。
全てを吐き出した夏野は、がっくりと項垂れた。すると鷹志は立ち上がり、夏野の隣に腰を下ろし、
「……ああ、思い出した。確かに、言った。夏野を見てると苛々すると」
記憶に刻まれたのと同じ言葉なのに、何度も頭の中で反芻した言葉なのに、あらためて鷹志から言われるとずしりと胸に響く。夏野は思わず胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返した。しかし鷹志は容赦ない。
「それは、今も昔も事実だ。お前を見てると苛々する」
六年前を彷彿とさせる険しい声で、きっぱり言い放った。
BACK TOP CrystalPrincess INDEX NEXT