＜12＞
―――あ、こんなとこにいたのか。捜したぞ、こら。
幼い頃の記憶。あれは確か、夏の夕方だ。川原で石拾いをしていた夏野は、夢中になるあまり空の変化に気づけなかった。
頭上を覆う鉛色の雲からぽつぽつと大きな雨粒がしたたり、あっという間にどしゃ降りの雨。おまけに雷まで鳴り始め、パニックに陥った夏野は近くの小さな神社に逃げ込んだのだ。
賽銭箱の裏側に回り、拝殿の扉を開けて中に入る。畳敷きだったが相当古いのか、ところどころ変色している。それでも雨と雷から身を守れればいいと、夏野は靴を脱いで上がり隅に腰を下ろした。
まだ夕方なのに、外は真っ暗。雨も雷も収まる気配はなかった。夏野は膝を抱えて身体を小さく丸め、時間の経過を待った。
そうするうちに雷鳴は遠のいていったが、雨はしつこく降り続ける。徐々に時間の感覚が失われ、ここに来てからどのくらい経ったか分からなくなった夏野は、ふと自分が世界から置き去りにされたような感覚に囚われ戦慄した。
もしこのまま、ここから出られなくなったら。自分がここにいることに誰も気づいてくれなかったら。そんな仮定の問いに対する答えはすぐに出た。
何も変わらない。自分がいなくなっても誰も困らない。
夏野はその頃すでに、“要らない子”だった。オーディションでは弾かれ、学校ではバカにされ、母親からは「夏野はもうダメね」と突き放された。
きっと、自分がいなくなったことすら気づいてもらえないに違いない。自分はここで膝を抱えたまま、誰にも見つけてもらえず、世界から忘れ去られていくだけなんだ──―そう絶望しかけた時だった。
―――あ、こんなとこにいたのか。捜したぞ、こら。
怒ったような安心したような声。差し伸べられた手、その温かさ。その全てを夏野は今でも覚えている。少なくともこの人にとって、自分は“要らない子”じゃない。そう思えたことでどれほど救われただろうか。
「たか兄ちゃん……」
夏野は機械的に足を動かしながら、呟いた。進んでいるのか戻っているのか分からないが、立ち止まるのが怖かったのだ。
幸い、月明かりのお陰で足元は見える。もしこれで月が出ていなかったら、晦冥の中を溺れるように彷徨うしかなかっただろう。
素足にサンダル履きの足は、とうに感覚がなかった。ダウンコートの前を掻き合わせ、ひたすら歩き続ける。永遠に続く森などないのだから、歩いてさえいればきっと出られると信じて。
「みんな、とっくにホテルに戻ってるだろうな……」
自分がいないことに気づいているだろうか。たとえ気づいても、まあいずれ戻ってくるよと流すだけだろう。でも、
「たか兄ちゃん……」
鷹志だけは気にしてくれているのではという望みを捨てきれない。雨の中、神社まで捜しに来てくれた思い出が蘇り、夏野の胸を疼かせる。
そういえばそれ以外にも、迷子になった夏野を見つけておぶって帰ってくれたことがあった。まったく夏野はしょうがねえな、しっかり背中に掴まってるんだぞと言って―──
「ぅ、ぅぅっ……」
思い出が媚薬から劇薬に変わり、胸の疼きが痛みに変わった。あの頃と今の違い。それは、鷹志のあの言葉を聞いてしまったことだ。
できるなら、あの記憶だけ消し去りたい。何も聞かなかったことにしてしまいたい。そうすれば──―
夏野はぴたりと立ち止まった。人の声が聞こえたような気がしたのだ。慌てて辺りを見回すと、遠くにちらちら明かりが揺れるのが見えた。夏野は耳を澄ませながら明かりの方へ足を向ける。すると、さらにはっきり聞こえた。
「夏野っ……返事しろ……」
夏野は反射的に叫んだ。
「ここだよぉ！ たか兄ちゃん！」
鷹志だという確証はない。けれど直感はあった。暗い拝殿から救ってくれたのと同じ手が、今、自分に差し伸べられようとしているに違いないと。
「たか兄ちゃん！」
「夏野っ？！ 夏野か？ どこにいるんだ！」
夏野は走った。途中、二度ほど転んだが素早く立ち上がり、声のする方を目指す。やがて森の終わりと舗装された道路が見え、そして、
「夏野！」
ガードレールをまたいで、鷹志が駆け寄ってくる。途端に視界がぼやけたのは涙のせいと気づかぬまま、夏野は鷹志の身体にがしっと抱き着いた。
「たか兄ちゃぁぁん……んぇっ、ぇぇっ……」
「夏野、よかった……」
鷹志は喉にからんだような声で呟きながら、夏野以上に強い力で抱き返す。本当に心配してくれた、必死に捜してくれたということが全身から伝わってくる。
「ありがと……心配してくれて、捜してくれて……」
自分を心配してくれる人が一人いた、そしてそれが鷹志だったという喜びは、助かったという安堵を遥かに凌いで夏野の心を揺さぶった。しかし、
「バカが。心配したのは俺だけじゃねえぞ」
「え？」
「結城さんはもちろんスタッフも、お前に以前嫌がらせしたモデル連中もみんな心配してた。結城さんは捜索隊を依頼するため、先にホテルへ戻ったんだよ」
「うそ……。そんな、僕なんかのために……」
夏野の本心からの呟きに、鷹志は鋭く反応した。声を厳しく尖らせ、
「お前、いい加減にしろよ。いつまでそうやって、自分は要らない人間だって思い込みに囚われ続けるつもりだ」
「だ、だって、その通りだから。僕は何の取り柄もない、いてもいなくてもいい人間で……」
「ふざけるな！ いてもいなくてもいい人間なんてこの世にいねえんだよ。みんな生まれてきた意味と、そいつにしかない個性を持っているんだ。そんな風に不要だとか、価値がないなんて決めつける権利は誰にもない。お前自身にもだ」
鷹志はきっぱり断言してから、ぐしゃぐしゃと頭を掻いて、
「あーーっ、説教は後でだ。まず結城さんに連絡しねえと」
言うが早いか夏野の身体を抱き上げ、車の中に押し込めた。そして自分も運転席に乗り込み、携帯で電話をかける。
「逢沢です。夏野を見つけました。ええ、心配はいりません。怪我などはしていないようですが、凍傷を起こしかけているようなので、これから病院を探して連れて行こうと思います。……はい、分かりました」
鷹志は神妙な相槌を返すと、無言で電話を差し出してきた。夏野は受け取って、おそるおそる口を開く。
「結城先生……あの……」
『夏野君？！ 無事なんだね？』
「は、はい、無事ですが、あの、すみません。衣装を汚してしまって……」
わずかな間をおいて、鋭い叱責の声が電話の向こうから飛んできた。
『夏野君ッ』
「は、はい！ すみませ──」
夏野はびくっと肩をすくめて謝罪を重ねようとしたが、
『君は何を言ってるんだ。君が無事に戻ってくれさえすれば、衣装なんかどうでもいい。当たり前だろう！』
「ゆ、結城せんせい……」
『いいかい、物事には何でも優先順位っていうのがあるんだ。自分を犠牲にして頑張るというのは、必ずしも美徳じゃない。昨日のウォーキング練習のことといい、君はもう少し自分を大切にしなくては駄目だ』
鷹志に続き、結城にもお説教されてしまった。自分を大切にしろ、要らない人間だと思い込むな。二人の言わんとしていることは同じなんだと夏野は感じた。
「はい、気をつけます」
『よし。では逢沢君の言うことをちゃんと聞いて、病院でしっかり手当てしてもらうんだよ。いいね』
結城はそう言って、電話を切った。夏野は小さく息を吐き、携帯を鷹志に渡す。
「怒られたみたいだな」
「う、うん。もう少し自分を大切にしなさいって」
「そうか。滅多に声を荒げることのない人だからな。よほど腹が立ったんだろう」
夏野は思わず俯いてしまう。結城までも苛々させてしまったのか、と。しかし、
「それだけ、お前のことを大事に思ってるってことだ。どうでもいい人間を本気で叱ったりしないからな」
諭す声の優しさに、落ち込みかけていた夏野の気持ちも浮上した。こくんと頷き、
「たか兄ちゃん、ありがと」
感謝の気持ちを伝えると、大きな手で頭をぽんぽんと撫でられた。
まずは駅前のスーパーに寄り、鷹志が着替えを買ってきてくれた。夏野は車の中でもそもそ着替え、それから夜間診察を受け入れている病院で診察をしてもらう。幸いなことに足の凍傷は軽症で、内服薬と塗り薬をもらって病院を出た。
それから何も食べていなかったことに気づき、夕食をとるため店を探す。東京の繁華街とは違い、遅い時間までやっている店は少ない。ようやくうどんのチェーン店を見つけ、二人は店内へ。時間の割に混んでいて、特に若者が多かった。そして食べ始めたのだが、
「ねえねえ、あれってほら、モデルの……」
「ええ？ こんなとこにいるはずないじゃん」
「でも見てよ。そっくりじゃない？」
「ほんとだ。超可愛い。やばい」
周囲がかすかにざわつき始めた。夏野は気づかずはふはふ言いながらうどんをすすっていたが、鷹志はそっと顔を近づけ、
「おい、夏野。ちょっと急げ。食ったらすぐ出るぞ」
夏野はわけも分からぬまま「ふぁい」と返事して、五割増しのスピードでうどんをすすった。もともと食べるのが遅かったから、それでようやく普通の速さだったが。
何度も舌を火傷しそうになりながらも何とか食べ終え、騒ぎになる前に店を出ることができた。夏野は「びっくりしたね」と呑気な感慨を口にする。
「こんな普通の格好してるのに、まさか気づく人がいるなんて思わなかった」
すると鷹志は芝居がかった仕草で肩をすくめ、
「まあ、それだけ俺のメイクテクニックが凄いってことだな」
その通りだと思った夏野が神妙に頷くと、鷹志は眉をひそめ、
「おい、ここは笑うとこだぞ。何言ってんの、たか兄ちゃん、てな」
「え？ あ、そか……」
夏野は納得しながら俯く。たとえ笑うところでも、自分には笑うことはできないと分かっていたから。笑いたくても笑えない。無理に笑顔を作ろうとしたら、醜く引きつった顔になってしまう。
「どうやったら、笑えるのかな」
「ん？ なんだ？」
「……ううん、なんでもない」
夏野の沈んだ顔に何を感じたか、あるいは何も感じていないのか、鷹志は黙って手を引いた。
「ずいぶん遅くなったな。今夜はこの近くで泊まれるところを探すぞ。駅前だから、ビジネスホテルみたいなのがあるはずだ」
現金なことに、鷹志と一緒にお泊りできると思った瞬間、夏野の心はぱっと晴れ渡った。
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