＜11＞
翌日は午前中からウォーキング練習だったが、きちんと傷の手当てをしてもらったことに加え、踵に貼った靴擦れ防止テープが奏効し、痛みを最小限に抑えることができた。レッスンでは基本のウォーキングとターンを何とか習得し、村木講師に「よく頑張りましたね」と褒められた。
そして午後からはポスター撮影。ロケバスで移動した先は、鬱蒼とした針葉樹林。近くには廃墟となった工場跡もある。Ｍ＋のコンセプトであるMelancholyやMysteriousが、通奏低音のように感じられる場所だった。
夏野にとっては初めての野外撮影で、しかも季節は真冬。夏に冬物、冬に夏物の撮影をするのはファッションモデルの宿命だが、こんなにキツい仕事だとは正直思っていなかった。
スタンバイ中はダウンコートを着込み、カイロを手に寒さを凌げるが、本番になればそうはいかない。ノースリーブワンピースやミニスカート、生足にサンダルで平然としていなければならないのだ。
四人のモデルたちは、その点はプロだった。カメラを向けられた途端、寒さなど微塵も感じていないお人形モデルになりきる。夏野は彼女らの撮影を見ながら、以前四人にえらそうなお説教したことを思い出し、今さらながら恥ずかしさに身悶えした。
とはいえ夏野も最初のうちは寒さのあまり背中を丸めてしまったり、歯の根が合わなかったりしたが、何とか予定のカットを全部撮り終えることができた。
「みんな、寒い中お疲れさまでした。お陰で日が落ちる前に撮影を終えることができました」
結城の労いに、スタッフもモデルも安堵の表情になった。あとは片付けて、バスでホテルに戻るだけだ。
ホットコーヒーを手にした夏野は、スタッフの片付けが終わるまでの間、ちょっと探検してみることにした。近くの渓流が気になっていたのだ。きっと、綺麗な石がたくさん落ちているに違いない。記念にひとつふたつ持って帰ろうと思っていたのだ。
「うわあ」
思わず声を上げたのは、碧色の渓流自体が宝石のように美しく澄んでいたからだ。水の流れはさほど速くない。名も知らぬ川魚がちらちら泳いでいるのが見える。夏野は川原に下りて、石を探すため屈もうとした。その時、
「モデルのNATSUさんですよね。ちょっとお話よろしいですかね」
伺いを立てるような口調の割りに、声には尊大な響きがあった。突然現れたのは、中年の男性二人。にやにや笑いながら、真っ直ぐ近づいてくる。本人たちは愛想笑いのつもりなのだろうが、内面の卑しさがにじみ出ているようないびつな笑みだった。
夏野はぶるぶる首を振り、逃げようとした。すると男たちは予め取り決めておいたのか、素早く動いて夏野を前後に挟み込む。そうして簡単に逃がすつもりはないことを暗に知らしめつつ、卑屈な笑みを貼り付けたまま名刺を差し出してきた。二人とも、肩書きはフリーライターとなっている。
「話題の美少女モデルNATSUさんにお話を伺えればと思いましてね、ロケバスを追いかけてきたんですよ。いや、もちろんお礼は弾ませていただきますよ」
夏野は再び首を振って拒絶の意思を表した。しかし男たちはますます笑みを深め、「分かってますよ」と猫なで声で懐柔しようとする。
「緘口令でしょう？ ええ、そうでしょうとも。正体は謎のままにしておいた方が話題性も保てるし、ひいてはブランドの注目度を高めることにもなる。あの結城司郎というデザイナー、若いのに相当なやり手だという噂ですからね」
違う、そうじゃない。結城先生は僕が恥ずかしい思いをしなくて済むように、僕のためを思って緘口令を敷いてくれたんです──―夏野は心の中で反論した。声を出したら男だとバレてしまうと思ったから。
「ですからね、我々としても読者の興味をさらに煽るような記事にしようと。つまりはギブアンドテイクです。独占取材させてもらう代わりに、謎のままにしておいた方がいい部分には敢えて触れず、さらに神秘性を高めるような感じにしてみせますよ。きっと、今以上に注目を集めますよ」
それなら文句ないだろうと言わんばかりだが、ならばなぜ、その“取引”をブランド広報に持ちかけず、夏野の後をこそこそ付けるような真似をしたのか。
答えは明白だ。正式なオファーは既に断られているのだ。だからこうして夏野を追いかけ、報酬をちらつかせて話を聞き出そうとする非公式な方法に頼らざるを得なかった。
夏野は首を振り続けた。そして隙を見て、スタッフのいるロケ現場へ戻ろうとしたのだが、
「待ってくださいよ。そんな邪慳にしなくたっていいじゃないですか。せめて報酬の話をさせてくださいよ。これでどうですか？」
男は素早く進路を遮り、指を三本立てて夏野の目の前に掲げた。もちろん指を何本出されようが、夏野が首を縦に振るわけはない。
とにかく、早くどこかへ行ってほしかった。自分を鷹志や結城の元に帰してほしかった。しかし二人は夏野との距離をじりじりと詰め、
「いやあ、ほんとにお綺麗ですね。知ってます？ 世間ではNATSUは存在しないなんて言われてるんですよ。あんな美少女が実在するはずがないってね。このままでは不在説が定着してしまう。悔しくないですか？ 堂々と自分の存在を主張したらいいじゃないですか。結局、ブランドの宣伝に体よく利用されてるだけですよ」
それで構わない。自分みたいな人間に利用価値があると思ってくれただけでありがたいのに、利用されて怒るはずがないだろう。夏野はそんな思いを込めて、大きく首を振った。
夏野が何を否定したのか一瞬分からなかったらしく、男たちは眉をひそめた。その隙に夏野は身を翻し、川原を上って戻ろうとした。が、
「まだ話は終わってないだろうが」
威嚇するような低音、ぞんざいな言葉遣いに、夏野はリアルな恐怖を覚えた。加えて手首を掴まれ、夏野は追い込まれた草食動物よろしく反射的な反撃に出た。手にしていたカップを中身ごと男の顔に投げつけ、相手が怯んだ隙に走り出したのだ。
「あちっ、な、何しやがる、この女ぁ！」
背後から、本性剥き出しの怒号が聞こえる。夏野は無我夢中で川原を走った。暫く走ると大きな岩に行く手を遮られたため、川原を上って森の中に飛び込んだ。いつあの野卑な声が背後に迫ってくるかと思うと怖ろしくて、夏野はひたすら前へ進むことに専念した。
「はっ、はっ、はっ……」
自分の荒い息遣いが耳に届き、夏野はようやくスピードを緩めた。やがて完全に足を止め、後方に耳を澄ます。荒々しい足音も怒号も聞こえない。夏野は安堵のあまりその場に座り込みそうになったが、衣装が汚れると思い慌てて姿勢を正した。
ともかく逃げ切れてよかったとほっと溜め息をついた夏野は、そろそろ戻ろうと一歩踏み出して、そして固まった。
「ここ……どこ？」
夏野の切実な問いに答えるのは、木々の間を通る風の音だけだった。
「さあて。そろそろ引き上げるとしようか」
結城の号令に、スタッフ一同熱烈に頷いた。日が傾き始めてから急速に気温が下がり、苛酷なロケに慣れているアシスタントも寒さに震え始めていた。
「あれ？ 夏野さんは？」
モデルの一人が夏野の不在に気づき、辺りをきょろきょろ見回す。
「ほんとだ。さっきまでそこにいたのに」
結城も不思議そうに首をひねる。対して鷹志は「しょうがねえな」と苦笑を漏らした。
「あいつ、きっと川の方に下りていったんですよ。昔から、川原に落ちてる綺麗な石を集めるのが趣味で」
「はは、なるほど。えっとそれじゃ……君、悪いけど夏野君を呼んできてくれるかな」
結城に頼まれたスタッフは走って呼びに行ったが、なかなか戻ってこない。暫くしてようやく帰ってきた彼の顔は、心なしか青ざめていた。
「結城先生、夏野さんが……いません」
「いない？ それはどういうことだ」
「川原のどこにもいないんです。名前を呼びましたが返事もありません。それで、川原にこれが落ちていたのですが……」
そう言って彼がおそるおそる差し出したのは、紙コップだった。コーヒーの残滓がわずかに付着しており、縁にはベージュピンクの口紅の跡が残っている。
その瞬間、全員の脳裏をある可能性がよぎったが、それを口にする者は一人としていなかった。口にしたら、それが現実になってしまいそうで。
「夏野ッ」
鷹志の反応が一番早かった。全速力で渓流の方へ向かう。結城もすぐ後を追い、他のスタッフがそれを追いかける形となった。
「夏野！ 夏野！」
「夏野君っ。返事してくれ！」
声の限り名前を呼んだが、返ってくるのは川のせせらぎと風の鳴る音ばかり。
「あ、あの……下流の方を捜してみたら──」
「ふざけたこと言うな！」
撮影アシスタントの提案を、鷹志は怒りとともに却下した。その激しい剣幕にアシスタントは文字通り跳び上がり、「すみませんでしたっ」と平身低頭した。我に返った鷹志は顔を歪め、
「いや、こちらこそ悪かった。お前に当たってもしょうがねえ。それより、すぐに手分けして捜そう」
焦りを隠せぬ早口でそう言って、結城と頷きを交わした。その時、上流の方から二人の男が現れた。二人は結城の顔を見た途端、さっと顔色を変えたが、それは結城も同じだった。彼には珍しく表情を険しく尖らせ、大股で彼らに近づく。
「なぜ君らがこんな所にいるんだ」
「え？ あ、いやあ、その……」
「うちのモデルに勝手に近づいて、無理やり話を聞こうなんてまさかしていないな？」
二人とも明らかに結城より年上だったが、完全に位負けしていた。おどおどと視線を彷徨わせた挙げ句、
「す、すみません。謎の美少女モデルのインタビューとってきたら、今後も優遇するとデスクに言われて……」
「で、一人になったところを狙って後を付けて、脅迫紛いのインタビューを敢行しようとしたのか。で、彼女はどうした」
結城が“彼女”と表現したのはもちろん、夏野が男だとばれないためだ。
「逃げられました。森の中で見失って、暫く捜しましたが諦めて戻ってきました」
これで、夏野が森の中にいることは分かった。しかし問題は──―
「まずいな。もうじき日が暮れる。あっという間に真っ暗だ。急いで捜さないと……」
結城の焦慮を裏付けるように、辺りに群青色の浅い闇が広がり始めていた。
フリーライターの話から、夏野がどの辺りから森に入りどの方向へ逃げたかは分かった。そこで結城たちは後を追う形で捜索したが、結局見つけることはできなかった。結城は顔に焦りと不安を浮かべながらも、冷静さを維持した口調で、
「こうなったら、いったんホテルに戻って捜索隊を呼んでもらうしかない」
その判断に異を唱える者はいなかった。みな無言で頷き、車を出す準備をする。
「結城さん、ちょっと見てください。この森はそれほど大きくない。それに途中から、国道が沿うように走っている」
鷹志は携帯電話で地図サービスを呼び出し、結城に画面を見せながら説明する。
「俺はホテルに戻らないで、車で国道を走ってみます。もしかしたら見つけられるかもしれない」
「そうか……分かった。頼んだよ。でも、くれぐれも無理しないでくれ。君まで迷子になられたら堪らない」
鷹志は頷きで応えると、近くに留めておいた車に乗り込んで国道を目指した。暫く走ると舗装された国道に出たが、信号もなく対向車も全くといっていいほど通らない。鷹志は適当な場所に車を止め、ライトを手にして路上に出た。途端に、身を切るような冷たい風にさらされる。
「あいつ、衣装のままで……」
いくらダウンコートを着ているとはいえ、下が夏物のワンピースではこの寒さに耐えられないだろう。唇を紫色にして震える夏野の姿が脳裏に浮かんだが、鷹志は努めて払った。今は冷静にならなくてはいけない。ライトを森の方へ向けて、必死に目を凝らす。と同時に声を張り上げた。
「夏野！ いたら返事しろ！」
もちろん、簡単に見つかるとは思っていない。けれど望みは捨てず、鷹志は名前を叫び続けた。
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