＜10＞
年が明けると、Ｍ＋はすっかりファッションショーモードだった。渡されたスケジュールを確認した夏野は、その苛酷さに思わず声を上げてしまった。
「うわ……総見、フィッティング、リハーサル……大学の後期試験とばっちり重なってる」
その悲愴な声を耳にした結城は、済まなそうに眉をたわめて、
「ごめんね、夏野君。ショーの日程は決まってるから、そこから逆算するとどうしてもこういうスケジュールを組まざるを得ないんだ。時間の融通は利くから、遠慮なく言ってほしい」
「分かりました。でもレポート形式の試験はもう準備してありますし、他にバイトもしていないので、空き時間で勉強すれば大丈夫だと思います」
「おお、優秀だなあ。僕の大学時代とは大違いだ」
結城はおどけた声でそう言って笑う。夏野もつられて笑いそうになるが、顔は固まったまま動かない。やはり笑顔は高嶺の花だった。無表情のままスケジュール表を指差し、
「あの、結城先生。この“合宿”って何ですか？」
「ああ。それは文字通り合宿だよ。もともとは、ショーの宣伝用ポスター撮影のロケを組んでいたんだけど、泊りがけでリハーサルのリハーサルをやってみようかと。合宿って、なんか学生ぽい響きでいいだろ？」
「リハーサルのリハーサル、ですか？」
結城がやろうとしていることのイメージが掴めず、夏野はちょんと首を傾げる。結城はにっこり笑い、
「うん。ウォーキングの練習と考えてくれていいよ。夏野君は初めてランウェイを歩くわけだから、いきなり会場でリハーサルは厳しいと思うんだ。その前に、相応の訓練をしておかないとね。そういうわけだから、この合宿は夏野君にとってスパルタ合宿になると思うよ」
厳しいことを笑顔でさらりと言う結城に、夏野は底知れぬものを感じて小さく震えた。そんな怯えを敏感に察知したのか、結城は「心配いらないよ」と言って背中を撫でてくれた。
「どんな有名モデルだって、初舞台を経験してるんだから。ウォーキングを専門に教えてる講師を手配しておいたから、その人に教えられた通りにやればいい」
夏野は不安を抑えて頷くしかなかった。
合宿一日目。夏野たち一行は宿泊先のホテルに到着した。その中に鷹志の姿はない。ポスター撮影が始まる明日から合流するらしい。「彼は売れっ子だからね。そうそう拘束もできないよ」と言う結城に、夏野は暗い声で「そうですね…」と返した。
もしかしたら、春菜と一緒に仕事をしているのかもしれない。鷹志がヘアメイクを引き受けたオーディションで春菜は見事合格し、テレビCMの仕事を勝ち取ったのだ。
そのヘアメイクを鷹志が担当しているかは知らないが、夏野の脳内では鷹志と姉のツーショットが勝手に展開していた。頭の中の光景なので、目を閉じても消えるどころかより鮮明に浮かび上がり、夏野の心をじわじわと圧迫していった。
──―駄目だ。僕は僕の仕事に集中しないと。
胸の奥で繰り返すたびに淋しさが湧き上がったが、それでも夏野は呪文のように呟き続けた。
ホテルでひと休みすると、スタッフはロケハンに出かけた。夏野たちはリハーサルのリハーサル。つまりはウォーキングの練習だ。
動きやすい格好でスタジオに入ると、びっくりするくらい姿勢のいい女性二人が笑顔で迎えてくれた。
そのうち、村木と名乗った女性が夏野専門の講師らしい。事前に情報を得ていたのだろう、夏野を見ても驚くことも眉をひそめることもなく、ビジネスライクな笑顔を崩さずレッスンを開始した。
「まずはカウンセリングを行って、あなたがどのくらい歩けるか、弱点や課題は何かを見極めます。では、あなたの思う美しいウォーキングをしてみてください」
この瞬間、夏野の頭の中が真っ白になったことは言うまでもない。履き慣れないヒールの靴で転ばずに歩ければ御の字なのに、美しいウォーキングだなんてペンギンにバレエを踊れと言っているようなものだ。
とはいえ、やらないとレッスンが始まらない。夏野は貧弱な知識を総動員して、いわゆるモデル歩きの再現に努める。
結果、見事にコケた。笑われるのを覚悟したが、村木講師はくすりとも笑わない。この場合、笑い飛ばしてくれた方が気が楽なのだが。
「……分かりました。まずは、ヒールの靴に慣れることから始めましょう」
習うより慣れろということだろう。それから夏野は、スタジオ内を延々と歩き続けた。最初はおっかなびっくり、膝をかくんかくんさせて歩いていたが、先生のアドバイスにより何とかスムーズに足が前に出るようになった。それでも数分に一回はよろけてしまうのだが。
「だいぶよくなってきました。ではモデルウォーキングの基本を教えましょう。視線は前方に、顎を軽く引いて背筋を伸ばす。これが基本姿勢。歩く時は、常に両脚の内腿がすれるくらい前後に交差させて、踵にはできるだけ体重をかけないように。爪先はやや外向きで、腕は自然に振って全体のバランスをとり──」
夏野は何とか付いていこうと集中したが、頭と身体がうまく噛み合わない。先生のお手本通りに動かしているつもりなのだが、鏡に映った姿はどう見てもペンギンの行進だった。先生は根気よく教えてくれたが、レッスン終了時間が来ても結局ペンギンのままだった。
「レッスンは二日間しかないので、明日は方向転換のレクチャーに移らなくてはなりません。なので明日までに、この基本ウォーキングをマスターしておいてください」
夏野は悲愴感漂う声で「はい…」と答えながら、結城が言っていた“スパルタ合宿”の意味を噛み締めた。
それから夏野は、一人でひたすらウォーキングの練習に励んだ。少しずつ上達はしていたが、その代償は大きかった。
「い、痛っ……」
踵は酷い靴擦れで皮が剥け、小指の関節にはぶよぶよのまめができていた。絆創膏を重ねて貼って保護したが、痛みは増すばかりだ。でも、
「がんばらなくちゃ。明日までにちゃんと歩けるようにしないと」
自分を鼓舞するように呟いて立ち上がる。するとくらりと眩暈がした。そういえば、ここに来てから何も食べていない。時間も忘れてひたすら歩いていたから、今が何時なのかも分からなかった。
だからといって自主練習をやめるつもりはさらさらない。夏野は歯を食いしばって歩こうとした。その時、
「夏野！」
「夏野君！」
違う声に同時に名前を呼ばれ、夏野は驚いて振り向いた。その拍子にバランスを崩し、どすんと尻餅をついてしまう。
「お前っ、なんだこの足は！ ぼろぼろじゃねえか！」
転んだ勢いで靴が脱げ、絆創膏だらけの足が剥き出しになった。駆けつけた鷹志と結城は、夏野の足の惨状に眉をひそめて見入る。
「うわ、これは酷い。駄目だよ、こんなに足を酷使しちゃ」
労わるように諭す結城とは対照的に、鷹志の言葉は厳しかった。
「バカかお前は。我を押し通すのと頑張るのは違うと言っただろうが！」
その剣幕に夏野は思わず首をすくめたが、すぐに眦を決して見返した。今回は、自分にも言い分はある。
「分かってる！ でも、明日までに歩けるようにならないといけないんだ。それにこれはスパルタ合宿なんだから、このくらいやらないと」
「スパルタ合宿だあ？」
「結城先生が言ったんだもん！ だから、頑張らなくちゃって……」
気を抜くと涙声になってしまう。夏野は喉に力を入れて嗚咽をこらえた。すると結城がかくんと項垂れ、
「ああ〜、そうか。ごめん、スパルタ合宿っていうのはちょっとした冗談のつもりで言ったんだ。でも、夏野君は真面目だから言葉通りに受け取ったんだね。いや、ほんとに悪かった」
心底申し訳ないと言わんばかりに声をたわめて謝った。そして夏野の頭を撫で、
「頑張ってくれるのはとても嬉しいけど、一番大事なのは夏野君の身体なんだよ。夕食の時間になってもレストランに姿を見せる気配がないし、まさかずっとウォーキングの練習をしてたとは思ってもいなかったよ」
結城の言葉で張り詰めていたものが一気に緩み、その影響は涙腺にも及んだ。
「ん、くっ……ぇ、ぇぇっ……」
みっともない泣き顔はさらしたくないという思いから、夏野は唇をきつく噛み締めぎゅっと目を閉じ、涙を抑え込もうとした。しかし、
「こら、唇噛むな。傷がつくだろ」
言葉はぶっきらぼうだが、唇に触れる指先は優しかった。鷹志が唇をちょんちょんと叩くと、そのノックに応えるようにふわんと開いた。と同時に、目尻から温かな雫がこぼれ落ちる。すると鷹志は、転がる珠を指先で受け止めてくれた。
「まったくお前は……」
呆れ口調が何だか心地いい。夏野は涙で重くなった睫毛を瞬かせ、じっと鷹志を見上げた。
「そういえば、お仕事は？ 合流は明日のはずじゃ」
夏野の疑問に答えたのは結城だった。
「夏野君のことが心配のあまり、前乗りして駆けつけてくれたんだよ」
「なっ…結城さん！ いい加減なこと言わないでください。前の仕事が早く片付いたから──」
「はいはい、分かった分かった。そんなムキにならなくていいよ。それはともかく、夏野君の手当てをしなくては。言うまでもないけど、今日はこれ以上歩いちゃ駄目だよ」
夏野はしゅんと落ち込んで、
「やっとペンギンから人間になれたのに……」
結城は初めきょとんとしていたが、やがて夏野の言う意味が分かったらしく声を上げて笑った。
「そっかそっか。はは、ペンギンを卒業して人間になったなら、モデルまであと少しだ。そんなに焦らなくても、ショー本番までまだ日にちはあるから大丈夫だよ。よし、部屋へ移動してその可哀想な足の手当てをしてあげよう」
結城はそう言うや否や、夏野の身体を抱き上げた。まさか結城にこんなことをされるとは思ってもいなかった夏野は、顔を真っ赤にしてうろたえた。
「ゆ、結城先生！ 大丈夫です。僕、歩けます」
「いいからいいから。ほら、しっかり掴まって。この前、逢沢君に抱き上げられた時みたいにぎゅっと」
夏野はためらいつつも、結城の胸元におそるおそる掴まった。
「よし、いい子。それにしても、夏野君の涙は……危険だね」
「え？ 危険、ですか？」
意味が分からず、夏野は首を傾げる。結城は鷹志に一瞬視線を移し、すぐに夏野に戻してから答えた。
「うん。男の色んな部分を刺激する」
ますます分からないが、夏野が何より驚いたのは、鷹志がいきなり足音を荒げて出ていってしまったことだった。
「たか兄ちゃん……？」
「ああ、心配しなくていいよ。彼は夏野君ではなく僕に腹を立てたんだ」
そう言ってにっこり笑う結城を見た夏野は、なぜか落ち着かない気持ちになったのだった。
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