第七話

どうやって身支度を整えたのか覚えていない。たぶん、レッスンに遅れてはならないという本能に近い意思力が身体を動かしたのだろう。

蒼舞は何とか着替え、窓辺に寄って澄んだ朝日に身を浸したが、重い倦怠と夜の残滓を洗い去ることはできなかった。

「じきに護衛の者が迎えに来ますので、こちらでお待ちください」

近衛の秘書はそう言って部屋を出ていった。それから数分後、同じ扉が開いて鷲塚が現れた。

「……迎えに来たぞ」

数秒の猶予はおそらく、蒼舞のあまりの消耗ぶりに驚いたからだろう。確かに、窓に映る顔は不健康に青ざめ、目は落ち窪み、唇からは血色が失われている。おまけに首筋にはうっ血や咬み痕が散り、袖口から覗く手首には緊縛の痕がうっすら残っている。しかし、

「五分以内に退室するよう言われている。立ちなさい」

鷲塚の声も態度もいつもと変わらない。それに蒼舞は救われたような気がした。もし哀れみや過度な労わりを見せられたら、己の惨めさに耐え切れなかっただろう。

蒼舞は「ああ、分かった」と言って膿んだ笑みを浮かべた。すると鷲塚は小さく頷き、「家まで送ろう」と申し出た。蒼舞は不審を隠さず、

「家に戻っていたらレッスンに間に合わない。このまま直接行く」
「その状態でレッスンは無理だ。今日は一日養生していなさい」

蒼舞はほとんど反射的に立ち上がり、苛立ちとともに反論をぶつけた。

「たった一日のサボりが身体にどれほどの影響をもたらすか、あんたには分からないだろう。一日の休みを取り戻すには一週間かかるんだ」

そして扉に向かって歩みを進めたが、途中で毛足の長い絨毯に足を取られよろめいた。普段の蒼舞には考えられない失態だ。鷲塚が素早く駆け寄って、支えてくれた。

「分かった。レッスン場に送ろう。しかし終わるまでバレエ団本部で待たせてもらう。貧血で倒れられでもしたら、護衛の面目丸潰れだ」
「案外心配性だね、鷲塚さん」

皮肉めいた言葉とは裏腹に、蒼舞は身体を預けるようにして鷲塚の腕にしっかと掴まった。






私は貴賓室にいるから、何かあったらすぐに呼びなさい。そう言い置いて鷲塚はロッカールームから出ていった。あまり無理をしないように、と言い添えるのを忘れずに。

鷲塚が心配するのも分かるが、無理をしないとかほどほどに頑張るという微妙な匙加減は、蒼舞の苦手とするところだった。

いつも全力でレッスンに打ち込む。その間は鳥篭の中にいることを忘れられたから、もしかしたら現実逃避の手段なのかもしれない。いずれにせよ、レッスン中は体調が優れないこともその理由についても忘れることができた。

しかし、すぐにそのツケは回ってきた。レッスン終了後ロッカールームに戻り、備えつけのシャワー室で湯を浴びていると視界が暗くなり、七色の星が瞬き出した。ああ、まずい、と思いつつその場に座り込み、立ち上がる気力もないまま時間ばかりが過ぎてゆく。

やがて座っているのもつらくなり、横たわろうとした時、誰かが入ってくる気配を感じた。誰だろうと思う間もなく大きなタオルで全身くるまれ、ふわりと抱き上げられる。

そういえば、女性はしょっちゅう持ち上げているけどこうして持ち上げられるのは初めてだな、などと愚にもつかぬことを考えていると、軽く頬を張られた。

「私が分かるか？」

いつの間にか、長椅子の上に横たえられていた。覗き込んでくる顔にゆっくりと焦点を合わせると、軍帽の庇の陰で輝く双つの黒瞳と出会った。

一見するといつもと変わらぬ不動の瞳だったが、これまでの付き合いで鷲塚の表情の変化に敏くなっていた蒼舞は、瞳の奥に心配や労わりの感情が揺らめくのをすぐさま見抜いた。蒼舞は唇を笑みの形に吊り上げ、

「分からないとでも？　僕のうるさい監視役」

鷲塚はほっと息をつき、

「その憎まれ口が叩ければ上等だ。しかし顔色がひどい。疲労や寝不足からくる貧血だとは思うが、一応医者に行った方がいい」

しかし蒼舞はふいと横を向き、「必要ない」と素っ気なく答えた。こういう時はどんなに宥めすかしても無駄だと学習済みなのだろう、鷲塚は「そうか」とあっさり引き下がり、散らかしっぱなしの蒼舞の荷物をまとめ始めた。

蒼舞はタオルの端と端を掻き合わせ、てきぱきと動く鷲塚をぼぅっと眺める。意識がクリアになるにつれ、この状況の情けなさが骨身に沁み込んできた。シャワー室で倒れ、鷲塚に運ばれるなんて……。

「我を張った挙げ句がこのザマだ。みっともないだろ？　放っておいてくれていい」

我ながら痛々しいほど自虐で歪んだ声だった。しかし鷲塚の事務的な口調が崩れることはなかった。

「君を自宅まで送り届けるのが私の仕事だ」
「仕事…ね。さすがは総統の狗だ。僕みたいなガキのお守りなんてくだらない仕事でも、糞真面目に遂行しようとする」

馬鹿にしたような物言いは、必死の虚勢の表れ。鷲塚も分かっているのだろう、全く意に介さず淡々と応じる。

「軍人の仕事など、ほとんどがくだらないものだ。さ、取り敢えず荷物はまとめた。あとはこれに着替えて──」

そう言って差し出しされた服を、蒼舞は手で払った。そして身を乗り出して腕を鷲塚の首に巻きつけ、そのまますり寄る。タオルがはらりと落ちて解き衣のように乱れ、腰にまとわりついたが、蒼舞は構わず顔を近づけた。

自分でも、何をどうしたいのか分からない。ただ、律儀に任務を遂行しようとする鷲塚の清廉な姿勢が耐えられなかった。彼を前にすると、自分の穢れや惨めさが一層際立つような気がする。

ならば彼も“こちら”に引き込んでしまえ、そんな意識が働いたのかもしれない。蒼舞は、鷲塚の笑みを知らぬ直線的な唇に、己の唇を押しつけようとした。が、

「やめなさい」

鷲塚のにべもない拒絶に全く動じず、蒼舞は蜜が滴らんばかりに妖しく笑い、

「男に興味はない？」

からかうような問いに、鷲塚は表情も声色も変えず答えた。

「君は総統閣下のものだ」

その瞬間、額の中心で火花が弾けた。蒼舞はキリキリと眦を決して鷲塚を睨み、

「僕は誰のものでもない！　僕は心も身体も舞踊の神に捧げているんだ！」

それは心の底から迸る叫びだった。決して到達することのない高みを目指す蒼舞は、さながら神の御許に近づかんとする修道僧のごとく。ただ無心に踊って踊って踊り続けて、そのまま命尽きてしまっても構わない。それが蒼舞の偽りなき本心、いや、願いだったのだ。

図らずも本心を暴露してしまった蒼舞は、急に決まり悪くなって顔を歪めた。しかしここまできたら全てぶちまけてやろうと、挑みかかるような視線を鷲塚に据えたまま続ける。

「この文化後進国の日本という檻の中で踊ってるだけの若造が、何を大層なこと言ってるのかと思ってるんだろ？　独裁者の愛人になって、監視まで付けられて、見世物みたいな踊りを踊らされてるくせに、何が舞踊の神だ、バレエ芸術だってな。ああそうさ、それは認めるよ。羽をもがれた鳥が、籠の中でピーピー喚いているだけだ。でも、でも僕は諦めない。いつか必ずっ──」

蒼舞の絞り出すような訴えは、途中で吸い込まれていった。鷲塚の胸の中に。

「たとえ籠の中にいようが、君は真の芸術家だ。簡単にレッスンを休めなどと言ってしまった自分が恥ずかしい」
「鷲塚さ……」
「そうだ、君は諦めてはいけない。その努力と情熱が実を結び、正当な評価を得て外国の舞台に立てる日が必ず来る」
「ほんとに……来るかな、そんな日が」

蒼舞は鷲塚の胸にしがみついたまま、震える声で問うた。鷲塚は「必ず」と短く答え、タオルがずり落ち露わになった肩を撫でた。

その思いもかけぬ優しい手つきと、手のひらの温かさに驚く間もなく、鷲塚はタオルの端を肩まで引き上げて包み込んだ。

「さ、早く着替えなさい。このままでは風邪をひく」
「う、うん……」

蒼舞は素直に頷いたものの、言葉とは裏腹に身体が動かない。軍服越しのささやかな温もりを失いたくない、もう少し味わっていたいと、全身が訴えているかのようだ。

「どうした？」

一向に離れようとしない蒼舞に不審を抱いたのか、鷲塚が静かに訊ねる。蒼舞は「うん…」と生返事を返し、

「鷲塚さんも生きてるんだなあ、って。ちゃんと体温がある」

しみじみ呟くと、「当たり前だろう」と呆れたように言われた。蒼舞はくくっと笑い、

「だって何考えてるかよく分からないし。ロボットみたいだって薄気味悪く思ったこともあったけど、やっぱり人間なんだなあ」
「当然だ。君もずいぶんと失敬だな」
「はは、ごめん」

蒼舞は笑いながら鷲塚から離れた。そして床に落ちた着替えを拾い上げる。すると鷲塚は素早く後ろを向き、「着替え終わったら言ってくれ」と告げた。蒼舞は首を傾げ、

「別に構わないのに。男同士なんだし」
「一応礼儀だ」
「さっき、シャワー室で助けてもらった時も裸だったけど」
「あれは緊急事態だったから止むを得ない。しかし今は違う」
「ふーん」

鷲塚の声がどことなく強張っているようにも聞こえたし、今は違うという理屈も納得できなかったが、蒼舞は取り敢えず引き下がった。

「着替えたよ、鷲塚さん」
「ああ。では行くか」

鷲塚が蒼舞の荷物を持ち、部屋を出ようとした時だった。扉が外からノックされ、返事をする間もなく開いた。

「蒼舞、まだいるだろ？　お前に大事な相談が──」

部屋に足を踏み入れた片桐惺は、口を開けたまま固まった。まさか室内に鷲塚がいるとは思っていなかったのだろう。驚きに固まった顔は、すぐ生々しい恐怖に引きつった。

「ああ、惺か。どうしたんだ？　改まって」

凍りついた場の空気を取り成すため、蒼舞が朗らかな声で質した。しかし片桐はかくかくと機械じみた動きで首を振り、

「い、いや……もう帰るところなんだろ？　また今度にするよ」

一方的に言い置くと、文字通り逃げるように去っていった。蒼舞はわざとらしい溜め息をついて鷲塚を見上げ、

「こんなとこに黒服がいたら、そりゃあ驚くよな」
「私は悪魔でも幽霊でもない」

鷲塚は軽口を返してきたが、その眉間には浅い縦皺が刻まれていた。今の片桐の態度に不審を覚えたのだろうか。確かにいくら黒服とはいえ、あそこまで驚き怯えるのは尋常ではない。

「君に大事な相談があると言っていたな」
「え？　ああ、そうだな。あいつが相談なんて珍しいけど。で、何？　彼の相談には乗るなって？」

彼とはあまり親しくしない方がいいという忠告とも命令ともつかぬ言葉を思い出し、蒼舞の声はつい刺々しくなる。鷲塚もそれを察知したようで、

「そう言ったところで、素直に聞き入れはしないのだろう？」
「もっちろん！」

力いっぱい肯定してやると、鷲塚は芝居がかった溜め息をついた。






鷲塚の運転する車でアパートメントに帰ると、蒼舞の口から自然と安堵の溜め息が漏れた。昨日はリハーサルなどで朝早く出てレセプションパーティーに駆り出され、そのまま近衛の相手をさせられた。ほぼ二日ぶりの我が家だったのだ。

鷲塚は蒼舞の荷物を置くと、コツコツと鋭い靴音を立てて近づき、

「食べるものはあるのか？」

蒼舞は冷蔵庫の中身を思い出しながら、頼りない頷きを返す。
「う、うん。たぶん」
「釘の打てそうなパンか？」
「う……ちゃんと食べられるやつだよ。……たぶん」

蒼舞の答えに、鷲塚は端整な眉をかすかにたわめ、

「何か食料を買いに行こう」
「い、いいよ！　そんなの」

慌てて辞退する蒼舞に、鷲塚はちらと一瞥をくれ、

「私が買いに行く。一緒に店に入るわけではないから構わんだろう」
「え？　あっ……」

いつだったか、一緒に夕食をとろうと誘ってくれた鷲塚に、あんたと一緒に行ったら店の主人や常連たちに白い目で見られるからと断ったことがあった。

その時鷲塚の顔に浮かんだ憂いの翳に胸が痛んだことは、今でも鮮明に覚えている。蒼舞は真っ直ぐ見返し、

「そうじゃない。別に病気してるわけじゃないんだし、あんたにそこまで世話になるわけにはいかないからだ。それに……」

言うべきか否か一瞬迷ったが、決然と続けた。

「それに、あんたと一緒に外食するのは別に嫌じゃない」

鷲塚が疑わしそうな目で見てくるので、蒼舞はぐいと胸を張ってみせた。

「本当だぞ。僕には天下の黒服様の護衛が付いてるんだって自慢してやるんだっ」
「……そうか」

蒼舞は思わず目を瞠った。今、鷲塚の唇を、かすかな、本当にかすかな笑みがかすめたのだ。

いや、そんな気がしただけかもしれない。事実、蒼舞が瞬きする間に笑みは影も形もなくなって、唇はいかなる曲線も拒むと言わんばかりの真一文字に戻っていた。

「鷲塚さん、あの……」
「なんだ？」

もう一度笑ってほしい、そんな願望が喉元までこみ上げ、蒼舞は慌てて呑み込んだ。代わりに出てきたのは、感謝の言葉だった。

「なんか、その、ありがとう。この国では色々不自由なこともあるけど、諦めずにもっともっと努力するよ」
「君は今でも十分努力している」

蒼舞の口許は自然と緩んだ。抑揚に乏しい事務的な声なのに、なぜだか感情が伝わる、それがなんだか可笑しくて。

「ありがと。でもまだまだだ。練習すればするほど、自分の欠点が見えてくる。それを何カ月かけて克服しても、また別の欠点に気づく。たぶん、この追いかけっこは一生続くんだと思う」
「気の遠くなるような話だ」
「うん。だからこそやりがいがある。何も究められず途中で朽ち果てても、それでいいと思ってる。僕が倒れた場所からまた新しいダンサーが進んでくれるはずだ」
「やはり、君は強い」

鷲塚はそう言うと、部屋の出口へ向かった。そして扉の前でくるりと反転し、帽子を脱いで胸に当て、蒼舞に向かって右手を真っ直ぐ挙げた。それは、総統に対してしか許されない最敬礼だった。

「なっ……」

驚きのあまり絶句する蒼舞を残して鷲塚は再び身体を反転させると、そのまま部屋を出ていった。

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