第十四話
「……それじゃ、行ってくる」
「ああ。終わるまで待っている。いいか、くれぐれも──」
鷲塚の言葉を途中で遮って、蒼舞は陰気に笑った。
「大丈夫、分かってるよ」
無茶をするな、自暴自棄になるなと言おうとしたのだろう。もちろん、分かっている。けれど近衛の返答次第では冷静を保っていられる自信はない。そんな本音を言えば鷲塚に余計な心配をかけてしまうから、いかにも大丈夫と言わんばかりに頷いてみせた。
意外なことに、近衛は官邸にいた。幸運なのか因縁なのか分からないが、秘書の胡乱な視線を浴びながらいつ帰ってくるとも知れぬ近衛を待つ不毛な時間を過ごさずに済んだのだからよかったと言えるだろう。
蒼舞は大きく深呼吸すると、鷲塚の不安げな視線を背中に感じつつ案内人の後に付いていった。そしてまずは待機の間に通され、すぐにその奥、近衛が待つ部屋に呼ばれた。
重厚な扉を開けて入室すると、西洋風の豪奢なソファに座った近衛と真っ直ぐ目が合った。近衛は、彼独特の懶げな嗤笑を浮かべ、
「珍しいな。お前の方からわざわざ会いに来るなんて」
「珍しくありません。初めてです」
蒼舞が素早く言い返すと、近衛はかすかに眉根を寄せて「ふむ、そうだったかな」と呟いた。そしてソファに身体を沈めたまま、琥珀色の液体が入ったグラスを手の中で弄ぶ。
「どうした、そんな所に突っ立って。こちらに座りなさい」
「いえ、ここで結構です」
「座れと言っている」
命令し慣れた男の言葉には、喉元に突き付けられた匕首のような効果がある。蒼舞は唇を噛み締めつつ、近衛の隣に浅く腰掛けた。
そして自らを鼓舞するようにぐっと拳を握り締め、胸の奥で幾度も繰り返したため煮詰まってどろどろになった問いを吐き出した。
「なぜです。なぜ渡仏直前になってこんな真似を。僕の出国を認めないのなら、オファーがあった時点で潰せばよかった。なのに、まるで僕に希望を持たせてそれを奪うのを愉しむかのような──」
「その通りだ」
近衛は、最後まで聞くまでもないと言わんばかりに蒼舞の言葉を遮って答えた。そして、目を見開いて硬直する蒼舞とは対照的に、全く表情を変えず続ける。
「儚い自由を夢見て、狭い籠の中で必死に羽ばたく哀れなお前を見るのが愉しかった。手に入れたと確信した光や希望を、根こそぎ奪うのが愉しかった。それだけだ」
「な…ぜ……そんなっ──」
「なぜ？ 愚かな質問だ。ペットが飼い主に己の存在理由を訊ねるとは。お前は私を愉しませるために存在する」
「僕はあなたのペットじゃない！」
蒼舞は思わず叫んでいた。この局面においては、冷静であることが自分にとって唯一の武器であると、感情を露わにすれば自分が不利になるだけだと分かっていたが、近衛のあまりに赤裸々な、人間性のかけらもない言葉を前にして、平静を保つことは不可能だった。
しかし蒼舞の激昂に遭っても、近衛の表情は変わらない。ただ、独裁者の倦んだ瞳で一瞥し、
「ペットではない？ では一体何だ。自分は世界的なダンサーだ、一流の芸術家だとでも言いたいのか」
「いえ、一人の人間です。努力次第では夢を実現することができる、そんな可能性を持ったごく普通の人間。でも少なくとも、誰かの所有物ではない。ペットでも奴隷でもない！」
蒼舞の渾身の訴えは、近衛の眉をほんの数ミリ上げさせただけだった。尤も、近衛の側近中の側近ならば、その変化だけで何らかの意志を読み取ったであろうが。
「まだ分からんのか。お前は所詮籠の中の鳥だ。夢、自由、可能性、そんなものは端からない」
「………！」
近衛の容赦ない言葉に衝撃を受けつつも、蒼舞は頭のどこかでは納得していた。いつかは異国の舞台で自由に踊りたい、そんな夢と希望を抱きつつも、どうせ無理だと分かっていたのではないか。
けれどそれを認めてしまったら、自分が自分でいられなくなる。だからあたかもまだ可能性はあるかのように自分で自分を騙して、何とか正気を保っていたのだ。しかし、
「お前は、このちっぽけな私が治めているちっぽけな日本という籠の中でのみ踊り、称賛を浴び、やがて衰え朽ちてゆく」
あらためて突きつけられた残酷な現実に、蒼舞ははっきり首を振った。
「い、嫌だ」
すると近衛はすっと目を細め、この上なく残忍な笑みを向け、
「努力も才能も、この『世界』では何の意味もない。夢を見たいならいくらでも見るがいい。しかし現実は変えられん。お前にとっての現実は、これだ」
近衛はぬっと手を伸ばし、蒼舞の肩を掴んだ。そしてそのまま覆いかぶさるようにして、蒼舞をソファに押し倒す。蒼舞は抵抗する間もなく組み敷かれた。
「やっ、やめ……っ、ぅ、ぅっ……」
珍しく、近衛が唇を求めてきた。どんなささやかな抗議も許さないと言わんばかりの、呼吸ごと封じるかのような激しい口づけ。ブランデーの苦味でコーティングされた舌がぬるりと入り込み、萎縮した蒼舞の舌を搦め捕る。
蒼舞は嫌悪と屈辱に顔を歪め、脚をばたつかせて抵抗を試みた。
その拍子にサイドテーブルが倒れ、ガレ風のアンティークランプが落下し大仰な音をたてて壊れたが、もちろんその程度のことで近衛が怒りを見せるはずがない。いやむしろ、蒼舞がこうして抵抗すればするほど、近衛はより深い快楽を味わうことができるのだ。
誰もが自分に対し頭を下げ、媚を売り、機嫌を窺う。そんな連中を組み伏せたところで何の面白味もない。それよりも、己の矜持や志操、信条のために捨て身の反抗を見せる者を辱める方が何倍も愉しいことは言うまでもないだろう。
「どうした。いつも私に対し、易々と股を開いているではないか。淫乱な毛唐の血で、私を悦ばせているではないか」
近衛は、彼にしては分かりやすい嘲りを含ませながらそう言った。そして蒼舞の下穿きに手を掛ける。蒼舞は、これまでに受けた陵辱の記憶全てを払おうとするかのように、激しく頭を振って叫んだ。
「もう……嫌だ！ こんなのはいやだッ……！」
すると近衛はいったん動きを止めて蒼舞の両脇に手をつき、上から見下ろしつつねっとりと囁いた。
「どうする、助けを求めるか？ あの男は隣の部屋にいる」
「とな…りに……」
「そうだ。叫べば届くかもしれんぞ」
何があっても必ず君を助ける、鷲塚はそう言ってくれた。そして実際、何度も助けてくれた、駆けつけてくれた。だから──
「あ……ああ……」
だからきっと、今度も──
「たす……けて……」
今度も助けてくれるはず──
蒼舞は大きく息を吸い込み、その名を呼んだ。来てくれると信じて。
鷲塚はちらと時計を見た。しかし、さっき時間を確認してからまだ五分も経っていない。軽く舌打ちをしてから、冷静になれと自分に言い聞かせた。
焦りや苛立ちは、的確な判断を損なう怖れがある。近衛との会談を終えた後、おそらく意気消沈しているであろう蒼舞が、絶望や自暴自棄に陥らぬためどのようにフォローするかが何より重要な“任務”なのだ。
鷲塚は意識的に呼吸を深くして、室内をゆっくり歩いた。鷲塚が通されたのは、まさに蒼舞と近衛の会談が行われている部屋の隣だった。
ここへ案内した秘書は、勝手に部屋の外に出るような行動は慎むようにと言い置いて退室した。冗談のつもりなのか、窓くらいなら開けても構いませんよと付け足して。
ソファに座る気にもなれず、目的もなく室内を歩いていた鷲塚だったが、毛足の長い絨毯は軍靴では歩きにくく、足を止めて窓辺に佇んだ。
まさか、こんな時間に近衛が官邸にいるとは思っていなかった。総統のスケジュールは当然ながら分刻みで、テロや暗殺対策のため詳細は公開されないことが多い。鷲塚も、もちろん把握はしていない。だからあり得ないことではないのかもしれないが、やはりどうしても気になる。
近衛は、今日のこの時間に蒼舞が官邸を訪れることを分かっていたのではないか。自分に会いに来ることを分かっていたのではないか。だから時間を空けたのだ。
では一体何のために？ オペラ座出演を潰された蒼舞の怒りと抗議を受けるために、わざわざ時間を作ったのだろうか。それとも……。
「くそっ」
隣室との間を隔てる壁がもどかしい。頼むから自暴自棄になるなと、祈りにも似た言葉を喉の奥で繰り返すしかできない自分はもっともどかしい。
鷲塚は深く息を吐き、努めて思考をクリアにした。今、自分が為すべきこと、それは──
「……っ」
鷲塚はびくりと身じろいだ。聞こえたのだ。隣室で、何かが倒れ壊れる音が。それは、不穏な余韻をまとっていた。有り体に言えば、暴力的なものを感じたのだ。
鷲塚は窓をわずかに開けて、耳を澄ませた。自分の思い過ごしであってほしい、そんな願いはしかし、すぐに打ち砕かれた。
『もう……嫌だ！ こんなのはいやだッ……！』
蒼舞の血を吐くような叫びが耳に届き、鷲塚は全身が凍りつくのを感じた。駄目だ、冷静になれ、そんな虚しい助言が喉の奥で渦巻くが、口からは出てこない。
代わりに溢れるのは、どろりとした無力感。自分にはどうすることもできない、そんな思いが喉をじりじりと灼く。
──頼む、こらえてくれ。
しかし鷲塚はこの時、蒼舞がどんな目に遭おうとしているかまだ分かっていなかった。おそらく、近衛にオペラ座出演の許可を嘆願したが相手にされなかったのだろう、その程度に考えていたのだ。
まさか蒼舞が、近衛から暴力的なやり方で犯されようとしているとは、心と身体ともに傷つけられようとしているとは思ってもいなかった。
──君にはまだ未来がある。可能性がある。冷静になって次のチャンスに賭けるんだ。
鷲塚は窓辺に佇み、届かぬ言葉を繰り返す。それが伝わったなどという空想的且つ楽観的な考えは持たなかったが、ひとまず蒼舞は落ち着きを取り戻したようだ。隣室は静かになった。鷲塚はほっと安堵の息をついた、その時、
『鷲塚さんっ！ 助けて！』
悲鳴にも似た蒼舞の叫びが、鼓膜に突き刺さる。きっと助けてくれるという全幅の信頼に裏打ちされたその声は、鷲塚の精神を深く抉った。
そうだ、何があっても必ず君を助ける、自分はそう言った。その想いに偽りはない。たとえ護衛の任務が解かれたとしても、越権行為との謗りを受けようとも、蒼舞のために力を尽くすと誓ったのだ。
しかし、自分はあくまで軍人。最高指揮官である近衛に逆らうことはできない。この絶対的な序列を崩すことは、軍人としての己を否定することになる。たとえ神が『白』と言おうとも、近衛が『黒』と言えば自分はそれに従う。
『鷲塚さぁん！ お願い、助け…てぇ……ああっ、い、いやだ……っ……』
鷲塚は思わず息を呑んだ。ようやく気付いたのだ。隣の部屋で今、何が行われようとしているのか。
『やッ、やめてくださ……ッ、あ、あああ、い、入れないでぇっ………』
鷲塚は反射的に出口へ走り、扉へ手を掛けた。が、そこで賢しい理性が口を挟む。忘れたのか？ お前は国家に奉じる軍人。今行われていることが近衛の意思に基づくものである以上、それがどんな蛮行であろうが阻む権利などお前にはない──
『ひッ……や、やめっ……裂け…るぅ……ッ……ひ…ぃぃぃ！！』
「ぐっ……」
鷲塚は左手でドアノブを掴んだまま、右手を扉に叩き付けた。何度も、何度も。
「私は軍人だ。しかし、しかしっ……」
軍人として総統に忠誠を尽くすべき自分と、一人の人間として蒼舞を助けに行きたいと願う自分。二つに引き裂かれた鷲塚の心はどくどくと血を流し、言葉にならぬ苦痛の咆哮を上げる。
「うぅ…ぐ…っ……」
ドアノブを掴んだ左手はぴくりとも動かない。対照的に、扉を激しく叩く右の拳は青黒く腫れ上がる。
『痛い、痛いぃ……許してぇ………』
蒼舞はもう二度と自分に助けを求めてはくれないだろう、二度と信頼を寄せてはくれないだろう。鷲塚は慙愧と悔恨を噛み締めつつ、その場にがくりと膝をついた。
それからどのくらいの時間が経過しただろう。ドアの向こうから呼びかけられ、鷲塚はのろのろと立ち上がった。そして体裁を整える。
「鷲塚様、失礼致します」
口調こそ丁寧だが、声には不遜の色が濃い。それを証明するかのように、近衛の秘書は鷲塚の了承を待つことなく扉を開けた。そしてずかずかと入室して軽く一礼し、
「会談が終了したとのことです。妃月様は隣室にいらっしゃいますので、迎えに上がってください」
とんだ“会談”だなという皮肉が喉元まで出かかったが、鷲塚は何とか呑み込んで「了解した」と答えた。
秘書は鷲塚の変色した右手を見ると、表情を変えぬまま「怪我をされたのですか」と訊ねた。鷲塚も無表情で「君には関係ない」と冷ややかに返したが、窓が開いているのを見た秘書がうっすら目を細め、「退屈はされなかったようですね」とかすかに笑み含んだ声で言った瞬間、額の中心でパッと火花が散った。そして気付けば、秘書の横面に拳をめり込ませていた。
壁まで吹っ飛んだ秘書は、血の溢れる鼻を押さえながら鷲塚に怒りの目を向ける。しかし、
「失礼。手が滑ってしまった」
鷲塚は、まるでグラスでも落としたかのような口調で詫びた。そしてくるりと背を向け、「治療費は軍に請求してくれ」と言い置いて部屋を出た。
こんなことしかできない自分が腹立たしい。秘書を殴るなど、下劣な鬱憤晴らし以外の何ものでもない。本当に拳を向けるべき相手は誰なのか分かっている。分かっているが、しかし……。
「私は……軍人だ……」
舌が麻痺するほど何度も繰り返し呟いた言い訳をほとんど無意識のまま口にしつつ、鷲塚は隣の部屋へ移動した。
そこに、すでに近衛はいなかった。鷲塚はゆっくりと歩みを進める。そして、長椅子に身を投げ出すように力なく座り込んだ蒼舞に近づいた。
「………」
何と声を掛ければいいか分からない。蒼舞はかすかに眉間を寄せて目を閉じている。薄いまぶたは時折痙攣めいた震えを見せ、顔色は全体的に青白く艶もない。このたった一時間が、蒼舞をどれほど苦しめ消耗させたかは一目瞭然だった。
突っ立ったまま不毛な思考を巡らせていると、気配を察したのか蒼舞がゆるゆると目を開けた。ジェードグリーンの瞳は確かに鷲塚を捉えたはずだったが、無機質なガラス玉のように微動だにしない。
生きた光の消えた瞳とは、これほどの戦慄を喚起するものなのか。鷲塚は背筋が凍るのを感じたが、軍人の習い性なのか表情に出ることはなかった。
「……帰るぞ」
労わりや慰めの言葉など、掛けられるはずもない。とはいえ、もう少し他に言うべきことがあったのではないかと、己の無粋さに歯噛みする思いだった。しかし蒼舞は黙って頷いて立ち上がろうとした。が、
「ぁっ……」
下肢に力が入らないのか、ぐらりとよろめく。当然ながら、鷲塚は支えようと手を伸ばした。これまでも、疲れて足元がふらつく蒼舞に手を貸したことは幾度もあった。
そんな時、蒼舞は鷲塚の上着にきゅっとしがみつき、照れ臭さをごまかすためなのか不貞腐れた声で「ありがと」と言って、ふいとそっぽを向いた。かすかに頬を赤らめて。しかし、
「触るなッ」
声量こそないが、その鋭さは鷲塚の手を止めるのに十分だった。蒼舞はいったん椅子に手をついてから、自分の力で立ち上がった。
その身体からまだ痛みが消えていないことは、眉間に深く刻まれた皺と奥歯を噛み締めるような表情で分かる。
それでも蒼舞は背筋を真っ直ぐ伸ばし、鷲塚の前を毅然と通り過ぎてゆく。その姿は、もうあなたの助けはいらないと告げていた。
「無理をするな。ゆっくり歩きなさい」
はね付けられると分かっていながら、鷲塚は思わず諭した。案の定、蒼舞は冷たい一瞥を投げて、
「何のこと？ 僕は無理なんかしてない」
恐ろしいまでに凪いだ蒼舞の瞳を見ていられず、鷲塚は目を逸らした。
「私は、君の信頼を裏切ってしまった。済まな──」
「謝らなくていい。必ず助けるという言葉を盲目的に信じていた僕が愚かだったんだ」
鷲塚の謝罪を遮って淡々と語る蒼舞には、ある種の凄みがあった。それは、“底”を見た人間にしかまとえぬ負の気迫なのだろう。
「あんたは人間である以前に軍人だ、総統の狗だ。僕はそれを忘れていた……いや、考えまいとしていた。現実から目を背け、都合のいい妄想にしがみついていたんだ。鷲塚さんならきっと、何があっても相手が誰であっても助けてくれるはず、と」
そして蒼舞は真っ直ぐ鷲塚を見返し、痛烈なひと言を放った。
「狗が、飼い主に逆らえるわけないのに」
蒼舞の言葉には、怒りも蔑みもなかった。ただ事実を指摘しているだけ。むしろそれが、鷲塚には苦しかった。どうして助けてくれなかったんだと罵られ、激しい感情をぶつけられる方がずっと楽だった。
「……君は、私に謝罪の機会すら与えてくれんのか」
思わず口から出た本音に対し、蒼舞は何の反応も示さなかった。鷲塚に背を向けると、ついさっきまで暴力的な陵辱を受けていたとは思えぬほどしっかりした歩みで部屋を出ていった。
鷲塚は、その後を黙って付いていくしかなかった。
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