第十一話
蒼舞の家に帰り着いた時には、すでに日付が変わっていた。あの会話以来ずっと二人はだんまりで、車中の空気も重苦しいものだった。その間、蒼舞はじっと前を向いたまま考え込んでいる様子だった。
蒼舞は車を降りると、鷲塚のコートで身体を隠してアパートのエントランスに入り、そのまま部屋へ上がっていった。
アルコールと、酒に混ぜられていた酔いを促進させる薬のせいで足元はまだふらついていたが、鷲塚の手を借りるつもりはなかった。鷲塚も手助けを申し出ることなく、黙って後についてくる。
そして一緒に部屋に入り、素早く着替えを済ませると、蒼舞は真っ直ぐ鷲塚に近づいた。
「鷲塚さん、さっきは悪かった。助けてくれたのにお礼も言わず、苛立ちをぶつけてしまうなんて」
謝罪とともに軽く頭を下げたが、鷲塚が応える前にくくっと笑い、
「構わない、子供の癇癪には慣れている……だろ？」
「そういうことだ。分かっているではないか」
鷲塚の言葉に、蒼舞はつんと唇を尖らせた。が、すぐに表情を引き締めて、強い意志を宿した瞳で鷲塚を射抜く。
「鷲塚さんに、ひとつ聞きたいことがある。正直に答えてほしい」
「答えられることならば」
他の人間なら、周到に逃げ道を作ったなと舌打ちするところだが、蒼舞は鷲塚を信じていた。彼ならきっと、きちんと答えてくれるに違いない。蒼舞は鳩尾にぐっと力を入れ、問いを発した。
「惺は……片桐惺はもうこの世にはいないんだよな？」
ずっと聞きたかった、けれど聞くのが怖かった。鷲塚から拒絶され、バレエ団内でも孤立している自分が唯一すがることができたのは、“もしかしたら”という可能性だけだったから。もしかしたら、嫌疑が晴れて片桐が戻ってくるかもしれない、と。
でも、今夜の出来事でようやく覚悟ができた。男たちに強姦されそうになった極限の状態で、自分は明日のレッスンのことを考えた。すると不思議と心が澄み渡るのを感じたのだ。
どんな目に遭っても、自分にはバレエがある。バレエしかない。その確固たる思いを胸に前進するだけだ。いつまでも、現実から目を背けているわけにはいかない。
そんな蒼舞の覚悟が伝わったのか、鷲塚は言葉を濁さず、希望を持てといった類いの綺麗ごとにも逃げず教えてくれた。
「亡命企図は国家反逆の罪に当たる。さらに彼には、不法滞在の外国人たちとの付き合いがあった」
「外国人との……」
「そうだ。彼らに亡命の手引きをしてもらったのだろう。これらの罪状に対する刑罰は……銃殺刑だ」
その瞬間、蒼舞の中で弱々しいながらも輝きを保っていた小さな光が、すぅっと消えた。視界は暗転し、周囲から音が消える。刹那的な感覚の死を経て、蒼舞は絶望の淵からようよう帰還した。
「そ…か。やっぱり、な」
蒼舞は自分に確認するように呟くと、涙の菲膜に覆われた目を鷲塚に向けた。そして淡く微笑む。
「ありがとう、ちゃんと答えてくれて」
蒼舞は涙を拭うのも忘れ、窓辺へゆっくり歩みを進める。外気に身を浸しながら夜空を見上げ、文字通り星になった片桐に誓いを捧げようと思ったのだ。惺の分まで頑張るから、と。すると、
「なにを……する気だ」
その声は、鷲塚のものとは思えぬほど醜くかすれていた。不穏な感情が凝縮されたような、熱くもあり冷たくもある声。
蒼舞は不審を覚えつつも観音開きの大きな窓に手を掛け、外に向かって開け放った。そして流れ込む夜気に身を浸しながら、夜空に向かって手を伸ばす。その時、
「やめろ！！」
鷲塚が叫びながら駆け寄り、蒼舞の身体に飛びついてきた。そして乱暴に窓を閉め、蒼舞を窓辺から引き剥がす。
「馬鹿な真似をするなッ」
その剣幕に、蒼舞は純粋に驚いた。
「鷲塚…さん？ どうしたんだよ、一体──」
「早まった真似はするなと言っているんだ！ 君はっ……」
鷲塚は絶句し、荒い呼吸を繰り返す。いつも冷ややかな凪を湛えた瞳は、かすかに血走っていた。驚きを消化した蒼舞は、ゆるゆると首を振り、
「部屋の空気を入れ替えるために窓を開けただけだ」
「窓、を……」
鷲塚の呼吸はまだ荒れていたが、瞳は平静を取り戻しつつあった。しかしその奥で、繊細な感情が揺らめくのを見た蒼舞は、あるひとつの可能性に思い当たった。手を伸ばして鷲塚の頬をそろりと撫で、
「鷲塚さん、あんたもしかして……以前こういうことがあったのか？」
「こういうこと、とは何だ」
口調は平静を装っていたが、声の震えまでは抑え切れていなかった。しかし蒼舞は気づかないふりをして、表情を変えず答える。
「自分の目の前で、親しい人間が飛び降りたことだ」
鷲塚は問いを飲み干すように喉を鳴らし、頬を撫で続ける蒼舞の手をそっと握った。夜気に触れて冷たくなった指先に、鷲塚の温もりがじんわり浸透する。やがて鷲塚は、驚くべきことをさらりと口にした。
「ああ、あった。私の母だ。目の前で飛び降りて、自ら命を絶った」
蒼舞は驚愕に目を見開き、ひと言「そうだったんだ…」と呟いて溜め息をこぼした。そして、空いた手で鷲塚の手を掴んで自分の左胸へ導き、
「僕は死なない。絶対に」
「ああ、そうだな。君は……強い」
「そ。憎まれっ子なんとやら、だ」
蒼舞は笑み含んだ声でそう言うと、鷲塚の顔を見上げて、
「これで、あんたに怒鳴られるのは二度目だ」
「怖かったか？」
蒼舞は首を傾げて少し考え、
「いや、怖くなかった。今回は、人間として叱ってくれたって感じがしたからかな」
「そうか。それなら……良かった」
「それより鷲塚さん、あの……」
蒼舞のためらいをいち早く察した鷲塚は、「母のことが気になるか？」と質してきた。
「あ、いや……確かに気になるけど……でも、詮索されたくないよな、誰だって」
基本的に傍若無人な蒼舞だったが、他人の繊細な領域にずかずか入り込むような人間ではなかった。それは鷲塚も分かっているのだろう、穏やかに応じた。
「別に構わん。私の母は、君も知っての通り独逸人だ。そして父である鷲塚公爵の愛人だった。私は十一歳まで自分の父が誰であるか知らず、母と二人で暮らしていた。しかし十一歳の時にクーデターによる軍事政権が樹立し、日本で暮らす西洋人は特別居住区へ送られ徹底的に管理されることとなった」
「僕が三歳の時だ。よく覚えてる」
蒼舞の双眸が怒りに湧く。わずか三歳とはいえ、屈辱的な記憶として鮮明に残っていた。
「私と母も移住を余儀なくされたが、皮肉なことに、その際の身辺調査により私たちの素性が明るみに出ることになった。鷲塚家もさすがに無視できなくなり、私と母を本家の屋敷に呼んで話し合いを持つことになった」
「いきなり家に呼ばれて、驚いた？」
「もちろんだ。目も眩むような立派な屋敷。それに、胸に勲章をいくつも付けた恰幅のいい紳士が、私の父親だと言うのだからな。しかしそれ以上に驚いたのは、家人からのあからさまな蔑みだ」
蒼舞の胸が音をたてて軋んだ。どんな言葉が、態度が投げつけられたか、説明を待たなくても手に取るように分かる。
「私はそれまで、自分の中に流れる異国の血が穢らわしいものだなんて思ったこともなかった。しかし本家の子供たち、私の異母兄らはまるで怪物でも見るような目つきで眺め、お前の血は何色なんだ、と嗤う。私は怒るより先に驚いてしまった」
「言い返したりはしなかったのか？」
「もちろん、した。口と一緒に手も出たな。私の方が身体も大きかったし、力も強かった。ちょっと殴っただけで吹っ飛んでいったな」
蒼舞は身体を揺らして笑った。
「ははっ、やっぱりあんた、激情家なんだな」
「やっぱり、とはどういう意味だ」
不審げな鷲塚に、蒼舞は口ごもりつつ答えた。
「いや、近衛閣下が……あんたはたぎる激情を皮膚の下に隠している、と」
鷲塚の眉間に、深い縦皺が刻まれた。ここまであからさまな不興顔を見せる鷲塚も珍しい。
「あの方は、士官学校時代の私の、自慢にもならない武勇伝をよくご存知なのだ」
鷲塚は面白くもなさそうにそう言って、話を戻した。
「母と鷲塚家の話し合いは三日に渡って行われた。その間私は、本家の人間から屈辱的な扱いを受け続けた。そして鷲塚家は、最終的に次のような提案をした。私を鷲塚家の四男として迎え入れ、士官学校に入学させる。その代わり、今後母は鷲塚家との関係を一切絶つ、というものだ。母はその申し出を拒絶した。母にとって私は唯一の希望、愛情を注ぐ対象だったのだ。それを奪われるくらいならこのままでいい、と。しかし私は……申し出を受け入れることを望んだ」
「……見返してやりたかったんだね」
「そう、君の言う通りだ。士官学校で優秀な成績を収め、軍の幹部まで上り詰める。そうすることで、私や私の母や祖国を貶めた者全てを見返す。母を愛していなかったわけではない。ただ、母への愛より屈辱を晴らしたいという欲求の方が勝っていたのだ」
蒼舞は無意識のうちに、手を鷲塚の胸に置いていた。手のひらに伝わるのはかすかな鼓動と温もりばかりだが、言葉とは別次元の『声』を蒼舞は確かに感じていた。
「私が自分の意志を告げると、母はたったひと言『分かった』と言って椅子から立ち上がった。そしてさっきの君のように両目に涙を浮かべてうっすら微笑み、窓辺へ移動して身を投げた。全てがあまりに静かに行われたせいか、まるで夢の中の出来事のようだった。私は叫ぶことも泣き喚くこともできずしばらくその場に立ち尽くした。母は、即死だった」
それはぞっとするほど事務的な語り口だった。意識的に感傷を排したというより、時を経るにつれて自然と感傷が削ぎ落とされ、純度の高い事実だけが残ったのだろう。人はこうして、喪失の哀しみを無機質な『過去』に変えてしまうのだろうか。
鷲塚の話にじっと耳を澄ませていた蒼舞は顔を上げ、
「鷲塚さんのお母さんはきっと、愛する息子に忘れられてしまうのが怖かったんだろうな。だから目の前で死ぬことで、鷲塚さんの心に一生棲み続けようとしたんだ」
「そう、かもしれん。確かに私は母のことを忘れようと努めたが、結局忘れられなかった。君の行動に母を重ねてしまうとは……」
鷲塚はしみじみとした口調でそう言って、目を細め唇を緩めた。それは己の不甲斐なさに対する嗤笑、苦笑の類いだったのだろうが、鷲塚がこんなにはっきり笑みの形を見せたのは初めてだった。蒼舞は「うわあ」と驚きとも歓声ともつかぬ声を上げ、
「鷲塚さんが笑うの、初めて見た。すごい、やっぱり笑うんだ」
「君は本当に失礼だな。私を何だと思っているんだ」
「鋼鉄の理性、針金の神経、岩石の心──僕が考えた、鷲塚理人のキャッチコピー」
無邪気に答える蒼舞からそっと視線を外し、鷲塚はぼそっと呟いた。
「それらは全て、君に会う前のものだ」
「え？ 何か言った？」
「……いや、なんでもない。それより、そろそろ窓を閉めよう。身体を冷やすのはよくない」
鷲塚の促しに素直に従い、蒼舞は窓を閉めて室内に戻った。そして鷲塚を真っ直ぐ見上げ、
「なんか、話してくれてありがとう。あんたのことが聞けてよかった。あと、あらためてごめん。公安警察が来た時も、それから今夜も、ちゃんと僕を守ってくれたのに、色々ひどいこと言って。なんて言うか……反省した。これからは、あんたに迷惑かけないようきちんとする。それで、惺の分まで頑張る」
鷲塚はなぜか苦しげに顔を歪めて、蒼舞の言葉を聞いていた。やがて首を振り、
「いや、君が謝る必要はない。私ももっと、君の不安や葛藤を汲み取るべきだった」
「鷲塚さん……」
「君の言う通りだ。親友があのような目に遭って、不安にならない方がおかしい。庇護を求めた君を、誰が責められようか」
「あ……」
鼻の奥がツンと痛くなり、蒼舞は慌てて眉間に意識を集中した。しかし涙腺の制御には間に合わず、瞳がゆっくり膨らんでゆく。やがて透明な雫がひとつ、ふたつと転がり落ちた。
鷲塚はそれを指先で受け止めると、わずかな躊躇を経て己の唇で吸い取った。そして濡れた唇で、優しい言葉を紡ぐ。
「だから、無理して気を張って、不安を抑え込もうとしなくていい。私を頼ってもいい」
「でもっ、こんな子守りみたいな任務、あんたにとってはどうでもいい──」
「ああ、そうだった。君はどうやら誤解しているようだから、きちんと伝えねばなるまい。私は君の護衛を、嫌々やっているなどということはない。むしろ、やりがいのある任務だと思っている」
「嘘だ。そんな……」
「どうして嘘だと思うんだ」
「どうしてって、だって、そもそもあんたはエリート軍人で、朱衛軍の黒服で、本来は裏で暗躍している反体制分子とか、活動家とか、外国の間諜とか、そういう国家の安全を乱す連中を捕まえる重要な任務に就くはずの人間じゃないかっ」
彼の謹厳実直な性格が、くだらぬ任務を全力で遂行させているのだと思っていた。しかし、
「国家の宝とも言える君のような芸術家の安全を保持し、安心して己の道に没頭できるようサポートすることは、国家の敵を排除することと同じくらい、いやそれ以上に重要で意義深いと思っている」
蒼舞のプライドをくすぐるためにこんな嘘をつくような人間でないことは断言できる。鷲塚は続けて、
「それからもうひとつ。もし私が護衛を解任されても、君が危機に陥った時は必ず助ける。約束する」
今度はさすがに、蒼舞もすぐには信じられなかった。あれほど任務に忠実な鷲塚が、任務を逸脱した保護を約束してくれるなんて。
「ほん…とに？」
涙越しにすがるように問いかけると、鷲塚がかすかに身じろいだ。蒼舞を見下ろす双眸は、庇の陰でこれまで見たこともないようなぬめった光沢を帯びている。静かな熱狂とも呼ぶべき感情の高揚が、その瞳から伝わる。
彼は今、内奥で渦巻く激しい感情を必死に抑え込んでいるのではないか。確証はなかったが、蒼舞はふとそんな風に感じた。
しかし答える鷲塚の声はあくまで冷静だった。
「ああ、本当だ。だから万が一私が解任されても、新しい護衛に心を許さないようにしなさい。当然だが、朱衛隊には色んな人間がいる。君の発言や行動を“反体制的”と見なす者もいるかもしれん。下手に反抗せず、納得のいかないことがあったら私に言いなさい。分かったな？」
噛んで含めるように諭す鷲塚に、蒼舞は真剣に耳を傾けた。そしてようやく、彼の本気を悟った。
まだ両目は涙で濡れていたけれど、唇は自然と、蕾が綻ぶようにほどけて微笑みの形になった。やがて同じ唇から、喜びが凝縮された高密度の言葉がこぼれた。
「うれしい」
たったひと言だ。これしか出てこなかった。しかし、嘘も飾りもない感情の発露だった。それを口にした瞬間、蒼舞の身体は拘束された。背骨が軋むような抱擁。蒼舞は驚きながらも、朧げに察した。
おそらくこれが、鷲塚のもうひとつの本質なのだ。冷たい軍服越しに、迸る激情が伝わってくる。
「……すまない、いきなり」
鷲塚は抱擁を解かぬまま謝罪した。蒼舞は胸に顔を押しつけたまま、小さく頭を振る。鷲塚はほっと息をつくと、彼らしくないのろのろとした動作で身体を離した。
「今日は色々あったから疲れただろう。ゆっくり休むといい」
鷲塚は衝動的な行動の埋め合わせをするかのように、ことさら事務的な口調で促した。蒼舞は煮え切らない態度を見せつつも「うん…」と応え、「それじゃ、また明日」と素っ気ない挨拶をして一度は背中を向けた。
しかしすぐに身体を反転させ、鷲塚の上着を掴んだ。平然を装わねばという意思に反してみるみるうちに頬が熱くなるが、構うものかと鷲塚を見上げ、
「な、なんか今日は色々あったから、ちゃんと眠れるか不安なんだ。だから眠るまで……その、傍にいてくれれば嬉しいな、って……」
言ってしまってから甘えたような言動に恥ずかしさを覚え、蒼舞は慌てて手を離した。そして今さらながら体裁を繕う。
「で、でもまあ、どうしてもってわけじゃない。僕だってそこまで我がまま言ったりはしない」
「これまで好き勝手しておいて、よく言えるな」
呆れたと言わんばかりの指摘に蒼舞は何も言い返せず、しゅんと項垂れる。すると鷲塚は帽子を取り、蒼舞の腰にそっと手を添えて寝室へ導いた。
「さあ、横になりなさい。眠るまでここにいるから」
「ほんとに？」
「ああ。なんなら子守唄でも歌おうか」
「いらない。なんか、悪い夢を見そうだ」
「とことん失敬だな、君は」
鷲塚が苦り切った表情がおかしくて、蒼舞は無邪気に笑った。そして布団の中にもぞもぞと身体を押し込み、鷲塚の方を向いて手を伸ばした。が、触れる寸前でぴたりと止め、窺うような上目使いで見つめ、
「頼んでおいて今さらだけど、遅くまで引き止めたりしたら、鷲塚さんの……奥さんに悪いな。きっと帰りを待ってる」
鷲塚は訝しげに眉根を寄せ、
「何を言っているんだ、君は」
「え、だって……鷲塚さん結婚してる、だろ？」
「いや、私は独身者だが」
鷲塚が答えると同時に、蒼舞の顔がぱっと明るくなった。
「ほんとに？」
「ああ。確かに年齢からすれば妻帯していてもおかしくはないが。結婚はしていないし、その予定も今のところない」
「そっか、そうなんだ。ふ〜ん」
大して関心もないと言わんばかりの口調を装ったが、口許は緩んで今にも笑い出してしまいそうだった。鷲塚も気づいたのか、
「ずいぶん嬉しそうだな」
「べ、別にっ。奥さんがいないなら、これからも気にせず我がままが言えるなって。それにしても、鷲塚さんなら相手に困らないだろうに」
「それは褒めているのか？」
「もちろん褒めてるんだよ」
蒼舞は悪戯っぽく返して、鷲塚の手をきゅっと握った。鷲塚は空いている方の手で蒼舞の髪を撫で、
「お褒めにあずかり光栄だ。さ、お喋りはここまでだ。もう寝なさい」
不思議なことに、さっきまでは早く横になって眠りたかったのだが、妙に頭が冴えてしまった。このまますぐ眠ってしまうのが何だかもったいなくて、蒼舞はもう寝なさいという言葉を無視して鷲塚の方へ身体を近づけ、
「なあ、鷲塚さんの母親ってどんな女性だった？」
鷲塚は溜め息をつくと、仕方ないなと言わんばかりに口を開いた。
「そうだな。外見は独逸の女性らしく頑健で、まるで男を蔑む狩りの女神ディアナのような雄々しい美しさがあった。しかし中身は繊細で傷つきやすく、愛情深いひとだったな」
「そうか……僕の母親と対照的だな」
鷲塚は興味を覚えたのか、すぐさま訊ねた。
「というと？」
蒼舞は瞳を宙空に彷徨わせつつ記憶の糸を手繰った。やがて鷲塚の顔に視線を戻し、
「外見は、まさにシルフィード、妖精だ。白い肌に翡翠の瞳。髪は金糸のように細くてふわふわしてた。放っておいたら日の光に融けてなくなってしまうんじゃないかって思うほど、華奢なひとだった。けど」
蒼舞はくすりと笑って続ける。
「ひと言で言えば女傑。とにかく強い、色んな意味で。相手が男だろうが年上だろうが権力者だろうが構わず喧嘩するし。特に筋の通ってないことは許せないみたいで、よく食ってかかってたな」
「私もそういう人間を一人知っている。相手が総統の狗だろうがバレエ団総裁だろうが構わず噛みつく」
蒼舞は思わずむっと膨れたが、すぐにしょぼんとしおれて、
「そうなんだ。ほんと、嫌んなるほど僕は母さんに似てる。よく父さんに笑われた。お前たちは一卵性親子だって」
「君の父上は確か、若くして病死したと」
「そう、僕が五歳の時に胸の病でね。父さんは造り酒屋の三男で、家業は二人の兄が継ぐからと好きなことをさせてもらえた。ピアノが好きでパリの音楽学校に留学していた時、当時オペラ座バレエに入団したばかりの母さんと知り合ったんだ」
「それで、恋に落ちたのか」
「ずいぶんロマンチックな表現だね」
揶揄された鷲塚は、苦い表情を浮かべた。
「茶化すのはやめなさい」
蒼舞は「はーい」と不真面目に返して、話を続けた。
「超難関の入団テストに合格したのに、母さんは一年も経たないうちに脚を痛めてしまい、舞台に立てなくなった。でも母さんは絶望に陥ることなく、教育者としてバレエと関わってゆくことを決断した」
「やはり、君に似ている。強い女性だ」
蒼舞は面映そうに頷き、
「その決断ができたのは、父さんがいたからでもあるんだよ。二人は結婚して一緒に日本へ戻った。母さんは、まだバレエ後進国の日本に本場ヨーロッパの教育を持ち込むことで、レベルを向上させようと意欲を燃やしたんだ。けど、そんな二人を周囲は認めなかった。特に父さんの家族は怒り心頭で、結婚は認めない、別れないなら勘当だと徹底して拒絶した」
「それでも君のご両親は負けなかった」
「もちろんだ。父さんはピアノ教師、母さんは美術学校でデッサンモデルとして働き、貯まったお金で小さなバレエ教室を開いた。元オペラ座ダンサーという経歴が奏功して、かなりの生徒が集まったよ。僕がお腹にいる間もずっと教室で教えて、出産後もすぐに復帰した。僕は物心つく前からレッスン場にいて、バーにぶら下がって遊んでたって。決して裕福ではなかったけれど、幸せだったよ。けれど」
蒼舞の顔に剣呑な翳がかかる。その理由は言うまでもなかった。鷲塚は声を低め、
「クーデターによる軍事政権樹立、そして西洋人排斥が起きた」
「そうだ。そのせいで、僕たち家族は特別居住地域へ強制移住させられた。隙間風が吹き込むボロ小屋が与えられ、生活に最低限必要なもの以外は全て没収されたんだ。父さんはその一年後、病でこの世を去った。それでも、母さんは絶望しなかった。特別居住地域でもバレエ教室を開いて生徒を集め、そして僕にバレエの全てを、技術と魂を教えてくれたんだ」
蒼舞の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。しかしその表情は決して泣いていなかった。むしろ希望の光にも似た明るさで覆われていた。
「僕が国立バレエ学校に入学した翌年に母さんは病気で死んでしまったけれど、魂はこの中で生きている。僕が踊り続けることで、僕の中の母さんも生き続けるんだ。いや、母さんだけじゃない、父さんも、惺も」
「そうだ。君の中にはたくさんの命と希望が宿っている。それを生かすも殺すも君次第だ」
鷲塚の言葉に応え、蒼舞は胸にそっと手を当てた。その奥で刻まれている魂の鼓動を慈しむかのように。
「鷲塚さん、僕は諦めないよ。パリオペラ座で、ロンドンロイヤルオペラハウスで、ニューヨークメトロポリタン歌劇場で、僕の踊りを世界中の観客たちに披露する日が来ると信じて」
蒼舞は力強い口調で告げると、鷲塚の手をぎゅっと握って微笑んだ。鷲塚も握り返し、
「私も、世界の舞台で活躍する君が見たい」
「うん。その時は特別席の招待状を送るよ」
蒼舞は晴れやかにそう言って、目をこすった。鷲塚は布団を肩まで引き上げて、上からぽんぽんと叩き、
「さ、もう寝なさい。明日のレッスンに障る」
今度は、蒼舞も素直に頷いた。小さなあくびをして、とろんとした眼差しを向け、
「鷲塚さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
短い就寝の挨拶だったが、鷲塚の艶やかなバリトンには子守唄に匹敵する効果があった。蒼舞はすぐに真綿のような睡魔に襲われた。
完全に意識を手放す直前、「いい夢を」という優しい囁きが聞こえ、唇に温かく柔らかいものが触れるのを感じたが、それが何なのか考える間もなく幸せな眠りに沈み込んでいった。
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