Fly to Future
＜3＞
くすんくすん、と鼻をすすりながら顔を離すと、速水のシャツの胸元が、肌の色が透けて見えるほど濡れていた。麻生はそおっと見上げて、
「ごめんなさい、シャツ汚しちゃった……」
すると速水は、涙の雫でしなる睫毛に軽く口づけ、
「涙でも鼻水でも、晶のなら大歓迎だよ」
「鼻水は付けてませんっ」
すかさず反論したのだが、それを裏切るようにぐずぐずと鼻が鳴ってしまう。速水は「ほらほら」と笑って、ティッシュを麻生の鼻にあてがい、
「はい、チンして」
「ぅぅ……」
恋人からこんな子供扱いされたことのない麻生は、どんな反応をしたらいいのか分からずただ赤くなって睨むばかり。しかし速水に再度促され、その柔らかな声の響きに心ほぐされた麻生は、素直にふんふんと鼻をかんだ。
他人の手で鼻をかむなんて、幼稚園以来かもしれない。そんな麻生の困惑に気付いているのかいないのか、速水は「よしよし、いい子だ」と言って、大きな手のひらで頭を撫でてきた。
麻生が「子供扱いして…」と不満をぶつければ、速水は「子供だろう？」とあっさり返す。麻生はむぅっと唇を尖らせたが、子供扱いされたことに本気で腹を立てているわけではなかった。
色んな経験をして年齢以上にすれているという自覚があったから、むしろ子供扱いされるのは新鮮だったのだ。
「それじゃ、この手紙は僕がもらっていいんだね？」
「う、うん……速水さんに宛てたものだし……」
と渋々了承したものの、『逢いたい』『さみしい』と泣き言満載の手紙はやっぱり恥ずかしい。麻生はぱっと手を伸ばし、
「やっぱりダメ！ 返せ！」
しかし速水はこの反応を予想していたのか、素早くよけてキャビネットの引き出しに入れてしまった。
「もう！ 返せってばっ」
麻生は身を乗り出して奪い返そうとしたが、伸ばした腕を速水にやんわり搦め捕られ、そのままもつれ合うようにしてベッドの上に倒れ込んだ。
思わず小さな悲鳴を上げてぎゅっと目をつむり、速水の胸にしがみつく。次に目を開けた時には、シーツの波間で速水に抱き締められていた。
「は、離して……」
もぞもぞと腰をくねらせささやかな抵抗を見せる麻生を、速水は長い四肢でゆったり拘束し、「離さないよ」と優しく拒否する。その紳士的な捕食者という二面性は速水の個性そのもので、麻生は否応なく惹き付けられてしまうのだ。
「ほら、観念しなさい。君は僕に食べられる運命なんだから」
まるで麻生の思考を読んだかのような速水の囁きは、媚毒のごとき作用をもたらした。
四肢は甘く痺れ、抵抗の意思は儚く遠のく。ある種の毒蛇は、まず獲物に毒を注入してそれが全身を麻痺させるのを待つというが、麻生は自分がその獲物になったような甘美な錯覚に溺れた。
速水の身体を押し戻そうと突っ張っていた腕はシーツの上にとろりと投げ出され、短パンの裾からすらりと伸びる脚は、拘束の意図をもって絡めてくる速水の脚に、まるで寄り添うように密着していた。
完全に無抵抗となった麻生の身体を、速水はいよいよ貪り始めるかと思いきや、急に口調を改めて、
「もうひとつ、訊きたいことがある。ナミの家で対面した時、君は何度も謝っただろう？ あれは何故だい？」
「あ、あれは……あの……」
『深い理由はないよ、ちょっと感情が昂っちゃって』『いきなり押し掛けて迷惑じゃないかって思ったから』『速水さんがすごく驚いてたから取り敢えず謝っておこうと思って』―――等々、咄嗟にごまかしの言葉がいくつも浮かんだが、麻生は全て頭の中で打ち消した。速水の誠実さに応えるには、自分も誠実にならねばならない。
「今回、訪問のことを事前に知らせずいきなり訪ねていったのは……速水さんを試そうと思ったからなんだ」
「試す？ 僕を？」
速水は訝しげに眉根を寄せて聞き返す。あからさまな不快の色はなかったが、険しい表情の変化に麻生はびくりと肩を竦めた。それでも、
「うん。突然僕が現れた時の速水さんの態度や表情を見れば、こっちで新しい恋人を見つけたかどうか分かる。もし慌てたり困惑したり、迷惑そうな顔を見せたり、何かを隠すような態度を感じたら……」
「笑顔で僕の元から去っていこう、と？ あの時のように」
あの時、とはつまり、一年前の春、速水とその恋人でパトロンである女性に、ホテルのロビーではち合わせした時のことに違いない。
裏切りの現場を目の当たりにした麻生は哀しみやショックを面てに出さず、笑みすら浮かべて二人の前から立ち去ったのだ。
麻生が静かに頷くと、速水の顔が哀しげに歪んだ。麻生は指先で労るように眉間を撫で、
「嫌なこと思い出させてごめんなさい。でも本当に、そうするつもりだったんだ。我ながら自虐的だなあと呆れるけど。で、実際に対面した瞬間のあなたの表情や態度を観察しようとしたけれど……」
喉の奥から熱い塊が込み上げて、麻生はいったん言葉を切った。対面した時の速水の反応を思い出したからだ。
「観察なんてするまでもなかった。速水さんてば子供みたいに顔をくしゃくしゃにして喜んでくれて。ああ、僕はこの純粋で誠実な人を試そうとしたのかと思ったら、なんか申し訳なくて、それで思わずごめんなさい、って」
「晶……」
「ほんと、自分がどれだけ世知に汚れた心の持ち主か思い知らされたよ。あなたはこんなにも綺麗で強いのに、それにひきかえ僕は……」
自虐の泥沼にはまりそうになった麻生を救ったのは、速水の笑顔と屈託ない言葉だった。
「構わないさ、どんどん試してくれ。それで晶の不安が解消されて気持ちが楽になるのなら、僕は喜んで試されるよ」
速水の言葉にまず湧き上がったのは、喜びより驚きだった。
「速水さん……怒らないの？ 自分が信用できないのか、って」
「どんなに近しい関係でも、すれ違いや感情の齟齬は起きるものだ。況して僕らは遠く離れた場所に暮らし、なかなか連絡も取り合えない。不安になるのは当たり前じゃないか。それに僕は、晶の信頼を得るだけのものをまだ見せれていないからね。これから、少しずつ積み重ねていければいいと思ってる」
「これから……少しずつ……」
「そう。だからどんどん試してくれ。そのたびに晶の“信頼メーター”が上がれば、いつか合格ラインに達するはずだから。そうそう、『仮装大賞』の得点ボードみたいに」
「なんか安っぽい」
麻生がそう言って唇をちょんと尖らせると、ついばむようなキスが降ってきた。その柔らかさと温かさに尖っていた唇は緩やかに溶け、やがて微笑みの曲線を描く。速水はほどけた唇になおも口づけを降らせながら、
「ひとつだけ、晶にお願いがある。もし信頼メーターが下がるような出来事があっても、すぐに去ってしまわないでほしい。もう駄目だと思い込んで、反射的に背中を向けるのだけはやめてくれ」
麻生は思わず笑った。どうやら、性格というか行動パターンを見抜かれているようだ。
「ん、わかった。取り敢えず言い訳させてあげる」
「晶……僕が浮気するって決め付けてないか？」
「だって仕方ないでしょ？ 速水さんはすっごくカッコいいから、男性も女性も放っておかないよ、きっと」
そう言ってばちんとウインクしてみせると、速水は「大人をからかうな」と言って寝技みたいな荒っぽい抱擁を仕掛けてきた。麻生は笑いながら「苦しいよぉ」とおどけたが、すぐに口調を改めて、
「からかってないよ。日本にいた時も紳士な獣って感じでカッコよかったけど、今はもっとカッコいい。髪が伸びて、身体も以前よりさらに精悍になって。ちょっと野卑な感じがすごくどきどきする」
そして手を伸ばし、指先を髪の中に差し込んで軽く梳いた。太くて硬そうな見た目に反し、その感触は滑らかで心地いい。速水のことだから、外見に構う余裕もなく創作に没頭して、床屋にも行かず伸ばし放題なのだろう。
しかしぼさぼさの髪型から受ける印象は不潔や怠惰ではなく、野性的な色気。長い前髪の隙間からじっと見つめられただけで、下腹部がじんと疼いてしまう。麻生はたまらず腰を揺らして、じわじわと溜まりつつある疼きを散らした。
速水の喉仏が大きく上下したのはおそらく、その動きに性的な含蓄を感じたからだろう。早くここをいじめて、という暗黙の誘いに違いないと。男の都合のいい思い込みと言えなくもないが。
「あっ？ や、やっ、ん……」
いきなり下着の奥に熱いものを感じ、麻生は驚きの混じった喘ぎを漏らした。熱いものの正体は、速水の手のひら。
まだ半勃ち状態でくたりとした麻生の性器がすっぽり収まってしまうほどの大きなそれが、下腹部から柔らかな茂みまでを愛撫する。そして空いた片手でシャツをめくり上げ、腰から胸まで露わにした。
白磁のような光沢に速水は眩しそうに目を細め、外気に触れてきゅんと勃ち上がった桜色の頂きを指の腹で捏ねた。
「やっ……は…やみさん……待っ………やだ、そんな急にっ………」
「誘ったのは君だろう？ いやらしく腰を揺らして、潤んだ目で見つめて」
「誘ってなんかな………あ、ぁんっ」
ただ無邪気に下腹部を撫で回していただけの手が、確信的な指使いで麻生の張り詰めつつあるものをすいとなぞった。そして胸を弄っていた指は、かすかに盛り上がった乳暈ごと挟み込んでやわやわと揉む。
一段階進んだ愛撫に、思わず鼻にかかった喘ぎがこぼれる。速水は相好を崩し、
「晶、今の可愛い声、もう一度聞かせて」
「やっ…だぁ……」
「ああ……今のやだ、も可愛いな」
「もう、ばかぁ……」
他愛もない睦言に、徐々に体温が上がってゆくのが分かる。このふわふわした甘痒い感覚は本当に久しぶりで、それに身も心も沈み込んだ麻生はとろんと目を細めた。
するとそれを眠気のせいと誤解した速水は、額と額をコツンと合わせ、
「眠いのか？ ああ、そうか、時差もあるしなあ……」
労るような神妙な言葉に、麻生は悪戯っぽい笑みを返して、
「眠い、って言ったら解放してくれるの？」
「そ、それはもちろん……いや……うう…………無理だ」
速水は逡巡しつつもあっさり結論を出し、と同時に股間への愛撫を再開した。
先刻よりもさらに明確な意図を持った手が麻生の兆した性器を握り込み、五指を波打たせるように動かす。それだけでも背筋をざわあっと快電流が駆け上がるのに、さらに緩く上下にしごき始めた。
甘美な濃度を増した電流に、麻生は背中はきゅぅっと反らせて甘く喘ぐ。するとシーツとの間にできた間隙に速水の腕が差し込まれ、そのまま背中を支えられた。
自然と胸を突き出す姿勢になり、先刻の桜色からさらに色づいて珊瑚色にのぼせた乳首が、ちょうど速水の鼻先でぷるぷると揺れる。
「ああ……美味しそうだ」
欲望に毛羽立った低音に、麻生の肌はぞくりと粟立った。やだ、食べないで、と言うより早く、熱くぬめったものが吸い付いてきた。
「あ……ああ……ん、や、噛んじゃ、やだっ……」
濡れた舌先で乳暈をぬるりとなぞったと思ったら、しこった根元に歯を立てて甘噛みする。口淫と呼ぶには軽い戯れだろうが、それがもたらす快感は燠火のように腰の奥でくすぶり続ける。さらに性器への愛撫も重なって、麻生は次第に追い込まれていった。
「は…やみさん、待っ…て……ねえ……」
「駄目だ、待てないよ、晶……」
乳首を食んだまま答えるものだから、歯が薄い皮膚をこすってちりっとした火花のような快感が爆ぜる。思わず悶えそうになったが何とか自制し、
「ひとつだけ……速水さんに言っておきたいんだ。僕……あの……久しぶりだから……」
「晶……？」
麻生の神妙な口調を受け、速水はようやく顔を上げた。乱れた前髪の隙間から覗く黒瞳は、理性と獣欲のせめぎ合いで不穏にぎらついていた。
そこから真直ぐ注がれる眼差しに灼かれ、肌がじりじり火照るのを意識しつつも、麻生は言葉を継ぐ。
「セックスするの……すごく久しぶりなんだ。分かるでしょ？ だからね、だから……速水さんを満足させてあげられないかもしれない。……ごめんね」
謝罪と同時に、速水がばさっと身体の上に倒れ込んできた。麻生は驚いてその逞しい肩を揺さぶり、
「ど、どうしたの？ 速水さん？」
「ああああ〜〜、君はなんてこと言うんだ、まったく……」
速水の反応がどんな感情を反映したものなのか分からず、麻生は瞬きを繰り返すことしかできない。やがて速水はのそりと顔を上げ、
「どうしてそんなに、自分の感情や要求を抑えようとするんだ」
「えっ？ 何が……」
「久しぶりだから、とくれば、『優しくしてね』と続くのが普通だろう？ なのに君ときたら、満足させてあげられないかもしれないからごめん、だなんて。健気すぎて……切なくなる」
速水は、胸奥から込み上げる感情を押し込めるように顔を歪めた。その表情には言葉通り、いや言葉以上の切なさが溢れていて、彼の心痛はそのまま麻生の胸を刺した。
「ごめんなさい、速水さん……」
「ほら、また謝る。謝罪はいいから、さあ言ってごらん」
「な、なにを？」
戸惑う麻生に、速水は仕方ないなと言わんばかりに口許を緩め、
「久しぶりだから優しくしてね、速水さん……だろう？」
言いながら速水は、麻生の腰に引っ掛かっていた下着をするすると脱がせてゆく。ああ、これから本格的に抱かれるんだと考えただけで、麻生の高ぶりはさらに硬度を増し先端からほろりと雫を垂らした。
「や、やさしくしてね、速水さん……」
こういう甘えた台詞にまだ苦手意識は拭えないけれど、麻生は必死に舌を動かして言った。なのに、
「努力するよ」
速水は嬉しそうに口許を綻ばせつつ、曖昧な返事をするばかり。うまく乗せられ甘い台詞を言わされたことに気付いた麻生だったが、後の祭り。
剥き出しの陰部に仕掛けられた速水の愛撫に抗議の言葉は喉の奥へ引っ込み、代わりに蜜状の喘ぎが唇を濡らし始めた。
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