Real Gift
８.
夢のようなひとときだった。桜の花びらが流れる夜の道を、キコキコ音をたてて自転車が進んでゆく。耳許でひゅうと鳴る空気も、頬を撫でる風も、しがみついた背中の温もりも、何もかもが優しくて愛しくて泣き出しそうになってしまう。
この道がずっと永遠に続けばいいのにと心から思い、麻生はそんな風に思える自分が少しだけ好きになった。
「さあ、着いたよ。我がボロアパートへようこそ」
速水の言葉を受けて顔を上げると、最近では珍しくなってしまった木造アパートがちんまりと建っていた。
周辺に立ち並ぶマンションに比べれば確かに古ぼけてはいるが、古き良き日本を感じさせる温もりと、これまで多くの夢を抱えた若者を受け入れ送り出していった矜持のようなものが感じられた。
「なんか……優しくてあったかくて可愛い。まるで速水さんみたい」
アパートを見上げて率直な感想を伝える麻生。速水は複雑な笑みと共に頭を掻き、
「うーん、喜んでいいのか悪いのか……」
「褒めてるんだよ。当然でしょ？」
速水は口許を綻ばせて、部屋へ案内した。が、扉の前でくるりと振り返り、
「あの、少し時間をくれないかな。簡単な片付けを―――」
「い、や。早く部屋に入りたい。入りたいったら入りたいっ」
足をじたばたさせて子供みたいに駄々を捏ねる麻生を、速水は「わ、わかったよ」と言って宥めた。そして隠しきれぬ嬉しさを表情に出す。麻生がこんな幼い仕草を見せてくれるのは、初めてのことだった。
「出したものは使い終わったらすぐ仕舞いなさい――親の言い付けを守ればよかったと後悔しているよ」
「ふふ、残念だったね。時すでに遅し」
扉をギシギシいわせながら開けて中に入ると、絵の具と本の匂いに包まれた。まるで探険でもするかのようにきょろきょろしながら奥へ進んだが、寝室兼リビング兼アトリエとなっている部屋の入口でぴたりと足を止めた。
「これ……は………」
完成間近なのか、大きなカンヴァスが立て掛けられている。そこに描かれているのは―――
「これ、もしかして……」
黒と群青色の境界を揺らぐ夜空を背景に、一人の少年が白銀色に暈然と輝く裸身をさらしている。膝立ちの姿勢で僅かに腰をひねり、手のひらを上にして片手を空に翳す。その手の上には、金色の丸い月がぽっかり浮いている。
「そう、君だよ。あの時の……」
初めて身体を重ねた夜。ベッドの上に膝立ちになり、大きな窓越しに浮かぶ満月を手の中に収めた。
「覚えてたんだ。一緒に月を掴んだこと……」
「もちろんだ。あの時の君は月の女神のようで、崇高なまでに美しかった。ほんの一瞬だが、近付くのをためらったほどだ。僕のような男がその肌に触れていいものかと」
速水はそう言ってそっと目を伏せた。がすぐに麻生の方へ向き直り、
「月を掲げる君の姿が頭に灼き付いて、一刻も早く作品へ昇華させたいという欲求に駆り立てられた。正直、あんな高揚感は久しぶりだったよ。ずっと……遠ざかっていたから」
「描く気を失っていたの？」
「ああ。半ば自棄になっていたんだろうな。このままヒモ生活で、優雅に適当に暮らしていければいいさ、ってね。
でも君のお陰で思い出した。カンヴァスに絵の具を乗せる瞬間の高ぶりを。僕がどれほど絵を描くのが好きだったかということを」
その気持ちを裏付けるように、速水の言葉は明るく弾んでいた。麻生もつられて楽しげに頷き、カンヴァスの前にぺたんと座り込んで瞳を輝かせ、熱心に鑑賞する。
「ね、これはもう完成したの？」
「ん、ああ。ほとんど完成してる。あとはサインを入れるだけなんだが……その、何だかもったいなくてね。終わらせてしまうのが。永遠にこの作品を描いていたいと思ってしまって……」
麻生は座ったままくるりと速水の方を向き、咎めるような上目使いで見つめ、
「そんなんじゃ駄目だよ。せっかく創作意欲が湧いてきたんだから、もっと他の作品にも積極的に取り組まなくちゃ」
ぴしゃりと言ってからふっと視線を外し、
「……モデルが必要ならいつでも言って」
照れ隠しなのか、不貞腐れたような小声で言う麻生の頬はほんのり薔薇色に染まっていた。速水は抱き着きたい衝動を何とか抑えて、「ありがとう」と浮かれた声で答えた。
「……この部屋、何だか落ち着く」
改めて室内を見回した麻生は、正直な感想を告げた。お世辞にも綺麗とは言えない部屋だったが、床に雑然と積まれた本やCD、画材、吸い殻の入った灰皿、脱ぎ捨てられたシャツなどからにじみ出る生活感が心地よい。
「そ、そうかい？ 散らかってるけど、不潔にはしていないから安心してくれ」
「うん、確かに汚れてはないね。まあ、畳の焦げ跡には目をつぶるとして」
痛い指摘をされ、思わず「うっ」と詰まる。さらに「寝煙草はダメだよ」と叱られて、何も言えず肩をすぼめて頷くしかなかった。
粗相をした大型犬のように大きな身体で恐縮する速水を、麻生はよしよしと撫でてやる。そして顔を覗き込み、
「ね、ずっと前からこの部屋に住んでるの？」
「ん？ そうだよ。五年前に会社を辞めてから、ずっとここにいる」
「そっか……」
麻生が聞きたいことは分かっていた。速水は小さく微笑んで、
「彼女にマンションを買ってやると言われたけれど、断ったんだ。この部屋は……何て言うか僕の原点だからね。絵描きになろうと決意を固めて会社を辞め、夢と不安を抱えてこのアパートに越してきたんだ」
麻生はそっと目を閉じて、速水の言葉を反芻する。当時の速水は二十代半ば。夢を追い掛けるにはギリギリの年齢だ。不安や焦りの方が大きかったに違いない。
「……速水さん。あなたのことがもっと知りたい。いつから画家を目指していたのか、何故会社を辞めたのか、そして何故………女性のヒモになんてなったのか………」
速水は頷いて立ち上がると、狭いキッチンでお湯を沸かし始めた。
「残念ながらシャンパンはないんだ。コーヒーでいいかな？」
「もちろん。僕、未成年だもん」
「ジンジャーエールを飲んでシャンパンじゃないって暴れたのは、誰だったかな」
「暴れてないよ。ちょっと膨れただけっ」
速水はクスクス笑いながらコーヒーを入れ、優雅な手付きで麻生の前にカップを差し出した。
「さあどうぞ。冷めないうちに」
麻生は素直に頷いて、カップに口を付けた。こくんと一口飲んで、「おいしい…」と溜息混じりに呟く。
「以前、喫茶店でバイトをしていたことがあってね。その時身に付いた技術だ」
速水はそう言って、自分も口を付けた。そしてふっと息を吐くと、その吐息を導き手にぽつりぽつりと話し始めた。
「僕の親父は売れない挿し絵画家でね。文芸雑誌の編集者をしている友人から、ほとんどお情けで仕事をもらっているようなものだった。母親の実家がそこそこ裕福だったから生活に困ることはなかったけれど、親父としては辛かったんじゃないかな」
速水の声も語り口も穏やかで衒いがなく、とても心地よかった。人は自分のことを語る時、必要以上に力が入って独り善がりになるか、逆に素っ気なさを装ってわざとらしくなってしまいがちだ。
しかし速水の言葉にはそういった引き攣りはなく、言葉と自身との程よい距離感のゆえか安心して耳を傾けることができた。
「でも僕は、子供の頃から親父の絵が大好きだった。売れようが売れまいが子供には関係ない。親父の筆先から生まれる架空の動物やおどけた表情の天体、今にも踊り出しそうな植物、どこか懐かしくて物悲しくて、時にグロテスクな世界の全てに僕は夢中になったよ」
「速水さんは、お父さんの絵で育ったんだね」
麻生の言葉に、速水はふわりと笑って頷く。胸が締め付けられるほど綺麗な笑顔。
「親父はいつも、居間にある大きなちゃぶ台で仕事をしていた。僕は自分専用のスケッチブックを持ってその傍に座り、親父の真似をして絵を描いていた。すると親父は仕事の手を止めて、僕のスケッチブックに落書きをする。僕も負けじと描く。あっという間にスケッチブックは色とりどりの動物や花で埋め尽くされる。対照的に親父の原稿は真っ白。ははっ、よく言ってたな。竜司のスケッチブックを編集部に送ろうかな、って」
「ふふ、親子の合作だね」
「僕も原稿料もらえたかな」
速水は楽し気に冗談を言って、目を細めた。しかしすぐに顔を曇らせ、
「でも、そんな親父との良好な関係が続いたのは中学生くらいまでだった。高校生になると親父への反発心が芽生え、あんな風にはなりたくないと思うようになった。母親からも、お父さんみたいにはなるなと言われてたしね」
「どうして……仲の良い親子だったのに……」
速水は「うん…」と神妙な相槌を返し、暫し黙り込んだ。頭の中で言葉を探し、自分の考えを伝えるために組み立てているのだろう。
「たぶん羨望もあったと思う。自分の好きな絵を好きなように描いている、その迷いのない姿勢が眩しくて、そんな生き方ができる親父が羨ましかった。当時の僕は迷ってばかりだったから。その反動で、親父の生き方を否定しようとしたのだろう。男としてだらしがないとか、甲斐性がないとか」
「お父さんを否定した、その行き着く先は……」
「うん、親父みたいに売れもしない絵を描き続けるのはやめようと思った僕は、デザイン系の専門学校から中堅の広告会社に就職した。行き着いた先はつまり、安定した収入、クライアントとの折衝に明け暮れる毎日。他人から見れば充実した生活だったかもしれないが、僕の中は空っぽだった。
そんな生活が四年ほど続いただろうか、親父が突然脳卒中で倒れ、そのまま死んでしまったんだ」
速水は冷めたコーヒーを一気に飲み干して、深く息をついた。
「葬儀も終わり、僕はまたいつもの生活に戻った。時間と打ち合わせに追われ、クライアントの顔色を窺う生活。そんな中、僕は気付けば親父が生前発表した唯一の画集を手に取って、繰り返し眺めていた。毎日毎日、仕事から帰ると貪るように画集を眺める。
そしてある時気付いたんだ。僕は親父が描いたこの絵を見て育った。つまりこれを否定することは、自分自身を否定することに他ならないのだと」
「……親の影響や育った環境を引っ括めての“自分らしさ”だものね」
麻生の言葉に、速水は厳粛な面持ちで頷きを返した。この言葉は、このまま親と同じ医者になる道を歩んでいいのかと迷う麻生に尭村が掛けてくれたものだ。
「そう、親と違う道を歩くことが“自分らしさ”ではない。僕は画集を眺めながら、幼い頃いつも見ていた親父の姿を思い出した。頭の中で想像を巡らせている横顔、白い紙に注がれる真摯な眼差し。そうしたら、どうしようもなく絵が描きたくなって……それで、」
「会社を辞めたんだね」
「ああ。思えば、もうずっと前からそうしたかったんだ。僕は会社を辞めて、これまでの鬱憤を晴らすかのように絵を描きまくった。幸せだった。どれだけ自分で自分を抑え込んでいたか思い知ったよ。
でもただ絵を描くだけでは生活できない。個展を開いたり画廊に持ち込んだりしたけれど、反応は芳しくなかった。貯金を切り崩す生活が続き、徐々に追い詰められていった。そんな時、彼女に会ったんだ」
速水は一瞬、言葉を閉じ込めるように口を噤んだ。しかし自分に言い聞かせるように小さく首を振ると、再び口を開き、
「若手のアーティストが集まるとある公園で、僕は自作の絵を売っていた。もちろん冷やかし以外の客なんて来ない。ところがある時、彼女が僕の許を訪れてこう言ったんだ。ここにある作品全て、あなたごと買うわ、と」
「速水さんは……それで良かったの？」
速水は記憶を透かし見るように目を細め、弱々しい声で答えた。
「彼女の夫は、ニューヨークの有名な美術館に長年勤め、アジア圏の作品収集において陣頭指揮を執っていた。退館後も著明な個人収集家との太いパイプを後ろ楯に、作品の仲介や展覧会の企画、作品論評などを積極的に行い、現代美術界で多大な影響力を誇っていたんだ。
彼女はいずれ、僕を夫に紹介すると言ってくれた。当時の僕は……何でもいいから浮上するきっかけが欲しかった。たとえそれが、愛人契約という穢れたものであっても」
「必死だったんだね」
「うん。藁にもすがる思いだった。それに、財力のある人間が芸術家のパトロンになるのはよくある話だ。僕はそうやって自分を宥めて、彼女の申し出を受け入れた。そしてこれまで以上に創作に取り組み、自信作を彼女を介して夫に渡してもらったんだ」
結果はどうだったのか、改めて聞くまでもないだろう。けれどここで口を噤むような気の使い方はしたくなかった。
「で、どうだったの？」
「結果かい？ 惨敗さ。箸にも棒にもかからないってヤツだ。もちろんそれに関して彼女に非はない。僕の力不足だ」
速水はそう言って淡く微笑んだが、麻生は眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。彼女は本当に、速水が渡した作品を夫に見せたのだろうか。今となっては確かめる術はないけれど、大いに疑念は残る。
彼女の誠意を信じて疑わないところが速水らしく、そういう無邪気さが愛おしくもありもどかしくもあった。
「……でも、だからと言って速水さんの作品がダメということにはならないでしょ？ アートなんて鑑賞する側の感性や好みに左右される部分が大きいんだから、その人には気に入られなくても、他の人には感動を与えられるかもしれない。僕、速水さんの絵好きだもの」
速水は「ありがとう」と言って心底嬉しそうに笑った。しかし何故か肩を落とし、
「僕も一旦は落ち込んだけれど、これで夢を諦めようとは思わなかったよ。ひとつの道が断たれたというだけ。ならば他の道を探せばいい。
だから僕は、彼女に別れを持ち出した。その頃から彼女の束縛が酷くなってきたこともあって、ヒモ生活から足を洗ってもう一度創作に専念するつもりで。しかし彼女は応じず、それどころか……」
初めて速水が嫌悪を露わにした。鼻に微かな皺を寄せ、険しい声で続ける。
「どうしても別れるというのなら、夫に告げ口すると言い出した。速水竜司という画家志望の若造に弄ばれた。画家として成功するための踏み台として利用された、と。そうすれば夫はあらゆる手を尽くしてあなたを潰そうとするだろう……」
「それって脅迫じゃないかっ」
「うん、そうだね…。確かに脅迫なんだけど、続けて彼女はこう言うんだ。私はあなたを愛している。だから本当はこんなことしたくない。私を酷い女にしないで……。涙を流してすがる彼女を見ていたら、何ていうか……」
「可哀想に思えてきた？」
麻生の揶揄めかした問いに、速水はきっぱり首を振った。
「いや、可哀想とは思えなかった。というより、そういった感情すら磨滅していたのだろう。それほど僕は……疲れて自棄になっていた。もうどうでも良かった。元はと言えば、餌に飛び付いた僕が愚かだった訳だしね。
気が付けば僕は、別れの言葉を否定して彼女が喜ぶ甘ったるい美辞を繰り返していたよ。
それからのことは……晶が知っている通りだ。実業家の振りをして『Iblis』に通い、彼女がくれた車を乗り回し、彼女がくれた金で遊び―――」
自身を貶める言葉を吐き出す唇に麻生は指を押し付け、やめさせた。そっと首を振り、
「もういいよ。あなたは十分苦しんだんだ。それより心配なのは……今回のことで彼女は夫に告げ口を………」
速水は麻生の細い手首を掴んで唇から離し、指先に口付けた。そして微かに目を細め、
「いいんだ。画家になる道は断たれたかもしれないけれど、絵を描くことはできる。成功より好きな絵を描き続けることを選んだ親父と、同じ道を進む決意が固まったよ。晶のお陰だ。ありがとう」
返す言葉が見つからず、麻生はただ震える唇を速水に押し付けるしかできなかった。
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