Love Over the Back
　　　　　　―背中越しの愛―

８.

俺には俺の考えがある、なんて言ってはみたものの、片瀬の正しさはすでに自覚済みだった。自分だって、あの桜小路という二年生には不快なものを感じたのだから。

今思えば、あの舐めるような目付きはつまり、そういう欲望の表れだったのかもしれない。それに、片瀬が何の根拠もなく他人を排除するような人間ではないことも、承知しているはずだった。

自分の正しさだけを主張するのではなく、ちゃんと片瀬の言葉にも耳を傾けるべきだったのだろう。でも、

「圭祐の……バカぁ………」

お前は俺の言う通りにしてりゃいいんだ―――あの言葉は強烈だった。

これが片瀬の本音ではなく、苛立ちの余りつい口から出た暴言であることは分かっている。それでも、彼もやっぱり言うことを素直に受け入れる淑やかで可愛い子が好みなのかなと考えてしまう。

つまり、頑固で生意気でがさつな自分とは正反対の、ヤマトナデシコみたいな子。

「このままじゃ………嫌われちゃうかも………」

口に出して言ってみたら、余計に現実味を帯びてきた。どうしようどうしようと一人であたふたしたものの、もちろん今さら小猿がヤマトナデシコになれるはずもない。

結局何の答えも出せないまま、空腹でくるくる鳴るお腹を抱えて校舎をうろうろしただけだった。

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、薫は人の流れに押されるようにふらふらと教室へ戻った。

中に入る前にそっと覗くと、片瀬はまだ戻っていないのか姿が見えなかった。安堵と不安の入り混じった複雑な溜息をつくと、自分の席に戻ってテキストを広げる。そのまま予習をするふりをしていると、ガタンと音がして隣に片瀬が座った。

その瞬間、空っぽの胃がきゅぅっと収縮する。“さっきはごめんな。でも圭祐だって酷いことゆったんだぞ”―――喉の奥で幾度も繰り返していた言葉だったが、一向に口許まで上がってくる気配がない。

授業が始まる前に仲直りして、後々まで引きずらないようにしなければと気持ちは逸るのだが、への字にぎゅっと閉じた唇は嗚咽をこらえるので精一杯だった。結局顔を上げることすらできず、そのまま授業が始まってしまった。

「では、資料集の１２ページを開いて―――」

もちろん教師の言葉など右から左へ素通り。すぐ隣にいる片瀬との距離感が、薫の心をじわじわと攻めてくる。近くて遠いって、何て哀しいことなんだろう。

その時、薫のお腹が豪快に鳴った。ぐるるる……きゅるるる……という間の抜けた音が周りの席にまで届いたのか、クラスメートたちはくすくす笑っている。もちろん片瀬にも聞こえたはずだ。

「も……やだ………」

いつもなら「ごめんな、うるさかったぁ？」と笑い飛ばすところだが、今の薫にそんな余裕はなかった。というより、こんな状況でもちゃんとお腹が空いてしまう自分が滑稽で、怨めしいとすら思えてくる。

こんな無神経だから圭祐に嫌われちゃうんだよっ、と自分に言い聞かせたものの、空っぽのお腹はその程度の説教で静まるはずもなかった。さらにぐるぐる鳴っては、空腹を訴える。

情けなくて恥ずかしくて涙が出そうになり、くすんと鼻をすすり上げると、突然片瀬が「先生」と言って立ち上がった。

「藤崎の具合が悪いようなので、保健室へ連れて行きます」

淡々と告げて薫の腕を取る。

「え？　え？」

薫は戸惑いも露わに顔を上げたが、その両目が潤んで青白い顔をしていたため、教師も了承せざるを得なかった。

片瀬は自然な仕草で薫の腰を抱き、そっと立たせる。そして抱えるようにして教室を出ていった。

「け、圭祐、あの………」

訳が分からないまま引きずられて出てきた薫だったが、ようやく我に返って片瀬を見上げ、

「俺、具合悪くないよ……」
「嘘つけ。腹が減ってるだろ？　お前にとっては具合が悪いも同然だ」
「何だよそれ……。俺は飢えた雛鳥じゃねえぞ」

薫の不貞腐れた呟きに、片瀬は柔らかな笑みで応えた。

「巧いこと言うな。確かにふわふわのひよこみたいなところもあるからな」
「小猿からひよこって………ますます人間から離れたじゃないかぁ」

片瀬の温かな腕にしっかり支えられながら、薫は甘えた声で抗議した。傍から見れば、授業を抜け出してじゃれ合っているとしか見えない。ともかく片瀬に導かれるまま、まっすぐ図書館へ向かった。

「ここなら誰も来ない。ゆっくり飯が食えるぞ」

二人は図書委員だったから、図書準備室の鍵を預けられていた。ここは、書架に出す前の書籍にラベルを貼ったり整理したりする狭い部屋だった。

それでも裏庭に面した窓もあり、小さなテーブルや座り心地のいい椅子もあって、二人にとってとても寛げる場所だったのだ。

「ほら、これを食え」

片瀬は教室から持参していた袋をどさりとテーブルに置いて、中から小分けにされた袋を取り出した。

その中にはパンが入っており、焼き立てパンが発する何ともいえぬ匂い、香ばしさと甘さと、イースト菌の芳醇さが混じった食欲を刺激する匂いが、狭い部屋いっぱいに広がった。

それに反応するように、薫のお腹が再びくるくる鳴る。片瀬は「正直な腹だな」と目を細めた。薫はじっと見上げ、

「これ……どうしたんだ？」
「休み中に買っておいた。お前が腹空かせてると思って」
「……さっき学食で買ったシチューとかは食ったのか？」
「いや、並んでる奴に売った」

片瀬はあっさり答えると、「飲み物買ってくるから」と言って部屋を出ていった。

薫はパンの袋に書かれた店の名前を確認する。やはり、以前薫が美味しいと言ったパン屋のものだった。学校からは少し離れているから、自分の食事を後回しにしてわざわざ買いに行ったのだろう。

「圭祐の……ばかやろ………」

こういう優しさを見せられるたびに、嬉しさと同時に不安も覚えてしまう。このままどんどんどんどん惹かれていって、彼の存在無しでは生きられなくなって、その挙句………嫌われてしまったらどうしよう、と。

「なんだ、まだ食ってないのか？　腹減ってんだろ？」

薫の好きなイチゴ牛乳を片手に息を切らせて戻ってきた片瀬は、ガサガサと袋を開けてパンを取り出し、薫の前にぬっと突き出した。薫は素直に受け取って、

「一緒に食べたいから、待ってたんだ……」
「ずいぶんとしおらしいこと言うな。腹が減りすぎて故障したか？」

薫はぷくっと膨れたものの、何も言わずカスタード入りメロンパンにかぶりついた。甘さを抑えたカスタードが口いっぱいに広がり、思わず夢見心地になる。

「旨いか？」

カスタードにも負けないほど優しい甘さを帯びた声で訊かれ、薫は口をもぐもぐさせながら何度も頷いた。

木の実を溜め込んだリスみたいにもくもくと両頬を膨らませ、一生懸命食べる薫を片瀬は楽しそうに眺める。が、自分も空腹だったことを思い出し、ようやくパンに手を伸ばした。

春らしいぽかぽか陽気の昼下がり、二人きりの親密で愛おしい時間。言葉は少ないけれど、それを補って余りある温かな空気。幸せで、幸せで―――

「んっ………く……ぇ、ぇぇっ………」

２コ目のブルーベリーデニッシュを持ったまま、薫は苦しげにしゃくり上げる。体内から込み上げる感情を、必死で抑えようとするかのように。

「か、薫っ？　どうした―――」
「ヤダ………ケンカ、やだぁ………」

薫は喉の奥から声を絞り出し、パンを持ってない方の手をげんこつにして目をこすりつつぐしぐし泣いた。

「け…すけの……言う通りにするから………なんでも言うこときくからぁ………んぇっ、ぇぇっ………」

幸せと不安の落差が余りに激しすぎて、心の許容範囲を超えてしまった。ぐちゃぐちゃに混じり合った感情の糸玉をどう処理してよいか分からず、薫はただ迷い子のように泣いた。

「薫、違う……そうじゃないんだ………」

泣き虫な薫の涙はこれまで何度も見てきたけれど、この涙は今までとは違う。片瀬は、薫の中で静かに醸造されつつある不安を敏感に感じ取った。

肩をすぼめて泣いているせいで、ひと回り縮んだ薫の身体を抱き上げ、膝の上に座らせる。いつもなら「何すんだよ、下ろせっ」と喚くところだが、俯いたまま申し訳なさそうに縮こまるばかり。

片瀬はあやすように背中を撫でながら、

「人形だなんて、思ってねえよ……」

“俺はお前の人形じゃない”。その言葉自体より、こんなことを薫に言わせてしまったことがショックだった。いくら桜小路のことで過敏になっていたとはいえ、あんな暴言を吐いた自分が怨めしい。

いつまでも変わらず、お前はお前らしくしていろよ―――そう言ったのはついこの前のことではないか。

「薫、さっきは悪かった。でも、俺の不安も理解してくれるだろう？」

薫はこっくり頷いて、パンを持っていない手で襟にきゅっとしがみついた。片瀬は顎に手をかけて上を向かせ、薫の眼を真直ぐ見据えた。

「お前にはお前の考えがある。それは分かる。だから意見がぶつかった時には、ちゃんと話し合おう。そうすればきっと、一番いい道が見えてくるはずだ」

分かったな？と艶やかな低音で念を押され、薫は魔法にかかったみたいにふわふわと頷いた。片瀬はおでこに温かなキスを落とし、改めて言い置いた。

「お前はそのままでいいんだ」

薫はぱたぱたと大きく瞬きしてから、恥じ入るように俯いて、

「ヤマトナデシコにはなれねえけど………いい？」
「……は？」

どういう思考回路が巡り巡ってそんな問いが出てきたのかさっぱりだったが、首筋まで赤く染めてお尻をもぞもぞさせながら伺いをたてる薫が余りに可愛くて、訳が分からぬながらも浮かれた声で「もちろんいいさ」と答えた。

すると薫は明らかにほっとした様子で、顔を上げてようやく笑顔を見せた。片瀬も微笑みを返し、

「そういや、話してる間もずっとパンを離さなかったな。さすが色気より食い気」
「へへっ、どうせ小猿だも〜ん」

そして、ぎゅっと握っていたせいで潰れてしまったデニッシュにぱくりとかぶりつく。が、何かを思い出したのか慌てて呑み込んで、眉根を寄せた深刻な表情で片瀬を見つめ、

「あ、あの………あれ嘘だからな。大嫌いってゆったの………」

もちろん分かってるさ、そう言って笑い飛ばそうとしたが、はたと思い直して昏い表情を拵え、

「あれはショックだったな……。ちょっとトラウマになりそうだ」

片瀬の言葉に薫は飛び上がり、必死に首を振って否定した。

「だから嘘だって！　ちょっと口が滑っただけっていうか―――」
「でも、思ってもいないことは口が滑っても出てこねえよな。つまり、少しはそういう気持ちがあるということで―――」
「違うっ、違うよぉ………」

やっぱりパンをしっかり握ったまま、片瀬の胸に涙目ですがる。

「そんなこと思ってねえよ！　俺、俺、圭祐のこと………」
「なんだ？　続きは？」
「す……す、すき、だから………」
「“好き”じゃ“大嫌い”は帳消しにできねえな」

我ながら粘着質だなと思いつつも、真っ赤な顔で何とか誤解を解こうとする薫がいじらしくて、つい苛めたくなってしまう。

薫は口をぱくぱくさせて何か言おうとしたが、まず手の中のパンをテーブルに置いた。そして改めて片瀬に向き直り、

「圭祐………あ、あいしてる………」
「……………」

今度は片瀬が口をぱくぱくさせる番。“大好き”くらいは言ってもらえるかなと期待していたが、まさかここまで言ってくれるとは―――

「薫、俺も―――」

片瀬は震える声で、同じ言葉を返そうとした。しかし、

「ぅ……ぅゎぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っ、なしッ、今のなしッ！！」

片瀬のシャツに顔をうずめて、奇声を上げつつじたばたする薫。

「あああ〜〜〜、もうっ、ナニ言ってんだよ俺っ。ばかばかばかばか……」

片瀬は「しょうがねえなあ」と苦笑しつつ、膝の上で暴れる薫をきつく抱き締めた。ここが学校ではなかったら、今すぐにでもこの可愛い生き物を腕の中に閉じ込めて、食べ尽くしてしまうのに。

「薫、今日は俺んち来いよ………」

客観的に聞いても欲情していると分かるほど撓んだ声でそう言うと、まだ足をばたつかせて暴れている薫を愛情込めて拘束したのだった。

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