Love Over the Back
―背中越しの愛―
１１.
四限の終了を告げるチャイムが鳴って、片瀬はほっと息をついた。これでようやく薫とゆっくり話せる。
「……薫、学食に行くか？」
薫は相変わらず俯いたまま、ふるふると首を振る。予想通りの反応だったから、片瀬は「分かった」と穏やかに返して、
「なら、パンを買ってきてやるから。待ってるんだぞ」
そして薫の返答を聞く前に教室を出ていく。購買まで走り、薫の大好きなエビコロッケパンとクリームデニッシュ、そしていちごミルクを急いで買うと、息を切らせて教室へ戻った。が、そこに薫の姿はない。
「おい、薫がどこへ行ったか知らねえか？」
「え、藤崎？ あれえ、どこ行ったんだろ」
クラスメートに聞いて回ったが、みんな不思議そうに首を傾げるばかり。
「くそっ、あいつ、一人でどこ行ったんだよ……」
特に昼休みの単独行動は危険だからと言い聞かせていたのに。憂愁を帯びた表情で、淋しそうに俯いたまま校舎をふらふらするなんて、上級生たちに襲ってくださいと言っているようなものだ。
片瀬は薫を探すため教室を飛び出した。そして辺りを見回しながら廊下を駆けていると、前方から見知った顔が近付くのが見えた。すぐさま駆け寄り、
「おい尭村、薫を見なかったか？」
「あ？ 藤崎か？」
「ああ。教室にもいねえし。ったくどこを一人でふらふらしてんだか」
尭村はちらと肩を竦めて淡々と、
「さっき会ったぜ。今日はもう帰るって言ってたな」
「え？ 帰る？」
「ああ。荷物も持ってたぜ。早退したんじゃねえの？」
急に早退するだなんてどうしたのだろう。体調が優れないようには見えなかったが……
「そ、そうか、分かった。ありがとう」
色々と気掛かりではあるけれど、ともかく一人で校内をうろついているよりはまだ安心だった。
尭村に礼を言って、ひとまず教室へ戻ろうとする。すると尭村は鼻にかかった嗤いと共に、
「お前、変わったヤツだな。たった一人にそこまで入れ込むなんざ、信じられねえ」
片瀬は立ち止まって尭村をじっと見返したが、やがてふっと目を細めて穏やかな口調で、
「お前にも、いつか分かる時が来るさ。きっとな」
そして白けた表情で肩を竦める尭村をその場に残し、教室へ戻った。
「お、片瀬。藤崎は見つかったか？」
心配して声を掛けてくるクラスメートに「大丈夫だ」と返し、急いで帰り仕度を整える。そして「早退するから」とだけ告げて教室を出た。やはり薫に何かあったのだ。このまま放っておくわけにはいかない。
「……ったく、飯も食わねえで。あのバカ」
胸苦しいほどの愛情と微かな不安がこもった囁きを漏らしつつ、片瀬は薫の家へと急いだ。
「１５０１の星野様ですね。少々お待ちくださいませ」
教えられたホテルのフロントで、教えられた通りのルームナンバーを告げた。するとすぐに部屋へ連絡して、来訪を伝えてくれた。
「ロビーまでお迎えに来られるそうです。こちらでお待ちください」
「あ、はい。分かりました」
高い天井から落ちる水のカーテンが美しい、華やかなロビー。平日の昼間とあって利用客はビジネスマンが多いけれど、家族連れの姿もちらほらあった。
薫はふかふかのソファにちょんと腰を下ろし、深い溜息をつく。
―――いきなり早退なんかして、圭祐心配してるかなあ……
ちゃんと話し合おうという提案を拒絶した時、片瀬は小さく息を呑んで椅子に座り込んだ。表情は見ていないから分からないけれど、もしかしたら傷付けてしまったかも……
「圭祐、ごめん……」
消え入りそうな謝罪で唇を震わせて顔を上げると、ちょうど彼女がエレベーターホールから出てくるのが見えた。薫はすかさず立ち上がり、軽く一礼する。彼女は笑顔も見せず頷きを返しただけで、「じゃ、部屋へ行きましょうか」と促した。
二人連れ立ってロビーを後にしようとした時、近くにいた幼い子供が突然ぐずり出し、と思ったら火がついたように泣き出した。母親は慌てて抱き上げて宥めるが、子供はますます声を上げて泣き喚く。
ロビー内の客たちはみな眉間に皺を寄せ、明らさまに舌打ちするビジネスマンもいた。しかし、
「元気な証拠ね」
みどりは優しく目を細めて子供を見つめる。が、やがて苦しそうに顔を背けると、早足でエレベーターへ向かった。
薫も慌ててその後を追ったが、何故か今目にした彼女の表情が忘れられなかった。
「え？ まだ帰ってない……のですか？」
玄関で応対してくれた薫の母親に、片瀬は驚きを隠せず呆然と呟く。疾うに家に着いていると思っていたのに……。
「片瀬……くん？」
「あ、いえ、すみません。分かりました。たぶん俺の勘違いだと思います」
「もうすぐ帰ってくるかもしれないわ。うちで待っていたらどうかしら」
気を利かせて提案してくれた薫の母に丁寧な断りを入れ、片瀬は薫の家を辞した。一体薫はどこにいるのか……途方に暮れて立ち尽くしていると、背後から声を掛けられた。
「片瀬先輩っ」
たった今慌てて家から出てきたのか、女物のサンダルをつっかけた明良が息を切らして駆け寄る。
「お前、学校はどうしたんだ？」
「今日から三日間、三者面談で午後の授業はないんです。ていうか、それは俺の台詞ですよ。どうしたんですか、こんな時間に」
明良が言うのも尤もだった。片瀬はちょっと肩を竦めて、
「ああ、早退した」
「え？ どっか具合が悪いんですか？」
「そうじゃねえよ。ただ、薫が―――」
何と説明してよいか分からず、口を噤んでしまう。明良の方へちらと視線を向けると、何か言いたそうな顔付きでこちらをじっと凝視していた。
「なあ、明良。薫のやつ……昨日からちょっとおかしくねえか？」
カマをかけるつもりで言ってみたのだが、明良はあっさり頷いて「おかしいです」と正直に答えた。そして揺るぎない真直ぐな視線を向けてくる。
片瀬は思わず苦笑を浮かべた。ああ、やっぱりこいつらは兄弟だ。この恐ろしいほど澄み渡った眼差しに、これまで何度脅威を感じたことだろう。
「……先輩、薫から聞いてないんですね？」
「何をだ？ と質したいところだが、たぶん聞いてない。今日、あいつとはほとんど言葉を交わしていないからな。話したいことはたくさんあるが………拒絶された」
明良は小さく頷いて、黙り込んだ。しかし逡巡は長く続かなかった。ぱっと顔を上げ、
「昨日、薫は手紙のことを謝りたくて先輩の家まで行ったんです。俺も途中まで付いて行きました」
「昨日……来たのか？ あ、まさか………」
「はい、そうです。見てしまったんです。先輩が年上の女の人と親しげに寄り添って、マンションの中に入っていくのを」
明良は言葉を濁すことなく、はっきりと告げた。片瀬は舌打ちと共に、自分の間の悪さを呪った。まさかあれを見られていたなんて……
「薫はショックを受けていたようでしたが、俺に心配をかけないよう笑顔を見せて、あれはきっと先輩の母親だと言ってました。もちろん母親ではないことなど承知の上で」
片瀬は窶れた溜息をついた。
「それで……そのまま家に帰ったのか？」
「いえ、途中で薫は用事を思い出したと言って一人でどこかへ行きました。先輩の家にもう一度行って、あの女性のことを確かめようとしたのだと思っていたのですが……」
片瀬は眉をひそめてそっと首を振った。薫は来ていない。
ということは―――
「あの、もうひとつ気になることがあるのですが」
「なんだ。何でもいいから教えてくれ」
「はい。昨日の夜、参考書を借りるため薫の部屋に入ったんです。そうしたら机の上にマッチが置いてあって。しかもホテルのマッチでした。なんで薫が―――」
「どこのホテルだっ？」
険しく切羽詰まった問い掛けに、明良は強張った声でホテルの名を教える。次の瞬間、片瀬は低く呻いた。
「あの女ッ………」
呪詛を込めた呟きに、明良は背筋が冷えるのを感じた。いつも飄々として、生々しい感情の波を決して見せない片瀬が、ここまで怒りを露わにするとは―――
「先輩、一体何が―――」
「悪い、明良。今は説明している暇がない。とにかくこれからそのホテルへ行ってくる」
明良はすっと目を細めて視線を尖らせ、
「ひとつだけ。先輩、あなたを信じていいんですね？」
「もちろんだ。お前との約束は、必ず守る」
何があっても薫を守る、お前の分まで大事にする―――クリスマスの日に交わした、何より神聖な誓い。
明良は厳粛な面持ちで頷いて、了承を伝えた。片瀬は「ありがとう」と応えると、長身を翻して走り去った。
「先輩、信じてますからね……」
遠ざかる背中ではなく、寧ろ自分に言い聞かせるように呟いて、明良は家に戻った。
「お腹すいてるんじゃない？ 何かルームサービスをとりましょうか」
相変わらず疲れたような顔でそう言って、ふわりと笑う。カチコチに緊張している薫を労っているのか面白がっているのか判別できないほど、曖昧な笑み。
いや、そのどちらでもないのかもしれない。人は余りに疲れてしまうと、自然と顔が緩んで無意味な笑みを浮かべてしまうものなのだ。
「いえ、おかまいなく。それより―――」
「さっさと話を聞かせろって？ 分かったわ」
みどりはベッドの上に腰を下ろし、薫に向かいのソファを勧めた。そして何の前置きもなく口を開いた。
「付き合ってた期間はそう長くないわ。付きまとってた期間の方が長いわね」
投げ遺りな口調でそう言って、薫をじっと見つめる。
「あ、あの……圭祐と？」
「まさか。圭司よ。つまり、あなたの恋人のお父さん」
「あ……」
薫はほっと安堵の息をついて、肩を強張りをほんの少しだが緩めた。みどりは薄く笑って、
「良かったわね、あなたの恋人じゃなくて。でも安心するのはまだ早いわよ」
不気味な前置きと共に、再び昔語りを始めた。
「私はこれでもビジネス誌の記者でね、彼のお父さん、片瀬圭司に取材をしたのが出会いだった。彼は企業買収のスペシャリストで、当時大きな話題になった某製薬会社の外国資本による買収問題に関する記事で、インタビューを申し込んだの。
何ていうか……恥ずかしいんだけどそれで一気に逆上せ上がっちゃって。妻子があることを知りながら、男女の関係になってしまった」
不思議だった。昔の話を始めると、彼女の顔から疲労の翳が消えた。仕事と恋愛に生きた当時の記憶に引きずられるように、年相応の活気が蘇ってきたのだ。しかし、それは長続きしなかったが。
「私はもともと、恋愛に関しては冷淡な方だった。男なんて星の数ほどいるんだし、一人に執着するなんて愚かだと。なのに彼との付き合いが全てを変えてしまった。
私は必死だった。何を考えているのか分からない、彼のあの整いすぎた顔。無機質な瞳。それを何とかして私の方へ向けたかった。私を見て欲しかった」
彼女の言葉に促されるように、薫は片瀬の家で会った彼、圭司について思い出した。虚構か仮想現実のように美しい相貌。感情の揺らぎも人間性の鼓動も感じられず、時折微かな皮肉嗤いが口許を掠めるだけ。
企業の買収とかM＆Aとか全く分からないけれど、眉ひとつ動かさずゲームのように淡々と進めていくのだろうなということは想像できた。
「彼は……とても優しかった。今思えばそれは上面だけの優しさだったけれど、私がバカなこと言っても聞き流してくれたし、欲しい物は何でも買ってくれた。私は愛されていると思い込み、だんだん彼を独占したくなってきたの。
それは現実味のある話だった。彼の家庭がうまくいってないのは明らかだったし、彼も離婚を仄めかすようなことを言っていたから」
薫は彼女に問い質したかった。本当に彼は優しかったですか？と。不安な時に手を握ってくれたり、温かな胸に抱き締めて温もりを分け与えてくれたことがありましたか？と。
しかし敢えて口を閉ざし、彼女の話に耳を傾け続けた。
「そう遠くない未来、きっと一緒になれると信じていたの。そんな時よ、私の妊娠が判明したのは」
「妊娠て……まさか……」
「そう、彼の子供を授かったの。私は嬉しくて嬉しくて、喜び勇んで彼に報告したわ。もちろん産むつもりだった。堕ろすなんて考えもしなかった。いずれ彼が奥さんと別れて私と一緒になってくれるその時まで、私一人でちゃんと育ててみせる、って。なのに―――」
薫は思わずぎゅっと目を閉じた。そこから先は聞きたくない。恐い。でも……聞かねばならない。
「私の報告に……彼は小さく舌打ちしてたったひと言、“しくじった”って……」
「みどりさん……」
「そして次に会った時、彼は私に茶色い封筒を渡した。中にはお札がいっぱい、いっぱい入ってたわ。いくらかは分からない、知らない。分かってるのは、彼はそれで私と手を切ろうとしたこと。手術の費用と慰謝料として渡したということ……」
彼女の顔は再び、疲労の濃い翳で重く撓み始めた。そして、嘗て一度だけ生命が宿った胎を慈しむように撫で、
「その時の精神的なショックで……子供は死んじゃった……私の中で……私が、私がもっと強かったら………」
薫は必死で首を振る。違う、違うよ。あなたのせいじゃない。
「きっと今ごろは……ちょうど、さっきロビーで元気に泣いてた子くらいに成長して……」
「ああ……」
泣き続ける子供に向けた優しい眼差し。あの時彼女は、生まれることなく死んでしまったわが子を想っていたのか……
「悲しくて、でも誰を憎んだらいいのか分からなくて。彼を憎むことはできなかった。まだ愛していたから。だから私、彼の奥さんを怨むことにしたの。彼女のせいで私たちは一緒になれなかったんだって。
それで、一日に何回も自宅に無言電話を掛けたわ。最初は冷静に応対していた相手が、徐々にヒステリックに壊れていくのが楽しくて。もっと、もっと苦しめばいい。私と死んだ子供の分まで苦しんで、滅茶苦茶になってしまえばいいって―――」
「嘘だ。楽しくなんかなかったでしょう？」
初めて薫は、彼女の言葉を遮った。自分の言葉に溺れかけていたみどりは、はっと息を呑んで薫を見返す。暫しの沈黙。そして―――
「そうね……楽しくなかったわ、ちっとも。辛かった。虚しかった。私は何をやってるんだろうって。でも、止められなかった。何かに取り憑かれたように電話を掛け続けたわ。
そんな時だった、いつものように電話すると突然こう言われたの。“父のことで苦しんでいるのですね。俺で良ければ話してください。全て受け入れます”と」
薫は大きく目を見開いた。
「圭祐………」
「そう。それが私と圭祐の出会いよ」
彼女の表情に、再び若々しさが戻ってきた。
BACK TOP NEXT