Love Over the Back
―背中越しの愛―
１０.
「へえ……やっぱりいいとこに住んでるのね。前の家よりは狭いけど、二人住まいなら持て余すほどよね」
リビングやダイニングを勝手に見て回り、適当な感想をくゆらしては陰気に笑う彼女に、片瀬は苛立ちを込めて問いをぶつけた。
「で、何しに来たんだ、あんたは」
「自分に会いに来た、とは思わないわけ？」
そんな可能性など考えるに値しないとばかりに無視して、
「親父は滅多にここへは来ねえよ。残念だったな」
「そんなの分かってるわ。あの人は“家”を持たない人だもの。それにね、もう会ってきたの」
片瀬は眉根を寄せて、「どういうことだ」と詰め寄る。しかし彼女はさらりと躱して、
「他の部屋も見ちゃおっと」
ぱたぱたと足音も軽やかに走り出し、片瀬の部屋へ入っていった。
「う…わ……これホントに圭祐の部屋？」
大きく目を見開き、驚いたように部屋の中をぐるりと見回す。
「勝手に入るんじゃねえよ。リビングに戻れ。茶ぐらいは入れてやるから」
「余計な水分は摂らないようにしてるの。それより、ここは本当に圭祐の部屋なの？ もしかして弟ができたとか」
「正真正銘、俺の部屋だ。どこがおかしいんだ。健全な高校生の部屋だろ」
片瀬の答えは納得できるものではなかったらしく、彼女は怪訝な顔付きでテーブルの上のゲームソフトや漫画、ファンタジー映画のDVD、サッカー雑誌などを見つめている。
「健全な高校生の部屋だからこそ、圭祐には相応しくないのよ」
「どういう意味だ、それは―――」
「あなた、自分が健全な学生だなんて本気で思ってるの？ 冗談でしょ。あたしと散々―――」
「やめろ、聞きたくない」
厳粛な意志のこもった拒絶に、彼女は何かを感じたようだった。はっと顔を上げて片瀬をまじまじと見つめる。やがて薄笑いを浮かべ、
「ふーん、そゆことか。高校生らしい健全な“恋愛ごっこ”に勤しんでるってわけね。でもね、あなた、自分が誰の息子なのか分かってるの？」
そう言って部屋の奥へちらと一瞥をくれた。そして真直ぐそちらへ、片瀬の寝室へ向かう。綺麗に整えられたベッドの上に腰を下ろし、大胆に脚を組んで挑発的な眼差しで見上げ、
「無駄よ。あなたの中には、あの男の血が流れてるのよ。乳臭い高校生との恋愛ごっこなんかやめて、ほら、またあたしと……ね？」
彼女は自らジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスのボタンを二つ外した。そして手を差し伸べて、妖艶な笑みを向ける。片瀬は表情を変えぬまま、彼女に真直ぐ近付いた。
「そう……それでいいの。また楽しみましょう。昔みたいに……」
彼女はうっとりと目を閉じて、若い男との情事への期待に四肢をふるわせた。しかしその額には、癒し難い疲労と悲しみの翳が刻まれていた―――
「ご、ごめん、明良。俺、ちょっと用事を思い出した」
片瀬のマンションへ寄ってからの帰り道。薫は突然立ち止まって、彼らしくない強張った声で言い置いた。明良は努めて普段通りの明るい声で、
「そっか。なら俺は真直ぐ帰るから。薫もあんまり遅くなるなよ。母ちゃんが心配する」
「おう、分かってるよ。んじゃな」
薫はくるりと方向を変えて、来た道を早足で戻っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで、明良はじっと見送った。そして、
「………薫、がんばれよ」
想いをこめて呟くと、薫の残影に背を向けて一人家路を辿った。
ここまで戻ってきたはいいけれど、それからどうすればいいのか分からない。片瀬の部屋に乗り込んで、この女性は誰なのかと問い詰めて、それで―――
「分かんねえよ、もう………」
母親でないことは分かっている。片瀬の母は今、アルコール依存症の治療のため入院中なのだ。
では、親戚の女性？ それとも父親の友人？ そのどれも当て嵌まらないような気がする。濃厚に腕を絡めて一緒にエントランスをくぐる姿は、どう見ても年上の恋人だった。
薫はマンションの前で途方に暮れたように立ち止まり、ゆるゆると窓を見上げた。
今ごろ二人は、この中でどんな会話をしているのだろう。自分たちがいつも座ったり抱き合ったりしているソファに、彼女も座っているのだろうか。そっと寄り添い、思い出話に花を咲かせ、そして、そして―――
「ああ……やっぱり俺は………」
ようやく分かった。他人に冷たくしないで欲しいという気持ちは嘘ではないけれど、やはり自分だけを見て欲しい、自分だけに笑いかけて欲しい、自分だけの圭祐であって欲しい。
「ごめん、圭祐……。俺、やっぱ我がままなただのガキだ………」
痛い本音をぽつりと言い置いて、窓から目を逸らした。その時、
「あっ……あのひと………」
見覚えのある桜色のスーツに小振りのボストンバッグ。間違いない。先刻片瀬と一緒に入っていった女性が、一人で出てきたのだ。薫は何か考えがあったわけではなく、ただ勢いに任せて駆け寄った。
「あ、あのっ………」
薫が声を掛けると、彼女は立ち止まって振り向いた。薫ははっと息を呑む。目尻に光るものを見たような気がしたから。しかし彼女が二度三度と瞬きすると、それは消えてしまった。
怪訝な顔付きでこちらをじっと見る彼女は、何だかとても疲れているように見えた。
「何かしら？」
その声も、若い女性にしては張りがなかった。薫の母親の方が年齢はずっと上だろうが、もっと溌剌としている。薫はぺこりと頭を下げて、
「急に呼び止めてすみません。あの、あなたはその……片瀬圭祐君の……お知り合いなんですか？」
片瀬の名前が出てきたことで、彼女も少し表情を和らげた。
「そういうあなたは？」
「あ、すみません。俺は片瀬君の……クラスメートで、藤崎薫っていいます」
「えと……男の子、よね？」
「もちろんですっ」
つい大きな声を出してしまった。“姫”の称号に悩まされているせいか、最近はこのテの誤解に敏感に反応してしまう。彼女はふわりと笑って、
「ごめんなさい。あんまり可愛いから、つい」
全然納得のいかない言葉だったけれど、何故か反発心は起きなかった。彼女の言葉には、少女のような無邪気さがあったから。
つい先刻、作為の匂い漂う挑発的な態度で片瀬を誘ったのと同じ人物とは思えない。もちろん、薫は知らないことだが。
「ちゃんと名乗ってくれたから、私も名乗らなくちゃね。星野みどりよ。はじめまして」
「は、はじめまして……。それで、あの………」
薫はこくんと喉を鳴らして、大きく息を吸った。しかし出てきたのは今にも消え入りそうな弱々しい声。
「片瀬君とは……あの、どんな………」
“どんな関係なんですか？”と訊こうとしたが、途中で口を噤んでしまう。これでは余りに不躾ではないか。かといって、他に言葉が見つからない。
ちゃんとした考えや相応しい言葉も持たず、ただ気になるからといってその場の感情で声を掛けてしまった自分の幼さが怨めしい。薫は真っ赤に火照った顔を隠すように俯いて、必死に言葉を探した。
「………気になる？」
からかうでもなく、咎めるでもない。寧ろ優しく諭すかのような響きを伴った声で、みどりはそっと反問した。薫はゆるゆると顔を上げて彼女の目を見ると、こくんと頷いた。
「分かったわ。じゃあ教えてあげる。その代わり、正直に答えて。あなたと圭祐の関係。本当にただのクラスメート？」
正直に答えるべき時と、誤魔化しても構わない時の判断くらいはできる。薫は目を逸らさず、
「いえ……恋人です」
「そっか。やっぱりね……」
みどりは目を細めて視線を尖らせ、耳まで真っ赤に染まった薫を見つめる。その眼差しはやがて、切ない色合いを帯びていった。まるで、懐かしい過去を透かし見るかのように。
彼女はふう、と複雑な溜息をついて、ジャケットのポケットを探った。取り出したのは、有名シティホテルの名前が書かれたマッチ。
「私はここに泊まっているから。明日のお昼にでも、部屋を訪ねてもらえる？」
「明日……ですか？」
「ええ。今ここで簡単に話せるようなことではないし。これからホテルで話してもいいのだけれど、遅くなったらご家族が心配するわ。だから明日にしましょう。ね？」
薫は真直ぐな瞳で、彼女をじっと見つめた。その澄んだ眼差しにみどりは微かな畏怖を覚え、思わず姿勢を正す。
不思議な子ね、幼くておどおどしてるくせに、こうして大人を竦ませるほどに強い表情も見せる。全てを見透かす、恐るべき子供―――
「安心して。逃げたりしないから。ルームナンバーは１５０１。フロントで呼んでもらえれば、ロビーまで迎えに行くわ」
「分かりました。必ず行きます」
薫は即答を返すと、礼儀正しい一礼をしてから彼女のもとを辞した。
「……薫君、彼はやめなさい。あなたには相応しくないわ」
みどりは奇しくも片瀬の父親と同じ言葉を呟いて、遠ざかるシルエットをいつまでも見送った。
その翌日。薫は朝から張り詰めた空気をまとっていた。教室に入っても、いつものようにクラスメートとじゃれ合うことなく自分の席にちんまりと座って、時折濃厚な溜息をつく。片瀬が教室に入ってきても、その神妙な態度は変わらなかった。
いつもなら“圭祐、おはよ〜”と笑顔全開で飛びつくところだが、顔を上げようともしない。
「………薫、」
隣の席から名前を呼ばれ、薫はぴくんと身じろぐ。しかし尚も頑に顔を上げず、俯いたまま口を開いた。
「圭祐、昨日はごめん。圭祐のしたことは……たぶん間違ってない。その気もないのに手紙を受け取れないっていう考えは正しいし、その態度を冷たいって言った俺は感情だけに振り回される子供なんだと思う。でも―――」
膝の上の手をぎゅっと握り、絞り出すように言葉を続ける。
「でも、あの場面を目撃して胸が痛んだのは事実なんだ。お前に拒絶された彼女が可哀想という気持ちもあるけれど、それ以上に……未来の……自分の姿と重なってしまって、それでっ―――」
「薫っ……」
片瀬は思わず腰を浮かせ、薫の腕を掴んだ。確かに薫は、「彼女がかわいそうじゃないかっ」と言って片瀬を詰った。しかし、まさかそんな想いが含まれていたなんて。彼女と自分を重ねて見ていたなんて。
「薫、来い。もう少しちゃんと話し合う必要がありそうだ」
もし昨日、あの光景を見ていなかったら、薫も応じただろう。自分の考えや不安をきちんと伝えて、二人で最善の道を探そうとしただろう。
しかし、片瀬を追い掛けてきたらしき年上の女性の存在。しかも、片瀬とのただならぬ関係を仄めかすような態度を見せられたのだ。
二人の事情に自分が納得するまでは駄目だ。こんなもやもやを抱えたままでは、まともに向かい合って話すことなどできない、したくない。
「ごめん、圭祐……今は……お前の顔をまともに見れない」
「なん……だって？」
「もう少し……待って。時間をくれよ………」
有無を言わせず教室から引きずり出し、きつく抱き締めて俺にはお前だけだと諭す。不安を消し去るのは論理的な言葉ではなく、たった一度の抱擁、直に伝わる温もりなのだから。
しかし片瀬は掴んでいた腕をそっと離し、力なく椅子に座り込んだ。薫からの拒絶に、思いのほか強いダメージを食らったようだ。
「くそっ……」
片瀬は改めて、自分の過去が薫に根深い不信感を植え付けてしまったことを思い知った。
過去のことを今さら言っても仕方ない、振り返らず前進すべきとはなるほど正論だろうが、正論だからと言ってすんなり受け入れられるほど人は強くない。これから少しずつ、時間をかけて信頼を得てゆくしかないのだ。
授業が始まっても、薫は終始俯き加減のまま、片瀬の方に顔を向けようともしなかった。もちろん笑顔など欠片もなく、教室全体の空気も心なしか蒼く淀んで見える。
片瀬はすでに後悔し始めていた。さっき腕を掴んだ時、どんなに抵抗されてもそのまま教室から出て、二人きりの時間を持つべきだった。そして、一体何があったんだと聞き出すべきだったと。
そう、片瀬は気付いていた。薫のこの落ち込みよう。これはあの手紙の件だけが原因ではないに違いない。きっと他に、薫の不安をさらに煽るような出来事があったのだ。
―――とにかく、昼休みになったら……
何としても薫をいつもの場所に連れ出して、心の中に溜まっているもやもやを全て吐き出させるのだ。そして今度こそ強く抱き締めて、俺にはお前だけだと―――
「クッ、クク………」
片瀬は小さく肩を震わせて自らを嗤った。俺にはお前だけ？ 何をカッコつけているんだ。本音はそうじゃないだろう。切実なる本音は―――
「ずっと……傍にいてくれ………俺を―――」
片瀬は掠れた声で囁くように呟いた。俺を見捨てないでくれ、と。
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