Liberation from Chains
9話
「お腹の……赤ちゃんが……」
生まれてくるはずだった子供。何の罪もない無垢な命。それを、母を守るためだったとはいえ暴力的に奪ってしまった遼牙が、どれほど悔やみ己を責めたか想像に難くない。
「その後すぐ、子供の後を追うように彼女は自ら命を絶った。……私が殺したも同然だ」
「………」
瑠羽は何か言おうと口を開いたが、言葉も出なかった。一人は直接的に、一人は間接的に殺したと遼牙は言った。その告白に誇張はなかった。
「未来の跡取りを喪った有働家は、親族一同で話し合った結果、跡取りの座に私を据えることにした。愛人の子とはいえ、有働家直系の血を受け継いでいることは間違いない。彼らにとってはそれが何より大切なことなのだ。それにあの重い罪のゆえ、私を思い通りにできる。ある意味理想的な後継者といえるだろう」
「遼牙さまの……お父さんとお母さんは……？」
酷な質問だったかもしれないが、訊かずにはいられなかった。遼牙は表情も変えず淡々と、
「父と母には、あれ以来一度も会っていない。父は本家に呼び戻され、名ばかりの後継者として飼い殺しにされたのだろう。母に到っては、その生死すら分からん。どこかで新しい人生を歩んでいてほしいとは思っている」
「そんな……」
自分は親の顔を知らない。けれどホームで先生やたくさんの兄姉たちの愛情を受けて成長した。幸せな子供時代だったと断言できる。
では遼牙は？ 両親と引き裂かれ、周囲の全てが“敵”という環境で自由もなく、罪の意識に苛まれながら成長した遼牙は──
「私は彼らの傀儡として、身を粉にして働き続ける。結婚相手も彼らが決めた。私に拒む権利はない。しかし、これで仕方ないと思っていた。自由だとか愛だとか喜びだとか、全て私とは無縁の高嶺の花だと。だが──」
瑠羽の腰に回された腕に力がこもった。瑠羽は小さく身じろいだが、やがて遼牙の思いに応えるように自ら視線を重ねた。
「だが瑠羽と出会って、私はとうに諦めていたはずの喜びを知った。誰かを心から愛するということ。打算なしの純粋な感情、触れ合うことで生じる心の高揚。知らないままでいられたのなら、むしろその方がよかったのかもしれん。しかし私は知ってしまった。知ってしまった以上、自分から手放すことはできない……」
遼牙はそう言って、まるで手放す時の痛みを先取りしたかのように苦しげに目を細めた。それは微笑っているようにも見えたが、それが余計に痛ましかった。
「女々しいことを言っているという自覚はある。瑠羽が不審感を抱くのもよく分かる。婚約者がいながら、愛しているのはお前だけだなどと恥ずかしげもなく言えたものだと私自身も思う。しかしこれが動かしようのない真実なんだ。だから私は決してお前を一人にはしない。それにお前が一人になれば、その時は私も……独りになるのだからな」
瑠羽はそっと手を伸ばし、遼牙の頬を撫でた。
「遼牙さまは……ずっと独りだったのですね。そして、それを当然の報いだと受け入れていた」
遼牙は痛みをこらえるように淡く笑った。
「ああ、そうだよ。今でも頭ではそう思っている。私は人並みの幸せを求めてはいけない人間だ。身の程を弁えろと理性が囁いている。だが心が、感情が……付いていかない。こんなのは初めてだ。私はもっと合理的で強靭で、自制に長けた人間だと思っていたのだがな」
「……それはたぶん、生きるためにまとった鎧のようなものなのだと思います」
「鎧？」
「はい。遼牙さまはもともと、感受性豊かで優しくて、愛情深い方なんです。身を挺してお母様を守ろうとするぐらい。でもいきなり放り込まれた冷たい世界で自分を守るため、無感情の鎧を着ける必要があった」
瑠羽は無意識のうちに、深呼吸をした。それは軽い助走のようなものだった。“あの頃”のことを話すには、やはりそれなりの覚悟が要る。
「僕も同じだったから……分かるんです。あの男に引き取られた最初の頃は、毎日泣いていました。悲しみがあとからあとから湧いてきて、どれだけ泣いても追いつかないくらいだった。でも、ある時ふと思いついたんです。自分を“物”として見てみようって。物には感情がありません。だからどんな仕打ちを受けても何も感じない。僕はそう思い込むことでかろうじて生きていられた。その状態を“生きている”と呼べるなら、の話ですが」
途中から、遼牙の抱擁が胸が潰れそうなほど強くなったが、瑠羽は喘ぎつつも言葉を続けた。
「遼牙さまもそうだったんですよね。感情を殺さないと自分が壊れてしまう。だから必死に冷たい人間になって、何も感じないでいられるようにコントロールして……」
「いや……私の境遇など、瑠羽が受けた辛苦に比べれば他愛もないものだ。お前のように繊細で感じやすい子が、自分を“物”として見るところまで追い詰められた。それを思うと……」
最後は言葉にならず、嗚咽とも呻きともつかぬ音と震えが遼牙の身体から伝わってきた。遼牙は今、確かに、瑠羽が受けた苦しみを追体験しているのだ。同情、共感、そんな言葉では到底追いつかない、苦悩の生々しい共有とも呼ぶべき交わり。
一緒にいるだけで喜びは二倍に、悲しみは半分になる、そんな人と瑠羽もいずれきっと出会うわと言ったのは、ビッグママこと藤沢登美子先生だ。
それを聞いた時、瑠羽は正直ピンとこなかったのだが、ようやく分かった。これが、“分かち合う”ということなのだと。
「遼牙さま……」
瑠羽はすぅっと深く息を吸い込んだ。胸の奥が、これまでにないほど熱く震えているのが分かる。これでいい。自分はこれで十分幸せだ。だから、
「遼牙さま、僕、全てを受け入れます」
静かに厳かに、瑠羽は告げた。遼牙が息を呑む気配が、抱擁を通して伝わってくる。瑠羽は自らゆっくりと身体を離し、遼牙の顔を見据えあらためて告げた。
「遼牙さまに婚約者がいること、いずれその女性と結婚すること、家庭を持つこと。その全てを受け入れた上で、僕は遼牙さまのお傍にいます」
「瑠羽……」
「婚約者も結婚も家庭を持つことも、遼牙さまにとっては鎧の外側の話。それは僕には関係ありません。僕にとって大切なのは、鎧の内側にいて、ずっと孤独に耐えてきた遼牙さまなんです。もう独りにはしません。僕がお傍におります」
言い終わると同時に、驚愕に張り詰めていた遼牙の顔がくしゃりと歪んだ。端整な面がさらす乱れは、どうしていいか分からないという内心の惑乱、苦悩を如実に表していた。瑠羽はくすりと笑い、
「遼牙さまがそんなお顔する必要はありません。いいんです。僕はこれで幸せなんですから。ただ、ひとつだけ……お願いがあります。一度でいいから……だ、抱いてくれません、か？」
腰に緩く回されていた手がかすかに強張るのを感じる。それは拒絶の前兆なのかもしれないが、瑠羽は撤回するつもりはなかった。
もちろん、口から心臓が飛び出そうなほど緊張していたが、自分がどれほど切実に遼牙を求めているか、伝えるなら今しかないと思った。
「もし遼牙さまに愛してもらえなかったら、僕が知っている男性は……黒淵だけになってしまいます。そんなの……惨めすぎる」
そう、残酷で醜悪だが、それが事実だ。瑠羽の身体に刻まれているのは、黒淵にかつて犯され辱められたという記憶だけ。口にすると余計に惨めさが際立って、瑠羽は涙がにじむのを抑えることができなかった。
「でも、たった一度でいい、大好きな人に愛してもらえたら、その思い出だけで何とか生きていくことができると思うんです。だから遼牙さま、そのたった一度の思い出を……僕にくれませんか？」
遼牙は何も答えない。まるで言葉を抑え込むかのように唇をきつく閉ざしたままだ。あの出張前日の夜を思い出す。一緒に寝てほしいと懇願し、バカなことを言うなと一蹴された苦い記憶が蘇る。それでも瑠羽は続けた。
「ちゃんと教えてもらえれば、その通りにやります。遼牙さまに迷惑をかけないようがんばります。だから───」
「もういい、瑠羽」
必死の訴えを遮られ、瑠羽は額の奥がすっと冷える感覚を味わった。それは絶望の兆し。ああ、やっぱり駄目なんだ。恋人のように愛してはもらえないんだ……。
「それ以上、言わなくていい。一度でいいとか迷惑をかけないようにするなど、そこまでお前に言わせてしまった私は……最低の男だな」
まるで自身を責めるような遼牙の言葉に、瑠羽は素直に首を傾げた。
「遼牙さま？」
すると遼牙は、さっきまでの張り詰めた表情から一転、和らいだ笑みを見せ、
「一度でいいからとお前は言うが、一度では済まないと誰よりも分かっているのは他ならぬ私自身だ」
「それはどういう……意味ですか？」
「お前を誰よりも欲しているのは私だということだ」
瑠羽は反射的にぷるんと頭を振って否定した。
「うそです、そんな……だって遼牙さまは僕のことを……」
「瑠羽のことを、何だ？」
「子供だって思ってる……でしょう？」
そっと窺うように訊ねれば、遼牙は目を逸らして溜め息をついた。
「そうだな。そう思い込もうとしていた。逆に言えば、それしか方法がなかった。お前の誘惑を斥けるには」
「え？ 僕……誘惑なんてしてません」
驚きと羞恥に頬を染めて見上げると、遼牙は眉間に浅い皺を寄せ何とも複雑そうな顔つきで、瑠羽の頬を軽く叩いた。
「ほら、その目、その顔。お前にそのつもりはなくても、蜂蜜色の瞳で甘えたように見上げられれば、理性なんて簡単に麻痺してしまう。意図的な媚態よりずっとタチが悪いな」
遼牙はそう言って、まだ腑に落ちないという表情をしている瑠羽を柔らかな抱擁に閉じ込めた。そして言葉を身体に浸透させるかのように訥々と語る。
「私は瑠羽の養父だ。それに……お前が以前引き取られた先でどんな目に遭ったか知っている。愛している、ただそれだけの理由で抱くことなど……できるはずがないと思っていた」
瑠羽はちょんと首を傾げ、
「愛している以外の、どんな理由があるというのですか？」
素直な疑問を口にしただけで、もちろん遼牙をやりこめてやろうなどという意図はなかった。しかし遼牙は参ったなと言わんばかりに肩をすくめ、
「大人というのは厄介で面倒な生き物でな。純粋な感情だけで動くことに対する怯えのようなものがある。行動を支える複数の理由や体裁を、無意識のうちに求めるんだ。言い方を変えれば、ただの臆病ということになるが」
「よく……分かりません。愛してる、だけじゃ駄目なんですか？ 僕には、それ以外何もありません」
きっぱり言い切る瑠羽に、遼牙はかすかに身じろいだ。それだけで、十分驚きが伝わってくる。
「瑠羽……」
「遼牙さまが大好きです。だから、キスしてもらいたいし抱き締めてもらいたい。他に理由なんてありません。それは僕が……何も知らない子供だからですか？ 色んな経験をして大人になったら、もっと複雑な理由があるって分かるものなのですか？」
愛している、それだけでは済まされないことがある。それが大人の世界なら、自分はずっと子供のままでもいい。そんな瑠羽の声なき想いが問いかけの奥に潜んでいることを、遼牙はきちんと汲み取ってくれたようだ。甘く目を細め、
「いや、子供だからではない。それはお前の純粋な心が、そもそも計算や惰性を受け付けないからだ。瑠羽はそのままでいい。ただ己の感情に正直に、ひたむきに生きなさい」
瑠羽は大きく頷いて、遼牙の言葉通りひたむきな告白を捧げた。
「遼牙さま、愛してます」
言葉に、これほどの熱が宿るとは。舌も唇も熱くて熔けそうだ。すると、その熱を写し取るかのように遼牙の唇が軽く重ねられた。
「私も、愛しているよ、瑠羽」
触れ合ったまま、遼牙の唇が応える。その毛羽立った低音に、瑠羽はぞくりと慄えた。このまま身も心もとろけてしまいそうで。でもまだだ。もうひとつ言わなくてはならないことがある。
「遼牙さま……抱いて、くれますか？」
答えが届くより先に、身体がふわりと抱き上げられた。思わず胸にしがみつくと、耳元に吐息混じりの囁きが降ってきた。
「つらかったり怖くなったりしたら、すぐに言いなさい。分かったね」
しかしその声は、紳士的な言葉と相反する濃密な欲望でざらついていた。それを本能的に感じ取った瑠羽は、訳も分からぬまま小さく震えたのだった。
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