Liberation from Chains
8話
「でも、でもっ……」
瑠羽は胸を押さえながら、必死に言葉を探した。たとえわずかでも可能性があるのなら、それにすがりたいという切実な気持ちを遼牙に理解してほしかった。顔も知らないからこそ、所有できる確かな物が欲しいという気持ちを理解してほしかった。
「写真と一緒に、何か証拠になるような物を見せてもらえるかもしれません」
「母子手帳とかそういう類いのものか。そんなのいくらでも偽造できる」
「まさか！ いくら何でもそこまでするなんて。だいいち理由がありません」
瑠羽の反論に、遼牙は苛立ちを隠さなかった。
「理由だと？ 瑠羽を誘拐するために決まっているだろう。ボディガードにセキュリティ万全のマンション。外から近づくことは容易ではない。ならば瑠羽の方から自主的に近づいてくるよう仕向ければいい。両親の写真という餌で罠に誘い込む。火を見るより明らかではないか」
「だ、だったら和泉さんに付いてきてもらえば──」
「十中八九間違いなく、瑠羽一人で会いに来るよう条件をつけてくるだろうな」
確かに、確かにそうかもしれない。でも遼牙の言っていることだって可能性のひとつではないか。どうして、もうひとつの可能性の方にも耳を傾けようとしてくれないのか。危険を回避しつつ真実を確かめる方法を、一緒に考えようとしてくれないのか。
「では、絶対に駄目だと？」
「ああ。絶対に駄目だ」
「写真が本物である可能性だってあるはずです」
「そんな可能性はない」
迷わず断言できるのが、むしろ不可解だった。瑠羽はその疑問を素直に口にした。
「どうしてそこまではっきり言えるのですか？」
これまで淀みなく自分の考えを主張してきた遼牙が、初めて口ごもった。
「それは……」
いったん口を開いた遼牙だったが、苦しげに顔をしかめて閉ざしてしまった。その苦渋の表情は、確たる理由もないのに自説を押し通そうとしている気まずさのゆえなのか、あるいは知っているが言えないという胸の奥に抱えた秘密のゆえなのか、瑠羽に推し量ることはできない。
やがて遼牙は冷ややかな顔に戻り、「確かにどちらも可能性だ」と前言を翻した。
「しかし状況から考えて、偽者で瑠羽を釣ろうとしている可能性の方が高いということだ。あまりにタイミングがよすぎると思わないか」
「それは……」
今度は瑠羽が口ごもる番だった。確かに、なぜ今になってという不審感は否めない。それでもやはり、両親の写真というのは瑠羽にとってひどく魅力的だった。
自分は何者なのか、誰と繋がっているのか。写真を見ることでそれを確認できれば、遼牙に婚約者がいると知ってからずっと心を支配している不安定で寄る辺ない気持ちが、少しは解消されるのではないかと思う。
今さら両親に会いたいとは思わない。その生死を確認するつもりもない。ただ、自分にも家族と呼べる存在があった証拠として、写真が欲しかった。
「遼牙さまの仰ることも分かります。でも、もしかしたらと思うと……簡単には諦められません」
訥々と思いを吐き出す瑠羽に対し、遼牙は無情な言葉を放った。
「たかが写真ではないか。そんなもののために瑠羽を危険な目に遭わせるわけにはいかん」
頭をガツンと殴られたような衝撃に襲われ、瑠羽はぐらつく身体を支えるため傍らに手をついた。心臓は激しく鼓動を刻み、血液の流れは速くなっているはずなのに、指先がすぅっと冷えてゆく。
「そんなものって、僕のお父さんとお母さんの写真なのに？」
「その可能性はほぼゼロに等しいと思った方がいい」
「だからっ、残りのわずかな可能性に賭けたいっていう気持ちを、どうして解ってくれないんですか！」
瑠羽の悲愴な叫びを、遼牙はあくまで穏やかに受け止めた。
「よく考えてみなさい。それは、そんな危険な賭けをしてまで手に入れるほど価値のあるものなのか？ 私にはとてもそうは思えない。仮に本物だったとして、両親の顔を知ったからどうだというんだ。何か変わるのか？」
瑠羽は唇を噛み締め、小さく首を振った。言い返す気力もなかった。どんなに言葉を費やしてもきっと解ってもらえない。遼牙に対してこんな絶望的な諦念を抱くことになるなんて、想像もしていなかった。
すぐ傍にいるのに、遼牙の存在がひどく遠く感じられる。物理的距離より、心理的距離の方が肌がひりつくようなリアリティがあった。瑠羽はこの瞬間、自分がどれほど孤独であるか痛感したのだ。
「……僕にだって家族がいるんだって思いたい。誰かとちゃんと繋がってるって思いたい」
そう、理解できないのは当然だ。遼牙には父親も母親もいる。もうすぐ結婚して、新しい家族もできる。でも自分は──
「確かに僕は、独りです。親も兄弟もいない。どんなに足掻いたって、その事実は変わらない。そんなの分かってる。僕だって、顔も知らない親の写真にすがりたいわけじゃない。ただ僕にはもう、それしかないからっ……」
「つまり、私では駄目だということか。瑠羽と家族にはなれないと」
明らかに傷ついた声で呟く遼牙に、瑠羽は思わずカッとなって言い返した。
「遼牙さまにはもうすぐ新しい家族ができるのに、赤の他人の僕が割り込めるはずないでしょう！」
「新しい家族？ 何のことだ、一体……」
「こ、婚約者の人と……近いうちに結婚するのでしょう？」
俯いたまま顔を見ずに訊ねれば、息を呑む濃厚な気配が伝わった。それだけで、遼牙の驚きの深さが分かる。ややあって、感情を必死に抑え込んでいるのが明らかな重苦しい声が瑠羽の耳に届いた。
「……義童から聞いたのか」
「いいえ、本人から聞きました。出張の前日、諏訪内美奈子さんがこの部屋に来たんです」
「彼女がここに……」
「はい。そろそろ結婚の準備を進めようと思ってる、あなたのことは二人でちゃんと考えるから心配しないでいい、って」
「そう、か……」
遼牙は頭を抱え、苦い感慨を噛み締めるように呟いた。そして「ああ」と声を上げ、
「だから瑠羽はあの夜……突然あんなことを言い出したのか」
あからさまな誘惑はあまりに唐突で、遼牙に困惑しかもたらさなかった。瑠羽自身も必死に訴える一方で、心のどこかではちゃんと分かっていた。こんな稚拙で性急な誘い方では、自分をますます幼く見えさせるだけだと。
「そうです。帰宅した遼牙さまの身体からは、女の人の匂いがしました。僕との約束をキャンセルしてあの女性と会ったんだと思ったら、自制が利かなくなって……」
もしかしたら、という期待もあった。してほしいことをはっきり伝えれば、叶えてもらえるのではないかと。でも結果は──
「僕はあの日初めて、“現実”というものを突きつけられました。僕に向けられた『愛している』という言葉は、可哀想な孤児に対する哀れみや慈しみの感情表現に過ぎなかった」
「……そうじゃない」
「大人のキスだと僕が思っていたものはちょっとした戯れの延長で、本物のキスは全て婚約者に捧げられていた」
「そうじゃない、瑠羽」
「運命的な出会いとか夢での会話とか、そんな現実離れしたフィクションに浮かれるばかりで、本質が何も見えていなかった。僕は子供で男で、出自の分からない孤児だっていう本質が」
「違うと言っているだろう！」
腹の底にどすんと響く怒声には、それだけで相手の意気を削いでしまう迫力があった。しかし瑠羽はその重低音を全身で受け止め、「どこか違うんですか！」と真っ向から反撃する。
「遼牙さまにはちゃんと愛情を注ぐ人がいる。その人と結婚して家族になって、いずれ新しい家族が誕生する。そうなってもまだ、僕をお傍に置いてくれるのですか。愛してるよ瑠羽って言ってくれるのですか」
自分から提示した問いかけを、瑠羽はすぐさま回収した。
「そんなの無理です。できっこない。たとえ一緒に暮らしても、僕が疎外感に苦しむだけだとあの人、諏訪内さんも言ってました。本物の家族の中で、僕は異物だと。だからっ……」
込み上げる嗚咽を、瑠羽は必死に押し戻した。泣くのはまだ早い。この大事な会話を、涙で締め括ることはしたくなかった。
「両親の写真が欲しいんです。自分は世界の中に放り出されただけの存在じゃないという証。確かに以前なら、こんな風には考えなかったと思います。でもいずれ独りになることが分かった今、たかが写真と切り捨てることはどうしてもできない。僕にも家族がいるんだって、誰かと繋がっているんだって思いたい。お願いします、写真の持ち主に会うことを許してください」
遼牙は頭を抱えて項垂れたまま、ぴくりとも動かない。しかし瑠羽には確信があった。きっと遼牙は、しぶしぶながらも許可してくれるに違いないと。瑠羽の孤独を理解こそできぬまでも、理解しようと努めてくれるに違いない──
「駄目だ」
瑠羽は呆然と遼牙を見つめた。
「どう…して……」
「駄目だ。駄目だ駄目だ。私はお前を……失いたくない」
「遼牙さま……？」
「確かに私には婚約者がいる。だが、それが何だというのだ。嘘偽りなく、私が愛しているのは瑠羽だけだ」
常識を外れためちゃくちゃな理屈だ。聡明で理性的な遼牙の言葉とはとても思えない。瑠羽は驚きを消化できぬままようよう首を振り、
「なにを……言ってるのですか。だって、婚約者がいるのに……」
「私が望んだ相手ではない」
「え？」
「私は人生におけるあらゆる選択の自由を奪われている。もちろん結婚の自由も」
「奪われているって……だ、誰に……」
話の展開についていけぬまま、瑠羽はほとんど事務的に会話を繋いだ。対して遼牙は、自らを蔑むような毒性の強い笑みを浮かべ、
「誰に？ そうだな……運命の手に、とでも言おうか」
「運命……」
「そうだ。どんなに抗っても振りほどけない運命の手。瑠羽、よくお聞き。私は……人を殺しているんだ」
瑠羽は、無意識のうちに首を振っていた。そうしなければならないと、何がなんでも否定しなければならないと、身体が勝手に動いたのだ。しかし、
「嘘ではない。私は二人も殺している。一人は直接的に、一人は間接的に。私は一生かけて、その償いをする義務がある。人生におけるあらゆる喜びも幸せも拒絶して、償いのために生きる。それが私に唯一残された生存理由なのだ」
「だから……自由に生きることはできないと？」
「そうだ。信じられんか？ この場を切り抜けるための壮大な嘘だと思うか？」
そう言う遼牙の自嘲的な口調が、表情が瑠羽には苦しかった。嘘のはずはない。このわずかな時間で、遼牙の中に巣食う深い闇を、瑠羽は確かにこの目で見たのだ。
「……嘘だったら、遼牙さまはどんなにか救われたでしょう」
瑠羽の口から出た言葉には、労わりと慈愛がこもった。意識的にではなく、自然と溢れる感情が染み込んだのだ。この人は今まで、どんなに苦しんできただろう、自分を責めてきただろうと思い、瑠羽の感じやすい心はひそかに悲鳴を上げた。
「ああ……そうだな。嘘だったらどれほど救われただろう」
安易な同情は人を苛立たせるが、心の奥底から湧き上がる同情や共感は、時に人を癒す。遼牙は先刻よりわずかに和らいだ様子で、瑠羽の身体に手を伸ばした。
温もりを求められていることを察した瑠羽は自ら身体をすり寄せ、遼牙の胸にそっともたれる。遼牙は瑠羽の髪を優しく撫でながら、静かに口を開いた。
「……私の母は、父と正式な婚姻関係を結んでいない。世間で言うところの愛人だったが、家の都合で望まぬ結婚を強いられた父にとっては、唯一寛げるのが母といる時間だった。本妻と愛人との二重生活を送るうちに私が生まれると、父はあまり自宅に戻らなくなった。私たちとの生活に、家庭の温かさを見い出してしまったのだ」
瑠羽はぶるりと震えた。遼牙の静かな語り口に、悲劇の予兆を感じたのだ。
「母は聡明な人で、そんな現状に危ういものを感じていた。まるで子を諭すように、自宅に戻りなさいと幾度となく言っていたな。自分はあくまで日陰の身と割り切っていたのだろう。しかし父は聞き入れない。そんな時、事件が起きた。本妻が、夫を返してと突然乗り込んできたんだ」
絵に描いたような修羅場だろう？ と遼牙は陰気に笑い、話を続けた。
「私はまだ幼かったから、鬼の形相で現れた女性と父の関係はよく分からない。父はおろおろするばかりで頼りなく、私が母を守らねばと奮い立った。女性は母の肩を掴んで激しく揺さぶり、あらゆる罵倒を浴びせた。私はその間に割って入ろうとしたが、凄い力で蹴り飛ばされた。こんな大きな子供が、しかも男の子がいることが、彼女には相当ショックだったのだろう。しかし私も負けるわけにはいかない。女性は母の髪を引っ張ったり、顔に闇雲に殴打を浴びせたりと好き放題暴れている。私は彼女目がけて突進し、思い切り突き飛ばした」
「ま…さか……それでその女性が……」
瑠羽は思わず声を上げた。すると遼牙は重々しくかぶりをふり、
「いや。確かに彼女はそれで仰向けにひっくり返り、腰や背中をしたたか打ったが、死んだのは彼女ではない。彼女のお腹にいた胎児だ。私は、自分の腹違いの弟を殺してしまったんだよ」
厳粛な声で告白した。
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