Liberation from Chains
7話
「僕の……お父さんとお母さん……」
信じられなかった。厳格だけど頼りになるお父さん、優しくて笑顔を絶やさないお母さん。そんな幻想に漠然と浸ってみることはあったけれど、それはほとんどフィクションのようなものでリアリティには乏しかった。
どこかに存在はしているのだろうけど、会ったことがないのだからいないも同然。これは瑠羽が特別冷めているわけではなく、孤児院で長く暮らした子供に多く見られる感情だった。
それが突然、幻想ではなく現実の、生身の人間として現れたのだ。驚くなという方が無理だろう。しかし探偵は、瑠羽の驚きが収まるのを待ってはいられないとばかりに説明を継いだ。
「はい。今ここで詳しくお話しする時間はありませんが、依頼主はあなたに会いたがっています。そしてもし直接会うことができたら、ご両親の写真をあなたにお譲りしたいと言っておられる」
男はちらちらと外を見ながら、早口で話す。義童が戻ってくるのを気にしているのだろう。
「いかがでしょう、一度依頼主に会ってみては」
会いたい。会って写真をもらいたい。それに何より、その依頼主は両親と知り合いの可能性が高い。父と母のことを色々と教えてもらえるかもしれない。
──お父さん、お母さん。血の繋がった……本当の家族……。
昨日までの瑠羽だったら、ここまで切実に家族を求めなかったかもしれない。しかし遼牙に婚約者がいることを知り、いずれ彼女と築く家庭において自分は紛れもない“異物”となることが分かってしまった今、自分も確かな繋がりが欲しいと思わずにはいられなくなった。
「私の名刺をお渡ししておきます。いつでも構いませんので、連絡をいただければすぐに面会をセッティングします。それでは、私はこれで」
男は声を掛けてきた時以上の素早さで立ち去った。瑠羽はもらった名刺を大事に仕舞う。本当は明日にでも連絡したかったが、まずは遼牙に話すのが筋だろうと思ったのだ。
──遼牙さまも、きっと喜んでくれるだろうな。お父さんとお母さんの写真、遼牙さまにも見てもらうんだ。
さっきまでどん底を彷徨っていた気持ちが、わずかに上昇するのを感じた。
何か変わったことはないか？ という遼牙の問いに、和泉はすらすらと答えた。瑠羽様に全く元気がありません、食事も碌に召し上がらず、真っ赤に泣き腫らした目をしております──当人は感情を挟まず事実だけを述べているつもりだろうが、そのひとつひとつが容赦なく遼牙の胸を突き刺す。
和泉も、瑠羽に元気がない原因は遼牙以外にないと分かっているだろうが、もちろん余計な口を挟むことはしない。
その声にわずかに険があるように感じられるのは、遼牙の中に疚しさがあるからに他ならない。昨夜の態度や言葉が瑠羽を傷つけ、不安にさせてしまったことは明白だった。
とはいえ、あれ以外にどんな対応が可能だったろうかとも思う。『自分の都合によって僕を子供扱いする』という非難はさすがに効いたが、それがお互いのためであり、このぬるい幸せを維持するための最も有効な手段であると遼牙は信じていた。
そう、まさにぬるい幸せ。理性のくびきを取り払って激情のまま自由に愛し合うことができれば、それに勝る幸せはない。しかしそんな奔放且つ情熱的な生き方が高嶺の花であることは、重々承知している。
このあらゆることを曖昧なままにしているぬるい現状こそが最善で、これを維持するための方便として養父と養子の関係を築いたのだ。それを壊すわけにはいかない。
しかし、瑠羽にそんな“大人の理屈”が通用しないことも分かっていた。愛していると囁き、挨拶の域を超えた口づけを交わしながら、自分はあくまで養父と主張する遼牙が理解できないのも無理はない。
どうして駄目なのだろう、どうして受け入れてもらえないのだろうと理由を探し、“自分が黒淵に汚されたから”という『答え』を半ば無理やり出した瑠羽を、誰が責められるだろう。
しかしあの時遼牙は、本気で怒りを覚えた。なぜそんな風に考える、なぜ私の苦悩が解らない、愛しているからこそ慎重に関係を築こうとしているのに──独りよがりの勝手な言い分だと今なら分かるが。
それにしても、なぜ瑠羽は急にあんなことを言い出したのか。これまでキスをねだられたことはあったが、あんなあからさまに誘ってくることはなかった。
一緒に夕食をとる約束を急用を理由に反故にされたのが、そんなに哀しかったのか。あるいは、急用の陰に女性の存在でも感じ取ったのか───
『……遼牙様。聞いてますか？』
「え？ あ、ああ。すまん。続けてくれ」
昨夜のことを考えているうちに、すっかりモノローグの世界にはまっていたらしい。電話の向こうで和泉は、やや皮肉をこめた口調で『どこから続ければよろしいですか』と言った。
「ん、その、瑠羽が泣き腫らした目をしていた、と。その続きを」
『はい。変わったことはもうひとつありました。瑠羽様のお知り合いという男性が、学校の帰りに声をかけてきました』
「知り合い？」
『はい。義童という青年です』
「義童……なるほど」
『ご存知ですか』
「ああ。で、彼は何と」
『二人で話がしたいと。許可できないと申し上げましたが、瑠羽様がどうしてもと仰るもので』
「お前も瑠羽には弱いな」
遼牙は軽口を叩きながら、何とも絶妙のタイミングだなと苦笑した。瑠羽はゆうべの出来事を彼に話しただろうか。それに対し彼は、どんなアドバイスをしただろうか。
「ご苦労だったな。和泉、明日も頼んだぞ」
『はい。それから遼牙様、差し出がましいようですが──』
「ああ、分かっている。瑠羽に電話して、ちゃんと食事をとるよう言っておこう」
『よろしくお願いいたします』
和泉の声には、どこかほっとしたような響きがあった。
こんなに、遼牙の不在がつらかったことはない。たった三日、されど三日。いや、長さなんてもはや関係ない。夜、部屋の中に遼牙の気配がないだけで不安と恋しさに潰されそうになってしまう。
出張先で婚約者と会ってるかも、などと妄想めいた思いつきに苦しめられ、自分の嫉妬深さに鼻白むこともしばしばだった。
救いは、遼牙が毎日電話をかけてくれたことだ。何か変わったことはないか、ちゃんと食事をとっているか、体調を崩していないか等々、色気のかけらもない保護者然とした口調、内容だったが、正直声を聞けるだけで嬉しかった。
一緒にいるのが当たり前になっていたせいか、こういう感覚は久しぶりだった。以前は決死の思いで電話をかけて、声が聞けただけで舞い上がっていたというのに。幸せに慣れてしまい、いつの間にか欲深くなっていた自分に気づいた瑠羽は、少なからず反省したのだった。
でも喉元過ぎればの典型例で、帰宅した遼牙の顔を見た瞬間、瑠羽の身体はかあっと火照り密な触れ合いを求めて疼き出す。声を聞けるだけで幸せだったはずなのに、抱き締めて深く口づけてほしいという欲求に身も心も翻弄されてしまうのだ。
「お帰りなさい……遼牙さま」
それは身体の火照りが伝播したような、どこか不穏な熱を孕んだ声だった。瑠羽は思わずどきりとしたが、遼牙は気づいているのかいないのか、「ただいま、瑠羽」といつもと変わらぬ優しい低音で応えてくれた。それが嬉しくもあり、哀しくもある。
「私がいない間、いい子にしてたか？」
相変わらずの子供扱いに少しムッとした瑠羽は、その感情を動力に勢いよく答えた。
「はい。ちゃんとご飯も食べましたっ。夜も早く寝ました。予習復習も真面目にやったし、和泉さんの言うことも聞いたし──」
言葉をせき止めるようにいきなり唇を吸われ、瑠羽はぱちぱちと瞬きした。軽いキスだったが、無防備な状態で受け止めたそれは思いのほか心をときめかせた。
速まる鼓動を意識しつつそおっと見上げれば、いかにもしょうのない子だと言わんばかりの甘い眼差しとぶつかった。それで瑠羽はようやく、自分がムキになっていたことに気づいたのだ。恥ずかしさから俯き、あらためて答える。
「……いい子にしてました」
頭上からくくっと押し殺した笑いが聞こえ、続けてぽんぽんと頭を撫でられた。大きな手から伝わる温もりと愛情に、瑠羽の口元はようやく綻んだ。
「遼牙さま、あの、何か召し上がりますか？」
「ああ、そうだな。今日は少し暑いから、何か冷たいものをもらおうか」
「はい！ 冷えた白ワインと冷製パスタはいかがですか」
自然と声が弾んでしまう。遼牙も気づいたようで、「頼むよ」と答える顔には微苦笑が浮かんでいる。気持ちが簡単に上下する自分てやっぱり子供だなと思いつつも、瑠羽は浮き立つ心そのまま鼻歌混じりでパスタを用意した。
すでにゆでて冷やしたあったパスタにソースをからめ、フルーツトマトやバジルを飾るだけだからあっという間に完成。ガラスの器に盛り付けて、冷えたワインとともに食卓に並べると、遼牙は「美味しそうだ」と目を細めた。
そして気が付けば、三日間の空白、その間の不安や煩悶など悪い夢であったかのような和やかで幸せな日常が戻っていた。
このまま何事もなかったかのように、何も知らないかのように振る舞えばいいのかもしれない。全てを曖昧なままにして日常を積み重ねていくことで、取り敢えずは穏当に過ごすことができる。
でもそれは、今の快適のために未来を犠牲にすることだ。瑠羽にとって遼牙とともに生きるということは、そんな刹那的なものではないのだ。
はっきりさせることで何かを失うことになるかもしれないが、それでもこのもやもやした状態のまま、自分や遼牙をごまかし続けるよりはいいだろう。
「瑠羽、どうした？ 難しい顔をして」
遼牙に眉間を指差され、そこに皺を刻んで考え込んでいたことに気づいた。瑠羽はぷるんと首を振ってから、「あの…」と口を開いた。が、何から話すべきか考えていなかったことに今さら思い当たり、「えっと」と口ごもってしまう。
伝えるべきことは三つ。出張前の暴言に対する謝罪、婚約者について、そして両親の写真が手に入るかもしれないということ。
どれも等しく重要だったが、まずは一番話しやすいものを会話の糸口にしようと思った。両親の写真がもらえるかもしれないと言えば、遼牙もきっと喜んでくれるに違いない。
「あの、実は遼牙さまが出張の間に、びっくりするようなことが起きたんです」
ワイングラスを掴もうとしていた遼牙はぴたりと手を止め、瑠羽の方に身を乗り出してきた。
「ほう。びっくりするようなこと、か」
そう言う遼牙の顔には、面白がるようないたずらっぽい笑みが広がっている。確かに、経験豊富な大人はちょっとやそっとのことでは驚かないだろう。
瑠羽としても遼牙を驚かせたいわけではなく、一緒に喜んでもらいたいだけだったから、大人の余裕を見せられてもむくれることなく笑顔で頷いた。
「はい。学校帰り、僕を捜していたという探偵さんに声を掛けられたんです」
「探偵、だと？」
さっと刷毛を走らせたかのように、遼牙の顔から笑みが消えた。確かに、探偵という響きにはいささか胡散臭さもある。瑠羽は慌てて言葉を継いだ。
「は、はい。でも怪しい人ではなかったです。名刺ももらいましたし……」
遼牙はとても納得したとは思えぬ渋面を浮かべてはいたが、ともかく瑠羽の話に耳を傾けることにしたようだ。
瑠羽は続けて、依頼主が自分に会いたがっていること、両親の写真を持っていて譲ってもいいと言ってくれていること、すぐにでも面会をセッティングするから連絡してほしいと言われたことを説明した。
「両親の写真があるなんてほんとにびっくりして……」
知らず知らず、声が小さくなってゆく。それも仕方なかった。瑠羽が言葉を継ぐごとに、遼牙の顔は険しく尖り、あからさまな攻撃性すら帯びてきた。まるで、この場のどこかに見えない敵が潜んでいるかのように。
「なので、この探偵さんに連絡して、依頼主という人に一度会ってみようと思うのですが──」
「駄目だ」
一刀両断とはまさにこのことだろう。有無を言わせぬ禁止の言葉を、瑠羽はすぐには信じられなかった。
「え？ 駄目って……会ってはいけないってことですか？」
分かりきったことを訊く瑠羽に、遼牙は律儀に「そういうことだ」と返した。
「で、でも……写真を……」
探偵なんて信用できるのかと、心配することは予想していた。でもまさか、こんな頭ごなしに、押さえつけるように禁じられるとは思ってもいなかった。
「両親の写真が……手に入るかもしれないんですよ」
心配しつつも、瑠羽よかったな、そう祝福してくれるに違いないと思っていた。なのに、
「その写真とやらに写っている男女が、お前の両親だという証拠がどこにある」
「そ、それは……」
「そもそもお前は、両親の顔を知らないのだろう？」
遼牙はただ事実確認をしただけだ。それは分かっている。けれどその言葉は、瑠羽の胸に錐で刺したような痛みをもたらしたのだった。
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