Liberation from Chains
5話
「許さない……許さない……」
遼牙のマンションから出て車に乗り込んだ美奈子は、気がつけば爪を噛みながら呟いていた。爪を噛む癖はとうに克服したはずだったが、ガチっと嫌な音がして指先を見れば、サロンで手入れしたばかりの爪がギザギザに折れていた。
それでも美奈子はやめることができず、今度は人差し指の爪をガリガリとかじりながら再び呟く。絶対に許さない、と。
結婚なんてどうでもいいと思っていた。自分に、普通の女性が夢見るような幸せな結婚生活が営めるなんて思っていない。いやそもそも、自分は幸せなんてものを求めてはいけない人間なのだ。
残酷で弱者に容赦ない、悪意に満ちたこの世界では、一度罪を犯し傷ついた人間は、その傷を重い十字架として一生背負い続けていかねばならない。愛や喜び、自由などあらゆる善きもの、美しいものとは無縁の世界で、息を潜めて生きてゆくしかない。
それを幼いころすでに悟ってしまった美奈子は、自分の心が徐々に壊死してゆくさまを傍観しながら成長してきた。そして気がつけば、諏訪内美奈子という虚ろな容れ物が完成していたのだ。
そんな美奈子に、結婚相手として紹介されたのが彼、有働遼牙だった。肩書きや収入は申し分ない。しかし、自分のような女を宛がわれるということは、おそらく何かあるに違いない。輝かしい肩書きでは覆い尽くせぬほどの暗い影が。
美奈子は彼について調べ、その“罪”を知った。そして実際に彼と対面して確信したのだ。私と彼は同じ虚無を共有している、と。何も信じず何も愛さず、己を憎み己の罪を忌み、冷たい沼にぽかりと浮かんで漂う根無し草。
美奈子は静かに歓喜した。自分たちは、普通の恋人、夫婦のように愛し合うことはないだろう。けれど、虚ろを抱えたままこの残酷な世界を共に生きる戦友にはなれる。美奈子は初めて、未来というものにかすかな光を感じることができた。
なのに。
「許さない。自分だけっ……」
すぐに分かった。彼は見つけてしまったのだ。あの瑠羽という少年。あれは、自分や遼牙のような人間がとうに諦めたはずの、あらゆる善きものの結晶だ。遼牙と同じ闇を飼っている自分だからこそ、彼があの少年にどれほど惹かれたか分かる。
そしてあの部屋。季節の花やみずみずしい緑、思い出の写真に囲まれた寛ぎの空間で、遼牙は毎日幸せを噛み締めていることだろう。さっきは瑠羽を異物扱いしたが、あの部屋で“異物”は間違いなく自分の方だ。
自分たちは繋がっていると、漠然とだが信じていた。他人には理解不能な紐帯だろうが、だからこそ簡単に切れることはないと思っていた。
なのに手繰り寄せてみれば、それは途中で切れていて、繋がっているという思い込みから片端を握っているだけだったのだ。
美奈子は爪を噛むのをやめ、自分の手を呆然と見つめた。が、やがておもむろに携帯電話を取り出し、彼の番号を呼び出した。
『はい』
「美奈子です。お仕事中？」
『ああ、いや。構わない。珍しいな。君がこんな時間に電話をかけてくるなんて』
美奈子はギザギザになった爪を眺めながら、「今夜会えないかしら」とさりげなく切り出す。案の定、電話の向こうから困惑が伝わってきた。
『いや、今夜は……』
「お仕事？ 遅くても構わないわ。明日から出張でしょう？ その前に顔を見ておきたいの」
『驚いたな。君がそんな──』
「普通の女みたいなこと言うなんて、って？ でもあいにく、私は普通の女よ。ただ──」
──人を殺した過去を持ってるだけ。
『どうした？』
「いいえ、何でも。出張前にちょっと顔が見たいって思うのは、そんなにおかしなことかしら」
『たった三日間だぞ。四日後には戻っている』
「長さじゃないのよ、分かってないわね。ま、あなたに女心の機微を理解しろっていう方が無理だろうけど」
『……確かに、私には無理だな』
鹿爪らしい返答が可笑しかった。きっと彼は今、苦り切った顔つきをしているに違いない。美奈子はごめんなさい、と声に出さずに詫びた。
あなたが一刻も早くあの温かな家に帰りたいのは分かっている、でも私は許すわけにはいかない。引き下がるわけにはいかない。
「この前のホテルで待ってます。時間は決めなくていいわ。私の急なお願いだし。遅くなっても構わないわ」
『……分かった』
承諾するまでの沈黙の長さが、情愛の深さに比例しているように思えて、美奈子は再び爪を噛んだ。その情愛が自分以外の者に向けられたものであることは、言うまでもない。
『早く帰れるってことは、婚約者と会って愛を交わす時間もあるってことよ』──彼女が残していった言葉が、まだ室内に滞留している。瑠羽はそれを肌で感じながら、一人ぽつんと食卓に座っていた。
目の前にあるのは、食べかけの菓子パン。学校で食べたお昼の残りだ。
美奈子が帰って十五分ほど経ったころ、遼牙から電話があった。嫌な予感を努めて押し殺し、自分でもわざとらしいと思うほどの明るい声で応じたが、それで予感が覆るはずもなかった。
済まないが急用が入ってしまった、だから夕食は一人でとってくれ。そう言う遼牙の声にはいつもの艶も張りもなく、心から申し訳ないと思っていることが分かる上、どこか怯えすら感じられた。
そんな遼牙に、約束したのにどうして、本当は婚約者と会うんでしょう、と詰め寄ることなどできるはずもなく、瑠羽は「分かりました…」と力なく受け入れるしかなかった。
「もう、こんな時間……」
気がつけば、そろそろ就寝の仕度をせねばならない時間だった。瑠羽は残ったパンを無理やり口の中に押し込み、侘しい食事を終えた。それから風呂に浸かったが、気を抜くと“今ごろ遼牙さまは……”と意識がそちらへ流れてしまう。
そのたびに、美奈子が残していったあの言葉が耳の奥に蘇って、わけも分からず叫び出したくなるのだ。身体はどこも悪くないのに、苦しくて身の置き場がないなんて初めての経験で、瑠羽はどうしてよいか分からない。
いや、遼牙のことを、あの二人のことを考えなければいいと分かってはいるが、頭から追い出そうとすればするほど、聞こえるはずのない二人の笑い声や睦言が鮮明に響き渡るのだ。
「苦しい……よ……」
白濁した湯に、ぽつぽつと透明な雫が落ちる。
「助け、て……」
愛してるという囁きも、頬を撫でる優しい指先も、吐息を混ぜ合わせるような甘い口づけも、自分だけに与えられた特別な贈り物ではなかった。
それらはちょっとした戯れの延長に過ぎず、“本物”は全て婚約者のもの。当たり前だ。彼女はいずれ、“本物”の家族になる女性なのだから。
「じゃあどうして……どうして僕なんかをっ……」
親の顔も知らない可哀想な孤児。引き取られた先では性的な暴力を受け、それがトラウマとなり大人の男性とまともな会話もできない。孤児院に戻っても心の安寧は訪れず、常に何かに怯えびくびくしながら生きている。
そんな子供に対する哀れみが、遼牙を慈善行為に向かわせたのか。つまり『愛している』という言葉は、可哀想な孤児に対する哀れみ、慈しみの表現でしかなかった。
だとしたら、その言葉を額面通りに受け取って舞い上がっていた自分が愚かだったということだ。
瑠羽はようやく、“現実”を見たような気がした。運命的な出会いとか、夢での逢瀬とか、そんな浮世離れした煌く言葉に目が眩み、本質的なことが見えていなかった。
本質とはすなわち、自分はまだ子供で出自も分からぬ孤児で、しかも男であるということだ。遼牙の相手に相応しいとか相応しくないとか、考える以前の問題だ。
そんな苦い結論を抱えたまま瑠羽は風呂を出て、のろのろと着替えた。時計を見て、すでに日付けが変わっていることに気づく。これまでも帰宅が遅いことは多かったが、その全てが仕事のせいではなかったのだ。
遼牙が遅く帰ってきた時のことを思い出し、あの時はどうだったろう、あの時は本当に仕事だったのかなとつい考えてしまう。そんな自分の嫌らしさに、瑠羽は思わず顔をしかめた。
「もう、寝よう……」
頭を使えば使うほど、気持ちの淀みが濃くなってゆく。こういう時はともかく眠って、思考をリセットするのが一番だと瑠羽は経験的に知っていた。
以前もらった睡眠導入剤を呑んで眠ってしまおうと、瑠羽は寝室に足を向けた。その時、玄関から物音が聞こえた。瑠羽はほとんど反射的に身体を反転させ、走って迎えにいく。
もう寝ていると思ったのだろう、遼牙は軽い驚きに目を見開き、「まだ起きていたのか。私が遅い時は先に寝ていなさいと言ったはずだぞ」とやんわり咎めた。瑠羽はふいと横を向き、
「約束を破ったのは、遼牙さまの方です」
「あ、ああ。そうだったな。済まなかった」
違う、こんな言い方するつもりではなかった。これじゃまるでふてくされた子供だ。そうではなくて、一人で待っていてどれほど淋しかったかを訴えて、その上で婚約者のことやこれからの生活についてきちんと質すつもりだった。なのに、
「瑠羽、どうした？ 顔色が悪いぞ」
心配そうに声をたわめて近づいてきた遼牙の身体から、甘い香りが漂った。それは微かなものだったが、一緒に夜を過ごした女性の存在証明としては十分だった。
『婚約者と会って愛を交わす時間もあるってことよ』──再び彼女の言葉が蘇り、と同時に、遼牙がこの香りをまとって帰ってきたのは今回だけではないことを思い出した。
つい数日前も、遼牙の身体から同じ香りがした。夕食会で隣に座った女性の移り香だろう、などと遼牙は説明したが、あの日も婚約者と、諏訪内美奈子と会っていたのだ。いや、会っただけではなく──
「瑠羽？ どうした、やはり具合が──」
いきなり抱き着いてきた瑠羽を、遼牙は驚きつつも抱き返すと、その背中をあやすようにぽんぽんと撫でた。
そういった対応や、体調を気遣う言葉から、やはり自分は恋人ではなく保護対象の子供なのだと思い知る。でも、いやだからこそ。
「遼牙さま……今夜、一緒に寝てくれませんか」
「……どうした、いきなり。怖い夢を見そうな予感がするのか？」
瑠羽は直感的に察した。遼牙は本気でそう思っているのではないと。瑠羽の真の欲求にうすうす気づきながらも、話をはぐらかしているのだ。
「いいえ。夢なんてどうでもいい。怖い夢も幸せな夢も、所詮夢は夢です」
瑠羽はきっぱりそう言って、抱き着いたまま遼牙の顔を見上げた。目を合わせるのは怖かった。もし迷惑そうな目付きで見下ろされたりしたら、いやそれ以上に冷ややかな軽蔑を向けられたりしたら、身体も舌も凍りついてしまう。
しかし下から覗き込むように見上げた遼牙の顔には、ただ困惑が広がるばかりだった。いきなり何を言い出すんだ、ということだろう。軽蔑されずに済んだのはよかったが、切実さがまるで伝わっていないようで、これはこれで悔しかった。
瑠羽はスーツの襟をぎゅっと掴んで、言葉にこもった思いが余す所なく伝わるよう、ひとつひとつの単語を丁寧に繋いで訴えた。
「いくら夢の中で甘く睦み合っていても、現実では子供扱いなら意味はありません」
「瑠羽……！」
やっと、ようやく遼牙は瑠羽の本気を悟ったようだ。瞳孔を収縮させ、彼にしては珍しい無防備な驚きをさらす。が、驚きを消化した後に現れたのは、瑠羽がひそかに期待していたような甘やかな展開ではなく、冷たく頑なな拒絶だった。
「バカなこと言うんじゃない。だいいち瑠羽はまだ子供ではないか。子供扱いして当然だ」
「じゃああのキスは？ 瑠羽愛してるよって言葉は？ あれも子供扱いのうちに入るんですか？！」
あからさまに眉根を寄せた表情で沈黙を返す遼牙は、まさに痛いところを衝かれたと言わんばかりだった。すいと目線を外し、
「私は瑠羽の養父だ。血は繋がっていないとはいえ、父親が子供にそんなことできるはずないだろう」
「僕は、遼牙さまのことを父親だと思ったことは一度もありません」
「はは、そうか。養父失格だな」
目を逸らしたまま乾いた笑いを漏らし、背中を向けてこの場を去ろうとする遼牙に、瑠羽は思わずカッとなって叫んだ。
「はぐらかさないでくださいッ。遼牙さまはそうやって、自分の都合によって僕を子供扱いする。でも、僕はもう子供ではありません。恋人同士が、愛を確かめるためにどんなことをするか知っています」
「知識があるというだけで、知っているつもりになっている。その発想自体が子供だというんだ」
話にならないとばかりに首を振られ、胸の中に苦いものが広がってゆく。瑠羽はそれを吐き出す意図も込めて、さらに声を張り上げた。
「だったら教えてください！ ちゃんとできるように頑張ります。だから──」
必死の訴えも、遼牙の全身を覆いつつある拒絶の壁を厚くするだけだった。やはり自分は、美奈子のように愛してはもらえないのだ。その現実が、ゆっくりと瑠羽の心を蝕んでゆく。
爛れた心は自制や慎みという美徳を失い、普段なら絶対に口にしないような言葉が舌に乗るのを許してしまった。
「どう…して？ 僕が男だから？ 年が離れているから？ それとも僕が……汚れているから？」
最後の言葉の意味が分からなかったのだろう、遼牙は眉をひそめて「汚れているだと？」と険しく問う。瑠羽はふわふわと頷き、
「はい。だって僕は黒淵に──」
「瑠羽！ やめなさい」
瑠羽の言わんとすることを察した遼牙は、鋭い口調で制止した。しかし止まらない。
「黒淵に犯されて……何度も何度も……」
「やめろ！ 私の言うことが聞けないのか！」
遼牙の厳しい叱責も、瑠羽の耳には届かなかった。いつの間にか瞳を覆っていた涙の紗を透かしてすがるように見つめ、
「だから遼牙さまは僕を愛してくれないんだ。僕が穢れた子だから」
その瞬間、遼牙は片手を振り上げた。瑠羽は反射的に目をつむり、与えられるであろう殴打の痛みを覚悟した。しかしそれは訪れず、そろそろ目を開けると、振り上げた手をだらりと下げた遼牙が、消耗をさらけ出して立ち尽くしていた。
その表情には、怒りというよりむしろ傷ついた色があった。瑠羽は自分の浅慮を思い知った。境遇を知りながらも引き取って温かく迎えてくれた遼牙に向かって、言っていい言葉ではなかった。
「遼牙さま、ごめんなさい。僕っ……」
何とか絞り出した謝罪の言葉に対し、返ってきたのはこれ以上ないほど冷たい拒絶だった。
「少し頭を冷やしなさい。今夜お前が言ったことは、聞かなかったことにする」
遼牙はそう言って、さっさと自室に入ってしまった。扉の閉まるかすかな音が、瑠羽に対して心を閉ざした音のようにも聞こえて、喪失感に小さく震えたのだった。
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