Liberation from Chains
3話
ついさっきまで腕の中で熱く爆ぜていた女の肉体は、今は生気を失って人形のごとく横たわっている。こちらに向けられた背中は滑らかで美しいが、ほの蒼い陰翳には拭い去れない孤独が感じられた。
遼牙は天井に視線を移し、気取られないよう小さく溜め息をつく。食事中も会話らしい会話はなく、部屋へ移動してからもほとんど無言で行為を終えた。どうやら、まだ怒りは消化されていないようだ。だからといって自分にはどうすることもできないが。
射精を終えた直後の男は性欲から解放され、冷静沈着になるという。それを賢者の時間などと呼ぶらしいが、さしずめ今の遼牙は賢者というより自身の傍観者といったところだろう。自分はいつまでこんな“婚約者ごっこ”を続けるのだろうか、と。
「……何を考えているの？」
まるで心中を見透かすかのような問いに、遼牙は内心ひやりとした。モノローグに耽っているうちに、美奈子はこちらを向いて、遼牙をじっと見つめていたようだ。
しかし遼牙の練磨された仮面は崩れず、「いや、何も」と答えてベッドサイドの時計を見た。そして、いかにも“もうこんな時間か”と言わんばかりに肩をすくめてみせた。
明日の予定はそれほど過密ではなかったし、瑠羽には今夜は遅くなるとあらかじめ伝えていたから、急いで帰る必要はなかったのだが、そういった現実的な理由とは関係ない純粋な帰巣の欲求が、遼牙の心身を支配していた。
早く家に帰りたい。転居してまだ間もないのに、あの部屋は遼牙が最も寛げる家、ホームだった。
自分の居場所、スイートホーム。一生縁のないものだと思っていたものを、手に入れることができた喜び。もちろん最も重要なのは、そこに瑠羽がいる、ということなのだが。
遼牙は早く帰りたいという心境を覚られぬよう、ゆっくりと身体を起こした。しかし、
「ねえ、そろそろ具体的な日程を決めない？」
起き上がる遼牙を押さえ込むかのように、美奈子が口を開いた。確かにその言葉には、遼牙が身動きできなくなるほどずしりとくる重さがあった。
「……何の日程だ？」
分かっていたが、とぼけずにはいられなかった。しかし美奈子は機嫌を損ねた様子もなく、淡々と「結婚に向けた日程よ」と答える。
「どうしたんだ、急に」
「何が？」
「これまで一度も、そんな急かすようなことは言わなかった」
非難めいた口調にならないよう、遼牙は注意深く声色を調整した。美奈子は身体を起こして毛布を胸元まで引っ張り上げ、遼牙にそっと身体を寄り添わせた。
「急かしてるつもりはないわ。でももうすぐ婚約して一年よ。準備を進めておくのは悪いことじゃないでしょ？ それに、色々考えなくてはならないことも出てきたし」
「考えなくてはならないこと、とは」
「例えば、あなたが引き取った子をどうするか。確か、来年高校生になるのよね。全寮制の高校に入れるの？ それともどこかに下宿させる？」
同居するという選択肢ははなから除外しているようだ。しかしそれも仕方あるまい。いかにも邪魔者の扱いをどうするかと言わんばかりの口調が腹立たしいが、それも仕方あるまい。
相談もなく養子縁組をされて、普通の女性ならこの程度では済まないだろう。そう分かってはいるのだが、遼牙は眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。
「まだ何も決めていない。もう少し待ってくれ。私も色々忙しくてな。それに──」
「だったら、あなたに代わって私がよさそうな全寮制の学校を探しましょうか」
遼牙ははっきり首を振った。
「待ってくれと言ったのは、私の都合だけではない。あの子は、長年暮らしたホームを出たばかりなんだ。新しい環境に馴染むまで、しばらくは傍で見守ってやりたい」
「……分かったわ。ではその話は保留にして、私たち二人のことを考えましょう」
「いや、それも待ってくれ。正直今は、そういったことに頭を割く余裕がない」
「構わないわ。細かいことは私の方で決めるから。あなたを煩わせるつもりはありません」
まるで、遼牙がどんな言葉を返すかあらかじめ知っているかのように、美奈子は淀みなくすらすらと応える。
「いや、しかし──」
「以前は、私の方で適当に進めてくれて構わないって言ってたじゃない。それとも何か、進めたくない理由があるのかしら」
その通りなのだが、もちろん認めるわけにはいかない。かといって否定もせず、遼牙はただ作為的な溜め息をつき、
「どうしたんだ、君らしくもない」
あらそうかしら、と薄く笑って流すと思ったが、予想に反して美奈子は厳しい反応を返した。
「君らしくない？ あなた、私の何を知っているの？」
遼牙は冷ややかに笑ってかわした。
「さあな、何も知らないのかもしれん。しかしそれはお互いさまだろう。私も君も、そういう付き合いを望んだ」
「ええ、そうよ。その通りだわ」
美奈子は苛立たしげに肯定する。まるで、肯定の先にあるものこそが真実で、早くそれに気づいてほしいと言わんばかりに。
やはり、いつもの彼女とは違う。こんな風に感情を露わにすることはなかった。そもそも、感情そのものが欠落していることが、彼女の唯一の個性だったのだ。
「……でも、あなたは変わった」
「確かに、自分が慈善事業に目覚めるとは思っていなかった」
軽い口調で認める遼牙を、美奈子は恨めしげに見上げる。その雄弁な眼差しは訴えていた。そうじゃない、私が言いたいのは───
「そろそろ帰らなくては。明日も早いんでな」
遼牙は自然な口調を装ってそう言うと、ベッドから下りた。美奈子の視線が背中に絡みつくのを感じたが努めて無視して、淡々と着替えを済ませる。
しかし彼女は毛布にくるまったまま、動こうとしない。君はこのまま泊まっていくか、と訊こうとした時、いきなり美奈子が口を開いた。
「瑠羽、っていうのね」
「な…んだ？」
「引き取った孤児の名前。瑠羽くん？ 瑠羽ちゃん？ 男なのか女なのかも知らないわ」
「あ、ああ。男の子だ」
「そう。どうしたの？ ずいぶんと驚いてらっしゃるようだけど」
驚いているというより、動揺していると言った方がいいだろう。彼女の口から唐突に出てきた瑠羽の名は、滅多に騒がない遼牙の神経に不協和音をもたらした。
それと同時に、もやもやした不快感も湧き上がる。普段自分が愛情こめて呼んでいる大事な名を、ぞんざいに呼び捨てにされたことに対する感情だろう。自分がこんなに繊細な神経の持ち主だったとは驚きだ。
「いや、君に名前を教えた記憶がないから、なぜ知っているのかと」
「教えてくれたわけではないわ。先週、夜になっても家に帰ってないって大騒ぎした時、あなたが口走ったのよ。瑠羽に何かあったようだ、って。まあ、覚えてなくても仕方ないわね。あの時のあなた、恐慌状態だったし」
「恐慌状態は言いすぎだろう」
「いいえ、それ以外の言葉が見つからないわ。あんなあなた……初めて見た」
つまりそれが、『あなたは変わった』という根拠ということか。確かにあの時は、瑠羽が連れ去られたかもしれないという可能性に生々しい恐怖を覚え、体裁を取り繕う余裕などなかった。彼女が不審を抱くには十分すぎる取り乱しようだったに違いない。
あのあと、何のフォローもしなかったことが悔やまれるが、と同時に何を言ってもごまかしきれなかっただろうとも思う。
これまで二人が唯一共有してきた無機質で平坦な世界に、“本物の感情”が突如現れたのだ。その感情の源泉が何であるのか、彼女に気づかれないことを願うより他ない。
「見苦しいところを見せたな。引き取ってすぐ事故にでも遭われたら、何かと外聞が悪いだろう。だからつい過剰に反応してしまった」
我ながらそらぞらしい言い訳だが、黙っていれば彼女の指摘を認めてしまったことになる。嘘や欺瞞も押し通せば真実になると自分に言い聞かせ、遼牙は堂々と釈明した。
遼牙の“言い訳”に、美奈子は揶揄も反論も返さない。このこと自体に関心を失ってしまったかのように、無反応だった。身支度を整えた遼牙はベッドに近づき、
「君はこのまま泊まっていくか？」
「……ええ、そうね。そうしようかしら」
「分かった。ではまた。おやすみ」
数秒おいて「おやすみなさい」を聞き届け、遼牙は部屋を出た。
「結婚、か……」
覚悟の時が近づいていることを、遼牙は痛切に感じた。
自宅マンションに着いて玄関の鍵を開けると同時に、粘ついた疲労感にどっと襲われた。以前は、美奈子と会ったことでこんなに疲れることはなかった。お互いの上澄みを軽く混ぜ合わせるような付き合いは楽で、心地よささえあったのだ。
それがこんなに疲れるということは、やはり自分が変わったのだろう。いや、変わったのは遼牙だけではない、美奈子も変わった。
今夜の彼女は、これまでの早々に人生を見限ったかのような無気力で虚ろな人形ではなく、人並みの感情を持つ生身の女性だった。
「疲れたな……」
考えねばならないことは山積みだったが、今はただ心と身体を休めたい。しかし遼牙は真っ直ぐ自室へ向かわず、瑠羽の部屋へ足を向けた。
この時間だからさすがに眠っているだろうが、その無邪気な寝顔と安らかな寝息で心身に染み付いた疲れを癒してほしい。我ながら情けないとは思うが、そんな情けない欲求を抑えられない自分がなぜか嫌ではなかった。
音をたてぬよう注意しながら扉を開け、室内に足を踏み入れる。しかし遼牙を迎えたのは瑠羽の寝顔ではなく、無人の空間だった。ベッドは寝乱れた様子もなく、ベッドメイキングしたままの状態だった。
「瑠羽……まさかっ」
遼牙の背中をひやりとしたものが駆け抜け、鼓動が激しくなる。遼牙は素早く身を翻して部屋を出ると、トイレと浴室を確かめた。そのどちらにも瑠羽の姿はなく、最悪の事態、悪夢の現実化という言葉を必死に呑み込みつつリビングに駆け込んだ。そして広い室内をぐるりと見回すと、ソファの上で身体を丸めて眠っている瑠羽を見つけた。
「ああ……」
脱力のあまりその場に座り込みそうになったが、何とか力を入れてこらえた。乱れた鼓動はすぐには収まらず、遼牙は意識的に呼吸を深くして落ち着くのを待った。
──ちょっと姿が見えないくらいでこんなに取り乱すとは……。
冷静さを取り戻すと、最前の自分の行動が滑稽に思えてきた。自嘲めいた苦い笑いが込み上げてくるが、それだけ瑠羽の存在が自分の中で大きくなっている証拠だと思えば、間抜けな自分も悪くない。
我を失うほど大事なものがある。それは、常に冷静に計算高く生きてきた過去の自分に対し誇れることだと思う。
「瑠羽……瑠羽。ほら、起きなさい」
ソファの傍らには読みかけの本。テーブルには冷めたコーヒーが半分ほど入ったカップが置いてある。遼牙はカップを手に取ってひと口飲み、思わず呟いた。
「こんなに苦くして」
いつも砂糖とミルクをたっぷり入れる瑠羽が、こんな苦いコーヒーを好んで飲むはずがない。眠気を払うためカフェインの力を借りようという発想は子供っぽいが、どこか切実さも感じられて、遼牙は胸の奥が甘くすくむ思いがした。そんな感情を反映してか、叱る声も自然と甘くなる。
「瑠羽、こんなところで寝ては駄目だぞ」
そして肩を軽く揺さぶると、「ふぅん…」とぐずりながら目をこすり瑠羽はゆるゆると覚醒した。しかしまだ意識は夢の中なのか、目の焦点はふわふわして覚束ない。
あどけなさと同時にどこか危うさも孕んだ表情はひどく蠱惑的で、遼牙は正常に戻ったはずの心拍数が再び上昇するのを感じた。
しかしそんな高揚は面に出さず、あくまで穏やかに「瑠羽、ただいま」と告げた。すると瑠羽は眠気を払うようにぱたぱたと瞬きを繰り返してから、寝起きの甘さが漂う声で応えた。
「おかえりなさい、遼牙さま」
そしてもそもそと起き上がり、もう一度目をこする。遼牙はその隣に腰を下ろし、
「ちゃんとベッドで寝なくては駄目だぞ」
「は、はい。ごめんなさい、本が面白くてつい……」
瑠羽は遼牙から目を逸らして答えた。遼牙はその顎をつまんで自分の方に向かせて、
「こんな苦いコーヒーを飲んで眠気をさましてまで、読みたい本だったのか？」
「え？ あ、あの……はい」
なおも視線を外そうとする瑠羽に、遼牙は口調を少し強めた。
「瑠羽、こちらを見て答えなさい」
瑠羽はぴくんと身じろいでから、そろそろと視線を戻して遼牙を見上げた。やがて小さく肩を落とし、
「……ごめんなさい。遼牙さまが帰ってくるのを待ってました」
嘘をつき通せない瑠羽に愛しさが湧き上がるが、遼牙は鹿爪らしい顔を維持したまま頷いた。
「そうか。しかし今夜は遅くなるから先に寝ていなさいと言ったはずだぞ。それに、嘘をつくのは感心せんな」
「ごめんなさい……」
肩をすぼめてちぢこまる瑠羽のいじらしさに、遼牙の“教育的指導”は長続きしなかった。自分でも恥ずかしくなるほどの甘やかし声で「しょうのない子だ」と囁くと、身体をすっぽりと包み込むようにして抱き締めた。
「苦いコーヒーが嫌いなくせに、無理をして」
瑠羽はおずおずと抱き返し、遼牙の胸に顔を押し付けてこくんと頷いた。
「結局少ししか飲めませんでした」
二度目の「しょうのない子だ」はさらに糖度が増していた。しかし瑠羽は、甘さ以外のものも感じ取ったようだ。眉間に浅い皺を寄せ、
「遼牙さま、何かあったのですか？」
「え？」
「あ、いえ。ただその……何かいやなことがあったのかなあって。声が……苦しそうというか……」
「ああ。ちょっと疲れただけだ。心配はいらん」
答えながら遼牙は、驚きを反芻していた。心労に対する瑠羽の共感力には、目を瞠るものがある。曇りのない感受性が、相手の心の揺らぎや鬱屈を見抜いてしまうのだろう。“恐るべき子供”という言葉が浮かび、遼牙はひそかに苦笑した。
しかし、次に瑠羽の口から出てきた言葉には、苦笑も凍りついた。
「……女のひとの匂いがします」
「あ、ああ。おそらく、夕食会で隣に座った女性の移り香だろう。きつい香水をつけていたからな」
瑠羽は同情するように淡く笑った。
「それでは、せっかくの美味しいお料理も台無しですね」
「まったくだ。ここで瑠羽の作ってくれたものを一緒に食べる方がずっといい」
遼牙の率直な言葉に、瑠羽は瞳を輝かせ衒いない喜びを露わにした。そして甘えた仕草で顔をすりつけ、
「遼牙さま、明日の夜は……？」
「ああ、そうだな。明日の夜はなるべく早く帰るようにしよう。明後日から出張で三日ほど家を空けることになるからな」
「じゃあ、明日の夜は栄養になるものたくさん作ります！」
張り切る瑠羽に「それは楽しみだ」と答え、その身体を抱き上げた。予想外だったのか、瑠羽は「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げて遼牙の胸にしがみつく。
「ご馳走を作ってくれるのは嬉しいが、私にとって一番の栄養は瑠羽の可愛い笑顔だ」
よもや、自分の口からこんな甘い台詞が出てこようとは。遼牙は面映さを覚えつつ、赤くなった瑠羽の額にちゅっとキスを落とした。
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