Childhood's End
8話
藤沢登美子は何も言わず、ティーカップを口に運ぶ。早く先を読むよう急かすこともしない。
「……失礼致しました」
遼牙の謝罪に、登美子は「謝る必要はありません」とさらりと返して、目を細めた。遼牙は乱れていた感情を整え、いつものように理性の統率下においた。そして手紙の続きに視線を落とした。
『母性というのは不思議なもので、人類の未来を左右する偉大な実験に参画しているという使命感は、生まれた子に対する愛情であっという間に上書きされてしまいました。私は、あなたが可愛くて可愛くてたまらなかった。遺伝子上の繋がりは皆無なのに、あなたは私の子供以外の何ものでもなかった。
私はそんな自分の変化に戸惑いつつも、表向きは会社に従順な研究者として振る舞っていました。そして、あなたを連れ出す機会を窺っていたのです。
なぜなら、私は研究者であるがゆえに、今後あなたを待ち受ける数々の苦難について知っていた。成長の過程で何か問題が発生すればあっさり廃棄され、健やかに育てば“実験動物”として非人道的な扱いを受ける。そしてゆくゆくは自我の剥奪、武器化の道を辿ることになる。愚かなことに、私はこの期に及んでようやく、自分が犯した罪の大きさに気づいたのです。
できることなら、研究所で生まれた全ての子供たちを連れて逃げたかった。けれどそれは無理だと分かっていた。だから私は、私に可能なことをすべきだと敢えてエゴイスティックに考え、あなただけを連れ出したのです。そして真っ直ぐ藤沢博士の元に向かいました。彼女が運営しているという孤児院で引き取ってもらうのが最善だと考えたのです。
これで、私の告白は終わりです。おそらく、今生であなたに会うことはないでしょう。今思えば、あなたが私のお腹の中にいた十カ月は、私の人生で最も充実した幸せな期間でした。
生まれてきてくれてありがとう。どうか、どうか、幸せになってください。それが私の、短い期間ですがあなたの母親であった私の心からの願いです。 S.K』
イニシャルしか残さなかったのは、成長した瑠羽が自分の名前を辿って探し出そうとするのを防ぐためだろうなと、瑣末なことに意識が向いてしまうのは、核心部分に向き合うのを本能が怖れているからに違いない。
よくできたフィクションだと笑い飛ばすこともできず、想像すらしていなかった展開に遼牙はただ圧倒されるばかりだったのだ。
「……いくつか、お聞きしたいことがあります」
ようやく言葉を発した遼牙に、登美子は穏やかに応じた。
「ええ、何なりと」
「遺伝子操作により、特殊な能力を持つ“人間兵器”を作り出すことはそもそも可能なのですか？」
答えは分かっていたが、確認せずにはいられなかった。予想通り、登美子はあっさり頷いた。
「可能です。受精卵に特殊成長因子を導入することで、高い知能や運動能力、その他の特殊能力を持つ人間を作ることは、理論的には可能です」
「理論的には、ということは……」
「ええ。実際、理論通りにはうまくいきません。胎児の段階で死んでしまったり、生まれても重い障害を持っていたり」
「つまり瑠羽は、奇跡的な成功例だと」
登美子が頷くのを見て、遼牙は心が複雑にねじれるのを感じた。その“奇跡”を喜ぶべきなのか否か……。
「瑠羽の『歌』ですが、あれもその特殊成長因子による能力なのですか？」
遼牙の新たな質問に、登美子は額を曇らせた。
「私はそもそも研究に携わっていませんから断言はできないのですが、おそらく瑠羽はレアケース、突然変異だと思われます」
「突然変異……」
「これは私の想像ですが、例の黒淵事件がきっかけで、瑠羽の秘められた能力が開花してしまったのではないでしょうか。多大なストレスに対する防衛本能が、あのような能力として発現したということは十分に考えられます」
登美子は考えを整理するためか、いったん口を閉ざした。しかしすぐに言葉を続ける。
「私は実際に聴いたことはありませんが、あなたのお話から推察するに、瑠羽の『歌』はさまざまな脳内物質の分泌を促進させることで、聴く者をある種の変性意識状態に陥らせるのではないかと思うのです」
「なるほど。いわゆるトランス状態ですね。確かに瑠羽の歌を聴いた時、私は多幸感や酩酊と同時に幻覚めいたものを見ました。そう、まるで歌が金色に輝くような」
「それは共感覚（シナスタジア）と呼ばれる現象ですね。幻覚剤を使用すると、音に色を感じたり、音が“見える”ことがある」
「ドクターは、黒淵事件に関しても同様の説明ができると？」
登美子は「もうドクターではありません」と返してから頷き、
「脳内物質、すなわち神経伝達物質は感情の源でもあります。その急激な増減により、突発的な攻撃性や自殺願望が生じたり、あるいは不安や恐怖に苛まれる可能性もある。いえ、もっと単純に考えれば、瑠羽の能力は歌による感情の伝播なのかもしれません」
「歌による感情の伝播……」
ますますフィクションめいてきたが、言わんとすることは遼牙にも分かった。
「ええ、そうです。黒淵家の地下室で歌っていた瑠羽は、絶望の底にいた。対してクリスマスの夜、あなたの前で歌っていた瑠羽は、幸せに満ちていたでしょう。そういった感情を“伝染”させて、意識せずに相手の行動を操ってしまう力が、瑠羽の歌にはあるのかもしれない」
「だとしたら……怖ろしいことです」
「ええ。でもさらに怖ろしいのは、瑠羽の能力を利用しようとする者たちです。彼らは間違いなくこう考えるでしょう。この能力は、大量殺人兵器へ転用可能だ、と」
淡々と告げる登美子が一瞬、残酷な悪魔に見えた。ぐらりと視界が傾ぎ、遼牙は思わず傍らに手をついた。
「ま…さかっ……」
遼牙はこの時ようやく、『あなたの世界が変わってしまうかもしれない』という言葉の本当の意味を悟った。
目まぐるしく流れる日常を透かした向こう側に、毒々しい色彩を持つグロテスクな非日常が渦巻いているのが見える。そこで蠢くのは、人間の尊厳や生命倫理を何のためらいもなく踏みにじることのできる、神の僭称者たち。
この二重世界に対峙した遼牙は、自分がもはや後戻りできないところまで来たことを察した。
「ドクター、と敢えて呼ばせてもらいます。彼らはなぜそんな……悪夢に取り憑かれてしまったのですか。遺伝子操作で人間兵器を作るという悪夢に」
後戻りができないのなら、行けるところまで行ってやろう、そんな覚悟を胸に、遼牙はさらに突っ込んだ問いを投げかけた。対して登美子は、これまでと変わらず淡々と応じる。
「瑠羽の歌ではありませんが、狂気も伝染するのでしょう。それが純粋であればあるほど、浸透力も大きい。当時、デザイン・ゲノムには一人の若き天才がいました。彼、宇水匠（うすい・たくみ）は着床前治療でめざましい成果を上げており、私も特に目をかけていた優秀な研究者でした」
「着床前治療とはつまり、受精卵に遺伝子操作を加えるということですね」
否定的な響きが伝わってしまったのだろう、登美子はうっすら目を細め、
「治療目的の遺伝子操作です。妊娠後に羊水中の細胞を調べて診断し、病気が見つかってから中絶するかどうか決めるよりずっといいでしょう」
「治療目的を強調しておられるが、人間の欲望には際限がない。元気な子供が欲しいという親として当然の願いが、頭のいい子が欲しい、特殊な才能を持った子供が欲しいとエスカレートするのはある意味自然な流れかと思うのですが」
予想に反して、登美子は遼牙の指摘を否定しなかった。曖昧な笑みを浮かべ、
「ええ、確かに。法律を作って規制しても、抜け穴を見つける者は必ず出てきます。あなたの言う通り、人間の欲望には際限がない。その行き着く先に、遺伝子操作による人間の兵器化があったとも言えるでしょう」
そう言って、記憶を辿るように視線を中空に彷徨わせた。そして再び遼牙に戻し、
「今から二十年前、中東のとある国で古文書が発見されました。そこには、旧約聖書偽典のひとつ『エノク書』に出てくる堕天使アザゼルの末裔で、魔法を使うことのできる『アム・アザゼル』と呼ばれる種族と、いわゆる普通の人間である『シェアール』が、時には共存共栄し、時には反目し合って血みどろの戦争を繰り広げるさまが書かれていました」
「よくあるファンタジーですね」
「ええ。その内容があまりに突飛だったため、死海文書やユダの福音書のように話題になることもありませんでした。けれど、宇水は違った。天才と狂人は紙一重とはよく言ったもので、彼は古文書に書かれた魔法を使う天使族の末裔を、遺伝子操作により特殊能力を持つようになった優良種と重ね合わせたのです。おそらく彼は、その古文書を啓示と受け止めたのでしょう」
「そして彼、狂気の天才は、己の妄想を実現するための研究にのめり込んでいった……」
常人には理解できる話ではないが、その心理を想像することならできる。宇水という男の中にはもともと、遺伝子操作によって優良な人間を作りたいという強烈な願望があったのだ。しかし周囲の反感という外因、そして己の倫理観という内因が抑えとなって、実行には到っていなかった。
そんな時、例の古文書が発見された。それは宇水に“神の啓示”をもたらし、制限装置（リミッター）は外された。
「さきほども言いましたが、狂気は伝染します。他の研究員たちも、あっという間に宇水の妄想に呑み込まれていった。そんな暴走を始めたデザイン・ゲノムに目を付けたのが、新興の鷺沼製薬でした。鷺沼製薬には、軍事産業開発機構から莫大な研究援助金が流れ込んでいます」
「そしてデザイン・ゲノムは暴走を食い止めようとする貴女を追い出し、自ら鷺沼製薬の傘下に入ったというわけか」
遼牙は暗澹たる気持ちになった。人間の理性とは、何と脆いものだろう。ちょっとしたきっかけで、狂気の淵に滑り落ちてしまうのだ。
「彼らは今まで、瑠羽のことをそれほど真剣に捜してはいなかった。研究材料はいくらでもあるし、嫌な言葉ですが実験動物が逃げた、くらいの感覚でいたのでしょう」
心情を反映した遼牙の暗い声に、登美子は頷いた。
「ええ、おそらく。しかし黒淵事件の詳細を知り、無視できなくなった。なぜなら、“唯一の生存者”がかつて自分たちが作り上げた優良種の、素晴らしい成功例である可能性が浮上してきたからです。彼らなら、事件の状況から瑠羽の能力を推測することは可能でしょう」
「『歌』による感情操作、意識の変容。はは、確かに五千万では安いな」
遼牙は半ば自棄気味に言い放ち、ソファの背もたれに深く沈み込んだ。ここを訪れてからまだ一時間も経っていないのに、心身ともひどく疲れていた。
対して登美子は背筋を伸ばしたまま、瑠羽の代理母が書いた手紙を封筒にしまい、遼牙に向かって差し出した。
「これは、あなたがお持ちください。瑠羽に渡すか渡さないかは、あなたのご判断にお任せします」
遼牙は驚きを隠さぬまま黄ばんだ封筒を見つめたが、やがて静かに首を振り、
「いや、これは貴女が持っているべきものだと思います。いつか、瑠羽が全てを受け止められるようになるまでは」
すると登美子は封筒をテーブルの上に置き、痛みをこらえるように微笑んでみせた。
「残念ですが、私はその時まで生きていられそうにありません。癌のリンパ節への転移が見つかったんです。このタイミングであなたが訪ねてきたのも、きっと何かの思し召しでしょう。科学者らしからぬ言葉ですが」
遼牙は居住まいを改め、テーブルの上に置かれた封筒をじっと見下ろした。登美子は急かすことはなかったが、神妙な声で、
「彼らが瑠羽のことを簡単には諦めないだろうということは、私が言うまでもなくお分かりでしょう。けれど私には、あの子を守ってあげられるだけの力がない」
どうか、どうか幸せになってください───手紙の末尾に書かれた祈りにも似た言葉は間違いなく、子を想う母のものだ。義童も、ただひたすら瑠羽の幸せを願っている。登美子も、そして自分も───
「手紙、お預かりいたします」
遼牙は封筒を背広の内ポケットに入れて、上からそっと押さえた。手紙に込められた想いが、胸から全身に行き渡るような気がした。
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