Childhood's End
5話
会えなかった間、色んなことがあった。そして色んなことを考えた。けれど遼牙の姿を目にした瞬間、それらは全て無意味な断片と化した。
あらゆる不安も心配事も意識の遠景に下がり、遼牙の美しい微笑みだけがくっきり浮かび上がる。それは、沈みがちだった瑠羽の心を明るく照らした。
「久しぶりだな。元気だったか？」
「は、はい……」
瑠羽はふわふわと夢見心地で頷いて、遼牙が放つ磁力に引き寄せられるように近づこうとした。しかし肩に乗っていた手にぐっと戻され、足が止まった。
「義童……」
瑠羽は困惑を隠さず義童の顔を見上げたが、義童は無視して肩を掴み続ける。その目は、遼牙を鋭く射抜いていた。すると遼牙はかすかに目を細め、
「夏にぴったりの差し入れがある。こっちでみんなと一緒に食べるといい」
そう言って、背中を向けてしまった。瑠羽は慌てて声をかける。
「ま、待ってください！ あの……」
「ん？ どうした？」
遼牙は振り向いてくれたが、こちらに近づくそぶりは見せない。いつもなら、真っ先に瑠羽の傍に来て優しく髪や頬を撫でてくれるのに。
「いえ、あの……」
「早くしないと、美味しいアイスクリームを食べ損ねるぞ」
「あ……」
再び背中を向けた遼牙に、瑠羽はたまらず駆け寄った。引き戻そうとした義童の手を振り払って。
「遼牙さまっ」
遼牙の腕にぎゅっとしがみついたが、返ってきたのは無感動な反応だった。振り払われこそしなかったが、優しく抱き留めてくれることもない。瑠羽はショックを隠しきれぬ震える声で、
「ふ、ふたりで……お話がしたい、です……」
遼牙がかすかに身じろぐのが伝わった。そこに言葉にはできぬ否定的な感情を読み取った瑠羽は、こぼれそうになる涙を抑えるので精いっぱいだった。
「話なら、ホームの中でしよう」
遼牙の提案に、瑠羽は必死に首を振った。
「いつもみたいに、中庭がいいですっ」
すると遼牙は、なぜかちらと義童の方を見た。それから小さな溜め息をついて、
「分かった。しかしあまり時間がない。ゆっくりは話せないぞ」
そう言って瑠羽の腕をそっと払い、中庭に続く道を歩き出した。瑠羽は遠のいていたはずの不安が存在感を増すのを感じつつ、その後ろを小走りで追いかけた。
二人きりになればいつもの遼牙に戻ってくれるに違いない、そんな期待にすがって後に続いたのだが、中庭に着いても遼牙のよそよそしさが消えることはなかった。
「元気そうで安心した。この数日、色々いやなことがあっただろう？ だから心配していたのだが」
優しい言葉、労わるような口調には真情がこもっている。それは間違いない。しかし瑠羽が何より求めている親密な触れ合い、温もりの交換を拒絶するかのように、遼牙は瑠羽と一定の距離を保っていた。
「ありがとう……ございます。あ、あの……」
瑠羽は遼牙の背後をちらと一瞥した。そこには、柔らかな月明かりに照らされた東屋がある。バレンタイン、そして七夕の夜に、とろけるような深い口づけをかわした場所だ。
我ながら浅ましいと思いつつ、どうしても視線が行ってしまう。そんな瑠羽の秘めやかな願望に、遼牙も気付いているはずだ。
なのにこの場から動こうとしない。しょうのない子だと言って笑い、優しくエスコートしてくれた七夕の夜から遠く隔たってしまったことを、瑠羽は痛感せずにはいられなかった。
「ところで、話とは何だ？」
急かすような口調ではなかったが、あまり時間がないという先刻の言葉が残っていたせいか、瑠羽は早口になってしまう。
「は、はい。来年、中学を卒業した後、ホームを出て一緒に暮らそうと義童に言われたんです。高校は、自分の家から通えばいいと……」
遼牙の眉間に、浅い皺が寄った。しかし、そこから具体的な感情を読み取ることはできなかった。遼牙はしばし黙考し、
「……彼に言われたことはそれだけか？」
「それだけ、って……」
「他にも、大事なことを告白されたのではないか？」
遼牙が何を聞こうとしているか、ようやく分かった。瑠羽は小さく頷き、
「僕のことを……弟だと思ったことは一度もないって……」
「愛していると言われたんだな？」
「はい……」
遼牙は「そうか」と言っただけで、口を閉ざしてしまった。これまでにない重苦しい沈黙に耐え切れず、瑠羽はこわごわ口を開いた。
「僕はどうしたらいいでしょうか……」
すると遼牙は、見たこともない冷ややかな眼差しを向け、
「瑠羽の好きなようにしたらいいだろう。私があれこれ口出しすることではない」
自分がどんな答えを望んでいたのかは分からない。けれどこんな答えが欲しかったのではないことだけははっきりしている。
「遼牙さまは……いいと仰るんですか？ 僕が、義童と一緒に暮らしても……」
つい非難めいた口調になってしまう。当然ながら、遼牙は心外だと言わんばかりに眉をひそめ、
「瑠羽がそうしたいと言うのに、私が許さない道理があるか？」
「僕はそうしたいなんて言ってません！」
叫んでから、瑠羽ははっと口を押さえた。思わず飛び出した言葉は、自分の本心をそのまま表したものだった。
そう、どうしたいかはとうに決まっているのだ。義童と一緒に住むということは、すなわち義童の方を選ぶということだ。そのくらい、恋愛経験に乏しい瑠羽だって分かる。
「僕は……僕はただ……」
大事な進路に関わる話だから、遼牙に相談に乗ってもらおうと思って打ち明けた、つもりだった。けれど、
「瑠羽は私に、何を望んでいるんだ？」
かすかな苛立ちを含んだ遼牙の問いかけを受けて、瑠羽はようやく自覚した。義童の元には行くなと、遼牙に引き留めてほしかったのだと。
答えは最初から決まっていたけれど、遼牙にとって自分はどんな存在なのか、必要な人間なのか確かめるために相談の振りをして訊ねたのだ。
―――恥ずかしい……
そんな瑠羽の思惑は、全て遼牙に見抜かれていた。それも当然だろう。ビジネス上の駆け引きにも恋愛の駆け引きにも慣れている遼牙のような大人の男性にとって、瑠羽の心中を読むことなんて容易いはずだ。
「ごめんなさい、遼牙さま。あ、あなたを試すようなことをしてしまって……」
瑠羽が率直に詫びると、遼牙は一瞬だが驚いたように目を見開いた。が、すぐに口元を緩めて微笑みを浮かべ、
「瑠羽は正直だな」
いつもの包み込むような甘い声に、瑠羽はこわごわ見上げ、
「怒って……ないのですか？」
「あんな素直に謝られては、怒ることもできん」
「ということは、やっぱり怒ってたんですね……」
しゅんとして項垂れると、大きな手が宥めるように頭を撫でてくれた。それだけで嬉しくて舞い上がってしまった瑠羽は、自分がどれほどこの人の温もりに飢えていたか思い知った。手のひらから伝わるささやかな体温は磁力のごとく、瑠羽の身体を引き寄せた。
「瑠羽っ……」
いきなり抱き着いた瑠羽に、遼牙はひどく困惑しているようで、いつものように抱き返してはくれない。それでも瑠羽はめげずに、さっきの反省も踏まえて自分の気持ちを素直に伝えることだけに集中した。
相手の反応を窺うのではなく、自分がどうしたいのかをまず告げることが大事だと思ったから。
「僕は、義童のところへは行きません。こうしてたまに遼牙さまとお会いできるだけで、僕は幸せなんです。だからっ……」
そうだ、最初からこう言えばよかったのだ。遼牙が引き留めてくれてもくれなくても、自分の気持ちは変わらないのだから。しかし、
「……瑠羽、もし私が、もうお前と会うことはできないと言ったら、義童のところへ行くか？」
遼牙が何を言わんとしているかすぐに分かったが、瑠羽の防衛本能はとっさに無邪気なふりを装った。
「そんなにお仕事が忙しいんですか？」
「いや、そうではなく―――」
「ほんと、たまにでいいんです。遼牙さまがお忙しいのは分かってますし」
「瑠羽、実は私には……」
「織姫と彦星みたいに一年に一回でも……それでも……ぅぅっ、いい、です……」
無邪気なふりは長くは続かなかった。遼牙は時間がないとか忙しいとか物理的な理由からではなく、単に瑠羽に対する気持ちがなくなった。瑠羽に会う理由がなくなったのだ。想いは、完全な一方通行になってしまった。
「りょ…きさまぁぁ……」
いつか、こういう時が来るのだろうとは思っていた。でも“思う”のと、現実として対峙するのは全く違った。喪失感の重さに心身が圧迫され、呼吸するのもままならない。
迷惑がられるのを怖れつつも、瑠羽は遼牙の胸にしがみついたまま、肩を大きく上下させてひゅーひゅーと喉を鳴らした。するとその肩にふわりと手が乗り、
「彼、義童ならきっとお前のことを大事にしてくれる。一度話をしたが、とても誠実な青年だ。そしてお前のことを深く愛している」
「ふっ、ぅ、ぅぅーーっ……」
「お前がつらい時、困っている時に傍にいてくれるのは彼だ。私ではない。だから……私のことは忘れて、義童の気持ちに正面から向き合ってみなさい。そうすれば、いつかきっと―――」
「やだっ、ぜったいに忘れない！ 忘れないもん！」
諭す遼牙を遮って、瑠羽は叫んだ。
「遼牙さまが僕のこと忘れても、僕はぜったいに忘れないっ。ずっとずっと好きです！」
決意表明のような告白をすると、その勢いを借りて遼牙の身体から離れた。そしてくるりと背中を向ける。
「……瑠羽、すまない。どうか幸せになってくれ」
背中で受け止めた言葉は優しく真情に溢れていたが、それは所詮言葉だった。じくじくと血を流し始めている心の傷を癒すほどの力はない。やがて、かさかさと草を踏む音が遠ざかってゆく。
「ぅ、ぅぅっ……」
二人の距離が徐々に開いてゆく過程をリアルに伝えるその音に瑠羽は耐え切れず、耳を押さえてその場に座り込んだ。
「行かないでぇ……」
もう届かないと分かっていても、未練がましい呼びかけが唇が溢れてしまう。いや、たとえ届いたとしても、もう遼牙は戻ってこない。
「ひぅっ、ふ、ふっ、ぇぇ……」
次から次へと込み上げる嗚咽に上半身を揺らしながら、瑠羽は織姫と彦星の幸せを羨んだ。彼らは一年に一回は逢えるのだ。それ以上の何を望むというのか。
「二度と会えないよりずっといい……」
瑠羽は哀しい本音をぽつりと呟いて、耳を押さえていた手を下ろした。その時、
「おい、こいつか？」
「ああ、間違いない」
聞き慣れぬ男性の声に、瑠羽の背中はざわりと粟立った。頭が命じるより先に身体が動き、素早く立ち上がろうとする。が、闇からぬっと突き出た複数の腕に掴まれ、強く押さえつけられた。
「よしっ、そのまま口を塞げ。乱暴にするなよ」
目の前に、強い刺激臭を漂わせた黒い布が迫ってきた。それで口を塞がれる直前、瑠羽は喉を嗄らして叫んだ。
「たすけて！」
それを最後に意識は溶解し、周囲の闇に溶け込んでいった。
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